「きさまが人間であった頃の記憶はあるか」

 地下室にランプを灯し、ソファに腰かけ肘置きに頬杖をつく金髪の若者は、今までと変わりなく、ワインボトルとグラスをサイドテーブルに用意して、手酌で注いで飲んでいた。
 これから死に逝くオーベルシュタインにも情けのつもりか手ずから注いで、手渡してくるのを受け取りはしたものの、口を付ける気もなくオーベルシュタインは首を振る。
「いいえ」
「そこにいるモノは、相変わらず見えぬのか」
 顎をしゃくって書架へと視線を向ける様に続いて見やるが、そこに見えるのは闇に落ちた空間だけである。
 再度首を振れば、「天使」はそうかと頷いて、表情を改めた。
「何故ばけものになったのかは?」
「存じません。おそらく何者かが「悪魔」と契約したのだろう、というくらいしか」
「何故「悪魔」は召喚されたと思う」
「…は…?」
「信仰とともに人間に駆逐されたのは、ばけものだけではない。「悪魔」もまた、信仰とともに在ったものだ」
「……」
 「天使」の言わんとするところを察し、オーベルシュタインは紅の瞳を僅かばかり開いて見せた。
「理解したか」
「あなたが、召喚に応じた理由と同一のものですか」
 目の前の彼は満足そうに瞳を細め、ワイングラスを傾けている。
 彼はこう言ったのだ。
 
 ばけものの血と存在で、おれを喚んだか、と。
 
「では…」
「ばけものは他にもいたということだ」
「……」
 見つからなかったばけものが、存在した。
 オーベルシュタインは視線を落とし、血液に似た色のワインをただ見つめるしかできなかった。
「しかし…では、そのばけものは」
「死んだ」
「……」
「贄となった」
「贄」
「おかげできさまのような歪なばけものができてしまった」
「……」
「哀れなオーベルシュタイン」
「…閣下」
 言葉とは裏腹に、「天使」は楽しそうに笑んでいた。
「きさまの殺し方を考えていた。私にはやるべきこと、やらねばならぬことが多すぎる」
 一人称の変化に、気づいた。
 黙して見つめれば、グラスのワインを飲み干してサイドテーブルに戻し、再度頬杖をついてどこか遠くを見やる姿には憂いがあった。
「だが久々の自由は楽しかった。束の間だったが」
「…ローエングラム公」
「違うな。ラインハルト・フォン・ローエングラムは首都にいて、ここにいる私は束の間の夢に過ぎぬ」
「夢、ですか」
「彼が見る夢。もしくは精神と呼ぶべきもの。本体と言ってもいいが、精神と肉体は果たしてどちらが優位であるか」
「どちらをなくしても個を維持できますまい」
「正論だ」
 姿勢を改め、彼は薄氷色の瞳に真摯な色を湛えて、オーベルシュタインを射抜く。
「神は人と語り合わぬ。天使は望みなど叶えぬ。ならば「何」であるか。そのどちらでもなく人でもなく、ばけものでもない私が」
 オーベルシュタインは黙して美しい唇から放たれる言葉を聞いた。
 「天使」だと思っていた彼自身の口から、「天使」であることを否定されたのだった。

「私だけが卿の望みを叶えてやれる」
  
 自らの胸に手を置き、口端に笑みを刻む。薄氷色の瞳は、今爛々と輝いていた。
 見入られたように、身体の自由が利かなくなった。
 ワイングラスが手元から転がり落ち、石床の上に儚くも高く悲鳴にも似た音を上げて破片が飛び散り、赤黒い染みを作る。
 
「立て。来い、ばけもの。卿が求めるものを、与えよう」

 右手を差し出す美しい貌に浮かぶ笑みは、禍々しい程に艶やかに、見る者全てを思いのままにする魔があった。
 誘われるままに立ち上がり、覚束ない足取りで傍らへと侍れば、双眸を細め笑みを深めた。
「楽にしてやろう。解放してやろう」
 自らのシャツの襟元を無造作に引っ張り、白い首元を晒す青年が囁く声は愛しげだったが、表情は酷薄だった。
 オーベルシュタインの喉が鳴る。吸血鬼の本能だった。
 
「さぁ、私の血を吸うが良い吸血鬼!私をきさまの一部とせよ!」

 逆おうという意志すら持ちえず、晒された首筋へと手を伸ばす。
 強制の力と言葉は強かったが、オーベルシュタインの襟元を掴んで引き寄せ、開かせた口から覗くばけものの牙を撫でる指先は優しいものだ。
「来い」
 言霊に逆らうことなく、首筋に牙を立てた。
 己の意志で、初めて吸血をした瞬間だった。
 皮膚が破れ、溢れ出す血は力に満ちて甘い。
 喉元に食らいつく吸血鬼の頭を抱き込むようにして、美しいモノが笑った。
「…もっとだ。まだ、足りぬだろう…?もっと、…っ」 
 後頭部を押さえつけるように添えていた彼の指先が震えた。
 喉を通る極上の美酒に酔うが如く、身体を抱きしめる腕に力が入った。
 もっともっとと押し付けられ、人間であればとうに貧血で昏倒してもおかしくない程の血を啜った。
 細胞の一つにまで染み渡るかのような力は、熱を持って身体中で疼いている。
 人間ではありえない力の波動があり、自由が利くようになったオーベルシュタインは呆然と身体を離して床に跪いた。
 牙の後も生々しく、血の滴る首筋を指先で軽く撫で傷口を消し去って、笑んだ表情のまま彼はオーベルシュタインを見下ろした。
 視線が絡み、唇を拭いながらオーベルシュタインは口を開く。
 これで死ねるのか、と問おうとしたが、不可能だった。
「…ッ…!」
 身体中を内側から針で刺されたような痛みが走り、眉を顰める。
 ついで内臓を食い破られるのではないかと思う程の、激しい痛みで息が詰まった。
 それは身体中に蟲が暴れまわっているかのような薄気味の悪さを伴った。
 さらに焼けるような熱と痛みへと変化して、毛穴という毛穴から黒煙が滲み出す。
 脂汗などこの五百年で流した記憶もなかったが、額を流れ背を流れて服を濡らす。呼吸が乱れた。
「…っこ、れは…」
 身体を起こしていられず、両手を床についた。
 流れ出す黒煙は、目の前の青年へと流れ込んでいた。
 見下ろす薄氷色は水晶を砕いて光で透かしたかのように煌めいている。
「…痛いか?それはすまないな。卿にとって、私の血は毒も同然」
「…毒…」
「中を巡って、力を根こそぎ奪っているところだ」
「…そんなことが、」
 可能なのか。
 いや、現に身体中の力が抜け、顔を上げることすら困難になりつつあった。
「呪われしばけものの力、悪くない…ふふ」
 唇を舐め、悦に入る青年の、滑らかに心地よく響く声音が、跳ね上がった。
「ふふふ、あははははは!終わらせてやる。かわりに、全て頂こう」
 高らかに笑い、ソファから立ち上がる。
 暗い地下室に光が満ちた。
 鈴のような澄んだ音が鳴り響き、俯き蹲るオーベルシュタインの眼前に、輝く白い羽根が落ちた。
 全身の力が抜け、床に倒れこむ寸前視界に飛び込んできたのは、青年の背後に光り輝く眩い翼だった。
 複数、あった。
 六枚ですらなく、もっと美しく、もっと輝くその羽根は十二枚あった。
 
 聖なるかな、聖なるかな。
 
 教会の鐘の音が、聴こえた気がした。
「…あなたは、…ル…」
「そう思いたければ、好きにすればよい。神は語らぬ。天使は望みなど叶えぬ。だが私は卿の力と引き替えに、望みを叶えよう…我が名は」
 聞こえなかった。
 光に呑まれ、オーベルシュタインは意識を手放した。
 
 
 
 

 冷やりと、手に触れる何者かの気配に気づき、オーベルシュタインは目を開けた。
 ランプの明かりも何もない、闇だけがそこにあったが、指先に視線を向ければ白く浮かび上がる朧げな影がある。
「……」
 喉が乾燥してひりつき、言葉は出なかった。
 身を起こすと、二つの影は今にも消えそうな薄暗さを持って揺れ、棒のようなもので向こうを示され、眉を顰める。
 それがおそらく指さした腕であろうことに気づいたのは、示された先を見た後だった。
 まるで映画を観るように、淡く光るスクリーンの中映っているのはおそらく己であった。
 生命維持を目的とする医療器具に囲まれ、ベッドに繋がれた哀れな死にぞこないの姿がそこにあった。
 意識など、とうにない。
 生まれた時から両目は見えず、義眼であった。
 身体が弱く、外出もままならぬ少年は、本だけが友人であった。
 齢十にして全身の機能を失い、寝たきりになった。
 心肺機能も停止し、自発的に生命活動を行うことができなくなった。
 医療器具で無理やり命を繋ぐことを選んだ両親は、ベッド脇に立ち泣いていた。

 オーベルシュタイン家が絶えることが悲しいか。
 自分達よりも、先に子が死ぬことが許せぬか。

 輪郭も朧げな二つの寄り添う姿の顔の判別はつかなかった。
 己自身が、両親の顔を覚えていないからかもしれなかったが、そこに哀惜の感情は生まれなかった。
 父親が、「すまぬ」と泣いた。
 母親が、「もっと強い子に産んであげられたら」と詫びた。
 息子を救う方法を、医療以外に求め始めたのは、親心というものなのだろうか。
 占術、降霊術、錬金術。
 思いつく限りの方法を試し、最後に残ったのが魔術であったのは、オーベルシュタインと同様だった。

 馬鹿馬鹿しい、という思いがあっても、他に方法がない。
 
 二十年以上をかけて魔術に辿り着いた両親は、すでに正気ではなかったのかもしれない。
 円環と三角形を、人間の血で敷いた。
 当時の屋敷の狭い地下に折り重なるように倒れる人々は、両親と執事が集めた贄なのだろう。
 一礼して執事が部屋を辞し、残された父親が円環の中心に立ち、本を抱えて呪を唱える。
 母親は扉の前、移動式のベッドに寝かされたオーベルシュタインの隣に立ち、行方を見守っていた。
 
 「悪魔」は、現れた。
 
 山羊のような頭、零れ落ちそうな大きな眼球を持ち、足は獣、鳥の羽根が背中から生えていた。
 一見すると女のようであるが、声は地の底より響くような男のものだった。
 父親は震えながら願う。
 
 息子を、太陽の下自由に生きさせたい。
 
 息子の現状を涙ながらに説明する男の姿を嘲笑とともに眺めた「悪魔」は、契約を交わしたのだった。
 「きさまの血をくれてやれば、容易いことよ」とソレは言った。
 おそらくほとんど薄れて消えかけてはいるものの、父は吸血鬼の血を引く末裔であったのだろうと、オーベルシュタインは理解した。
 己はばけものの血と共存できず、人間としても脆弱であった為に、健康に成長できなかったのだとこの時悟った。
 父親が頷いた瞬間、オーベルシュタインを除く全ての人間が息絶えた。
 父親も、母親も、倒れ伏していた者達も全てが贄として供された。
 そこから先は、己が生きた五百年分の記憶があった。
 
 理解した。
 
 白く朧げな二つの影はまさに消えようとしていた。
「…ずっと、傍にいたのですか」
 こんなはずではなかった、と、後悔したに違いない。
 後悔したからこそ、死にきれずに今まで残っていたのだろう。
「ようやく私は、解放されました」
 両親だった影達は、頷いたようだった。
 緩やかに闇に溶け、やがて何も見えなくなった。
 
 
 
 
 
 意識外で、ドンドンと何かを叩く音がして、オーベルシュタインは目を覚ました。
 叩かれているのは自室のドアのようだったが、しばし思考が現実把握に時間を要し、ただ目を瞬く。
 業を煮やしたように「失礼します!」と声が上がり、乱暴に室内へと踏み込んでくるのは見慣れた下僕の姿であり、「何事か」と不機嫌を表す無数の刃を言葉に乗せて投げつけようとした寸前、違和感を覚えた。
「…何故」
 何故アントン・フェルナーが生きている。
 無意識に、ベッドシーツを握りしめた。
「……」
 視線を落とし、首を傾げる。
 何故己はベッドに寝ているのだろう。
 己の寝床は棺であり、ベッドで眠ることなどここ数年はなかったことだ。
 無表情で固まったまま動かぬ主に歩み寄り、フェルナーはため息交じりに「旦那様、おはようございます」と頭を下げた。
「…フェルナー…」
「ああ、おっしゃりたいことはよくわかります。小官も何故生きているのか不思議に思いながら病院のベッドで目覚めました。退院までたった三日、擦り傷切り傷、打ち身があったくらいで健康そのものでございます」
「……」
「どうやら旦那様も、あの方に救って頂いたご様子。鏡をご覧頂くのが早いと思います」
「……」
「小官が見たことないほど混乱なさっているようで面白…、いえ、申し訳ない限りなのですが、今午前十時でして、居間にローエングラム公がお待ちでいらっしゃいます」
「…は?」
「帝国宰相ローエングラム公ラインハルト閣下が、お待ちでいらっしゃいます」
 同じ言葉を二度言われ、オーベルシュタインはようやく目が覚めた心持ちがした。
「何故?」
「それは小官にはわかりかねます。急ぎ、ご用意を」
「…あぁ…」
 本当に寝ぼけているかのような覚束ない様子の主だったが、ベッドから降りバスルームへ向かう足取りはしっかりとしていた。
 フェルナーは服を用意し、主が顔を洗って戻ってくるのを待つ。
 鏡を見たら、驚くことだろう。
 闇の中でも深紅に輝いていた禍々しい瞳は、その色を変えていた。
 化け物らしい血の色をしていたモノが、つまらぬ色になってしまったとフェルナーは思ったが、自身が思っていたより落胆はなかった。

 生きている。
 しかも、おそらく人間として。
 
 化け物から人間になったなんて、物語の吸血鬼にもいなかった。
 吸血鬼はいつだって悪者で、最後は人間に殺されて死ぬ運命なのだった。
 それが、生きている。
 こんなに面白いことがあるものか。
 これから主は、五百年の化け物人生を捨て、たった数十年ぽっちの人間の生を生きるのだ。
 主の葛藤を思い、ほくそ笑む。
 面白い。
 とても、楽しい。
 都合良く自らも生き残ることが出来たし、ローエングラム公がやって来た理由はおそらく一つだ。
 退屈から解放された人生を、歩むことができそうだった。
 居間に入れば無言で「遅い」と圧力をかけてくる、絶世の美貌はすでに見慣れたものだった。
 オーベルシュタインはまず詫びて、ローエングラム公と周囲にいる人間の多さに僅かばかり眉を動かした。
 視線の動きを見て緩やかに曲線を描く金髪を揺らし、「親衛隊と、こちらはジークフリード・キルヒアイス上級大将」と白い手を向け紹介し、互いに敬礼を交わしてオーベルシュタインも自ら名乗り、青年の正面ソファに腰かけた。
 すぐにフェルナーがコーヒーを持ち、テーブルに置いて部屋の端へと下がる。
 ローエングラム公の前にもコーヒーが置かれていたが、今回はきちんとミルクが用意されており、ポットは空になっていたので全部コーヒーへと注いだのだろうことが窺えた。
「本日は、どのようなご用件で」
 切り出せば、銀河帝国の独裁者が弓引くように口角を上げ、美しく微笑んだ。
「卿の見識を見込んで、どうだ、私の部下にならないか」
「…は…」
「優秀な部下が必要だ。早急に」
「…閣下」
「そちらのフェルナーは卿直属としてつければよい。文句はなかろう?」
 視線を向けられ、フェルナーは恭しく一礼をした。
「ありがたき幸せ」
「ですが、何故私に」
「やりたいことでもあるのか?」
「…さて、今はまだなんとも」
「ならば構うまい。それに、約束をしただろう」
「…約束、とは?」
 後ろに侍らせた軍服達に見えないよう、無言で青年はただ笑んだ。
 覇者のそれではなく、「天使」が見せるものでもない笑みは、魔と呼ばれる類のものだ。
 
 全て頂くと言った。
 
 唇の動きだけで言葉を紡ぎ、返答に間が開いたオーベルシュタインに今度は覇者としての笑みを向けた。
「卿の働きに期待している」
 コーヒーカップをテーブルに置いて、軽やかに青年は立ち上がる。
 青年より先に親衛隊が動いて前後を挟み、赤毛の上級大将が背後についた。
 終始眉を顰めて物憂げな表情を見せる若い上級大将は、ローエングラム公の腹心として有名だ。
 視線を向けられ見返せば、会釈をされた。
 オーベルシュタインもまた会釈で返し、ローエングラム公を見れば、軽く首を傾げていたずらっぽく案じて見せた。
「人間は容易く死ぬ。気を付けよ」
「お気遣い、痛み入りますな」
 精神と肉体が一体となった目の前の青年は、この館に出入りしていた頃と変わりなくそこにあったが、おそらくもう神出鬼没に行ったり来たりはできないだろう。
 契約は、完了したのだ。
 不思議な夢を見ていたのかもしれぬ、と、らしくもなくオーベルシュタインは思い、だが人間となった己を感じるたびに、ばけものであった頃を思い出す。
 
 彼は間違いなく私にとっては「救いの天使」であった。
 
 人間としての寿命があと何年あるのかは不明であるが、残りの生を彼の為に捧げるのも悪くはなかろう。
 彼が目指す先は、宰相などで留まるものではないだろうから。
 ばけものとしての生をゴールデンバウム王朝で終え、人間としての生をローエングラム王朝で生きるのだった。


Ende

ないものねだりとあるものさがし -最終話-

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