帝国歴四八九年一月、今冬積雪量の少ない帝都オーディンは、日陰の残雪がいつまでも泥と埃にまみれて凍り付いてはいるものの、通路に雪は少ない。足を取られる心配がない人々は、吹き付ける寒風に首を竦めながら足早に歩いて行く。日中は買い物客や車の往来で賑わう大通りも、日が落ち気温が下がる頃には、夜間営業の店へと繰り出す一部の者を除き、誰もが口数少なく襟元をかき合わせて家路を急ぐ。未だ帝国と同盟の間に戦争は続いており、つい先だっては貴族連合との戦いがあったばかりである。新年の浮かれた気分が過ぎてしまえば、日常へと回帰するのは早かった。
 夜も八時を回ってしまえば、営業している店はレストランかバーになる。
 人通りは変わらずあるものの、ほどよく酔いの回った仕事帰りの男達の割合が増え始め、あちこちで上機嫌な大合唱が聞こえてくる。銀河帝国開闢以来、我が物顔で庶民を虐げ続けた貴族の数が激減したことを、帝国臣民は目で、肌で感じて知っている。
 軍服を着て歩けば、店の主人は笑顔で接し、通りすがりの見知らぬ人々からは敬意と好意を持って敬礼されることが多くなった。中には礼を言って涙ぐむ者までいる。
 誰もが耐えかねていた貴族の圧制からの解放を心から喜び、良い方向へと向かっていくことを期待している表情だった。
 軍服の上からコートを羽織り、時折頬を刺すような冷たい風に首を竦めながら、銀河帝国軍大将の階級を持つナイトハルト・ミュラーは、反対側の通りを陽気に大声で歌いながら歩いていく集団へと視線を向けた。
 まだまだ平和とは言い難い現状ではあるが、酔漢達の表情は一様に明るい。彼らの気持ちは察して余りあるだけに、見つめる視線は自然と和らいだものになった。
「全く、いつまで新年のつもりだ。浮かれすぎだろう、どいつもこいつも」
 ぶえっくしょい、と、豪快なくしゃみを一つ漏らして鼻を鳴らした隣の男は、腕を組み顎を反らす。オレンジ色の髪が風に揺られて、「寒い」と不満そうに唇を尖らせた。
「そうおっしゃらずに。彼らの気持ちは理解できます。そうでしょう、ビッテンフェルト提督?」
「まぁ俺も卿も平民の端くれ、わからんでもないが」
「街が、明るくなりました。下士官達も、笑顔が増えました。ローエングラム公の手腕が早くも効果を発揮しているのでしょう。喜ばしいことです」
 それには異を唱えることなくビッテンフェルトは頷いて、「もう少し先だ」と顎をしゃくって前方を示す。
「ご友人のバー、意外と距離ありますね。地上車の方が良かったのでは」
「あぁ、軍務省からすぐと聞いたのだがなぁ…すっかり遅くなってしまった。あいつら、もう出来上がってるんじゃなかろうな?」
「シュタインメッツ提督やワーレン提督達が、ハメを外すということはないでしょう。ビッテンフェルト提督のご友人のバーですし、主役である提督がいらっしゃらないと、盛り上がりにも欠けるというものです」
 眉間に皺を寄せて不満を見せるビッテンフェルトに、ミュラーは笑顔を向けた。
 会議が長引いてしまったのは仕方がない。これも仕事の内である。
 新年早々、未だ大きな軍事作戦はなかった。
 かといって、暇を持て余していられる程、ローエングラム体制下は甘くはない。戦時下でなくとも会議や演習、人手を割かねばならない戦後処理など、軍人がなさねばならぬことは多くあり、高級軍人になればなるほど、多忙になるのである。
 時間を調整し、大将クラスの幹部をほぼ全員招集することが叶ったのは、奇跡と言って良かった。
 だがさすがに上級大将の二名は誘えなかった、とオレンジ色の髪の猛将は残念そうに呟いた(上級大将は三名いるが、あえて一名は除外しているようである)が、上級大将は輪をかけて多忙である。
「今回は仕方ない、まぁいずれ機会もあるだろうよ」
 己より階級が上の、上官に対しても気軽に誘えてしまう男の剛胆さに感嘆しながら、砂色の髪を緩く振って、ミュラーは「そうですね」と頷いた。
 それにしても一月半ばの夜の街は、芯から冷えて寒かった。
 吐き出した白い息の行方をなんとはなしに眺めやり、闇夜に浮かぶ星々から、地上の街灯へと滑り落ちた視線の端に光が掠めた気がして、ミュラーは二歩もあれば通り過ぎてしまう狭い路地の奥へと意識を向けた。
 一瞬、煌めいた金色が、路地を曲がって闇へと消える。
 建物がひしめき合うように建っていながらも、その実建物間には隙間があった。
 どこかの建物の隙間から入ってきたであろう人物は、ミュラー達に背を向けていた為顔はわからなかった。
 わからなかったが、しかし。
「なんだ?どうしたミュラー提督」
 気づけば一人で十メートル程進んでいたビッテンフェルトが振り返れば、そこには真剣な表情で路地を見つめるミュラーがいた。思わず踵を返して歩み寄り、同じように路地を覗き込んでみるが、そこにあるのは静寂の落ちた闇ばかりであった。
「亡霊でもいたか」
 揶揄したものの、ミュラーは反応しない。
「おいミュラー、どうした?不審者か」
「あ、…いえ、あの」
 見るからに挙動が不審な年若い同僚を見やり、首を傾げる。
 仮にも「帝国軍大将」の地位にある者が見せるには過ぎた動揺に、ビッテンフェルトも表情を改め、腰に下げたブラスターへと手をかけた。
「確認に行くなら付き合うが、どうする?」
 口角を引き上げ、目を細めて促す男は好戦的な様子を隠しもしない。顔を上げ、ミュラーは強いて笑顔を作った。
「いえ、友人に似た後ろ姿が見えたので。…ちょっと、行ってきていいですか?すぐ戻ります」
「何だ、一人で行く気か?」
「ええ…一人ではなかったので…」
 語尾が消え入るような小ささに、何かを察したらしい帝国軍随一の猛将であると自他ともに認める男が、訳知り顔で頷いた。ブラスターをしまい込み、ミュラーの肩を軽く叩く。
「そうか、…まぁ、浮気相手が反撃してきたら、俺を呼べ。助太刀するぞ」
「は、…はぁ…?あ、そういう…いや、まぁ、はい、ちょっと行ってきます」
 否定すれば一人で行く理由を問われそうであるし、肯定すれば後ほどしつこく絡まれそうで、曖昧に頷いたミュラーを同情の滲む眼差しで見つめながら、ビッテンフェルトは大人しく腕を組んで、壁に凭れる。猪突猛進で鳴る猛将が、待つというのだ。勘違いとはいえ、気づかいに軽く一礼し、ミュラーは一人で路地へと踏み込む。
 恋人の浮気現場を目撃するより、これは嫌なものではないだろうかとミュラーは思う。
 真冬だというのに、脇下に汗をかき、鼓動は早い。緊張しているのだと自覚した。

 見ない方がいいかもしれない。
 知らない方がいいかもしれない。
 いやそもそも、気のせいかもしれないではないか。
 別人かもしれない。
 全く関係のない一般庶民の逢瀬の場に出くわしてしまうだけではないのか。
 それはそれで気まずいし、出歯亀などしたくない。

 引き返すなら、今のうちだ。
 街灯すらも薄暗く、路地の全てを照らしてはくれない。
 大通りの明かりをひどく遠くに感じつつ、一歩ずつ踏み出す先は闇でしかない。
 路地の先がどうなっているか、ミュラーは把握していなかった。
 どこかに通じていて、単なる近道として通ったのかもしれない。
 あるいは行き止まりになっていて、後ろ暗い商談の場にでもなっているかもしれない。
 姿が消えた曲がり角の手前まで来て、ミュラーは運動したわけでもないのに跳ねる鼓動を抑える為深呼吸をした。無意識の動作だった。
 先ほどほんの一瞬見えた金髪は、美しかった。
 薄暗い街灯に晒されてなお煌めく金糸は豪奢に波打ち、首筋を覆い隠す程度の長さのそれは、見慣れたというよりは、「一度見たら忘れない」類のものだ。
 その存在自体が稀有であるといって良かった。
 細身の長身も、黄金色に輝く髪も、類を絶する美貌も、誰もが「一度見たら忘れようはずがない」。
 今現在銀河帝国全土を実効支配する、唯一絶対の存在であるのだから。

 何故、こんなところに。

 脳内を占めるのは単純な言葉でしかなく、目撃した情報と、導き出される推論を、理性は拒絶したがった。
 だが、しかし。
 他に理由はあるのだろうか。
 男に肩を抱かれて暗闇に消える、真っ当な理由が。
 立ち止まり、気配を窺う。
 曲がり角の向こうは明るいようだった。
 店の入り口でもあるのか、広範囲にわたって淡く、闇の中申し訳程度に照らされる照明はピンク色で、場末の安ホテルか風俗のような印象である。
 耳を澄ませば、路地の向こうで靴が小石を踏む音がした。

 そこに、いる。

「……」
 だが、それだけだった。
 会話もなければ、それきり何の音も聞こえない。
 歩いているわけでもなく、ただそこに「佇んでいる」。
 すでに立ち去った後で、そこにいるのは別人かもしれない。
 人待ちしている、他人かもしれない。
 機械的に明滅する安いピンクの照明が地面を照らすのをただ見つめていたが、埒が明かぬとミュラーは意を決め顔だけ動かし、通路の向こう側を覗き込んだ。
 見間違えようもなく、瞬時に視界に飛び込んだのは主君の豪華すぎる金髪の、後ろ姿であった。
 コートを着ているが、軍用ではなかった。
 軍服ではないのに主君であるとわかるのは、その優美に過ぎる佇まいにあるのかもしれない。控えめな光沢を放つ黒のコートが、下品な照明を受けて淡く色を変えながら、呼吸に合わせてわずかに上下する。
 己が主君の見下ろす先、地面には平民と思われる男が倒れている。何事か、と、考える暇もなく、足が勝手に前に出た。
「げ…」
 元帥閣下、と声をかけようとして、躊躇った。
「ロ…」
 ローエングラム公と呼ぶなど、もってのほかである。他に呼び名を見いだせず、主君の前に姿を晒したはいいが、言うべき言葉が見つからず、ミュラーは口を閉ざした。
 何故出た。
 この状況は、主君にとって見られて嬉しいはずがない。
 振り返った若き美貌の主は、縁のある眼鏡をかけていた。ファッションでかけるようなものではなく、勉学にのみ勤しみ寝食を忘れるタイプの学生がかけるような、ステレオタイプな黒縁眼鏡である。
 服も、至ってシンプルな、学生が着るようなシャツにパンツ。
 明らかに、目立たぬように配慮されていた。
 いや、配慮はしていても隠しようがない蒼氷色の輝く瞳が、真っ直ぐにミュラーを射抜く。雷が身体を突き抜けるがごとき衝撃に、ミュラーは姿を晒したことを後悔した。
 美しい若者が怒りではなく、動揺とも呼べず、眉根をわずかに寄せ不快げな表情を見せたのは一瞬だった。
「ああ、ミュ…、いや、卿にこんなところで会うとはな。どうした。このホテルに用か」
 高級軍人を表す将官の軍服を着た人物の名を軽々しく呼ぶには、不釣り合いな場所であった。ミュラーと同じ理由でラインハルトもまた言葉を濁し、このホテル、と視線を向けることもなく吐き捨てて、眼鏡を外しコートの内ポケットへと放り込む。無造作に見える所作でさえ優雅であるのはもはや芸術でしかない、と、芸術家提督メックリンガーあたりであればそう評しただろう。もっと瀟洒で、豊かな表現を使ったに違いないけれども。
 路地の中にうらぶれたホテルの入り口、ピンクの照明付、となれば用途は非常に限られている。
 そこに倒れ伏す中年の男と、冷たく見下ろす比類なき美貌の青年。
 理解を拒否しようとする己の理性を叱咤しつつ、ミュラーは敬礼し、あえて気を失っている男を見やりながら、声を絞り出した。
「いえ。閣下…この男は、暴漢ですか」
「暴漢?」
 淡々と紡がれたその唇は皮肉げに歪んでいるが、それでも青年は誰よりも美しかった。
「こんな場所で絡まれたのなら、それは自業自得というものだな」
 もはや男を一顧だにせず、高く靴音を響かせミュラーへと歩み寄る姿は、学生といった体を為してはいるものの、ラインハルト・フォン・ローエングラム帝国宰相以外の何者でもなかった。
「閣下、一体」
 どうされたのですか、と、ミュラーが最後まで問う前に、ラインハルトの視線に阻まれ口を閉ざす。
「一人か」
「は…」
「卿は一人で、ここに来たのか。待ち合わせか?」
「…大通りに、ビッテンフェルト提督がおりますが、私だけで参りました」
「…なるほど、卿は私を追ってきたというわけか」
 言外の意味を察し、ラインハルトが頷いた。
「では見つからぬように、別の道から帰るとしよう」
「閣下、…親衛隊はどうなさいました?」
「別の通りに、置いてきた」
「は…?」
 瞬いた帝国軍最年少の最高幹部の一人を見やり、初めてラインハルトの唇に笑みが浮かぶ。
「暴漢は私だ」
「え」
「気にくわなかったので殴り倒した」
「それは、どういう…」
 無言でミュラーの横を通り過ぎ、来ただろう道をそのまま戻るラインハルトの後ろ姿を追う。角を曲がり際、気を失って倒れたままの男へ視線を投げ、なるほど未遂で良かったと、安堵したミュラーは前方へと視線を戻すが、すぐ至近にいた白皙の美貌と危うく鼻先がぶつかりそうになり、寸前で背を反らして衝突を回避した。
 慌てて一歩を下がり、「失礼いたしました」と謝罪すれば、表情を消したまま見つめていた若者は、小首を傾げて「なるほど」と呟いた。
 顔の動きに合わせて揺れる金髪は、薄暗い路地であるのに変わらず煌めき、一瞬現状の後ろ暗さを忘れさせる。
「どうやら卿は知っているようだ」
「…何を、でしょうか」
「私があの男とここに来た理由を知りたいか?」
 問いで返され、ミュラーは考えることなく「はい」と答える。
 教えてくれるというのだ、断る理由がなかった。
 ラインハルトはコートの内ポケットから黒縁の眼鏡を取りだし、かけてから再度ミュラーに向き直る。
「私は名もない一学生に見えるだろうか」
「…申し訳ございません、閣下以外のどなたにも見えません」
「私を知っている者はそうかもしれぬ。民間人ならどうか」
「…閣下と面識のない者ならば、あるいは…」
 ラインハルト・フォン・ローエングラムという人物の名も顔も、帝国どころか同盟にも知れ渡っているはずであるが、民間人にとっては遠い世界の話であり、突然目の前に現れたら、認識できない者もいるかもしれない。
 ミュラーにとって「ありえない」ことでも、他者にとっても「そう」であるとは限らないのだ。
 サイズが合っていないのか、ずり落ちてくる眼鏡の縁を引き上げて、一学生に扮する現帝国の独裁者は一つ頷く。
「気軽に声をかけてくる輩は存在した」
「…はい」
「そういうことだ」
「……」
 ミュラーは返答に困る。主君に対して礼を失していることは自覚していたが、ラインハルトの言をそのまま受け入れ、己が見た光景を合わせて考えれば、言葉にするにははばかられる内容になるのだった。
「ミュラー、言いたいことがありそうだな」
「…はい、俗な言い方をしてしまうことをお許しください。閣下のお言葉では、その…ナンパされ、ホテルへ連れて行かれそうになり、気に入らなかったから殴り倒した、ということに…」
「そう、その通りだ」
「閣下…!」
「正確には一緒に遊ぼうと誘われてついていき、ホテルの前で嫌だと言ったら、強引に連れ込まれそうになったので殴り倒した、ということになる」
「何故ついて行かれたのですか?」
「…いや、良い勉強になった」
「閣下!」
「私を誘って何をしたいのか興味があった。いきなりホテルとはな。ゆえに、抵抗した」
「閣下、御身を大事になさって下さい」
 子どもではないのだ。夜間に「遊ぼう」などと声をかける、その意味を知らないはずはないだろうと思う。
 入り口までは行った、ということがミュラーには驚愕すべき事態であったし、途中までは合意の上だったという事実がさらに恐ろしい。
 変装し、誰とも知れぬ民間人に声をかけられるのを待つ必要性がどこにあるというのだろう。
 最高権力者となったラインハルトは、自身の存在の重要性を自覚しているはずである。唯一の身を危険に晒してまで、民間人を相手にする必要はない。民間人が必要であるのなら、それこそ命令一つでいくらでも集めることができる立場にある。
 旧時代のように高圧的な権力の行使ではなく、穏便に済ませる方法もいくらでもあるのだから。
 素直に帰ると言ってくださって良かったと、心から思わざるを得なかった。
「…親衛隊の待機場所まで、ご一緒させて頂きます」
「真っ直ぐ戻る。付き添いは無用だ」
「閣下をお一人にすることはできません」
「私だって一人で出歩くことくらいあるが」
「…そういうとき、親衛隊は何を?」
「適度な距離にいる」
「…今日は、お一人のようですが」
「私人として古い友人に会う、と言った。目立たぬ格好をしてやれば文句は言われなかったが」
「…今日のことは、私だけの胸に秘めさせていただきます」
 嘆息をかみ殺しながら頷くミュラーに、ラインハルトは苦笑を漏らす。
「こんな事は、もうしない」
「はい、お願いいたします。寿命が縮む思いを致しました」
「おおげさだな」
 歩き始めたラインハルトは、もう振り返らなかった。
 付き従いながら、ミュラーは思う。
 ジークフリード・キルヒアイスが生きていても、こんなことをなさったのだろうか。
 我々が知らないだけで、奔放な所がおありなのだろうか。
 キルヒアイスだけが、知っていた事実なのだろうか。
 それとも…。
 ジークフリード・キルヒアイスを喪い、グリューネワルト大公妃を失った事に起因しているのだろうか。
 キルヒアイスなら、わかっただろうか。
 我らが仰いだ、ただ一人の主君の、行動の意味を。
 路地を抜け、中通りを抜ける。
 人通りの減った夜の街は、街灯に浮かび上がる建物の影と地面以外は闇に落ち、耳に入るのは靴音と呼吸音のみだった。
 白く伸びる息はすぐ風に紛れて溶け、前を歩く主君の金色に輝く髪だけが、唯一の道しるべのようだ。
 ショッピングモールの駐車場に、親衛隊の地上車が見えた。
 こちらの姿を認め、駆け寄ってくる数名の親衛隊を見やり、ラインハルトが振り返る。
「ここまででいい、ミュラー。済まなかったな」
「はっ。どうぞ、お風邪など召されませんよう」
「気をつけよう。そういえばビッテンフェルトが待っているのだったな。用があったのではないか?」
「はい、ビッテンフェルト提督のご友人のバーに、招待して頂いたのです」
「それは悪いことをした。時間を取らせたな、ビッテンフェルトにも詫びておいてくれ」
「かしこまりました」
 ミュラーへと向けられる親衛隊からの敬礼に返礼し、主君を見送る。
 毅然とした足取りで、地上車へと向かう後ろ姿は常と変わりなく優雅であり、誇らしいものだった。
 車内へと姿が消えるまでその場に立ち、不意にミュラーは思い出す。

 今日は、ジークフリード・キルヒアイスの誕生日ではなかったか。

「……」
 ヤケになる、とか、厭世だ、とか、負の感情はローエングラム公には似合わない。
 もうしないと言った、主君の強さを信じたいと思うのだった。
「遅い!」
 芯まで身体の冷え切ったビッテンフェルトに怒鳴られたが、両手の指を擦り合わせ、暖かい息を吹きかけながらだったので、怖さはなかった。ミュラーは思わず吹き出してしまい、ますます怒られた。バーへと向かう短い道中、浮気相手はどうだったか、しっかり叱ったのか等追求され、話を作るのに苦労するミュラーであった。


END

愛しき箱庭-後日談-

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