特にこれといった事件もなく、日々は過ぎていく。
 ローエングラム公の神出鬼没ぶりにも随分と慣れ、おおよその滞在時間は把握できるようになってきた所であった。
 フェルナーがいる間に姿を見せない時でも、深夜にはふらりと現れオーベルシュタインに顔を見せてから書庫へと赴くらしい。
 その時にはワインボトルを一本持ち出し、手酌で飲んでいるようだ。
 フェルナーがいる間は、居間にいて給仕をさせるか、やはり書庫で一人読書をしていることが多かった。
 オーベルシュタインと積極的にコミュニケーションを図ろうという気はないようで、オーベルシュタイン自身も自ら積極的に話しかけにいくことはない。
 立場としてはこの館の主と客分であるはずだが、その関係性は主従のようにも見える。
 無論、この館の主が従であった。
 休日の昼間に、館を訪ねてみたことがある。
 普段日の高いうちにこの屋敷へ足を踏み入れることはないのだが、ローエングラム公がどう過ごしているのかが気になったのである。
 いるのか、いないのか。
 預かっている鍵で勝手知ったる様で足を踏み入れ、居間の扉を開ければ何故か主が起きており、書き物をしている手が止まってこちらを見る目は絶対零度の剣の如し。
 慌てて予定外の訪問を詫び、目的を話せば主は「そうか」とただ頷いた。
「彼はいないようだ」
「そうなんですか?…旦那様、もしかして日中起きてらっしゃいます?」
「睡眠時間は四時間あれば足りる」
「えっ…朝から起きていらっしゃる…?」
 衝撃の事実を知ったのだったが、かと言ってフェルナーにも仕事がある以上、朝から執事業務は不可能であった。仕事を辞めることは主が許さないので、仕方がないことである。
「ローエングラム公は、日中はいらっしゃらないのですか?」
「いないな。外出しているようだ」
「宰相の仕事をしていらっしゃるんですよね?」
「そうかもしれぬな」
 何事にも動じることなく淡々としている主にしては、歯切れが悪い。
 コーヒーを所望されたので用意し、静かに味わう主の横顔を見つめながら、思い切って問うてみた。
「旦那様、気になっていたのですが、彼は本当にローエングラム公でよろしいのですか?」 
「…よろしいのですか、とは不可解な問いをする」
 いつぞや「天使」に聞き返されたのと同じ台詞でオーベルシュタインは返したのだが、そのことを知る由もないフェルナーは、戸惑いの色を隠すことなく浮かべてみせた。
「疑っているわけではないのです。あんな顔…いえ、失礼、あのような方が二人といらっしゃるとは思えませんし」
「……」
 書き物へと向かっていた視線をフェルナーへ向け、ペンを置いたオーベルシュタインは立ち上がって、テレビのリモコンを手に取った。
 無言のままニュースチャンネルに合わせると、今まさに話題の人物が白のマントを翻しながら颯爽と歩く映像が流れている。
 黒地に銀の軍服は、彼の為に誂えたかのようによく似合い、風に揺れる金髪は豪奢に陽光を受けて煌めいていた。
 真白い空間にぽつりと立つ慰霊碑に向かって敬礼すれば、背後に控えた軍服の群れがそれに続く。
 壮観にして、壮麗であった。
 軍人らしく無駄のない動きで踵を返した銀河帝国の独裁者が、用意された壇上へと歩く様は一枚の絵画のように美しい。
『本日十時より行われた戦没者慰霊式典において、宰相ローエングラム公爵が式辞を述べられました』
 ニュースを読み上げる女性アナウンサーの声は、抑制され落ち着いているが、瞳に入る熱は隠しようがなかった。
 今やローエングラム公はこの国の英雄である。
 帝国中がこのニュースを見ていると言っても過言ではない程に、人気と注目度は群を抜いていた。
「式辞を述べているこの方、あの方ですか?」
 指示語の乱立に己で気づきしまったとフェルナーは思ったものの、主は一瞥をくれただけで特に指摘はしなかった。
 質問に対する答えもなく、再び椅子に座って書き物を始める主の背中を見、テレビを見る。
 式辞の内容自体に興味はなかったが、音楽的なまでに流麗なその声は、間違いなくこの館に出入りしているローエングラム公のそれであり、聞き間違えようも見間違えようもないものだ。
「首都からわざわざ片道二時間かけてここまでいらっしゃるというのなら、旦那様はとても大事にされていらっしゃるんですね」
「……」
 化け物への興味がそうさせるのだろうか。
 気持ちはわかる、と思うし、殺す術があり準備段階であるとも言ったこの元帥閣下は、助けを求めたわが主を律儀に気にかけているということだった。
「夜は大抵こちらにいらっしゃいますが、何時にお帰りになっているのですか?」
「私の就寝時にいることは稀なようだ」
「まるで愛人の元に通う為政者のようですな」

「妄想もたいがいにしろ、痴れ者が」

 フェルナーは、背後から蹴られ蹌踉めいた。
 危うく膝から崩れ落ちるところを寸でのところで踏みとどまり、背中を押さえて振り返る。
 テレビの中にいる絶世の美貌が、不機嫌も露に腕を組んで立っていた。
「閣下…え、いらっしゃったのですか?」
「いたら悪いか」
「えっ…え?」
 テレビで式辞を述べている人物と本物を見比べる。
 眼前の人物は軍服ではなかったものの、そっくりであった。
 主を見れば、主もまた書き物をする手が止まり、突然現れた金髪の青年を見つめている。
「てっきり式典が終わっても、別の仕事がおありかと」
 姿勢を整えつつ繕うフェルナーに極寒の視線を無言で投げつけ、ローエングラム公はテレビの前へと歩み寄り、式辞を述べる己を無表情に眺めやる。
 まるで式辞の出来を第三者の目線で評価しているかのようだと思ったが、「これがどうした」と呟いて、呆れた視線を向けた。
 この青年は、ローエングラム公なのか。
 フェルナーもオーベルシュタインも、疑問をあえて口にはしなかった。
「…閣下、今日のご予定は?」
 オーベルシュタインが問えば、「いつも通りだ」と淡々と返るので、フェルナーは思わずツッコミを入れた。
「日中にいらっしゃるのはお珍しいと聞きましたが」
「はぁ?おれがいついようが関係なかろう」
「確かにそうですが」
 あ、いつも通りの閣下だ、とフェルナーは思った。
「そういうきさまこそ、日中は仕事ではないのか?」
「そちらは休日でして、旦那様と閣下の様子を窺いに」
「執事の鑑だ、と言ってやりたいところだが、詮索が下品に過ぎる」
「…いや、まさかいらっしゃるとは思いませんで…」
「ふん」
「コーヒーでもお持ち致します」
「頂こう」
「御意…」
 ソファに長い足を投げ出すように腰を下ろした青年は、肘置きに体重を預けて頬杖をついた。
 茫洋とテレビを見つめる瞳にこれといった感情はなく、向かいのソファにオーベルシュタインが腰かけても、視線を投げるだけで言葉はなかった。
「ご自分とそっくりの姿がテレビの中にある気分は如何か」
「何だ?感想を求めているのか?そんなものはないぞ」
「左様で」
 ニュースは賊軍の残党による、爆破テロのアナウンスへと移っていた。
 主に辺境惑星でそれは起こっており、すぐに鎮圧され関係者は逮捕されているものの、やはり犠牲者は出ている。
 事前に察知し制圧している数の方が多いというから、五百年にわたる貴族政治の根深さは相当なものだと言えよう。
「それで?今書いているテーマは何か」
 机の上に置かれた紙の束のことを指しているのだろう、青年の瞳はきらきらと、興味を持って輝いている。
「アビリーンのパラドックスについて」
「具体的には?」
「今回の貴族連合軍…賊軍のシンギュラリティは何処にあったか」
「シンギュラリティ?古臭い比喩だ。斉一性の原理で片がつきそうなものだが、なるほどな」
 渡されたコーヒーカップを流れるような動作で持ち上げて、口元へ運ぶ。
「それで、きさまの専門は何なのだ?」
「…さて、私は学者ではございません」
「伊達に長く生きているわけではないということだな」
「無駄に長く生きているだけですな」
 薄氷色が見つめる先、オーベルシュタインの表情は凪いでいる。
 自虐のつもりはなく、事実を述べただけのようだった。
 背後に控える下僕は興味深そうな視線を己が主に向けていた。
 ここの主従関係は、尊敬だとかそういう純粋なもので繋がっているわけではないらしい、と思う。
 一口飲んだコーヒーをテーブルに戻して、こちらの動きを観察していた下僕を見上げた。
「ミルクが足りない」
「…は」
「砂糖はいらぬから、ミルクをよこせ」
「…あぁー…旦那様は砂糖もミルクもご使用になりませんので、砂糖はともかくミルクは…」
「ないのか」
「申し訳ございません。何でしたら今から買いに行って来ますが」
「あぁ…いや、もういい。コーヒーは今後不要だ」
「御意」
 ミルクがないとコーヒーが飲めないなんて、とフェルナーが思ったかどうかはさておき、口を付けただけでほとんど残されたコーヒーを回収し、ワインを用意しようと手を伸ばしたが、片手を上げて制された。その仕草は命令慣れした人間のそれであった。
「これはこれで構わぬ。ここで出された物は、飲む」
「…ご立派でいらっしゃいます」
 ローエングラム公ラインハルトでなければ、これは一体誰だというのだ。
 流れ続けるニュースはすでにおススメグルメに変わっていたが、午前中に首都郊外で慰霊式典に参加していたというのなら、正午に差し掛かった現在時刻に彼がここに存在するはずがないのだった。
 目の前の青年も、主も、何かを隠していることは察したものの、問うたとして正答が得られる可能性は低い。
 己は人間であり、部外者だからである。
 その事実に思い至ることはさほど難しいことではなかったが、最後まで…主の最期を見届けるまでは、素知らぬ振りを続けるしかないだろうことに気づいてもいた。

「オーベルシュタイン」
 
 名を呼ぶ声は、覇者の強制力を持っている。 
 フェルナーは青年の纏う空気が変化したことを感じ、知らず姿勢を正す。
 主もまた、姿勢を正し覇者の言を待っていた。
「もうすぐだ」
「御意…」
 簡潔に用件のみを告げ、誰にも真似のできない流麗な仕草でコーヒーカップを持ち上げる、美貌の若者を二人は見つめた。
 
 時は近い。
 
 オーベルシュタインの死が、すぐそこまで迫っていた。

 

 
 
 その日は雲一つない快晴であった。
 春を過ぎ、初夏と呼ぶにはまだ少し早い時節、芽吹いた緑は色濃くし、吹きゆく風は熱を帯び始めて爽やかとは言い難い。
 夏物の服を出すには早計で、コートを脱ぐには朝晩の冷え込みはまだ残る。
 もどかしくはあれども、日々夏へと向かっていく季節を感じることが出来る頃でもあった。
 フェルナーは病院へと出勤し、朝礼時に「さるやんごとなき御方」が視察に来られる旨の通達を受けた。
 曰く、「この軍病院は地方と首都部を繋ぐ重要な医療拠点であるから、ぜひ視察をしたいということで来られるが、通常通り業務を行うように」とのことであった。
 職員の控室にも同内容の張り紙があったが現院長の名が記されており、誰が来るかは記載されていなかったが、どこから漏れたのか、数時間後には誰もがその「やんごとなき御方」の正体を知っていた。
「おい、金髪の孺子が来るそうだ」
「誰だそりゃ」
「金髪の孺子と言えば、あいつだよ、ラインハルト・フォン・ローエングラムだ」
「帝国宰相閣下じゃないか。お前そんな呼び方、不敬罪に問われるぞ」
「成り上がりの貧乏貴族だ。あいつのせいで妹の嫁ぎ先はお取り潰しになったんだ。妹は家に帰ってきてよ、毎日泣いて暮らしてるんだぜ」
「ああ…反ローエングラムってやつか…ていうか、そんなこと大声で言うなよ…俺まで罪に問われたらどうしてくれる」
「外ではこんなこと言わねぇよ…おいフェルナー、お前も言うなよ。いつからいたんだよお前」
「…ついさっきだねぇ…言わない言わない。真面目に働きましょうや」
 重要な医療拠点であることは事実であったし視察が来るのはわからないでもなかったが、当日通達されるというのは不可解な話であった。
 院長周辺には事前通達と打診があったはずであり、院長は中立派であるので喜んで応じたのだろうことは容易に想像できる。
 宰相閣下のお墨付きをもらえれば、箔がつく。
 通常、日程が決定次第職員には通達があって、より良く見せる為に視察までの期間は掃除に力を入れたり、職員の勤務態度を良くしようであったりの訓示があってしかるべきだろう、と思う。
 それが当日通達とは。
 落ち着かず浮ついた気配の漂う院内を歩きながら、フェルナーは二種類の反応を確認した。
 素直に宰相閣下の視察に緊張する者。
 悪意を持って毒づく者。
 表立って態度に出すような人間は、問題ない。
 文句を言うだけで実際に行動に移すことはできない人種であるからだ。
 では表に出すことなく、闇に紛れて生きる不平分子はどうか。
 …当日通達になったわけを、理解できた気がした。
「さて、無事に終わるのかな」
 自分だけは生き残る、という根拠のない自信があった。
 だが生き残る為には、できる限り面倒な所には近寄らないことが必要だった。
「視察に来るローエングラム公は、本物かな?」
 疑う余地はない。
 軍服集団を引き連れて、大人数でやってくるに違いない。
 主の館にやって来る、ローエングラム公にそっくりの若者は、やはりローエングラム公にしか見えないのだけれども、同一人物か否かの判断は未だにしかねている。
 あんな人間が二人といてたまるか、と思う。
 影武者か。
 双子か。
 それにしても似すぎているし、主が助けを求めた彼は確かに支配者のにおいがするのだった。
 帝国宰相の彼を直接目の当たりにすれば確信を得るか、とも思うのだが、近づくのは危険な気がした。
「こういうときは何と言うのだったか、…ああ、くわばらくわばら、と言うんだったか」
 触らぬ神に祟りなし。
 護衛が山ほどやってきて身動き取れなくなる前に、血液センターで血液をもらうついでにサボタージュを決め込もう。
 フェルナーは本日の勤務日程にセンターへの用事を入れて、病院を抜け出した。

 

 
 
 午前十一時。
 オーベルシュタインは居間のカーテンを僅かばかり開いて、窓外の空を見上げて双眸を細めた。
 文句のつけようもない青空にため息をつき、カーテンを閉める。
 陽光の下でも死なないとは言え、不快なものは不快であった。
 分厚い遮光カーテンを引いてしまえば室内には闇が落ちたが、真紅の瞳の前に闇は妨害の役目を果たさない。
 苦もなくビューローへと歩み寄り、上部天板を引き出しデスクに変えて、ランプに明かりを灯す。
 オーク材のダークブラウン素材はしっとりと落ち着きがあり重厚で、ここで書き物をすることが多かった。
 引き出しにしまっていた紙を取り出しデスクへと置くと、紙はわずかに曲がっていた。
 まるで手に取りめくって読んだかのような跡があり、オーベルシュタインは僅かばかり瞳を細め、唇は笑みとも呼べぬ微かな歪みを齎した。
 かの「天使」は、オーベルシュタインの思索を辿ることに興味を持っているかに見える。
 死に逝く者への情けなど、眩いばかりの存在である彼が持ち合わせているとも思えないが、これが何らかの意味を持つというのなら、オーベルシュタインの生もまた、無意味なものではなくなるのかもしれなかった。
 オーベルシュタインが「吸血鬼である己」を自覚した瞬間は、凄惨であった。
 己の周囲には夥しい量の血液があった。
 血の海、と呼ぶにふさわしい朱に染まった狭い地下室には、魔力と呼んでいいのかもわからぬ力の残滓と、大量の人間だった者達の肉片が転がっていた。
 何が行われていたのか当時の己に理解は及ばなかったが、今ならばわかる。
 円環と三角の陣を敷き、「何か」を喚んだのだった。
 己が何故そこにいたのかは未だ持って不明であるが、一人生き続けている以上、何者かが「何か」と交わした契約が関係しているのだろうと予想はしている。
 「本物の悪魔」がやって来たというのなら、贄として差し出されたのは肉片と化した人間達であったのだろう。
 当時と同じ「悪魔」を召喚できれば己の存在理由を問うこともできたのやもしれぬが、今更詮無きことである。
 もうじき、「天使」によって己の望みは叶うのだった。
 書きかけの紙の束を勝手に読んだのは彼でしかありえないが、途中であることに申し訳なさに似た、座りの悪さを感じる。
 できることなら死ぬまでに完成させておきたいところだが、さて、どうか。
 紙をめくり、最後のページを開く。
 ペンを取り書き込もうとして、手が止まった。
 
『シンギュラリティはかくありき』
 
 彼からの問題提起は比喩的である。
 それの答えはもう、出ていた。
 
『特異点はラインハルト・フォン・ローエングラムに集約する。これから起こる政治、経済、あらゆる分野におけるイデオロギーの進化は旧帝国を塗り替える』

 書き込んだ所で、背後から覗き込む気配を感じ、振り返る。
 どこから現れたのか、もはや問うまい。
 見つめる薄氷色の瞳は、満足気に細められた。
「Quod Erat Inveniendum(これが求めるべきものであった)」 
「閣下」
 オーベルシュタインは傍目にわかる程度には、驚いて見せた。
 「天使」は、軍服を着用していたのだった。
 白いマントが闇の中、ランプの明かりを受けて浮かび上がる。
 覗き込んでいた上半身を起こし、白皙の美貌に笑みを刻んで、青年は緩やかに首を傾げた。
「さぁオーベルシュタイン。面白いことになった」
「…面白いこと、とは?」
「来るがいい。そして、選べ」
「……」
 右手を差し出し、掴めと言った。
 嫣然と笑む青年に、「天使」と呼ぶべき清冽さはない。
 帝国元帥として見せる凛とした彼でもなかった。
 最初に出会った瞬間の、震えるような甘さを持った、それは誘惑と呼ぶべきものだ。

「きさまの生き様、見届けよう」

 差し出された手を、オーベルシュタインは無言で取った。
 
 
 
 
 
 瞬きをする間に、空気が変わったことをオーベルシュタインは実感した。
 自宅の居間にいたはずが、今は崩れ燃え落ちる建物の中にいる。
 熱風が頬を打ち、火の粉が舞って呼吸する肺が痛んだが、離された手の先には、腕を組み平然と立つローエングラム公の姿があった。
 マントも髪も風に煽られ靡いているが、熱も火の粉も彼には届かないかのようである。
「…ここは」
 他に言葉を見出せず、現実感の欠いた現実を見回した。
 赤く燃え上がる炎は壁と床を舐め、急速に勢いを増して廊下を埋め尽くさんとしている。
 足元には赤黒く崩れた塊があり、押し潰すように扉であったものが圧し掛かっていた。
「足を取られるなよ。こっちだ」
 隣から聞こえる声は、まるで薄衣を通しているかのようにどこか遠い。
 咳き込むオーベルシュタインの前に立ち、彼だけはこの状況の影響をまるで受けていないかのように歩き出す。
 粉雪のように降り注ぐ火の粉は、彼のたなびくマントをすり抜けた。
 ガラスの割れた窓の外から、怒号が飛び交い、悲鳴が響く。
 遠くで人々が走り回り、救助を行っているのだろう大声が聞こえるが、この周辺だけは異様な程に静かであった。
 廊下を突き当たる手前の部屋の扉は、開いていた。
 迷うことなく中へと入る青年の後ろ姿に続いて足を踏み入れ、オーベルシュタインは言葉を失った。
「…フェルナー」
 研究室の一つと思われるそこは、壁一面に棚が置かれていたことがわかる。
 熱で溶け変形したそれらはいくつも倒れ、歪んで人々を下敷きにしていた。
 天井にはめ込み式の照明は細長く溶けた飴のように変形して垂れ下がり、炎にまかれて赤黒く燃えている。
 デスクの下にとっさに避難したのだろうオーベルシュタインの下僕は、歪んで折れたデスクに腹を貫かれ、下半身は燃えた書類と落ちてきた照明の一部に焼かれて変色し、床に夥しい血を流しながらうつ伏せになっていた。
 歩み寄り、跪く。
 喘鳴が聞こえ、息があることは理解したものの、もはや救う術はない残酷な事実をもオーベルシュタインに突き付けた。
「フェルナー」
 呼びかければ、視線の定まらない様子で首を動かし、血を吐いた。
「動くな」
 言えば笑みの形に口元を歪め、「何故」とだけ、咳き込み荒く息を吐きながらも問うた。
 答えられずに眉を寄せれば、黙して傍らに立っていた青年もまた、膝をついて隣に並んだ。
 こんな状況であっても、彼の美貌は一欠けらも損なわれない。
 赤く照り返す光と熱を受け、細めた双眸から覗く薄氷色に感情の色は見えず、まるで精巧な彫像が在るかのようだ。
「…今なら、助かる」
 呟く彫像の声はどこまでも静かで優しかった。
「きさまなら、可能だ」
 囁く声は炎にまかれることもなく、鼓膜へ届く。
「ここへ連れてきた意味は、わかるだろう?」
 選べと彼は言った。
 下僕を救いたければ、眷属にするしかない。
 ばけものの、仲間入りだ。
 こちらを見つめる彫像の瞳には、相変わらず色がなかった。
 フェルナーを救う為に連れてきたはずなのに、彼の囁きには優しさが溢れているというのに、感情がなかった。
「死んだら生き返らせることは不可能だ」
「……」
「死者の行くべき世界は定められている。それはおれでも覆せない」
「……」
「間に合わなくなるぞ、オーベルシュタイン。選択せよ。きさまは何を選び、何を捨てるのか」
「…かっ、か…」
 喘鳴の隙間から漏れ聞こえる声は微かで弱く、オーベルシュタインは一歩、近づく。
 ばけものであるので、聴覚は人間よりも遥かに鋭く、どんな物音であっても聞き取ることは可能であった。
 フェルナーの鼓動が、止まりかけている。
 視力を失ったのであろう男は、僅かに首を傾げるようにして、主の居場所を探るような仕草をした。
 投げ出された手を取ってやると、安堵したように細く息を吐く。
「…ぎょ…、ぎょいに…」
「フェルナー…?」
「したがい、ます」
 オーベルシュタインはばけものだった。
 下僕を仲間にすることも、殺すことも容易くできるばけものだった。
 フェルナーは主の最期を見届けるつもりでいたが、先に死ぬハメになるとは予定外だと思う。
 理不尽だ、とも思う。
 逆恨みして、時流にも乗れず、無関係な人間を巻き込んで殺害するしか能のない、愚者どもを呪う。
 死ぬのか、と思うと、逃れる手段はないのかと考える。
 主と同じばけものとなるのも、悪くはないと思った。
 サボタージュを兼ねて血液センターに避難してきたというのに、テロの標的は血液センターであったらしい。
 元からそうだったのか、変更が入ったのかは知る由もない。
 ただ爆破を準備していた不逞の輩は存在し、今日この日、実行した。
 それだけなのだろう。 
 ついてない。
 本当についてない。
 ローエングラム公が病院に着いたことは、すぐにわかった。
 黒塗りの地上車が何十台も連なって、駐車場へ入って来るのを廊下から確認した。
 病院と血液センター周辺を護衛と思しき軍服が取り囲み、中まで入ってきて隅々まで安全を確認していた。
「ローエングラム公、病院に入ったってよ」
「こっちにも来るのかな?いつも通りっていう話だったけど、通りかかったら挨拶くらいするべきか?」
 そんなくだらない研究員の会話を聞き流していた時だった。
 下から突き上げるような、轟音と衝撃があった。
 次いで、上から下へ落とされるような感覚と揺れがあり、落下衝撃で天井が崩れ始めた。
 建物全体が激しく揺れ出し、壁面の棚という棚が倒れてきたのでデスクの下に身を隠し、やり過ごそうとしたが甘かった。
 デスクの強度はそれほどでもなかったらしく、上から天井が落ちてきて、真っ二つに折れた。
 腹に衝撃を受け、次いで息ができなくなった。
 そこからしばらく意識を失っていたようで、今目が覚めたら主がいた。
 その隣には、不可思議な気配を纏うローエングラム公の姿もあるようだった。
 視界は闇に閉ざされているというのに、彼がいると思しき場所には光があった。人の形をした、美しい光。
 何故だろう、などと考える余裕はもはやなかった。
 耳鳴りがひどく反響する脳内に、ぼやけた二人の話し声が聞こえ、ローエングラム公は主に選択を迫っているのだった。
 どちらでもいいですよ。
 いや、どっちかっていうと、化け物になってみたいかも。
 だって楽しそうじゃないですか。
 小官だったら、主のように引きこもったりせず、化け物としての生を謳歌してやりますよ。
 それでローエングラム公と敵対し、華々しく散るって、かっこ良くないですか?
 まぁその時は自分、化け物なんで、せいぜいあがくだけあがいて、クールに死んで見せますよ。
 華を持たせて差し上げます。
 うっかり殺しちゃったらすいませんね。
 銀河帝国の英雄、救世主を殺しちゃう化け物もまた、伝説級にクールというものでしょう。
 だからね、オーベルシュタイン閣下。
 どちらでもいいですよ。
 ああでも、死にたくないなぁ。
 主の最期を見届けて、「オーベルシュタイン閣下はとても素晴らしい主でした」って、弔辞を述べるのが最近の夢だったんですけどね。
 素晴らしいかって?
 まぁ、退屈な主でしたけど、吸血鬼なんてレア中のレアな存在に数年とはいえ仕えることが出来たんで、満足ですよ。
 弔辞でべた褒めして差し上げるくらい、朝飯前です。
 オプションで涙もつけてさしあげます。
 ローエングラム公はきっと呆れて、冷たい視線で突き刺してくるんでしょうけど、それもまた楽しいじゃないですか。
 だからね、閣下。
 執事夫妻の時のように、苦しまなくていいんですよ。
 
 
 

 
「…それがきさまの選択か」
 淡々と問うてくる声は事務的であり、そこに感情は一切含まれていなかった。
 力の抜けた下僕の手を床に置き、オーベルシュタインは目を伏せる。
「御意…」
 決断をした。
 取る道は、これしかなかった。
「後悔はないか」
「ございません」
「理由を聞こう」
「私が…」
 数年仕えた下僕から流れ出る血は、端から乾きかけていた。
 建物が崩れかけているのだろう、バキバキと壁が割れる音、遠くで天井が落ちる衝撃音が聞こえてくるが、すべては遠い世界のようだった。
 この周囲だけは、静寂が落ちている。
 己の精神状態が平常時とは異なるからなのかもしれないし、「天使」がなんらかの力を行使しているせいなのかもしれないが、判断はつかなかった。
 一つ分呼吸を置いて視線を上げ、フェルナーの頭頂部を見つめる。
 瓦礫と化した天井やデスクの破片が飛んで、いくつも髪に絡まっていた。
「私が人間であれば、どの道彼は助かりません」
「…だがきさまは吸血鬼だ」
「生物の多様性を論じるには、私は吸血鬼でいることに飽いている。ばけものは、私一人で十分と考えます」
「きさま一人ではないかもしれぬ」
「あなたがここにいらっしゃる時点で、それは説得力を持つお言葉ですな」
 ばけものと呼ぶには美しすぎるモノだったが。
「オーベルシュタイン」
「ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムによって銀河帝国が建国された頃から私は生きておりますが、様々な惑星に赴き、ばけものを探しました」
「……」
「探し続けて得た結論は、以前あなたが言ったように、信仰とともに人間が駆逐し尽くしたということです」
 五百年探して、ばけものは見つからなかった。
 ならば己が異端であるのだと、何故己が「そう」であるのかと、意味を探し続けて、飽いてしまった。
 諦めたと言ってもいい。
 フェルナーならば、己とは違ったばけものの生き方をするのかもしれない。
 だが己は死ぬ。
 隣に並ぶ美しい「天使」によって、殺されることが決定しているのだった。

 ばけものを一人遺して行くことは、死を求め続けた己の五百年を否定することである。

「許せ、フェルナー」
 卿を見捨てる主を、恨んでくれてかまわぬ。
 前執事夫妻にそうしたように、オーベルシュタインは静かに詫びた。  
「…なるほど、そうか」
 密やかに呟いた「天使」の声は、硬質な水晶のごとき冷たさであった。
 視線を上げ、「天使」を見る。
「時は来た」
 音もなく、涼やかな風を纏い立ち上がる「天使」の姿は、炎の中でも溶けることのない氷の彫像のようだった。
 
「きさまの望みを、叶えよう」

 ただ感情を一切排し押し殺したその言葉に含まれるさざ波のような揺れを、オーベルシュタインは聞き逃さなかった。


最終話

ないものねだりとあるものさがし -03-

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