祈りはどこに届くのか。

  穏やかな風が吹いていた。
  高く澄んだ空は蒼く、列を成して街へと向かう鳥の羽ばたきも軽快であり、真白く伸びた雲も薄く、緩やかに風に流されるまま浮かんでいる。
  降り注ぐ日差しはすでに肌を灼く夏のものだったが、頬を撫で建物の間を吹き抜けて行く風は涼やかに心地良く、気温は高いが過ごしやすい一日だった。
  街を見下ろす高所にて、レオンは瞳を眇め知らずため息を漏らす。
  廃墟と化した城からの眺めは美しかった。
  空が近く、地上が遠い。
  遥か彼方には建設途中の建物の群れがあり、クレーン車が建材を持ち上げ忙しなく働いている様が見て取れたが、それも目を凝らして見なければ気づかない程小さなものだ。
  視線を引いて俯瞰で見れば、区画整理された街は色彩も統一され整然として、活気に溢れているように見える。
  右に流せば、渓谷があった。
  岩壁は急峻であり、街を囲むように聳え立つ。かつては緑溢るる豊かな森林であった場所は今、容易に人を寄せ付けないが、人の手が入っていない自然のままの有様は荒廃してはいるものの美しかった。
  眼下に視線を落とせば、雑草生い茂る見る影もない城内庭園を見下ろせた。
  この街は、城へと近づくごとに荒廃の度合いが進んでいる。
  かつては街の中心として輝ける城と呼ばれた白亜の城は、今や闇の這い出る諸悪の根源となっていた。
  現在この廃城の持ち主は存在せず、放置されたままになって久しい。
  わざわざ城へ来ようという酔狂は、この街には存在しない。
  だが人間を脅かす存在がまだ大量に残っている為、放置も出来ない。
  少しずつ闇の生物を駆除し、危険を排除し、調査を進めて来てはいるものの、未だ人の手に戻ってきたとは言い難い。
  大きく壁が崩れて穴の開いた上階から、外を覗き込めば高さは相当なものだった。
  瓦礫を踏みしめ、手摺りもなく吹きさらしになっている壁に手をつき足を滑らせないよう注意しながら、「落ちたら即死だな」と思わず呟く。
  視界を遮るもののない、一面に広がる絶景だけは褒めてやってもいい、と思う。
 
  街の現状、城の現実に目を背ければ文句のつけようもない眺めであった。

「くぉらレオン!てめー俺が仕事してるってーのにサボってんじゃねぇぞ!」
「サボっ…。…俺はあんたの仕事が終わるのを待ってるだけなんだがな」
  背に投げつけられる理不尽な言葉に、レオンが眉を顰めて振り返る。
  床に直接置いたノートパソコンと、無数のコードに繋がれた小さな箱型の機械に部品を取り付けながら不平を漏らすのはシドだった。
「全く、俺様がこんなとこまでご出張なんて勘弁願いたいぜ」
「…あんたじゃないとできないんだから、しょうがないだろ」
「あー?まぁそりゃそうなんだが、設置くらいはおめぇでもできんだろ」
「……」
  どれだけ俺は仕事をやればいいのやら?
  管轄外までやる気はないぞと言いながら、レオンは瓦礫から降りシドの元へと歩み寄る。
  ずっと明るい外を見ていたせいで、室内の暗さに慣れるまでに時間がかかった。
  目を瞬かせるレオンを見上げ、シドはため息混じりに箱型の機械を押し付けた。
「これを配電盤に接続して来い」
「…俺がか」
「他に誰がいんだ?細部調整しながらになるから手離せねぇんだよ」
「わかった…」
  人使いが荒いのは昔からだった。
  ここまで来るのに護衛をし、ここに着いたら雑用をさせられる。
  シドだって戦えるはずなのに、「精密機械は繊細なんだ」と計器を抱えて傍観されては何も言えない。
  仕方がないと諦めて、ため息を噛み殺し、大人しく配電盤へと向かう。
  錆付いて開きにくくなっている配電盤の蓋を苦労しながら引き剥がす。
  中身はそれほど痛んではいないようだが、果たして電気は通るのか。
  言われた通りにコードを通し、設置する。
  電源を入れて、起動した。
「オーケーだ、シド」
「おうよ」
  モニターを覗き込み、キーボードを打つシドへと再度近づいて、レオンも上から覗き込む。
「どうだ?」
「あん?俺様の計算にミスはねぇ」
「そうだな。で、上手く行ったのか」
  軽く受け流したレオンの言葉を咎めるでもなく、シドは頷いた。
「まぁ待て。読み込み中だ」
  モニターには記号の羅列が打ち出され、下から上へと流れて行く。
  しばし待てば、無事に起動を知らせる機械音とメッセージが表示され、シドは安堵の息を吐いた。
「よし、いけた」
「さすが、シド」
「おう、もっと褒めろ」
「…で、遠隔で管理もできるんだよな?」
  レオンはさらに受け流した。
「当たり前だろが。いちいちこんなとこまで来てられっかってんだ」
  レオンに無視されたことに気づいたが、シドはいちいち突っ込まない。
「通電している間は大丈夫そうだな」
「ああ、まぁな」
「これで俺の仕事が少し減る。シド、助かった」
「おう、もっともっと褒めろ」
「……」
  突っ込みはしないが、懲りずに要求するのだった。
  沈黙で答えたレオンを気にした風もなく、シドはパソコンや計器類を片付けて、立ち上がる。
「とりあえずちゃんと作動するか、当分の間は監視しなきゃならねぇが…まぁ大丈夫だろ」
「全フロアに設置できれば、ハートレス駆逐も遠い未来の話じゃなくなるな」
「全部の階に電気が通ってりゃぁな」
「…それが問題だ」
  何しろ廃城である為、至る所で断線しており修理もままならない状況なので、このフロアの配電が生きているのは奇跡的と言って良かった。
  ハートレス駆除の為の防衛システム。
  床を這う光球が、音を発しながら動き出す。
  二十四時間作動可能なシステムは、大きな働きをしてくれることだろう。
「さーって戻るか。腹減ったな。メシだメシ!」
  帰りも護衛をしなければならない為、シドについてレオンもまた歩き出す。
「…昼飯奢るぞ、シド」
  あからさまに褒めはしないが、シドの扱い方は心得ているのだった。
「お!気が利くじゃねぇか!キンッキンに冷やしたビールもつけろよ」
「仕事中だろうが!」
「ケッ!ケチケチすんなって。ビールなんて水だ、水」
「却下する。注文するなよ」
「冷酒でもいい」
「アルコール禁止」
「くわー!仕事の後の一杯が美味いっつーのに!くわー!」
「まだ仕事終わってない…」
  額を押さえてため息をつくレオンを見やり、シドが口を開く。
「まったくオカタイなぁおめぇは…って、ん?」
  大きく穴の開いた壁から外へと視線を向けた。
  気づいたレオンもまた、耳を澄ます。
「鐘の音…」
「弔鐘か」
「こんな所まで聴こえるんだな」
  それは微かに、風に乗って断片のように耳に届く。
  澄んだ音はゆっくりと、死者の訪れと眠りを知らせる。
「…エアリスが、行ってるんだったか?」
「ああ、友人のご主人が亡くなったとか」
「まだわけーんだろうにな…」
  事故死だという話だった。
  詳細は聞いていないが、「行ってきていいか」と言われ、今日は休んで葬列に参加しているはずだった。
  涼やかな風が吹き抜けて、シドが大きく息を吐いた。
「酒飲む気分じゃなくなっちまったな。メシだけ食って我慢すっか」
「それがいい」
「笑うな。俺様だって感傷的になることくらいある」
「ああ、知ってる」
「かわいくねぇ。さっさと行くぞ!」
「…了解」
  死は誰にでも平等に訪れる。
  けれどせめて、ハートレスに殺される者達を減らす事ができればいいと、レオン達は願っていた。

  水滴が儚い音を立てて石床に落ちた。
  球形だった柔らかな粒は潰れて跳ね、さらに細かな球形の粒となって飛散し、視認できなくなって消えていく。
  一定の間隔を置いて落ちてくる水滴に、床は少しずつ濡れて色濃い染みを作り始めていた。外は激しい雨が降り始めたようだ。
  黴臭く、埃臭い正方形の部屋は狭く、石壁に囲まれたそこは暗く冷たい。
  窓はない。
  牢獄のようなその場所は、明かりを灯さなければ真昼でも深淵の闇が落ちる。
  部屋の片隅に丸まって座り込む、小柄な影が震えていた。
  声を殺し、嗚咽する女は漆黒のドレスを身に纏い、頭にも同じく黒のレース付の帽子を被ってはいたが、斜めに傾き落ちかけていた。
  整えられていたはずの髪は乱れ、頬はこけ、皮膚はかさついて張りもなく、泣きはらした瞳は真っ赤に充血しており、擦りすぎた為か瞼は腫れ上がって所々擦り剥けていた。
  繊細に編まれたレースの黒手袋は内側から欠けた爪で引き裂かれ、出来た裂け目から覗いた指先で己が両腕に爪を立てた。
  柔らかな肉に食い込んだ爪は血管に達し、生温かな血液が流れ落ちたが女は無反応だった。
  嗚咽交じりに吐き出す呪詛は神への冒涜の言葉であり、己の怯懦への絶望であり、戻らぬ者達への哀歌であった。
  終わることのない悔恨と怨嗟の中に女はいた。
  心の奥底まで沈み込み、己の澱の中で溺れ死ぬことを望んだが、それは適わなかった。
  まだ、生きている。
  意識を失う時間は長くなっていたが、まだ、目が覚める。
  意識の中の暗闇とは違い、部屋の暗闇には空気があり、音があり、感覚があった。
  まだ、生きている。
  己の喘鳴が漏れ、耳に届いて絶望する。
  まだ、生きている。
  枯れてもはや流れぬ涙を拭うかのごとく指を動かし、瞼を擦る。
  べろりと指に張り付いて、剥がれ落ちたのは己の皮膚か。
  だが、痛みはなかった。
  剥がれて露わになった皮膚の内側に、外気が当たって涼しいと感じる。
  瞼が重くなり、目を閉じた。
  石壁に凭れているのも億劫になり、床へと身体を横たえる。
  床に接した面は冷たく、心地良かった。
  眠くなり、ああやっと死ねるのかと、思う。
  僅かに涼しい風が部屋に流れた。
  淀んで停滞していた重く濁った空気が、渦巻くように流れ始めて女は開くことが困難になり始めた瞼を、意志の力をかき集めて薄く、開く。
  影のような黒い何かが、投げ出した指先に触れた。
  深淵の闇の中、形はわからぬ。
  けれど、冷やりとしたそれは小さく、まるで…。
「…ああ…」
  まるで、それは。
  指先から腕を伝い、それは少しずつ近づいてきた。
  ひたひたと、触れるもの。
  女の形を確かめるように、たどたどしくもあるその感覚。
  肩を巡り、女の頬へと辿りついた小さなものは、まるで。
  枯れたはずの涙が、溢れた。
  床に水滴となって落ち、小さく跳ねては消えて行く。
  小さな何かが、涙に触れた。
  頬を這う小さく冷たい感覚が、愛しい。
  震える腕を持ち上げた。
  己の目の前にいるだろう小さな存在を、そっと抱きしめる。

「…会いたかったわ、私の赤ちゃん…」

 幸せだった。
  ああ、神よ、感謝します。
  呪詛を吐いたその口で、神への感謝を繰り返し、女は意識を手放した。

「…?…ねえ、どこにいるんだい、どこかで倒れちゃいないだろうね…」
「いないのか?だってあの子、ずっと臥せっていただろう」
「そうなんだけどね…」
  燭台に火を灯し、地下室へと降りてくる足音が二つあった。
  ふくよかな中年女性は人の良さそうな顔に心配そうな色を浮かべ、そう広くはない地下室を一部屋ずつ、鍵を開けて覗き込む。
  後ろについて歩いていた中年男性は、きょろきょろと周囲を見渡し不安そうだ。
「葬式だ入院準備だと、何日も一人にするんじゃなかったね…。あんな不安定になってる子に、可哀想なことをした」
「ああ、あの子は身寄りがなかった。倅が死んで、その上…俺らよりももっとあの子は辛かったろうな」
「まさか、…ねえあんた、まさか、…ないよねぇ?」
  真っ青な顔をして、女が震えながら男を振り返った。
  言わんとすることを察し、男が語気を強める。 
「おい、縁起でもないこと言うな。きっと体調が悪くてどこかで倒れてるんだよ」
「でも」
「言うな!…早く、探してやらないと」
「…そ、そうだね…」
  屋敷の中は全て見回った。
  キッチンから、浴槽から、屋根裏まで全て見た。
  残すは地下室のみだった。
  ここにいなければ、どこか外に出てしまったとしか思えない。
  急いで村の皆に声をかけ、捜索しなければならないだろう。
  最悪の事態は男も考えないではなかったが、考えたくはなかった。
  一人息子を亡くし、生まれてくるはずだった孫を亡くし、この上義理の娘まで失うことになったら。
  優しい娘だ。
  優しい息子に似合いの、本当の娘のように思って接してきた娘なのだ。
  息子を失っても、あの子が生きていてくれたら救いになった。
  癒えぬ傷を、時間をかけて少しずつ、私達と共に和らげていけたらと、思っているのに。

「……」

 娘の名を呼ぶ。
  残すは、一部屋。
  取っ手に手をかけ、手前に引いた。
  錆付いた金属が嫌な音を立てて開く。
  暗闇だった。
「ねぇ、いるのかい?」
  女が、持っていた燭台の明かりを目線の高さに上げたが、闇は晴れなかった。
「……あれ、この部屋、広い、の、か……」
  一歩踏み出し、生暖かい空気が鼻を掠めた。
  次いで生臭く強烈な瘴気を感じた。
「おい、ど…」
  どうした、と男は最後まで声をかけることはできなかった。
  闇が伸び、包み込まれるように引っ張り込まれる。

  男女の悲鳴が響き渡ったが、それは誰にも届くことなく吸い込まれた。


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