祈りはどこに届くのか。
朝目が覚めて身体を起こし、シーツからはみ出した金髪が枕の上にあるのを視界に認め、レオンは柳眉を顰めて見下ろした。
「…いつの間に…?」
呟くと同時に、思い出す。
ああ、何時間か前に来たなコイツ。
時刻は五時だったが、カーテンの隙間から漏れ入る陽光はすでに明るい。日の出は早く、日の入りは遅かった。
人のベッドで良く熟睡できるなと感心する程深い眠りに落ちている男は、レオンがベッドから抜け出して、着替えて食事をし、出かける段になってもまだ寝ていた。
余程疲れているのか、寝汚いのか、レオンは後者だろうと断定したが、他人の家で気遣うこともなければ警戒心の欠片もなくいられるとは、なんと図太い神経だろうと思う。羨ましい限りだった。
起こすのが忍びない、というよりは声をかけることすら面倒なのでそのまま放置し、外に出る。
勝手に起きて、勝手に出て行けば良い。
深夜に無礼極まる訪問を受けたレオンは寝不足を自覚したが、内容については正確に把握していなかった。
クラウドの女がどうのと言っていた、という程度の認識だった。
いや、「女がいる。どうする?」と聞いたのか。
その前にも何か言っていた気がしたが、聴き取ることは不可能だった。何しろ寝ていたのだ。レム睡眠ではなく、ノンレム睡眠だ。夢もなく寝ていたというのに、それを起こされたのだから全て聴き取れという方が無理な話だ。
クラウドがその時どんな反応を返したのかも曖昧だった。
起こすなと言い、それきり起こされることはなかったので、たいした用件ではなかったのだろうと判断する。
どうすると問われ、どう答えてやるべきだったのか。判断を委ねる聞き方をされても、答えようがなかった。
そもそも「女がいる」の意味がわからない。
クラウドの現状報告なのかと思ったが、他に意味はあるのか。
ストーカーが家の外にいるとか、そういう意味か。いやそんな不審者がいるのなら、俺は気づく。
クラウドのストーカーだというのなら、それこそ自分で処理しろの一言で終わる話だった。
ティファの顔が思い浮かぶが、あれは…ストーカーと呼んでやるには可哀想な気がしたので、やめておく。
今更どういう意味だったのかと問い返すのは面倒で、必要なことならば向こうから言ってくればいい話だと結論付けて、忘れる事にする。
やることは山積みで、暇ではないのだ。
再建委員会本部へ行く時間までに、街中を回ってハートレスの駆除をする。
無論全て回りきれるはずもないが、涼しいうちに少しでも数を減らしておけば後が楽だった。
鍛錬と言えるような鍛錬はなかなか時間が取れないが、毎日の肉体労働で体力を落とさずに済む事だけはありがたい話だ。
あのキーブレードの勇者のように、強敵に挑み己を鍛え上げる日々を送れることが理想的ではあったけれども、現実は甘くない。
時間に追われ、仕事に追われ、埋没して行く毎日は充実していたがそれでも心のどこかで夢を見る。
強くありたいと願うのは本能だから、仕方がない。
誰彼構わず戦いたいわけでもないが、ただ、好きなように生きたいと思う。
身勝手な話だった。
今この街を復興する為に働いているのは、己が望んだことだったはずだ。
それ自体に不満はなく、やりがいもあり生きがいも感じるのだから構わない。
一つずつ、物事が適えばまた別の欲求が沸いて出るのは、どうしようもないのだろうか。
どこかで満足する事ができればいいのにと思うが、全てに満足してしまえば後に残されるのは虚無である気がした。
まだ、やるべきことがある。
まだ、成すべきことがある。
それは幸せな事なのだということを、レオンは知っていた。
時間内に回れる場所を回って、本部へと入る。
いつも早めに来ているレオンだったが、エアリスはそれよりも早く来て掃除をしていた。
「おはよ、レオン。今日も、回ってきたの?」
「ああ」
涼しいと言っても夏だ。さすがに汗をかかないわけにもいかず、ユフィやシドが来るまでの間にシャワーを浴びて、汗を流す。
出てきた所に、冷たい飲み物を淹れてくれるエアリスの心遣いに感謝した。
日常が、ここにあった。
これ以上何を望むのか。
レオンは漏れるため息を飲み込んで、仕事を始めるべく準備をする。
「おう、おはよーさん。相変わらずおめぇら来んのはえーな」
「おはようシド。あんたは相変わらずギリギリだな」
「ユフィよりマシだろが。あいつはいつも遅刻寸前だ」
「…まぁ、確かに」
各々が仕事を始めようと定位置についた頃、駆け込んでくる忙しない足音と共に、扉が開く。
「おっはよー!いやー今日もあっついねー!」
「おはようユフィ。…毎日正確に一分前というのは才能だな」
「でしょー!?」
自慢げな少女の笑顔が輝いているが、褒めてはいない。
一気に賑やかになった再建委員会の一日が始まる。
「お、そうそう、昨日の深夜のカメラ映像、確認するか」
シドの一言でメンバーが集合し、
「ぎゃああああああああ!!!!幽霊ってホントにいたんだぁああーーー!!!!!」
ユフィの絶叫に耳を塞いだ。
厄介事というのは重なるもので、城の幽霊の正体を確認しに行く為の段取りを考えている最中、尋ねて来たのは商工会の理事だった。
商工会とは街の商工業者の経営相談から、地域振興や社会奉仕活動などを目的とする非営利団体であり、再建委員会とも密接に関わっている。何か協力を仰ぐ時、商工会が積極的に動いてくれる事で円滑な活動が可能になるのだった。
そういう理由があるので、邪険には扱えない。
「荷が届かないんです」
エアリスが出したアイスコーヒーをありがたく頂戴しながら、壮年の男は困ったように眉を八の字に下げ、汗を拭きながらそう言った。
「相手の不手際や契約のトラブルではなく?」
「ええ…」
相手をするのは無論、レオンであった。
シドはパソコンと格闘しており、ユフィは街の見回りへ、エアリスは少し離れたところで書類と伝票の整理をしていた。
「具体的に話して頂けますか」
「は、はい、実は相手方と連絡が取れなくて」
「ええ」
「期限を過ぎても何の連絡もなく、訪ねて行ってももぬけの殻で…」
「ええ…」
要点をわかりやすく、まとめてから来てくれと言いたかったが、辛抱する。
「夜逃げかと、話していたんですが荷は出荷前の状態で、」
「…それで?」
「普通夜逃げなら金になりそうなものは持って逃げるでしょう?」
「はぁ…」
ぞんざいな返答になってしまったが、男に気づいた様子はない。
「どうにも、逃げたと言うには荷物を漁った形跡もなくですな」
「ほう」
「しかしこちらとしては契約がありますので、荷が届かないと困るわけです」
「ええ」
「商売になりませんし、うちの会員さんが困り果ててですな」
「でしょうね」
「そこの契約農家さんは小麦を作っておりまして」
「はぁ」
「小麦は重要ですからな、いい値で売れますでしょう」
「…そうですね」
いつまで続くのだろうかと、レオンは辟易とする。
「でも持って行った形跡がない」
「…行方不明者捜索ならば、ここより然るべき機関に依頼された方がいいのでは?」
「ああ、いえいえ、それはもう、お願いしてあります」
「そうですか」
じゃぁ何なんだ。
「…が、その、それがですな」
「ええ、何でしょうか?」
さっさと用件を言えという、無言の圧力が口調の強さに現れた。
気圧された男はさらに眉を下げ、慌てたようにアイスコーヒーを啜り上げた。
「じ、実は、ハートレスの仕業ではないかと、そう言う者がおりまして」
「…何故そう思われたのでしょう」
「いなくなったのは一家族ではないのです」
「……」
何故それを早く言わない。
レオンの眉間に皺が寄ったが、男は残り少なくなったアイスコーヒーを見つめていたので、気づかなかった。
「小麦農家のご家族全てと、キャベツ農家のご家族も全てと、他にも何件かいらっしゃいましてな、その」
「わかりました、確認します。場所はどこでしょう」
喜色に染まった顔を上げ、壮年の男は「それはですな」と言いながら、ポケットの中にしまいこんだ皺だらけの紙を引っ張り出す。
「……」
大事なメモなら綺麗に保管しておけよと思ったが、レオンは物分りの良さ気な「再建委員会のリーダー」として見えるよう、穏やかな表情を作る。
こめかみの辺りが引き攣るが、これは仕方のないことだ。気づかれないよう祈るしかなかった。
丸めた紙を広げ、「ここです」と読み上げた地名に、エアリスが持っていたペンを取り落とした。
横目で見やるが、すぐに仕事を再開したのでその表情は窺い知れなかった。
「なるほど、では確認次第、必要であれば駆除も行います」
「ああ、ああ、ありがとうございます!助かります、本当に!」
空になったアイスコーヒーのコップを漸く手放し、男は両手を組み合わせて祈るようなポーズを作った。
せいぜい信頼がおけて、頼りになると思われるよう、レオンは目を細めて口元に笑みを刷く。
「いえ、本当にハートレスの仕業ならば、脅威は早く取り除かねば」
「ええ、そうなんです、我々ではどうしようもなくて。いやぁ良かった、これで安心ですな。しかし本当にハートレスのせいならば、農家の方々はもう…?」
「それを、これから調査します」
「ああ、そうでしたな、いや無事に戻って来られればいいのですが、そうでなかった場合にはまた新たに農家さんと契約をしなければならないわけで、いやはや困ったものですな」
「……」
「しかしハートレスを駆除したり折衝や揉め事相談などまで引き受けられるとは、再建委員会さんは本当にご立派ですなぁ。いやー、頭が下がります」
うるさい黙れ。
この引き攣った笑みが消える前に、さっさと失せろ。
軽く首を傾げるようにして、ため息をつく。相手に聴こえないように、小さく、細く。
「…それも、仕事ですから。ところで」
「はい?」
なおもくだらぬことを並び立てようと口を開いた男を遮るように、レオンは静かに男のしょぼくれた灰色の瞳を見据える。
「調査報告は商工会宛てでよろしいか。正式な依頼ならば、商工会の名で頂きたい」
「は…、」
壮年の男がうろたえた。
穏やかな笑みを刻む目の前の若いリーダーは、世間話をするつもりはないのだということを言外にはっきりと告げていた。
よろけながら、立ち上がる。派手に机に腿をぶつけたが、痛みを感じる余裕はなかった。
「は、ええ、すぐに、書類を作って持ってきます」
「お願いします」
やけに造作の整った秀麗な顔に優しげな微笑を乗せて、若いリーダーもまた立ち上がり、先行して出口はこちらですと扉を開いて待っていた。
有無を言わせぬ威圧を感じ、男は「失礼します」と弱々しい一言を発して外へ出る。
扉は丁寧に閉ざされたものの、追い出された気がして仕方のない男は膝から全身の力が抜けていくのを感じ、ため息を漏らした。
己が緊張していたことを自覚し、汗をかく手を握り締める。
「…何で緊張したんだろう…」
たかが二十代の若造相手に、萎縮したとは認めたくない男だった。
扉を閉めたレオンは、立ち去る男の気配を確認してから舌打ちをする。
無駄な時間を費やしてしまったと、引き攣った頬を撫でる様子を見ていたエアリスが、飲み物を片付けながら笑った。
「…レオンが、おじさんをいじめてた」
心外だなと呟いたが、レオンは肩を竦めるだけで反論する気はないようだ。
「無能極まるおっさんが理事である商工会が心配だ」
「レオン、口悪い」
「…悪かったな。育ちが悪かったかな」
「口悪いの、親御さんのせいなの?」
笑みを含んでエアリスに言われ、レオンはため息をついて視線を逸らす。
「…あんたのそれは、いじめじゃないのか」
「いじめじゃありません!」
ため息混じりに笑いながらエアリスはキッチンへと向かい、使用済みのコップを洗い始めたようだった。
レオンは地図を取り出し机に広げ、先ほど男が言っていた場所を確認する。
土地の広さに比べて、住宅地は驚くほどに小さく狭い。大規模集落とは言えそれほど人口は多くなく、広大な土地を必要とする農業と酪農を生業とする人々の住まいは自らの土地の中であり、見渡す限りの牧草地や農地の中でもし、ハートレスが現れたとしたら、「お隣さん」まで徒歩何分もかかるような場所で、助けを求める余裕は果たしてあるだろうか。
…仮に「お隣さん」がハートレスに襲われていたとして、それに気づくのは一体いつか。
「……」
街の外縁部にハートレスは滅多に現れなくなっていたはずだったが、可能性はなくはない。
自警団は村ごとに組織されてはいるが、排除できる戦力はなかった。
襲われたら、それまでだ。
だからこそ、小さな村々は自制する。
神を信仰し、己を律し、闇のつけ入る隙を与えないように努力をする。
傭兵や腕の立つ戦士を雇える金のある村はいいが、そうでない所は自衛するしか手はないのだった。
まだ、手が足りないのだ。
まだ、平和とは程遠い。
エアリスが戻ってきて、席へ戻るのを見守った。
先ほどのエアリスの様子が気にかかる。
「エアリス」
呼べば、普段と変わりなく顔を上げ、「何?」と問い返す。
「この村、知ってるのか?」
単刀直入に尋ねれば、エアリスは素直に頷き立ち上がってレオンの側まで歩み寄り、地図を覗き込んである一角を指差した。
「この辺、マリアの家」
「……」
まさに渦中の村に、エアリスの友人はいるのだった。
考え込むレオンを見やり、エアリスもまた首を傾げて考え込んだ。
「…明日お休みだし、また遊びに行って来ようかな」
「そうか。…気をつけてな」
「大丈夫。ハートレス出てきたら、やっつけるから」
「ああ」
見かけによらず、エアリスもちゃんと戦えるのだった。
さて、と言ってレオンが地図をたたみ、元の位置へと戻す。
「午後の予定までには戻る」
「…行って来るの?」
「正式な依頼が来てから実際には行動するが、現地の様子を見ておきたい」
「んーと…視察とハートレス掃除、どうするの?」
「ユフィに」
「…できる?」
若干不安を覚えてエアリスが問うが、レオンは軽く頷いた。
「できる。今日は重要な折衝もないし、見て回るだけなら俺でなくてもいいだろう」
「そっか。じゃぁ要点を書いたメモ、置いていってね。私も、ユフィと一緒に回ってくる」
「…よろしく頼む」
「おいレオン、新しい監視カメラどうすんだ?つけにいくのか?」
黙々とパソコンに向かって仕事をしていたシドが振り向き、出かけようとするレオンを止める。
やる事が多くて嫌になるなと思ったものの、口には出さずレオンは否と首を振った。
「直接対決した方が早そうだ。…ソラが来たら、昼には戻るから引き止めておいてくれないか」
「おう、了解。…ってか、来んのか?」
「さぁ…また来ると言っていたから、休日になったら来るんじゃないか」
「休日って明日じゃねーか。今日来るのかと思ったぜ。まぁ来てくんねーと困るんだがよ」
「ああ…」
全く、本当に。
力を持った敵ならば、なおさらキーブレードの力が必要だ。
あれがなくては、消滅させる事ができないのだから。
レオンは一人、人がいなくなったと言っていた現地へと向かう。
雲一つなく突き抜けるような空と、見渡す限りの農地が広がる壮大な景色の中にぽつんと佇む一軒家へと足を向け、声をかけてみるが誰も出てこなかった。
農作業中、ということはなさそうだ。
トラクターやトラックは倉庫の中に並んでおり、機械類が動いている形跡もない。
どことなく埃臭く、機械には誰も触れていないのだろう、持ち手の部分やスイッチ部分にまで土埃が薄っすらと被り、白くなってきていた。
家の鍵は開いており、もう一度声をかけてみるがなんの気配もなかった。
中に入るのは躊躇われたが、非常時だ。家の中に入り、全ての部屋を見て回るが、生活感溢れる室内は今まさにこの瞬間も人がいて動き出しそうな程にリアルであるのに、人間だけが忽然と姿を消している印象を受けた。
他の家も見て回るが全て同じ。
数件連なった民家を覗いてみるが、そこにも誰もいなかった。
だが、何の気配もない。
「…おかしい」
何の気配もないのだ。
…ハートレスの気配さえも、なかった。