間接照明を主に据えた控え目な光源の中、壁一面の窓から見下ろす神室町の夜景は煌びやかで美しい。
  小規模なレストランの様相を呈する瀟洒な店内は、一枚板で作られたカウンターに六席、通路を挟んで窓際に二人がけのテーブルとソファが七組並べられており、二十名で満席になるここには現在、客席の半分程が埋まっていた。
  時刻は二十時過ぎであり、開店より二時間が経過していたが、この店が満席になることはまずない。
  料理が不味いというわけではない。
  この店は元々レストランではなく、カウンター席正面に鎮座まします酒瓶の群れは、バーであることを示していた。
  表立って宣伝をしていないことを示すように、玄関扉に店名表示のプレートはない。かといって会員制でもないここは、客の口コミのみで成り立っているバーだった。やっていけるのかと要らぬ心配をしてしまうところだが、満席になることはなくとも客足が絶える事はなく、それなりに繁盛はしているようだ。
  ネットや雑誌に取り上げられることもなく、客層は口が堅く上等であり、常識的だった。
  酔って暴れる者など見た事はなかったし、ケンカ沙汰も同様にお目にかかったことはなく、誰もが節度を保って酒を嗜み会話を楽しむ。
  一人客のみで構成される店内はだが、静かな会話で満たされていた。
  ここでは気兼ねなく見知らぬ他人に声をかけることが許される空間だった。
  邪魔されたくなければその旨告げれば、しつこく絡んでくることはない。それが暗黙のルールである。
  目の前にスイカベースの一風変わったカクテルを置かれ、谷村は軽く礼を言ってグラスを取った。
  カウンター向こうの正面に立ちにこやかな笑みを浮かべるマスターは、五十代半ばで人の良さそうな容姿をしていた。嫌味はなく、笑顔も自然だ。苦労多き人生を送ってきた事を知っていたが、それを感じさせないおおらかさがあった。
  歳の功というやつか、人間性のなせる技か。
「マー君、一課に異動になったって聞いたよ。忙しいんじゃないの?」
  谷村のことを「マー君」と呼ぶ人間はそれほど多くない。家族に近しい付き合いを長年してきたからこそ許される呼び名というやつだった。当然の如く受け入れて、谷村はため息混じりに頷いた。
「忙しいよ。おまけにこうるさい大先輩もいるからサボれないし」
「通りで最近見かけないと思ったんだ。皆心配してるよ」
「大丈夫。何とか生きてるから」
「顔見せてあげてよ」
「ああ、近いうちにね」
  生活安全課にいた頃は、神室町内を自由に闊歩する権利があったが、今はない。
  一課は花形部署だが多忙を極める。
  制約も多く、不自由を強いられる。
  だが谷村は日々充実していると感じており、そう思うようになったのは警察と東城会を揺るがす事件に関わってからだと自覚していた。
  己の周囲の環境は激変し、己もまた激変した。
  …とはいえ内実それほど変わってはいなかったが、心境の変化があったことは事実である。
「今日はゆっくりできるの?」
  接客の落ち着いたらしいマスターが、ゆったりとした調子で店内を見回しながら尋ねて来る。
  穏やかな店内の雰囲気と、客の様子に満足しているようだった。
「うーん…そうだなぁ…明日も出勤だからなぁ」
「大変だね。飲みすぎないようにね」
「気をつけるよ。適当に帰る」
「そう」
  ロースハムと野菜の乗ったプレートを提供してくれ、谷村は礼を言う。
  酒も飯もマスターの奢りだった。
  瀟洒なバーで一人酒を飲む趣味は持ち合わせていなかったが、この店は別だ。
  家族に会いに来る感覚で、たまに訪れては最近どう?と言葉を交わし、店内の様子を傍観する。
  声をかけられることはしょっちゅうだが、マスターがさりげなく間に入って止めてくれるおかげで面倒なことにはならずに済んでいる。
  マスターが知り合いじゃなければ、この店には来ないなぁと谷村は思う。
  二十代と思しき人間は己のみであり、他は中高年の紳士である。
  上等なスーツを着こなし、物腰は柔らかく、笑みは深く教養を感じさせる。
  たまに場違いな一見客がやってくるが、そういう輩は疎外され二度とこの場にやってくることはない。
  格、というものがあるとすれば、この店は上等な部類に入るのだろうと思われるが、いかんせん堅苦しく窮屈だった。
  クラブなどの軽い雰囲気の方が、ずっと気楽で溶け込める。
  余り長居する気はないが、マスターが暇な間は話をしてくれるので気づけば一時間以上居座っているということも一再ではない。
  腹も満たされたし、いい具合に酔いも回ってきたし、そろそろ帰ろうかなぁとカクテル最後の一口を飲み干した所で、玄関扉が開いた。
  オーク材で出来た扉は重厚であり、開けたところで音はしない。
  だが空気の流れでそれを察し、谷村は見るともなく入口へと視線を流す。
  入ってきた男を認めて、瞠目した。
  ライトグレーのスーツの上下に、臙脂のシャツ。胸元はラフに開かれ覗く胸筋は鍛えられておりしなやかだ。
  歩く姿は堂々と、長い足で大股に店内を横切っていく。
「…いらっしゃいませ」
  カウンター内から掛けられる静かな声に、男は僅かに目を細めて視線を向けた。
  流され捉えられたマスターの身体が、瞬間硬直したのを谷村は見逃さない。
  おだやかな表情を崩す事はなかったが、それ以上言葉を発することの出来ないマスターに興味をなくし、スーツの男は切れ長の瞳を瞬きと共に正面へと移して、ソファ席へと歩き出す。
  店内の視線は全て男に注がれていた。
  長身で、鍛えられた身体。だがシルエットはスマートだった。
  無表情に近かったが、その視線は強い。それを魅力的と取るか、恐ろしいと取るか、それとも生意気と取るかは相手の生き方次第だった。
  目立つ男だった。
  若くはないが、年齢を感じさせない存在感にその場にいた誰もが圧倒された。
  静まり返った店内を気にすることなく、男はエナメルの靴で絨毯を踏む。
  二人がけソファの一つに歩み寄り、壮年の男に何事かを話しかけた。
  声は低く艶があり、良く通るが内容までは聞き取れない。
  短い会話の後、壮年の男は何かを受け取り、立ち上がる。
「ありがとう」
  深々と一礼し、スーツの男を置いて歩き出す。
  レジへと向かうマスターと、支払いを済ませる男を見やり、スーツの男もまた退店するためだろう、歩き出した。
  カウンター席を通り過ぎようとしたその腕を、谷村は取る。
  鋭く睨み下ろされた視線が、瞬間で見開かれた。
「…お前…谷村?」
「こんな所で会うなんて、運命ですね桐生さん」
  運命?と首を傾げる姿に、笑ってしまう。
「まぁまぁ、ちょっと飲みません?俺奢りますよ!あんま金ないけど!」
「いや、俺は」
「隣どうぞ。マスター、何かよさげなヤツ、ご馳走してあげて」
「…マー君、お知り合い?」
「うん、親しくさせてもらってる。だからお願い」
「かしこまりました。…お客様、どうぞおかけください」
「…マー君?」
  不可解な表情をした桐生に、笑いかける。
「マスターは家族みたいなもんかな。付き合い長いんで。桐生さんも呼びたければいいですよ?マー君って呼んでくれても」
「遠慮しておく」
「そう言うと思った。俺も桐生さんにマー君なんて呼ばれたら反応に困っちゃうし」
「……」
  そもそも想像できないですし、とご機嫌な様子の谷村に戸惑うが、響のラスティネイルをカウンターに置かれてしまっては立ち去るわけにもいかなくなる。
  仕方なく谷村の隣に腰を下ろし、「何か召し上がりますか?」とマスターに穏やかに問われるのに首を振って答える。
「長居はしない」
「かしこまりました」
  それきり話しかけてくることはなく、マスターは離れて行った。
  未だソファ席から視線は投げられている。
  誰もがこの男を知りたがっていた。
  気分が良い。
  谷村だけが知っているのだった。
「桐生さん、さっきの男と知り合いなんですか?」
「いや、全く」
「…え?」
「探して、渡して欲しいとメモを託されただけだ」
「…相変わらずですね」
「しょうがねぇだろ…」
  明らかに堅気の世界の人間には見えない男に、何故か誰もが頼み事をするのだった。
  それを引き受ける男も男だと、谷村は思うが口にはしない。
  敵意のない人間に対して、好意を向けてくる人間に対して、この龍は恐ろしく甘いのだということを、短い付き合いだが知っていた。
  刑事は鈍感では勤まらないのだ。
  一課ともなれば鼻も効かなければ生きてはいけない。
  かの伊達大先輩すらも認めて賞賛し、だがため息混じりに「あいつはなぁ」と親しげな笑みを浮かべる桐生一馬という男は、「伝説」として知られる極道なのだった。
  いや、正確には元・極道か。
  その境界線は随分と曖昧なようだが、積極的に関わっているわけではないようなので、やはり「元」と言ってやるべきなのだった。
「桐生さん、しばらく神室町にいるんですか?」
「いや、数日中には沖縄へ帰る予定だ」
「そうなんですかー」
  寂しくなりますね、と言ってやれば、伝説の男は軽く息を吐くように笑う。
「厄介払いできるって顔してるぜ」
「俺が?まさかぁ」
  へらりと意図を読ませぬ笑みを浮かべるのは得意だった。
「俺、酒奢ったの桐生さんだけですよ?」
「…どういう意味だ?」
「この店がどういう店だかご存知ですか?」
「バーだろ」
「うん、そうなんですけど…」
「……」
「……」
  じっと熱い視線とやらを送ってみる。
  熱いかどうかなど自分でわかろうはずもないが、大抵の人間はそれを理解してくれ受け入れてくれる。
  眉を顰め、困惑気味な表情を浮かべた桐生もまた、理解したようだった。
「…おい谷村」
「そういうお店なんですよここ」
「……」
  気になる男に酒を奢る。
  受ける気があれば、それを受け取る。
  単純明快、シンプルなルールだった。
「この店野郎しか来ないしいないでしょ」
「…お前」
「あ、俺奢られたこともないですよ!一応言っとくけど」
「聞いてねぇよ」
「俺このまま帰って寝ようと思ってたんですけど、どうです?俺の家来ます?」
「遠りょ…」
「あー俺、東城会の皆さんに殺されちゃうかもー」
  最後まで言わせず、谷村は大げさにため息をついた。
「…何だって?」
  機先を制され、桐生が言葉を飲み込んだ。ほくそ笑み、隣に座る桐生へと身体を寄せて、引き気味に背を逸らせるのに構わず囁いた。
「現会長さんとか、大幹部の人とか、仲良さそうですもんね桐生さん。俺なんかが手ぇ出しちゃったらどうなるのかなー潰されるのかな俺。うわーこえー」
「……」
  そんなことをする奴等じゃないと言いたげだったが、聞く耳は持たない。
「ラブホとかヤバイよ。あっちの人達の管轄内に桐生さん連れて入りたくないし。家なら安心。気をつけてるし。…どうです桐生さん」
「何でそれが決定事項になってるんだ」
「だって酒飲んだでしょ」
「…そんなルールを知っていたら飲まねぇよ!」
「またまたぁ。そういうの、俺に甘えてるって言うんですよ?俺がいいよって、言うと思う?」
「…お前、極道並にタチ悪ぃな」
「警察舐めてもらっちゃ困るなぁ」
  右手を伸ばし、カウンター上に置かれた桐生の左手の指先から手首までを撫でる。人を殴り慣れた手は節ばっていて武骨だったが、指は長くバランスの良い形をしていた。
  払おうと持ち上げられた手首を腕時計ごと掴み、緩めのシャツの袖口の隙間に手を滑らせて腕も撫でる。さすがに途中で阻まれた。
「やめろ」
「それは公衆の面前だから?」
「お前な…いい加減にしろよ」
「俺桐生さんに興味あります」
「はぁ?」
「桐生さんは俺に興味ないですか?」
「……」
  目を細め、睥睨されるのは好きではない。
  好きではないが、征服したくなる。いい目だなと思う。
「…桐生さん優しいですよね。興味ないとか、はっきり言わないんだ」
「…谷村」
「経験ないなら教えてあげる」
「お前…」
「自分が女みたいに男に抱かれるのは抵抗あるのかな?それとも…浮気だーとか言って現会長さんとか大幹部さんとかにおしおきでもされるのかな」
「馬鹿なこと言ってんじゃねぇぞ」
「そうかな。でも…ふーん…そうなんだ。ちゃんと男知ってるんだ」
「何で俺が抱かれる前提になってるんだ」
「だって俺桐生さんを抱きたいんだもん。あの人たちも一緒かなと思って」
「……」
  もう一度、桐生の左手を取った。
  拒絶はなかった。
  長い指先を擽るように撫でながら、知らず笑みが零れた。
「桐生さんって嘘つかないですよね」
  苦笑に近かったが、これは自嘲だ。
「必要な嘘はつくさ」
「それに、否定も拒絶もしないんだ」
「やめろとさっきから言ってるだろう」
「ん、そうだっけ。でも嫌そうじゃないね桐生さん」
「嫌がってるが」
「なるほど、ヘタクソな嘘ついちゃうんだ桐生さん。可愛いな」
「……」
  呆れたように口を閉ざす桐生の表情に、嫌悪はない。
  わかってるのかなぁ桐生さん。
  甘いよね、甘いよ。
  だから俺なんかにもつけこまれちゃう。
  赤の他人よりは近しく思ってくれているのだろう。一緒に戦ったし、知らぬ仲ではないのだからそれは当然だろう。
  でも懐がでかすぎるのは問題ですよ、桐生さん。
  自由に触れてももはや何も言わない桐生の左手を両手で捧げ持つようにして、長い中指を付け根まで口に含む。
「…っお、まえ…!」
  舌全体で中指を包み込み、顎を引いて指先に向かって舐め上げる。
  口内でぐじゅ、と濡れた唾液の音がして、桐生の左手がびくりと震えた。
  先端まで引き抜いて、吸い上げながら根元まで。
  引き抜こうとする桐生の力に逆らわず、抜けるに任せて口を開いて解放してやる。
  唾液が糸を引いたが、ぷつりと切れた。
  濡れた中指を拭う桐生の瞳に、谷村は確信した。
「…こんな風に、挿れさせて。桐生さんは、受け入れて。…キモチイイこと、しましょうよ」
「……」
「桐生さん?」
「…二度はねぇぞ」
  憮然としてはいたが、それは肯定だった。
  純粋な笑みが漏れ、にこやかに返す。
「じゃ、出ましょ」
  こんなに簡単に、龍が落ちる。
  桐生さん、心が広すぎるのも考えものですよ。
  懐に飛び込んだ人間が、善人ばかりとは限らないのに。
  己は歪んでいるなぁと、谷村は思うのだった。


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