首都星オーディンの中でも田舎と呼ばれる地方都市の一つに、オーベルシュタインの館はあった。
数年前まで軍籍にあり辺境惑星を転々としていたが、執事夫妻の死と同時に退役して、隠居生活に入った。
夫妻の死に関わることになったフェルナーは、その時己の上官が人間ではないことを知ったのだったが、死か忘却かを選べと迫られ、どちらも選ばなかった。
上官の執事として雇ってくださいと言えば、日頃変化することのない鉄面皮がわずかばかり揺れ、人外であっても感情はあるのだと知ったのだったが、殺そうとしてくるので説得するのが大変であった、とフェルナーは思う。
物語の中にしかいなかった「吸血鬼」が、目の前に存在するのだ。
こんなに楽しいことはなかった。
また、傍近く安全な位置で観察していられる現在の立場に、満足してもいた。
上官として在ったとき、彼は人間として振る舞っていた。
いつ睡眠を取っているのかわからぬ顔色の悪さ、いつ食事をしているのか不明な仕事量、徹底的に他者との会話を省いた簡潔に過ぎる人間関係。
有能だったが、変人として名高かった。
だが人間と同じように太陽の下を歩いていたし、コーヒーを淹れて持っていけば飲んでいたし、会議や裁可など必要な時には必要最低限の会話もした。
上官が吸血鬼であったとしても、吸血されたという人間の噂がたったことはない。それらしき不審死の情報もなかった。
今まで上官と関わった人間の誰一人として、彼が人外の存在である、などとは思いもすまい。
変わった人間、という認識でしかないはずだ。
事実、上官は人間を襲ったりはしなかった。
彼の「食事」は、執事が用意していたのだから。
つまり、今のフェルナーの役目ということになる。
フェルナーもまた退役し、現在は都市部への中継地点にある軍病院の一般職員として勤務していた。
八時から十七時まで。
絵に描いたような規則正しさであった。
勤務内容自体は面白みの欠片もないが、重要なのは「病院」であることだった。
隣に血液センターを併設している為、集められた血液が集約する。
吸血鬼の主が必要とするのは全血だった。全血とは人間から取ったばかりの未加工の血を指す。
献血等により集められた血液は併設のセンターへ運ばれ、血液製剤に加工される。
その前に、失敬するのがフェルナーの仕事であった。
担当官と上官に金を握らせ、毎日大量に運ばれてくる中のほんの少しを分けてもらう。
未加工の状態であるから、データの改竄も楽なのだった。
とはいえ、ローエングラム体制になってからは監視の目が厳しくなっており、いつまでちょろまかすことが可能かは実際のところ不明である。
「というか、ローエングラム公に、血を融通してもらえるよう頼めば済む話じゃないか…」
主の館で我が物顔で寛ぐ、この国の独裁者の顔を思い浮かべた。
どこからどう見ても、人違いではありえなかった。
おまけに主の正体をご存じの様子。
まだ館にいるようならば、話をしてみるべきだろう。
旧貴族社会とは比べ物にならない程の公明正大さを売りに、権力を一身に集める彼の力を持ってすれば、フェルナーの苦労など一瞬で消し飛ぶだろう。
ローエングラム公に敵対した貴族はそのほとんどが没落したが、死に絶えたわけではない。
未だローエングラム公の権力の及びにくい地方では、残党どもが活発に活動していた。
この軍病院においても、院長・副院長が反ローエングラム陣営であったがゆえに失脚し、元々中立派であった外科部長が院長となっているが、残る職員も立場の違いから諍いを起こすことは日常茶飯事であった。
時代の変わり目であることは誰もが理解していたし、良い方向へと変わっていくことを期待してもいた。
波乱の時代だからこそ、主やフェルナーのような者が存在できることもまた、事実なのだった。
勤務を終え、手に入れた血液を持ってオーベルシュタイン邸のキッチンで主の「食事」を用意する。
午後六時。
オーベルシュタインにとっては朝食となるのだが、自分は下僕であるので主と食事を共にしたりはしない。
実のところ主が何時に起床しているのかは把握していなかった。
食事の時間はフェルナーの勤務時間に合わせたものであり、主からそれについて意見されたことはない。
物語の吸血鬼は「太陽の光が苦手」であるから、夜明け前に就寝し、日没とともに起き出すものだ。
だがわが主であるオーベルシュタイン閣下は、太陽の光などものともしない。
軍人時代は人間と同様の生活を送っていたのだから、反則もいいところであった。
今フェルナーの眼前で食事をする主は、皿に注がれた血液を、スプーンで掬って飲んでいた。
吸血鬼のイメージと違う。
人間の首筋に牙を立て、血を啜る夜族の姿はここにはない。
一見すればトマトベースのスープをただ飲んでいるようにしか見えず、前菜副菜、メインディッシュが出てこないのが不思議に思う程だ。
後ろに控えながらも、フェルナーは思う。
この目の前の男が、吸血鬼としての本性を現すところが見てみたい、と。
いいではないか。
化け物は、化け物らしく在れば良いのだ。
吸血鬼としての本能のまま、生きればいいのにと思うのだ。
己の本性を否定して生きるオーベルシュタインの在り方には全く共感できないが、この無表情の中にどれほどの葛藤があるのだろうと想像することは楽しかった。
退役してから、ただ無為に時間を浪費しているように見える吸血鬼の、心中やいかに。
「それは血か。吸血鬼の食事にしては優雅すぎるな」
ぎょっとして、フェルナーは視線を上げた。
僅かばかり視線を落とし考え事をしていた隙に、金髪の優美な後ろ姿がオーベルシュタインを覗き込んでいた。
扉が開いた音も気配もしなかったが、いつの間に、どうやって。
フェルナーの動揺など歯牙にもかけず、「血生臭い」と美しい顔を顰めて見せる青年に、オーベルシュタインは僅かに首を傾げた。
「何か、召し上がりますか?と言ってもワインくらいしかお出しできるものはございませんが…」
「後で頂こう。それにしてもよく固まらないな」
空気に触れれば即凝固を始めるのが血液だ。
どうせお前が何かしているのだろう、という目線を向けられ、フェルナーは一つ頷いた。
「抗凝固剤を使用しております」
「つまらん」
「…つまらんとおっしゃられましても、前執事時代からやっていることですので」
「がっかりだ」
「…はぁ…」
おそらく、いや絶対に、この類を絶する美貌の若者は、オーベルシュタインが人間に噛みついて食事をする風景を期待していたに違いない。
その思考の方向性、自分と同類かな?とフェルナーは思わないでもなかったが、口にする程無謀ではなかったので、内心で親近感を抱くに留めた。
食事を終えたオーベルシュタインにワインを注ぎ、ローエングラム公の為にグラスをもう一つ並べて注ぐが、彼はグラスを手に取ることはなかった。椅子に座ることさえしないことを疑問に思いはしたものの、それを問うのは己の役目ではない。
食器を片付け、キッチンへと下がる為に一礼して、扉へと向かう。
オーベルシュタインが話しかけた。
「閣下、今日は一日、どうお過ごしで?」
「適当に」
「左様ですか」
おいおい。終わりかよ。
もっとツッこんで聞けばいいのに、それでいいのかわが主。
「あの、誠に畏れながらオーベルシュタイン閣下」
つい口が出た。
どうしたと視線を向けられ、扉の前で振り返る。咳払いを一つして、フェルナーは居住まいを正した。
「ローエングラム公のことを、閣下とお呼びになることにしたのですか?」
「そうだ。フェルナー、卿もこの方のことは閣下と呼ぶように」
そういう大事なことは、最初に言ってほしいものである。
フェルナーは殊勝に頷いた。
「…畏まりました。ではオーベルシュタイン閣下のことは、旦那様、とでもお呼びしますね」
「それでいい」
「ではローエングラム閣下、これからお出かけの予定でもおありでしょうか」
「何故そう思う?」
水を向けられ、闇に落ちた窓外から視線を戻した薄氷色は無感情だ。
「何故も何も。…小官は二十二時にはお暇させて頂きますので、ご用があればそれまでにお願いいたします」
「なかなか図太い男だな」
「お褒めにあずかり光栄です」
「きさまもオーベルシュタインも、実に可愛げがない」
「恐悦至極にございます」
彼は帝国の独裁者のはずだが、フェルナーの態度に気分を害する様子はなかった。
表面的な部分にこだわることのない在りようは、わが主であるオーベルシュタインに共通する美点であるように思う。
呆れたようなため息を零しつつも、咎めるわけではなく、ただ煌めく金髪を揺らしてフェルナーの元へと歩き出す。
身構えたが、彼はそのまま横を通り過ぎ、扉に手をかけオーベルシュタインを振り返った。
「吸血鬼の食事風景を見に来たのだが、期待外れもいいところだった」
「それは申し訳ございません」
「出かけてくる」
「いってらっしゃいませ」
扉が閉まり、豪奢に過ぎる気配が絶えた。
まさか、と思いすぐさま扉を開いて廊下を覗くが、右にも左にも、美しい青年の姿はない。
どういった理屈で可能なのだろう、と思いはしたが、それよりも今は重要な事柄があるのだった。
「閣下…じゃない、旦那様」
「何だ」
「あの方、いつまでご滞在で?」
「…さぁ、不明だ」
「いやでも、帝国宰相はご多忙では?」
「それはそうだろう」
「この近辺に別荘でもお持ちとか?」
「それは知らぬ」
「……」
謎は深まるばかりであった。
あ、血を融通してもらう話を忘れた、と思ったが、それは次に会った時にでも話せばいいかと一人納得し、食堂を辞すのだった。
午後九時半。
主の館を辞す前に、一通り見回りを済ませるのもフェルナーの業務の一環である。
午後六時に主へ食事を供し、下げた後は己の食事を簡易に済ませてキッチンや居間、食堂、書庫、主の部屋と客室を掃除し、雑事を片づければちょうど良い時間になる。
使用しない部屋は手が回らないので手つかずだが、無駄な物は一切ない館であるので、掃除自体は楽で助かった。
書庫が大変なくらいであるが、一日で端から端までやるのは不可能であり、主も細かいことはとやかく言わないので、数日かけて掃除をしていた。
ちょうど一巡して綺麗になった書庫を最初に見回りの対象として地下へ下り、扉を開ければ、正面のソファに眩く輝く存在があった。
脚を組みソファに身を預ける様は優美の一言であり、書類の束を読む青年の金髪が、ランプの明かりを受けて煌めいている。
闇の中浮かぶ光は幻想的であり、一瞬現実を忘れさせた。
これ、人間なんだよな。
フェルナーはどこか遠い気分でそんなことを思いながら、どう声をかけるべきか逡巡した。
仕事中のように見えるが、邪魔をしていいものか。
己の性格からすればらしくもない遠慮が浮かび、扉の前で立ち尽くす。
薄氷色の瞳が持ち上がり、静かにこちらを捉えるのを見やって、安堵のため息が漏れそうになるのをかみ殺した。
「閣下、いつお戻りに?」
向こうから話しかけるきっかけを作ってくれて助かった、と思う。
「ついさっきだな。…ワインは持って来なかったのか」
「閣下がいらっしゃることを知っていたら、お持ちしたんですが。…持って参ります」
「今日は白がいい」
「御意」
早足でワインとグラスを用意して戻ると、書類と思しき束はサイドテーブルに置かれ、青年の手には分厚い本があった。見えたタイトルは「民俗学における個と社会」である。
なるほど、と思いはしたものの口にはせず、サイドテーブルにグラスを置いて注いでやれば、男にしては美しい曲線を描く指先でグラスを持ち上げ、口元へと運ぶ。
計算しつくされた俳優の演技よりも、自然であり優雅であった。
これ、本当に人間だよな?
一笑に付される未来しか予測できず、フェルナーは人類の不公平を思った。
ボトルをテーブルに置くと、不満そうな瞳に見上げられた。既視感があった。
「手酌で飲めと?」
「小官にも生活がございますので」
全く同じ台詞のやり取りをすれば、青年は軽く息を吐いて笑ったようだった。
「まぁよい。きさまはここの本は読むのか?」
「いいえ、小官の興味を引くようなものは一冊もございませんから」
「そうか。おれも民俗学など興味はなかったんだが」
これはこれで興味深い、と呟く声音にはどこか生真面目な響きがあった。
わが主の由来でも調べていたのだろうか、と思い、疑問に思っていたことを問うてみた。
「…旦那様とはどこでお知り合いに?」
「きさまは辺境惑星で部下だったとか」
「ああ、はい。そうです」
「あいつは人間として偽って生きることも可能な、器用なばけもののくせに、ばけものは嫌だと言う」
「…はぁ」
「おれになんとかしてくれと、泣きついてきた」
「え…えぇ…?閣下…いえ、旦那様がですか」
「笑えるだろう」
「いや…笑えはしませんが…」
そんな事実があったとは驚きだった。
ローエングラム公に助けを求めたのか。
フェルナーは目の前の青年を人間だと信じて疑っていなかった。
帝国一の権力者ならば、わが主を救う方法を知りえるのだろうか、と思う。
わが主が求める救いとはすなわち、死である。
彼がどのくらい生きているのか、フェルナーは知らなかった。
前執事は、夫婦で五十年仕えたということは聞いていた。
その前は前執事の父親で、その前も父親だった。
代々オーベルシュタインの秘密を知りながらも、仕え続けた家系なのだった。
前執事夫妻には子供がなく、手記の類も一切残されていないことから、どれくらい前から主が存在し、執事家系が仕え続けているのか知る術はない。
系譜を辿ることはできても、オーベルシュタイン家との繋がりはわからなかった。
オーベルシュタイン家はと言えば、現当主パウル・フォン・オーベルシュタインの年齢は三十六歳、退役准将となっている。
パウル・フォン・オーベルシュタインが違和感なく存在し続けられるよう、系譜は巧妙に改竄されていた。
惑星間を転々とし、かつての知り合いに会うことがないよう、戻るとすれば知り合いが完全に死に絶えた後、といった具合に、徹底的に人間として生きていた。
フェルナーが知る主は軍人であったが、それが主の全てではない。
大貴族ではなく、貧乏貴族でもなく、ごくありふれた中流貴族として、目立たぬように存在している。
現在住んでいるこの館は、百年ほど前に購入したという話であった。
生きることに、とうの昔に飽いているのだろうことは気づいていた。
何故今この時代に軍人になったのか、おそらく死に場所を求めてでもいたのだろうと推測するが、本人に直接聞くことはできていない。
せっかく面白い存在に出会えたのに、と、フェルナーは思う。
死に体の前執事夫妻を目の前にしても、彼は眷属にしようとはしなかった。
老齢だったから?
なるほど、それは理解できる。
だが自らも傷を負い、再生に力の大半を割いている最中ですら、せめて血を吸って自らの力に変えればいいのに、そうはしなかった。
前執事夫妻は吸血されることなく、人間のまま死んだ。
命を繋ぐ為の最低限の食事すら厭う様子を見せる主は、死にたがっている。
おそらく何百年と生きているだろうわが主を、殺す術がローエングラム公にはあるのだろうか。
術があるとして…と、フェルナーは思う。
化け物らしく生きて散ってくれるのならばまだしも、己は主の死を、望んでいるのだろうか。
「…閣下は、旦那様をなんとかする術をお持ちで?」
正直に問えば、自信に満ちた輝く相貌を向けられた。
率直に言って、眩しい。
なんだこれ、本当に人間か。
「ある」
「あるんだ…どういった手段を?」
「きさまが知ってどうする?」
「それはそうですが、気になります」
「今は準備段階だ」
「そうなんですか…」
教えてくれる気はないようだ。
だが、吸血鬼を殺す術がある。
死にたがっている主の望みが、叶う日が来るのだった。
では己にできることと言えば。
主の死を、この目で見届けることだ。
それまでは死ねないな、と思う。
腕時計を確認し、長居したことを知る。
「申し訳ございませんが閣下、そろそろ失礼させて頂きます」
「そうか。…オーベルシュタインに挨拶するのだろう?」
暇を告げる言葉に、反対はなかった。
ただ問われ、頷く。
「はい、それはもちろん」
「ではこれを返しておいてくれ」
サイドテーブルに置かれた紙の束を掴んで、渡された。
仕事じゃなかったのかと思いながら受け取り、何気なく表紙を見れば、「ポピュリズムの台頭とメディア・リテラシーの必要性」とあった。
主の直筆のようだったが、文筆活動をしているというよりは、思考を文章としてまとめている風である。
「構成は悪くない。簡潔かつ的確だ。ポピュリズムが台頭しているのは事実だが、今後も拡大するかという点にはいささか疑問を呈する」
「はぁ…」
「メディア・リテラシーの必要性については同意する。今後貴族どもに媚び諂っていたメディアも変わらざるを得ないし、実際に変わってきている。多様なメディアの出現は不可避である。生存競争というやつさ」
「ええ…」
「他にもあるなら見せろと言っておけ」
「御意ですが、これはもしや、勝手に拝借したものでは…?」
「机の上にあったから」
「…いやいや…」
勝手に持ってきて読んじゃダメでしょ、と相手が子供なら諭すところだ。
まぁ、ローエングラム公だから許されるか。
わが主が怒ることもないだろうし、言えばむしろ喜んで差し出すことだろう。
「畏まりました。では、失礼いたします」
扉を閉めて、フェルナーは思い出す。
あ、また血を融通してもらう話を忘れた。
もういいか。
融通できなくなったら、相談しよう、そうしよう。
現状まだ困った事態にはなっていない。
主に挨拶を済ませ、さっさと帰って熱いシャワーでも浴びよう、と思うのだった。
「……」
全く、あの男は存在自体がやかましい。
一気に沈黙が落ち静かになった地下室で、グラスを傾ける「天使」は無言で闇の落ちる書庫を見た。
ぼんやりと陽炎のような白い影が二つ、頼りなさげに揺れている。
フェルナーが入ってくる前から「それ」はそこにあり、じっと静かにこちらを見つめていたのだったが、フェルナーは気づかなかったようだ。
膝の上に乗せていた本を閉じ、グラスをサイドテーブルに置いて、身体をそちらへと向け話しかけた。
「何をさまよう。未練など、捨ててしまえ」
『……』
二つの影の存在は儚かった。
今にも消えそうなほどに擦り切れている印象があり、長い間その姿で存在し続けていたのだろう弱弱しさである。
「喋れぬか。ならば無用の長物だ。…伝えたいことがあるのならばその存在を振り絞れ。ないのなら、失せろ」
「天使」の言霊に押され、影が一瞬大きく揺れた。
『…た…す…ケ…テ…』
「何を助けろと言う?」
『……』
呻き声が響く。
眉を顰めたが、それは嗚咽を漏らしているようだった。
「おれが聞く気になっているうちに、話すがいい。悪いようにはせぬ」
窓外で聞こえる木々のざわめきの如き雑音交じりの儚さに、根気と集中力を要したものの、影の語る物語に耳を傾け、「天使」の夜は更けていく。
数日を経て午後九時半。
居間にはローエングラム公とオーベルシュタインがソファに向かい合って座り、フェルナーはワインの給仕に徹していた。
共にワイングラスを持ってはいるものの、会話らしい会話はなく、金髪の若者は紙の束へと視線を落としており、この館の主は読書をしていた。
暖炉の薪が時折パキリと音を立て、火の粉を散らす以外に音らしい音と言えば、二人が紙をめくる音だけである。
フェルナーは欠伸をかみ殺しきれずに涙目になったものの、咎められることはなかった。
ローエングラム公は神出鬼没であった。
気づけば館のどこかにいた。
大抵は書庫にいるか、居間にいた。
フェルナーがこの館にやってくるのは夕方からであり、館の主が起床するのも夕方頃のはずであるので、日中彼が何をしているのか、この場で知る者は誰もいない。
帝国宰相であるので、おそらく宰相府に赴き仕事をしている…と思われるのだが、宰相府があるのは首都であり、ここから車で飛ばしても二時間はかかるのだった。
毎日往復四時間をかけて、やってくるだろうか?
それともやはり休暇中で、近くの別荘と行き来しているのだろうか。
ニュースを見てみれば、連日新しい政策や法案の成立など、独裁者の裁可が必要であろう事柄を数え上げれば枚挙に暇がない。
辺鄙な田舎まで、悠長に往復している暇はないように思える。
フェルナーですら思う当然の疑問を、主は全く気にしていない風なのも気になった。
主は人外の存在であるが、在り方は人間と変わらない。
生活時間と、食事が多少違うだけで、出歩くこともなく静かにこの館で暮らしている。
引きこもりの主は大人しく、口やかましくもなく、退屈だけれども非常に執事としての仕事はやりやすい。
翻ってこの人間離れした美貌の若者は、気づけばいるし、気づけばいない。
まるでこちらの方が人外の存在のようであった。
今も、と、フェルナーは思う。
不意に顔を上げて壁際を見つめる表情に、色はない。
無機物を見やるかのような視線だったが、そちらには何もないのだ。
「…閣下、何か気になることでも?」
問えばオーベルシュタインも顔を上げて、青年を見る。
二人に見つめられ、美しい顔をもう一度壁際へと向けて顎を上げ、指をさした。
「見えぬか」
「…は?」
「え、何がですか?」
二人揃って壁際を見つめてみるが、何もない。
同時に青年へと視線を戻すと、あからさまに落胆のため息をついて見せた。
「フェルナーはともかく、オーベルシュタイン、きさまそれでもばけものか」
「…面目の次第もございませんが、何か?」
オーベルシュタインの無表情は崩れなかったが、見えない何かには興味を引かれたようだった。
再び紙の束へと視線を落とした若者の、緩やかなウェーブを描く金髪の頭頂部を眺めていれば、ややあって面倒くさそうな声が上がる。
「弱い二人組の亡霊だ」
「霊…?」
「うへぇ、マジですか、そんなのここにいるんですか」
「消えかけているがな。きさまを案じているのだ、オーベルシュタイン」
「…私を?」
聞いたフェルナーが軽く手を打った。
「ああ、前執事夫妻ですかね。長く仕えてらっしゃったのでしょう?旦那様」
フェルナー自身は死に際の夫妻の姿しか知らないが、代々主に仕えた家系の者なのだ。
主を案じても不思議ではない。
主にワインボトルを差し出せば、無意識の仕草であろうグラスを差し出し、考え込む様子を見せた。
「不幸な事故だった。思い残したことはあるのだろうが」
「優しい方達だったんですね」
「……」
「閣下、夫妻は浄化できそうなのですか?」
「じき消える。もう力はない」
「そうですか」
時計を確認すると、フェルナーの帰宅時間が迫っていた。
幽霊の話をこのタイミングでするとは、絶対嫌がらせに違いない。
己が取り憑かれたり付きまとまれたりする可能性はなさそうなのが救いではあったが、見えない者の存在など薄気味悪いというのが正直なところ本音である。
「小官、そろそろお暇する時間なのですが…」
「ああ、呪われないよう気を付けろ」
「あぁあ…呪われたらいいのにって思ってらっしゃいますね、閣下…」
「ははは、まさか」
「……」
冗談だと思いたいところだった。
オーベルシュタインに暇を告げて、ワインボトルをテーブルに置く。
どこか上の空に見える主だったが、「気をつけて帰れ」と、らしくない言葉をかけられ背筋が寒くなった。
「やめてくださいよ、旦那様。いつもは「わかった」の一言じゃないですかぁ」
「…そうだったな」
「…いえ、大丈夫です。今日は走って帰りますので。では、失礼いたします」
フェルナーが辞した後、二人がどのような会話をし、どのように過ごしているのか、知らなかった。
ローエングラム公は客室を使っている形跡はなく、本当に滞在しているのかも疑わしい。
周囲を見回してみても、車が待っている様子もない。
本当に、不思議な存在だった。
宣言通り走って自宅へと向かうフェルナーが、「天使」の言葉を聞くことはない。
「呪われているのは、きさまだ。オーベルシュタイン」
突き刺さる言葉に、常になく動揺を見せる主の姿もまた、確認することはなかった。
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