無知で無力でやるせない。

  沈む陽に引きずられるように暮れ行く空は紅から紺へと色彩を変えて行く。
  暗く重い夜から逃れるように地上へと落ちた夕陽は、わずかの時間一筋の光となって名残惜しげに家々の屋根を照らしていたが、それも消えるとあとには儚く存在を主張する星と三日月が残された。
  空は雲一つなく晴れ渡っているというのに、今日の月は輪郭がぼやけて酷く存在が弱弱しい。
  城壁広場から見上げる空が好きだった。
  下方に広がる街並も、山上に聳える廃城もここから見れば遠かった。魔女が築いた闇の城は城壁の彼方にあり、ここから見ればそれもまた、遠く他人事のようだった。
  通路を山上へ向かえば廃城に、下へ向かえば闇の城に、戻って石段を下りればそこには街の日常がある。
  ここは自分の中での境界線であり、ぼんやりと立って空を見上げ、城を見上げ、街を見下ろしては己の立ち位置を確認した。
  まだ、遠かった。
  かつての街を取り戻すには、まだ。
  一年以上をかけてここまで来たというべきなのか、まだここまでしかできていないと思うべきなのか、焦る気持ちと諦めが鬩ぎあうのは辛かった。
  日没まで毎日休むことなく働き続ける大型機械とトラックと、忙しなく行き交う街の人々を知っている。
  未だに現れるハートレスとノーバディの存在が、作業に支障をきたしていることも承知している。
  追い払っても追い払っても、消滅しはしないのだ。あいつらは。
  消滅せしめるに必要な武器は誰にでも扱えるものではなかった。
  それを使える者は、この街にはいなかった。
 
  何故自分ではなかったのだろう。

  未だにそんなことを、考える。
  けれどあの武器を使いこなすことが出来れば、街の復興はきっともっと早かったに違いないのに。
  無力さを噛み締める。
  仕方がないと、諦める。
  諦めることは、辛かった。
  同時に何故か、安堵する。

  そして安堵する自分に、嫌悪した。

「もうこんな時間か」
  研究施設から帰る途中で立ち止まり、日暮れまで見届けてしまうことが最近はよくあった。
  自身が疲れていることは理解していたし、無心に空を見つめることは心癒されるものではあったが、これでは仕事が終わらない。
  ため息を一つ落とし、手に持っていた書類を抱え直した。
  日常へと戻る為に石段へと向かう。
  現れるハートレスを慣れた様子で蹴散らして、再建委員会本部となっている魔法使いの家へ急げば扉の前で少年が待っていた。

「エアリスがもうすぐ帰ってくると思うっていうから、待ってたんだぞ、レオン!」

 腕組みをして笑う少年の前には、倒されたばかりのハートレスの残骸が転がっていた。
  心をなくし、存在の拠り所を失った残骸は空気に溶けるように消えて行く。
 
  …この力が、欲しかった。

  跡形もなく綺麗になった地面を見つめるレオンを怪訝に見つめ、少年が近づいて覗き込む。
「レオンー?」
「ああ、もっと早く戻る予定だったんだが、遅くなった。…ソラ、元気そうだな」
  無理矢理視界に割り込んできた少年に小さく笑んで見せれば、自信に満ちた笑顔が浮かぶ。
「元気だよ!またハートレスとか増えてないかと思って、見に来たんだ。どんな感じ?」
「ご覧の通り、増えてはいないが減ってもいないようだ。…やはりキーブレードでないと、ダメなようだな」
「そっか。任せてよ!俺頑張るからさ」
「…頼もしいな」
  強くなった少年を、目を細めて眺めやる。
  トラヴァースタウンで出会った当時、右も左もわからず、戦い方すらも知らなかった姿がもはや遠い昔のようだった。
「んじゃ俺、さっそく行ってくる!」
  キーブレードをしっかりと握り直し、今にも走って行きそうな少年の首根っこを慌てて掴んで引き止めた。
  パーカーのフードを引き寄せたらそのまま首が絞まったらしく、少年らしくもないなんとも野太い呻き声が聞こえたが、それには知らないフリをした。
「まぁ待て、ソラ。夜は奴らの領分だ。やるなら明日にしたらどうだ」
「……レオンは俺を殺す気なの……?」
「そんな程度でお前は死なない。心配するな」
「…え、いや俺が心配するのは違うと思う…」
  咳き込みながら手を振る少年の頭を一つ撫で、中に入るよう促す。
「俺はまだ仕事がある。明日は俺も行くから」
「えっレオンも来るの?なら明日でいいや!夜は街の人、外出ないから大丈夫だよな?」
「さすがにそんな馬鹿はいない」
  自分から死にに行くような愚か者はこの街には存在しない。
  夜には固く扉を閉ざし、闇の者に付け入る隙を与えない。
  この街に戻ってきてからそれは皆の暗黙の了解であり、当然の防御であった。
「俺、腹減ってたんだよなー良かった!久しぶりに皆ともゆっくり話したいな」
「ああ、そうしてくれ」
  中に入れば温かい声が迎えてくれた。
  珍しく魔法使いも部屋にいて、分厚い魔法書を読んでいた。
  ソラがエアリスとユフィの元へ駆けて行くのを見届けて、パソコンの前に陣取るシドへ持っていた書類を手渡せば、眉を顰めて睨まれた。
「これ、アレか」
「そうだ」
「おめぇ、断ったんだよな?」
「やることはやった」
「で?」
「無理だ。彼らは理解しない」
「何でだよ」
「…他人事だからだろ」
  ため息混じりに言えば、シドが眦を吊り上げて立ち上がった。
「バッカおめぇ、他人事なんてことがあるか!てめぇら誰のおかげで死なずに済んでんだよ!」
  驚いたソラ達が硬直したのを見て、レオンが眉を顰めて嗜める。
「…シド、声が大きい」
「あー?うっせー!地声だ地声!そんなもん、認めてねーだろなお前!」
「…認めてないし、承諾もしなかったし、拒否してきた」
「おう、当然だ。よくやった!」
  乱暴にぐしゃぐしゃとレオンの髪を撫で回し、シドが椅子に座り直す。今度はレオンが驚きに硬直したが、シドは気づかないようだった。
「連中いっぺん死ななきゃわかんねーんじゃねーか。といってもマジで死なれちゃ迷惑だからよ、連れてってやればどんだけ危険か理解するだろ、どんな馬鹿でも」
「…それ、誰が引率するんだ…」
「そりゃおめーしかいねー」
「断る」
  乱れた髪を抑えながらきっぱりと拒絶するレオンに、シドは畳みかけるべく口を開くが、横からやってきた少年の姿を認めて口を閉ざした。
「…なぁなぁレオン、何の話?なんか難しい話?」
  おずおずと小首を傾げて問う少年は、ハートレスやノーバディを消滅させる武器を持つ「選ばれし」勇者であった。 

 そうだ、この少年がいればなんとかなるじゃねーか。

「おいレオン、明日連中連れて一緒に行って来い」
「…は!?危険だ。やめた方がいい」
「ソラがいれば平気だろ。お前は連中の護衛に徹すればいい」
「へ?何の話?」
  理解できずに首を傾げてレオンとシドを見比べる少年に、シドがにやりと笑いかけた。
「いやいや、ソラは明日、レオンと一緒に城行くんだよな?」
「行くよ。ハートレスの数減らさないとな」
「そこによ、一般人も連れてってやってくんねーか。戦闘はしないし、邪魔もさせねーからよ」
「えー…」
「シド、危険だ。何かあっては責任が取れない」
「危険がないように護衛してやれって言ってんだろう」
「だからそれが無理だと言ってる。敵は大勢なんだ。何故ソラと俺だけを狙ってくれると思うんだ?彼らを狙って来ないとも限らないんだぞ。同時に襲われたら、どうやって守るんだ?保証がない限り、俺は反対だ」
  シドが反論できずに呻いた。
  いいチャンスなのに。
  せっかくソラがいるのに。

 …そんなことは、レオンにだってわかってはいるのだ。

「…シド、ではこうしよう」
  不安げに見つめるエアリスと、今ひとつ話が飲み込めていない様子のユフィまでがソラの後ろに立っていた。
「彼らに声をかけてみる。ただし命の保証はしない。それでも良ければと。…彼らが本気で提案しているならちゃんと参加してくれるだろうし、何かあれば戦おうとするだろう」
「…そうだな」
「一方的にこちらが責任を負うのはごめんだ。負えるものでもない。それは彼らにも理解して欲しいところだ」
「期待薄だなぁそりゃ」
「…そうだな…」
「…さっきから話がよくわかんないんだけど…」
  不貞腐れるソラに向かって、レオンは頷いた。
「問題ない。ソラが気にすることじゃない…エアリス」
「はい。…ソラ、ご飯の準備手伝って?」
「え、あ、うん。今日のご飯何?」
「見てのお楽しみ、ね。足元気をつけてね」
「はーい」
  納得しきれていない様子ではあったが、ソラは素直にエアリスに従った。
  ユフィも何も言わずにソラの後ろをついていく。
  残された二人は、同時にため息をついた。
「まぁな、いずれこんな日が来るんじゃないかとは思ってたぜ」
「指導者がいない。…いつか、帰って来るんだろうか」
「…生死不明なんだろ。帰って来たところで…認めてもらえるかもわかんねーな」
「……」
 
  指導者がいない。
  「アンセム博士」が街を、世界を揺るがしたのだ。
  この街の人々は果たして「本当の」博士が帰って来た時、受け入れることが出来るのだろうか。
  この街がかつての姿を取り戻す時、一体誰が指導者として上に立つことになるのだろうか。
  いや、それよりも必要とされているのは今であるのに、街を復興する為に一枚岩となるべき指針がないのが最大の不安要素であった。
  歪みはすでに現れているのだ。対処法を、レオン達は持たなかった。

「それでも止まることは出来ない。…だろ?シド」
「そうだ。馬鹿な独裁者が現れるよりは、並列の方がまだマシだろうよ」
「そうだな」
「おめぇが指導者になっちまえ、レオン」
「…そんな器じゃない。遠慮する」
「無欲だなぁおめぇは」
  舌打ちされて、疲れたように笑うレオンであった。

 魔法書に目を落としたままの魔法使いは、最後まで黙したまま動かなかった。

 

 

 

 

 

 翌朝、レオンは早めに起き出して城壁広場でソラが来るのを待っていた。
  灰色に重く垂れ込めた雲は今にも泣き出しそうに暗い。
  昨日は晴れ渡っていたというのに、今日は朝から風が強く湿気を帯びて絡みついた。
  そのせいだろうか、身体が重く張り付く服も不快だった。
「ごめんレオン、待った?」
「いや、空を見ていた」
  見上げるレオンの視線の先を追って、隣に立った少年もまた空を見上げる。
「雨降りそうだな。傘持ってきてないや」
「施設におそらく予備があったと思う。…必要なら持って行くといい」
「うん、そうする。…で、昨日言ってた「一般人」って人は来るの?」
  周囲を見回す少年はすでにわかっている風だったので、レオンは軽く首を振って否定した。
「誰も来ない。…まぁ、わかっていたことだ。行こうか、ソラ」
「ふーん…?あ、そういえば城に穴開いてるとこあるだろ。あそこ、入ったことある?レオン」
  ソラがいう「穴」とは、底が見えないほどに深い地下へと繋がっている壁に空いた亀裂のことを指す。
  一体いつ亀裂が入ったのか、いつそこが作られたのか調査の為に、一度降りてみたことがあった。
  万全の準備をして行ったものの、そこにいたのは無限に沸いて出るハートレスと絶壁のごとく立ちはだかる岩壁に囲まれた閉鎖空間であった。
  岩壁を登って見つけた扉ははるか遠く、空を飛ぶ手段を持たない限り到達するのは不可能に思えた。
「ある…が、深入りはしていない。あそこは俺一人の手に負えない場所だった」
「施設に入るところにある穴はさ、めんどくさいんだ。飛んだりカラクリ潜り抜けたり。けどもっと手前から入れるヒミツの部屋あるの、知ってる?」
  嬉しそうに人差し指を口に当てて、「内緒だぞ」と言うソラの瞳は聞いて欲しそうに輝いている。
「…それは知らないな。何があるんだ?」
「へっへー!見せてやるよ!こっちこっち!」
  段差を飛び降り、城へと走って行くソラの背中は弾んでいる。
  元気だな、と思ってしまう自分を見やって、レオンは己に苦笑した。
  現れるハートレスをキーブレードでなぎ倒して進む少年の後ろについて、悠々と歩く。
  本当に、強くなったのだと思えば感慨深かった。
  いくらも進まない場所で、不意にソラが左へ逸れた。
「…ソラ?」
「ここ、隠し通路になってんの気づいてた?」
「ここに通路があるのは知っている。…でかいハートレスがいる…ぞ」
  最後まで言い終わらないうちに、大小取り揃えたハートレスが狭い通路に現れるのを予期していたかのように、ソラはキーブレードを振り下ろす。
  体勢を整えながら魔法で範囲の敵を駆逐した。
「…俺の出番はなさそうだな」
  感嘆を込めて呟けば、照れたように少年が笑う。
「今日は俺に任せてよ。ここ結構来てるんだ。敵強くってさ!」
  少年がよくこの街に来ていることは知っている。
  来るたびに顔を出し、元気な姿を見せてくれることを知っている。
  …そしてハートレスを減らそうと、戦ってくれていることも、知っていた。
「もっと早くに教えてくれたら良かったのに」
  少しは手助けすることもできただろうにと思うと、自然声は低くなる。
  察した少年は嬉しそうに見上げ、気にしないでと言って笑った。
「ここ、敵強いんだ。だから一緒に来ようと思ってた」
「…そうか」
  少年に、気を使わせてしまったことに申し訳なく思う。
「で、ここ!俺達が繋げたんだ。こっから入れるんだ。おかげで楽チンになった!」
  狭い通路をさらに左に、壁の中へ躊躇なく進むソラの後を追ってレオンも足を踏み入れた。
  違和感があって、眉を顰めた先に球形の部屋があった。
「…何だ、ここは」
「わかんない。XIII機関のデータと戦える場所」
「…何だって?」
「どれもこれもすんごい強いんだ。俺たまに負けるもんな」
  壁面に並ぶ紋章群のそれぞれが、XIII機関のデータであるとソラは言った。
「こんなものが、何故こんな所に?」
「不思議だろ。俺も何でかわかんないんだよな~」
  近づいて見ると、それぞれが不可思議な色に輝いて、まるで生きているかのようだった。
  触れれば戦闘するかと選択肢が現れる。「久しぶりに戦ってみようかな~」と呟く少年を尻目に、レオンは愕然と部屋の中を見渡した。
 
  …何だこれは。

  いつの間にこんなものが出来たんだ?
  城の中に、こんなスペースはなかったはずだ。
  さらに奥へと続く通路があり、進もうとすればソラが隣に並んで説明をしてくれた。
「この奥から、この部屋に来たんだ。施設のとこに空いてる穴からずーっと進んで、ここがゴールだった。向こうはノーバディがいっぱい」
「…なるほど」
  扉を開けば、似たような色彩の白い通路がさらに続いていた。
  ソラが言うとおり、進めばノーバディが「いっぱい」現れて容赦なく襲ってくるのを、キーブレードを構えて迎え撃つ背中が嬉々として楽しそうだった。
  レオンは頭痛を覚える。
  こんな場所は知らない。
  向かってくる敵に対峙しながら、レオンは考える。
 
  …誰が作った?
  何故ここにある?

  答えは、知っている気がした。
  ならば、やはり。

「…ここを破壊するなんて、どう考えても無理だろう…」

 未だに減る気配のない圧倒的な数のハートレスやノーバディが存在するというのに。
  無闇にここを崩してしまったら、留まっているそれらが目指す先など一つしかない。
  吐き気がした。
  何故ここはこんなにも闇で溢れているのだろう。
  倒しても倒しても終わる気配のない永遠は、絶望に似ていた。
 
  やはり彼らにもここを見せるべきだった。
  どれだけ恐ろしいことを言っているのか、己が肌で感じるのが一番早い。

「あの城が全ての元凶だ。早く破壊して更地にし、別の用途を考えよう」
 
  そう言ったのは何人だ。
  街の復興より優先しろと主張したのは、何人だ。
  武器を取って戦うことのない彼らには、ここの恐ろしさはわかるまい。
  城を破壊することの恐ろしさが、わかるまい。

「…レオン、どうしたの?顔色悪いよ」
「…何でもない。この奥はどうなってるんだ?」
「えっと、こんな綺麗な通路じゃないよ。岩!って感じ。何かどこかの空間と繋がってるみたいなんだよなここ。ノーバディ達の世界が、こんな感じで似てたかな。他にもどこか、似てた場所があったような気がするんだけど、どこだったかなぁ」

 思い出せないんだよなーと、しかめっ面で考え込む少年が嘘をついているはずもない。
  ここは通常の世界とは違うという感覚はひしひしと伝わってくる。
  人間のなせる技でないだろうことも、同様に。
  俺達は、この街の為に出来ることを根本から考え直す必要に迫られている気がした。

 この城はあまりにも、人間から遠すぎる。

「レオン?」
  不安げに見上げてくる少年の手が、レオンの手に触れた。
  生きている人間の体温に安堵する。
  握られたキーブレードは、確かな存在感を持って輝いていた。

 …これがないと、どうしようもないのか。

  己の無力に、打ちひしがれる。
  …城を破壊しようと主張する彼らの思いが理解できることもまた、やるせなかった。
  力を持たない彼らは、この城を恐れる。
  キーブレードを持たない俺達は、この城に絶望する。

  どうしようもないのか。
  この街を取り戻すのは、俺達だけの力では無理なのか。
  白い空間に眩暈がする。
  異質な世界にどう対処すればいいのかわからない。
  科学者ではないのだ。
  指導者ではないのだ。
  …あのアンセム博士ならどうしたのだろうか。
 
  賢者と呼ばれた、あの指導者であったなら。

 

 

 

 

 

 ソラが教えてくれた部屋については、後日研究者を交えて改めて調査に乗り出すことにした。
  XIII機関のデータを集積していたのが何者なのかは定かではないが、データの分析は今後の復興にも役に立つかもしれず、ノーバディやハートレスなど、闇の存在について詳細に知るいい機会になるかもしれない。何にしろ情報が増えるということはありがたいことであった。
  キーブレードの力を借りて付近の敵を一掃し、研究施設へと向かう。
  「よく来る」と言うだけあって戦いにも無駄がなく、ハートレスは少年の前に成す術もなく消滅を余儀なくされた。
  正確には、元の心の持ち主へと還ったというべきであったが、人間に害を為す存在が消滅したことに変わりはない。かつてXIII機関が暗躍していた頃には、キーブレードに攻撃されて飛び出した心は彼らが集めていた「人間の心の」キングダムハーツに集約されていたが、それが分解された今、心は正しく元の持ち主へと回帰しているはずであった。
  少年の動きにもはや迷いはない。
  助けなど必要ないほどに、いつの間にか軽々と自分を追い越して行った少年の強さが眩しかった。
  研究施設までの道中を、ほぼ全て少年一人で片付けた。
  ぽつぽつと泣き出した空は今、滝の如く地面を打ちつけ、激しい音を立てて視界を閉ざしている。
  間一髪城内へ入る事ができた為、それほど濡れずに済んだことを幸いと、扉を開けて施設に入ったソラはそのまま「今日はそろそろ帰る」と言った。
「そうか。手伝わせてしまって済まなかったな、ソラ。とても助かった」
「ホントは城の中全部掃除したいんだけど、それはまた今度な、レオン!…帰らないと宿題が…」
  がくりと項垂れたソラは、言外に「勉強嫌い」と匂わせているのが苦笑を誘う。
「…学生の本分は勉強だからな」
「ブランクがあるから大変でさ~!もー泣きそうだよー!今度来る時は宿題持って来るから、レオン勉強教えてよ」
「わかる範囲なら。…しっかり勉強しろよ」
「うう…」
  頭を抱えて蹲るソラに同情の視線を向けて、レオンはデスクに凭れかかった。
  これから調べなければならないこと、報告しなければならないことを考えると自分も頭を抱えたい気分だったが、収穫があったのだと思えば僅かながらも前進したということになるのだろう。
  それにしても、濡れた髪と服に体温を奪われていく感覚が気持ち悪かった。
  早く戻って着替えたいところだ。
  同じように濡れているのに、全く気にした様子もない少年はやはり元気だと、しみじみとレオンは思うのだった。
「ところでレオン、ずっと顔色悪いけど大丈夫なのか?」
「…ん?」
「俺、帰って平気?」
  見上げてくる少年は、何故か心配そうに見えた。
「ああ、考えることが多すぎて頭痛がするが、たいしたことはない。風邪を引かないように気をつけろ、ソラ」
「レオンこそ。…じゃ、また来るね」
「ああ、またいつでも来てくれ」
「もちろん!」
  手を振り名残惜しげな少年に笑顔を向けて、送り出す。
  本当に、いつでも来て欲しいし、いて欲しいのだ。

 …キーブレードの力で、全ての闇を葬り去って欲しい。

「…それだけでは、もちろんないけどな」
  少年の成長を見守ることは、出会った頃から自分にとって重要事項の一つであることを自覚している。
  キーブレードを持つ資格があったばかりに、普通の少年が過ごすような平凡な日常とはかけ離れてしまっていることは痛ましいと思う。
  それでもその力が必要だから。
  この世界に、必要だから。

 早く平和な世界が訪れたらいいのにと、思う。

  今しがたまでソラがいた場所をぼんやりと眺めていたが、身体を起こす。
  DTDシステムを統括するトロンに聞かなければならない事があるのだ。答えによっては、調べ直さなければならないことも出てくるだろう。
  だが一歩踏み出して立ち止まる。
「……」
  眩暈がした。
  寒気もする。
「…あれ」
  さっきから感じていた頭痛や吐き気はストレスのせいではなかったのかと思い至る。いやもちろん頭痛の種や吐き気がするようなストレスの嵐は日常茶飯事ではあるのだが。

 まさか、風邪か?

 自覚した途端体調不良が悪化するのはどういう仕組みによるものか、頭痛はどんどん酷くなり、平衡感覚も覚束なくなってくる。
  こんな状態で無理をしたところで、頭に入るはずもない。
  報告は明日、まとめてしよう、そうしよう。
  散漫になる意識をかき集めてそう判断を下し、家に帰ることを選んだ。
 
  全く、自分はソラに偉そうなことを言える人間ではないのだ、呆れることに。

  帰ろうと扉に手をかける寸前、先に開いた。
  無造作で遠慮の欠片もない勢いで開かれたそれに、咄嗟にレオンは身を引いた。
  が、平素の状態であったなら難なくかわせただろう行動も、頭痛と眩暈に苛まれる状態では不可能だった。足元がふらついて、反応が遅れた。

 ガン、と、鈍い音がした。
 
「…何だ?」
  何かがぶつかる音がした、と思ったら、何かが扉に縋るようにずるずると倒れこんできたようだった。
  外から扉を開けて入ろうとした男は予期せぬ重さに驚き、何かが邪魔をして開ききれない扉の隙間から確認するように覗き込む。
「…は…え?レオン…?」
  足元に散らばる髪と腕には見覚えがあった。
  何故床に転がっているのか理解できず、青白い顔色とぴくりとも動かない身体に背筋が寒くなる。
「おい…?」
  床に、転がっているのが、理解できない。
  青白い顔で。
  呼びかけても答えない。
「ちょっ…おい、レオン!?」
  何とか身体をねじ込んで部屋に入り、レオンの身体を揺さぶってみる。濡れた身体は冷たく、血の気が引いていた。
「……」
  僅かに、瞼が動いた。
「おい、お前どうしたんだ?」
  強めに問えば、瞼が開いた。
「……」
「え?」
  聞き取れない程小さな声に、眉を顰めて問い返す。耳元へ顔を寄せれば、もう一度呟いた。
「…家…」
「家?」
「……」
  それきり意識をなくしたように、レオンはぐったりと目を閉じた。

「連れて行けってことかよ!」 
  
  ツッこんだところで、誰からも答えは返ってこなかった。

 

 

 

 

 

 外からかすかに雨の音がする。
「…寒い…」
  掠れた声で呟くと、冷えた何かが額に置かれた。
「このクソ暑い時に、お前が被ってる布団は冬物だし毛布もかけてるしこれ以上どうしろっていうんだ?」
  上から降ってくる声は呆れた様子を隠しもせずに、だが顔を覗き込む気配は控えめだった。
「…え?」
  重い瞼を開けば、存外心配そうな蒼い瞳にぶつかった。
「クラウドか…何でここにいる?」
「……何そのボケ。笑えないんだけど」
  嫌そうに顔を顰めて、ベッドサイドに腰をかける。
  目線で追えば、気づいたクラウドはデスクの上を指差して、「服はあそこ。水はここ。タオル変えるならここに氷と水入ってる」と投げやりに答えてみせた。
  ため息混じりに頷くが、己の呼気の熱さにレオンは驚いた。
「…頭が痛い」
「…扉にぶつけたからだろ」
「ああ、その痛みもあるのか…」
「トロすぎだろ、避けろよ」
「…避けたつもりだったんだがな…」
  寒くて身体は震えているというのに、吐き出す息は異常に熱い。
  いや、高熱のせいなのか。
  もう何年も風邪を引いた記憶がなかったから、気づくのが遅れたのかもしれない。
「…そもそも風邪かどうか…」
「…何一人で喋ってんの?」
  単に疲れが溜まったせいかもしれない。
「…喉は痛くないし、鼻も正常だし、咳もない…」
「あ…そう」
「でも気持ち悪い…」
「…吐くなよ?」
  病人に向かって酷いことを言う、とレオンは思ったが、口に出して反論する元気はない。
  目を開けているのが辛くなってきたので目を閉じ、寝返りを打てば額に置かれたタオルがずれて落ちた。いつの間にか温くなったそれをため息と共にクラウドが取り上げ、氷水に浸して絞ったものを再びレオンの額に乗せた。
「落とすなよ。俺の好意を!」
  恩着せがましい口調が鳴り響く頭痛に混ざって刺さる。
  痛むこめかみを押さえ、タオルも落とさないように押さえながらレオンは眉を顰めた。
  寒いし、痛いし、熱いし、気持ち悪いし、文句の一つでも言ってやらねばと思うのだが、上手く言葉がまとまらなかった。
「…寒い…」
  無意識に零れ出た言葉に、クラウドは困ったように頭をかいた。
「…暖房入れる…?」
  雨が降っているおかげで目も眩むような猛暑からは解放されてはいるものの、間違っても暖房が必要な季節ではない。
  そんなことをすれば自分がこの部屋にいるのが苦痛になるだろう。
  病人を放置して帰っていいのならばそうするのだが。
  否定を期待しながら問うたクラウドの言葉が聞こえていなかったのか、レオンはぼんやりと目を開いた。
「ああそうだ…」
「何?」
「…お前はXIII機関と戦ったことあるか…?」
「は……?」
  また唐突に何を言い出したのかこいつは。
  ありありとそう顔に浮かべて聞き返してやったが、レオンはやはり茫洋と視線を彷徨わせたままだった。
「戦ってみるといい…強いらしいぞ」
「…はぁ…どうやって?」
  XIII機関というのは黒いコートを着た連中で、キングダムハーツとやらを狙っていて、ソラ達に倒されたのではなかったか。
「…データがある」
「へぇ…」
  初耳だった。
「どこにあるんだ?」
  聞いてみるが、返事はなかった。
「…狭間の世界というものが」
「……」
  またか。
  また話題が変わるのか。
「一度繋がった世界は、断ち切ることはできるのか」
「…さぁ…」
  その「狭間の世界」とやらが何を指すのか、クラウドにはわからない。
  苦しげに息を吐いて、レオンが布団の中に潜り込む。
  額のタオルがまた落ちた。
「潜るな。余計苦しいぞ」
  布団を掴んでレオンの顔を出させると、また「寒い」と呟いた。
「ちょっと寝ろ。寝たら寒くなくなると思う」
  自信はないが、とは、言わなかった。
  三度タオルを額の上に乗せてやり、子供にするように頭を撫でてやればレオンが何かを思い出したのか、びくりと肩を震わせた。
「…シドは余計なことを言う」
「…何を?」
「だからマーリン様は何も言わない」
「……」
  いい加減、脈絡のない話に付き合う必要を感じなくなってきた。
  寝言に近い独り言なのだろう。
「いいから、寝ろ」
「…通用口左の隠し通路に」
「……」
  また話題が飛んだようだった。
「俺も戦ってみたい…あれと」
「…XIII機関のデータとかいうやつか」
  やっと話題が一周したようだ。
  答えが返って来るまでが長すぎる。
  病人ってこんなものだったろうか。クラウドにはよくわからなかった。
「……だ……」
  レオンが何かを呟いた。
  もう聞き返さなくてもいいかと半ば思ったが、レオンが小さく震えていた。
  やはり寒いのかと思い顔を近づければ、酷く傷ついたような表情でレオンが枕に顔を埋めている。
  どうしたと、問おうとしたが声は出なかった。
 
  レオンが呻くように吐き出した言葉が、痛かった。

  外はまだ、雨が降り続いている。
  今夜はやみそうになかった。
 

 
 
  翌朝早い時間に目を覚ましたレオンは、随分と楽になった身体を起こして伸びをした。
  熱はもう下がっているようで、頭痛も吐き気も収まっている。
  色々な夢を見たような気がするが、混沌としていて良く思い出せなかった。
  外を見れば雨は上がり、まだ厚い雲がかかっているが今日はどうやら晴れそうだった。 
  軽くなった身体を起こし、身支度を整える。
  昨日し損なった報告をしなければならず、その為に必要な資料を揃え、今後の対策を練る必要があった。
  そういえば、と思い部屋を見回すが、クラウドの気配はない。
  枕元にはタオルがあり、水があり、解けてしまった氷水の入った容器もあった。
  早々に出て行ったのだろうが、迷惑をかけたことに変わりはない。
  大きく深呼吸をして、外に出る。
  クラウドの居場所は見当がついた。
  どうせ道中のことだ、多少寄り道した所でたいした時間のロスにはなるまいと判断し、隠し通路を入る。
  球形の部屋には、果たしてクラウドが床にだらしなく寝そべっていた。
「…良くこんな所で寝れるな、お前」
「寝てないし…」
  揶揄に対して憮然と返し、身体を起こしたクラウドは全身傷だらけになっていた。
「…お前…負けたな?」
「……ッ負けてない!」
  むきになって反論してくるところが怪しい。
  ため息混じりに「そうか」と返せば、勢いをつけて立ち上がったクラウドが、レオンの眼前に大剣を突きつけた。
「お前も戦いたいって言ってただろ。どうぞやってみせろよレオンさん?」
「残念ながら、病み上がりの上俺にはやるべき仕事がある。またいずれ、改めて」
「逃げるのか」
「なんとでも」
  ソラでさえ「たまに負ける」と言った敵なのだ。
  病み上がりで戦おうものなら、命を落としかねないではないか。
  まだ死ぬわけにはいかないのだ。
  つまらなそうに鼻を鳴らしたクラウドは、部屋をぐるりと見渡してレオンに視線を戻す。物問いたげな様子にレオンは片眉を上げた。
「…何だ?」
「ここが、狭間の世界というやつか」
「…何でそれを知っている?」
「お前が言った!」
「……覚えてないな…」
  いや、言ったような気もするが、どうにも曖昧だった。
  熱を出して寝込んだ後のことはまるで夢のように現実感がなく、ぐるぐると回る思考と熱さと痛みで朦朧としていた。
  色々なことを言ったような気もするし、考えていただけのような気もする。
「…都合のいい記憶だな」
  大剣を納め、レオンの横をすり抜けて外へ出ようとするクラウドの背後に声を投げる。
「何か変なこと言ってなかっただろうな、俺は」
  レオンもまた部屋を出て、研究施設へ足を向ける。クラウドの目的地も同じだったようで自然並ぶ形となるが、クラウドはレオンの方を見なかった。
「…さぁな、寒い寒いと駄々をこねてた」
「……確かにやけに寒かった記憶があるな」
「暖房つけるかと聞いてもシカトされた」
「…それは…悪かったな…」
「いーえ、どーいたしまして」
  口調に愛想はないが、機嫌を損ねている様子ではない。
  つまらないことを言って呆れられたとか、そんなところなのだろう。
  それきり黙ってしまったクラウドは、それでも歩調を合わせて並んで歩いていた。
  よくわからない奴だと思うが、まぁそれもいい。
  レオンは今日調べなければならない項目をリストアップし、報告しなければならない事柄なども順序立ててメモをする。
  城を更地にする日はおそらく来ない。
  もし城を破壊する日が来るとすればそれは、全ての闇の勢力を駆逐した後のことになるはずだった。
  いつになるのか気が遠くなりそうだったが、それでも生きて行くためにはやらなければならなかった。
  キーブレードの勇者がいる限り、いつかその日もやってくるだろう。
  一つずつ、復興の為のプロセスを経て、俺達は先へと進むのだ。
「…クラウド、ここの亀裂から中に入ったことあるか?」
  施設手前の「穴」を指差し、レオンが問う。
  胡乱気な視線でその穴を一撫でし、「ない」とクラウドは即答した。
「そうか。あの部屋に通じているようなんだが、興味があれば入ってみるといい」
  何がある、とも、どうなっている、ともレオンは言わない。
「…お前は入らないの?」
「入ってみたが、俺には無理だ。まぁいずれここもちゃんと調査しないとならないんだが」
「…ふーん」
  あっさり「無理だ」と断言したレオンの表情は静かだ。
  昨日の言葉と、重なった。
「…そのうち、暇だったら手伝ってやってもいいよ」
「…へぇ、クラウドがそんな殊勝なことを言うとはな、珍しい」
「……前言撤回」

 聞きたくない言葉というものは、存在する。
 お前が言ったあの言葉は、認めない。

「…ていうか、腹減った…」
「知るか」

 

 
 
 
 
  お前は別に、無力じゃない。


END

真夏の夜の夢

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