祈りはどこに届くのか。

  フロアを埋め尽くす黒いモノ達は、対峙する二人を取り囲むように移動した。
  輪の中に閉じ込められ、レオンは僅かに眉を顰めたが表情を変える事なく正面の影を見据える。
  外は激しい雨になっており、吹き曝しのフロアは風雨の音が流れ込んでうるさいはずであったが、ハートレスの山に囲まれ音は随分と軽減されて会話出来ない程ではない。
  距離にして五メートル程離れた位置に立つ影は、小柄であった。
  キーブレードの勇者よりは高いが、レオンよりは低い。
  エアリスより高いかどうかという身長と細身のシルエットは女のように見える。
  月明かりもない闇の中、顔を窺い知ることは出来ない。
  炎を灯そうかとも思ったが、下手な刺激はしないに限る。
  黙したままの影はだが、聞こえていないというわけではなさそうだ。
  レオンは気にせず、質問する。
「四つある。一つ、どこからハートレスを連れて来たか。二つ、何故ここに連れて来たか。三つ、これからもここに連れて来るのか。四つ、お前は一体何者だ」
「……」
  影は僅かに逡巡する気配を見せた。
  敵意は感じない。
  奇妙だとレオンは思う。
  大量のハートレスを運んで来るこの影は、闇の生き物であるはずなのにまるで普通の人間に相対しているかのような印象を受ける。
  何なんだコイツは。
  その存在に疑問を抱く。
  返答を待つつもりで見据えるレオンを影もまた窺っているようだった。
  逃げる様子はなく、ハートレスをけしかける気配もない。
  影が僅かに動き、衣擦れの音がした。

「…ここは、貴方の城ですか」

 女の声だった。
  抑揚に乏しい声音に温かみや柔らかさはなかったが、静かで硬質なその音は細く低くフロアに通る。
「…何?」
  意図を掴めず、問い返す。
  女は聞こえなかったと解釈したようで、もう一度、同じ台詞を繰り返した。
「いや違う。ここは廃城だ」
  仕方なく、答える。
  女は頷いたようだった。
「そうですか。…では不都合はないはず」
「ある」
「…どういうことでしょう」
  この女は惚けているのだろうかと思うが、口調は素直であり何かを企んでいる素振りは見えない。
  レオンは簡潔に説明することにした。
「大量にハートレスが増えると、街に降りてくる。街に降りて来ると、住人に被害が出る。それは困るし迷惑だ」
「ああ…あなたは、人間なのですね」
「…そうだ」
  ということは、この女はやはり人間ではないのだった。
「先程の質問に答えてもらいたい」
「ああ…ええ、」
  女は困ったようにため息をついた。
「連れて来たのは私の家からです。何故と問われれば、ここは闇が強かったから。この子達の仲間がたくさんいたから。…これからも、連れて来なくてはなりません。…何者かと言われても、私は、私。…これで答えになるかしら」
「……」
  なっていない。
  答えをはぐらかされていると感じるが、この女に悪意は感じないのだった。
  何なのだろう、この存在は。
  レオンは戸惑いを隠せない。
「…あんたの目的は何だ」
「目的?」
  首を傾げ、きょとんとしている様が見えるようだ。
  何なんだ、コイツは。
「ハートレスを大量に持ち込んで、何をする気だと聞いている」
「何…と、言われても、何も」
「…何も?」
「はい、何も。あえて言うなら、この子達を自由にする為」
「……」
  理解不能だ。
  額に手を当て、考える。
  「敵」というものは、目的を持ち、目的を達成する為に、邪魔になるものを排除にかかる存在であるはずだった。
  その定義で言うならば女は「敵」ではない。
  だが、ハートレスは「敵」だった。
  相容れない存在なのだ。
  この女は、何なんだ。
  沈黙したレオンを不審に見つめていた女だったが、質問が途絶えたことでもうここにいる理由はないことに思い至る。
「私は帰ります」
「待った」
  即答で引き止められ、女は困惑する。
  男に用はない。
  この子達を届けるという目的を達成したのだから、早く帰りたかった。
「…何か?」
  問えば男は静かに顔を上げた。
  「人間の男」の顔を正面から見据えるというのは女にとっては初めての経験だった。
  「彼」も「人間の男」であったが、記憶の中にあるだけで、直接見えたことはない。
  己よりも背が高く、体格がしっかりとしていて、声が低く、容貌は女が良く見知っている「家族」のように整っており華やぎがあったが、男の蒼の瞳は落ち着いた色をしていた。
  闇の中でも、女の視力は通常と変わりない。
  人間ではないのだから、当然だった。
  男は落ち着いた声音で、静かに問う。
「ハートレスは人間と共存できない。持って来られては困る。あんたは、こいつらに存在意義を捨てろと命令できるか」
「…どういう、意味でしょうか」
「相克する以上、食うか食われるかだ。ハートレスに、人間を襲うな食うなと命令できるか」
「…それは」
  恐ろしいことを言う、と、女は思った。
  何故恐ろしいと思ったのか、考える前に男はため息をついた。
「そもそも、何故こんなに大量のハートレスが生まれているんだ。…理由を、知っているのか」
「それは彼女が望むから」
「…彼女?」
「私には、止められません。私に出来ることは、溢れるこの子達を解放するだけ」
「…彼女とは、誰だ」
「私の妹」
「名前は?」
「マリア」
「……マリア…」
  どこかで、聞いた名だった。
 
 

 
  部屋に一歩踏み入った瞬間、エアリスは立ち止まった。
  室内は暗く、明かりは窓辺のテーブルに乗せられたランプの儚い炎のみだったからだ。
  躊躇したが、ランプに淡く照らされた揺り椅子に座った長い金髪が揺れて、「どうぞ、こちらに来て座って」と馴染んだ女の声に誘われ、扉を閉めて歩み寄る。
  窓を背にし、こちらを向いて座っている女の表情や手元は暗く、良く見えなかった。
  向かいに置かれた一人がけのソファは、上質な素材で出来ており、座り心地が良い。
「随分、暗くしてるんだね。見える?」
「大丈夫。…明るい方がいいかしら?」
「ううん。マリアがいいならいいの」
  二人の間には小さな円形のテーブルが置かれ、薄暗い中でもティーポットとカップが置かれているのが確認できた。
「エアリスがくれたお茶、淹れてみたの。いい香りね」
「良かった、気に入ってもらえて。私も、頂いちゃお」
「どうぞ。…なんだか、昔に戻ったみたいね」
「そうだね。トラヴァースタウンにいた頃、良くお店でお茶したね」
  柔らかな花の香がカップから立ち上り、二人の間を流れて行った。
  昔は、未来のことばかりを話していた。街に戻ったらこうしよう、あれもしよう、なんて夢ばかりを見て、気づけば日暮れだった、ということも良くあった。
  マリアに彼が出来てからは三人で、ということもあったが、遠慮する気持ちが強く、シド達と行動することが増えたこともあり、一緒に過ごすことは減ったけれども、それでも女友達で集まることもあった。楽しくも、懐かしい日々だ。
「懐かしいわ…。まだ、ここに戻って来てからそんなに経ってないのにね…」
「…マリア」
「生まれて初めて神を恨んだわ。ふふ、おかしいでしょ?恨むだなんて、私なんて愚かなことを」
「ううん、間違ってない」
「…そう言ってくれるのは、エアリスが優しいから。私、間違ってたの。神を恨むだなんて」
「マリア…」
「神は私を許して下さったのだもの。だから今私がここにいるの。…幸せなのよ」
「…そう、だね」
「本当に、幸せなのよ。信じてないわね?…ふふ、そうよね、彼を失った可哀想な私だものね」
  マリアは穏やかな声で、穏やかに笑っていた。
  エアリスは首を傾げる。
  困惑している、という言葉が正しい。
  マリアはいじけているわけではない。静かに笑むその声は、幸せに満ちていた。
  エアリスは気づく。
  揺り椅子に腰掛けた腹付近を、彼女が自身の手で撫でていることを。
  ゆらゆらと揺れる椅子は逆光になっていて、マリアの輪郭は照らしてくれたが胸元から下は闇だった。
  けれども、手が動いている。
  猫か何かだろうか、酷く大人しい生き物が、マリアの手の中にいるのだという気がした。
  言葉に出して問うことは躊躇われた。
  何故だろう、聞いてはいけない気がした。
  だがエアリスの視線の先に気づいた女が、「うふふ」と笑う。
  楽しげで、いたずらを思いついた少女のようだった。
「ねえエアリス」
「…なぁに?マリア」
「私、悲しいけれど、幸せなのよ」
「…そう」
「この子がいてくれるもの」
「……、そ…の子は、マリアにとって大切なんだね」
「ええ、とても」
  「その子」が何か、とは問えない。
  問うてはいけない。
  知らず、唾を飲み込んだ。
  カップを手に取り、紅茶を口に含むが味はわからなくなっていた。
「どうして私と彼、階段から落ちたと思う?」
「え…?」
「私、彼のこと愛してたの」
「…うん、知ってる」
「彼も、私のこと愛してた」
「うん…」
「でも、私寂しかったの」
「……」
  突き落としたとでも言う気だろうか。
  エアリスは眉を顰める。
  マリアが、と想像することは非常に困難だった。
「ケンカになって、彼は私を突き飛ばしたわ」
「え…」
  階段から。
  身重の妻を突き落とす。
  …彼が。
  とても優しげで、気遣いに溢れた彼が。
  マリアと同じく、全く想像できなかった。
  愕然と目を見開いたエアリスの顔を見て、マリアは「そうよね、そう思うわよね」と理解を示す。
  当事者が理解を示す。…これほど違和感を伴うこともそうないのではないかとエアリスは思った。
「咄嗟に掴んだものが、彼の突き飛ばした腕だったの。…一緒に転がり落ちて、彼は首の骨を折って死んだ」
「……」
  事故死、と聞いていた。
  マリアはショックでお腹のお子さんを亡くしたと。
「皆は彼が私を庇って死んだのだと言ってくれたわ。…彼、とても優しい人だったから」
「…マリア」
「事実は違うの…でもいいの。私は今ここに、生きているんだもの」
「……」
「後悔しているの。たった一度の過ちで、取り返しのつかないことになってしまった」
「…あやまち…?」
  聞きたくなかった。
  恐ろしい気がした。
  腿の上で組んだ両手が、震え始めていた。
「彼、こちらに戻ってきてからとても仕事が忙しくなった。朝も昼も夜も働きづめで、帰ってきても寝るだけ」
「…そう、だったの」
「たまの休日、どこかにおでかけしたかった。彼と一緒に、いたかった。…でも彼は疲れたから、と言うの。ゆっくりしたいからって」
「…ええ」
  ワーカホリック気味な再建委員会の若きリーダーを思い出した。
  彼のような生活ならば確かに、彼女になる人は寂しいと思っても仕方がないのかな、と思う。
  それは、理解できない感情ではなかった。
「それでも一緒にいられれば良かったの。…でも彼は一日部屋に篭りっきりで、私が同じ部屋にいると邪魔だと言ったの…読書に集中できないって」
「……」
  それは酷い、と思う。
  それだけ疲れていたのかと思えばそっとしておいてやるべきだったのかもしれないが、まだ新婚なのに。
「同じ家にいても、まるで他人のような生活…それでも、彼の仕事が落ち着けば、彼に余裕ができれば。…食事の時も考え事で、話をしてもうわの空だったけど、でも」
  マリアは自嘲気味に笑った。
  彼女にはふさわしくない笑い方だった。
「私は家政婦なんじゃないかしらって。…彼あんなに優しかったのに。それでも外に出たら、私の事をそれはそれは大切に扱ってくれたわ。愛しい妻ですと、言ってくれた。エスコートもしてくれて、言う事を聞いてくれて、外にいれば幸せだった。家に帰ってきたらまた私は家政婦になるの。…私、どうかしてたんだわ」
「マリア…」
「たった一度だけ、彼以外の人と」
  ああ、聞きたくなかった。
  エアリスは目を伏せた。
「美しいと言ってくれたの。慰めてくれたの。とても優しくしてくれて、差し出された手を取ってしまった。嬉しかった。結婚してから彼は一度も、二人っきりの時にそんなことを言ってくれなかったんだもの!」
  ランプの明かりが揺れていた。
  彼女の激情に、怯えているかのようだった。
「バレやしないかとビクビクして過ごしたわ。でも全然、平気なの。だって彼は私の事をちっとも見ていなかったんですもの」
「……」
「新しい服を着ても、化粧を変えてみても、髪型を変えても何も。…彼はどんなに忙しくても家には帰ってきてくれたわ。彼は私の事を愛してくれていたんだと思うの。…そう思いたいの。でも彼がやっと私を見てくれたのは、お腹に子供がいる事がわかった時」
「……」
  息を呑む。
  言葉を差し挟めなかった。
  マリアは己の腹を、そっと抑えるような仕草をした。
「…彼との子供のわけがなかったの。…私、愚かだわ。本当に、愚かね。彼がやっと私を見てくれたとき、彼が本当に怒っていて、悲しんでいたけれども、私嬉しかった。…彼が、私を見てくれて嬉しかった。私言ったの。この子を産みたいって。…彼は酷く醜い顔をしたわ。見た事がない顔だった。…あれは、蔑みというのかしら?ふふ、彼にもあんな顔ができたのね…。彼は言ったわ、お前は愚か者で馬鹿者だと。生まれて初めて言われたの。私はもうびっくりして、ただ彼の顔を見つめるしかできなかったわ。…貴方が言うの?って、思ったの。私を家政婦のように扱っている貴方が、それを言うの?って。私が子供が欲しいと言った時、まず生活を安定させて、お金を貯めて、落ち着いてからにしようと言ったわ。それはいつなの?わからなかった。お金なんて生きて行くのに必要な分があればいいじゃないって、思ったの。でも彼はまだ若いからって。急がなくてもいいと言ったわ。…若かったら子供を作ってはいけないの?産んではいけないの?私は早く彼との子供が欲しかった。彼が忙しくても、赤ちゃんがいてくれたら。私、寂しくないじゃない」
「…マリア」
「本当は、バレずに産めたら良かったの。でも、無理よね。いつも私のことなんて気にもかけてくれないくせに、つわりに気づいたの。…お医者様に行ってしまったから、お医者様から彼におめでとうって言われてしまったの。…バレてしまった。彼に申し訳ないと思ったわ。でも授かった子供は産みたかった」
  エアリスは組んだ両手に力を込めた。
  マリアは、話したいのだ。
  最後まで、聞く覚悟が必要だった。
「彼ったら、酷いの。出て行くって言ったの。もうお前と一緒にいたくないって。顔も見たくないって。…どういう意味なの?今まで一緒にいたとでも言うのかしら?顔も見やしなかったのに?おかしなことを言う人だわと思ったの。だから私、彼に言ったわ。貴方は自分にだけ忠実な家政婦が欲しかったのね、って。そうしたら、頬をぶたれたわ。そして、近づくなと怒鳴って、私の肩を突き飛ばした…」
  一気に喋り、マリアは半分程残ったティーカップを手に取り、口に含む。
  テーブルに戻し、ため息をついた。
「後悔したわ。…彼どころか、お腹の赤ちゃんまで失ってしまったの。…過ちのせいなの。私が悪いの。ちゃんと彼が言うように、時期を待てば良かったんだわ」
「……」
「待てなかった私が悪いの。全て、私が悪いの。…どうして私を殺してくれなかったのかと、神を呪ったわ…罰を受けなければならないのは、私であるはずだったのに。…でもね?エアリス」
  ふふふ、とマリアは楽しげに笑った。
  愛しげに、手の中の何かを撫でる。
「ああ、私は幸せなの。神は私を許して下さった。私は気づいたの。神は、彼を罰して下さったのだと。…でも、神に許された私が、彼を許すの」
  手の中のモノが、喉を鳴らした。
  …猫や犬では、なかった。
「彼はいい人だったわ。愛していたわ。愛してくれたわ。…ただ、少し、間違っただけ」
「…マリア…?」
  笑みが止まらぬ様子の女は金髪を揺らし、肩を震わせ、蹲るようにして声を殺している。
  本当にこれは、マリアなのか。
  …マリアだ、それは間違いない。
  なのに何故こんなに禍々しいのだろう。
「うふふ、ふふふふ、ふふっ…ああ、この子を、エアリスに紹介しなきゃと思っていたの。ごめんなさい、遅れちゃったわね」
  手の中のモノを持ち上げて、こちらに差し出そうとするがエアリスは少し引いた。
  本能の反応だった。
  差し出されたそれは、ランプに照らされているはずなのに、黒いままだった。
「…その子は、一体?」
  どうぞと言われても、手を出す気にはなれなかった。
  いけない。
  これは、危険なモノだ。
「あぁ、お部屋が暗いから、見えないかしら。私ったら、気がつかなくて…今、明かりをつけるわね」
「…や、やめて、いいよ、マリア」
「遠慮しないで。この子をしっかり見て頂戴」
  部屋が一気に明るくなった。
  眩さに目が眩み、エアリスは両手で目を庇うが、隙間から見える光景に身震いをした。
  部屋の壁と言う壁から染み出すようにして這い回る、小さくて丸くて黒い、モノ。
  マリアの手に抱かれた、それ。
  エアリスの足元の床から頭を出して手を伸ばす、それ。
  ぼたりと、天井から降って来る。
  大きな染みと呼ぶにはあまりにも生物的なその動き。
「……ッ!!」
  背を走る感覚に任せて立ち上がる。
  己の身体を抱きしめるように庇い、マリアを見た。
  マリアは変わりなく、愛くるしく美しい笑顔で首を傾げる。

「…私の愛しい子供達なの。エアリス」

  無数のハートレスが、マリアの部屋を這っている。
  おぞましい光景に、エアリスは言葉を失った。


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Kyrie eleison-10-

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