過熱する熱。

  鮮やかな緋色の空が神室町を照らす頃、一斉に燈る街灯を皮切りに、店頭の明かりが増えて行く。
  日中色身のない灰色のビルがネオンに染まれば、煌びやかで下品な町の出来上がりだった。
  緋色から藍へ、藍から漆黒へと支配を明け渡した空に浮かび上がる不夜の町は眠る事を拒絶し、集まる人間達に雑多な夢を植えつける。
  極彩色のそれは甘美で抗い難く、人々はこの町に群がり夢を見る。
  眠らない町は喧騒と華美なネオンで人を飲み込み、今日もまた変わらぬ一日が過ぎて行くのだった。
  昼よりも混み合う夜の町を、すり抜けるように桐生は歩く。
  桐生に気づいた人間は大抵が自主的に避けてくれるが、たまにわざと肩をぶつけてきては難癖をつける輩も存在した。
  返り討ちにしてやった数はすでに記憶にない程で、神室町は相も変わらず血気盛んな町であることに安堵すると共にため息も漏れるのだった。
  神室町にやって来たのは二年ぶりになる。
  馴染みの店に顔を出し、挨拶をしてきた所であった。
  今向かっている場所はアジトとして利用させてもらっていたニューセレナであり、最も世話になっているバーである。
  かつて馴染みだったオーナーはすでに亡く、店も変わってオーナーは全くの他人であったが、古くからの馴染みである刑事の紹介で通うようになり、快く迎えてくれる。
  有り難いことだった。
  エレベーターで上がり、扉を開ける。
  店内は静かであったが、ざわついた気配に満たされていた。
  客がいる。
  それも、大勢。
  客の来店に気づいたママが、入り口に立つ桐生を認めて微笑んだ。
  だがその表情は常になく硬い。
「いらっしゃいませ、桐生さん。お客様がお待ちですよ」
「…客?」
  店内を見渡せば、カウンター席にはアイボリー生地にストライプのスーツを着た男が一人背を向けて座っており、ソファ席には男達がひしめいて、満員御礼となっていた。
  堅気の人間ではない。
  テーブルの上に所狭しと並べられた酒類は、来店してからの時間の経過を如実に物語っており、かなりの時間、桐生を待っていたのだということが知れた。
「お待ちしてました、桐生はん」
  抑揚のある関西弁を向けられ、桐生は正面カウンター席に腰掛けた男に視線を向けた。
  振り返り、肩越しに見える顔は見知ったものであった。 
「…渡瀬…」
「行きつけの店はここやっちゅうから、待たせてもろてました。…どうぞ、隣へ」
「何か用か」
「まぁそう剣呑な顔せんと。ケンカしに来たわけちゃうんです。ご挨拶に」
「挨拶?」
「ええ」
  席を一つ離して座ろうとする桐生を制し、己の隣を指差しつつ、ママへと顔を向けて「桐生はんがいつも飲んではる酒入れたって」とそつなく注文をつけてみせた。
  強硬に離れて座る理由もない桐生は指差されるまま隣に腰掛け、ママが入れてくれたブランデーに礼を言う。グラスを持ち、渡瀬を見れば渡瀬もまたグラスを持ち、寄せて来たので軽く縁を合わせればガラスの澄んだ音がした。
「身内の不始末もあらかた片付いたんで、そろそろお暇させてもらおと思てます」
「そうか、帰るのか」
「跡目のこともありますし、盃のこともありますんで、持ち帰りですわ」
「盃は受けるのか?」
「さぁどうなるやろなぁ。ワシはあんたのおらん東城会には興味ない」
「……」
  沈黙で返し静かにグラスを回して弄ぶ桐生の顔には、これといった感情は見られない。
  渡瀬は僅かに身を乗り出し、覗き込むように下から見上げて視線を捕らえる。
「あんたが東城会に戻るんやったら五分の盃なんか受けられへん。正面切ってケンカでけへんようになるからな。…で、どないですのん?戻るんやろか、堂島の龍はんは」
「ないな」
「おいおい言い切りよったで。ホンマに?」
「ないな」
「…ほ~。それは、堂島大吾の為かいな?」
  強い視線で射抜かれ、渡瀬は口端に笑みを乗せた。
「ボンボンの抱える東城会は、平和が一番て思てはる?」
「抗争戦争が流行る時代じゃねぇだろう」
「なるほどなるほど、ケンカに飢えてらっしゃる四代目はんのおっしゃることは深すぎて、ワシみたいなもんには理解でけへんわ」
「渡瀬」
「さてと」
  姿勢を正し、渡瀬が立ち上がった。
  スーツの上からでもわかる堂々たる体躯はまさに偉丈夫と呼ぶにふさわしい。空いたボトルを片付けていたママへと声を投げ、振り返ると同時に暇を告げた。
  ソファ席でしわぶき一つなく、二人の会話を見守っていた部下達が一斉に立ち上がり、扉を開けて彼らのボスが帰る為の準備にかかる。
  なんら感情の見えない表情で見上げられ、渡瀬はくしゃりと屈託の無い笑顔を作った。
  意外と憎めない顔になるのだということを自覚していたが、眼下で見上げるこの伝説の極道に通じるかは不明だった。
「桐生はん、場所変えましょか。もっと落ち着いて話しましょうや」
「…どこへ?」
「そうやなぁ、どこがええですか?ご希望あったら聞きますけど」
「俺に聞くのか?」
  呆れを含んだ言葉に肩を竦める。
「そらそうか。こりゃ失礼しました。ほんならベタベタなとこでホテルのラウンジか、海辺をドライブか、…ワシらホテル品川なんで、そっちまでお出まし頂けるんやったら接待させてもらいますけど」
「……」
「新幹線乗るの便利やしなぁ品川」
「ああ…」
「心配せんでも帰りは送らせます。部屋取って泊まって貰てもかまへんのやけど」
「朝まで飲むつもりか?」
「桐生はん、相当お強い?」
「さぁな」
「ああけど、飲み比べも楽しそうやけどアカン。ワシは話がしたいねん。潰れてもうたら意味ないねや」
「……」
「とりあえず外出ましょか。そんでちょっと考えますわ」
「……」
  いつの間にやら店を出る事が決定していた。
  この後の予定は特になく、寝るだけだったのでまぁいいかと桐生もまた立ち上がり、ママにまた改めて来ると告げて、渡瀬に続いて店を出た。
  夜だというのにサングラスをかける様子に首を傾げるが、それは趣味なのかクセなのか、それとも目が弱いのだろうか。
  桐生の視線に気づいた男が振り向いて、ああこれ、とサングラスに手をかけた。
「ワシ色素薄いんです。これかけとかんと眩しゅうてしゃーない。夜は別にかけんでもいけますけど、まぁこれはクセですな、完全に」
「…なるほど」
「ああ、桐生はんの前で失礼でしたな。すんまへん」
「いや」
  そもそも最初に会った時、渡瀬はキャバクラの店内でも堂々とサングラスをかけていたではないか。
  今更気にするようなことではないが、男は素直にサングラスを外してスーツのポケットに仕舞いこんだ。
  車を回すと言い、昭和通りへの短い距離を歩く。
  歩道に横付けされた黒塗りの車がずらりと並ぶ様は、神室町と言えども異様だった。
  後部座席のドアを開いて待つ部下が、恭しく頭を下げる。
  乗るのだろうと思いそちらへ足を向けかけた桐生の腕を、渡瀬は掴んだ。
「桐生はん、こっちこっち」
「…え?」
  腕を引かれるまま向かった先は、高級外車ではあったけれども、組長分が乗るリムジンではなかった。
  慌てて車内に収まっていた部下が全員降車して、渡瀬に向かって腰を折る。
「何だ?渡瀬」
「せっかくやし、二人っきりでドライブとしゃれ込みましょうや」
「…はぁ?」
「この辺の地理よぉ知らんしナビ頼んでええですか?」
「お前が運転するのか?」
「不安です?桐生はんに運転させるわけにはいかへんし」
「いやそういうわけじゃないが…」
  何故男と二人っきりでドライブなどせねばならぬのか。
  余程人に聞かれたくない話でもあるのか。
  さっさと部下に車を寄越せと命令し、運転席に乗り込もうとドアに手をかける渡瀬の腕を、今度は桐生が掴んで止めた。
「待て飲酒運転」
「…ん?」
「捕まったら迷惑だ」
「…あぁ、…いや、大丈夫やろ。そんなに飲んでへんし。安全運転で行きますし」
  酔っ払いは必ずこう言う。
  捕まってからでは遅いし、事故を起こしてからではもっと遅い。
  桐生は眉間に皺を寄せ、ため息をついた。
「退け。お前は隣か、後部座席へ回れ」
「…えぇ?桐生はんが運転してくれはるんですか?」
「俺は飲んでない」
「…ワシの酒…」
「少し口はつけた。検問に引っかかっても検出される量じゃねぇよ」
「なるほど」
  じゃぁお願いしますと場所を譲り、周囲で手持ち無沙汰に見守る部下に「帰っとけ」と指示をして、渡瀬は大人しく隣へと回って乗り込んだ。
「隣かよ」
「そらそうやろ。後部座席てワシ客かいな。タクシードライバーの鈴木はんには用ないで」
「……」
  運転席に乗り込んで、シートベルトを締める。
  渡瀬にも要求すれば嫌そうな顔をした。
「助手席でシートベルトなしは違反だ」
「…桐生はん、タクドラが染み付いてはりますな」
「嫌なら後ろにま…」
「ああ、わかりました。わかりました」
「……」
  おそらく普段運転することもなければ助手席に座ることもないだろう男は、シートベルトを締めるのに手間取っていた。
  子供か、と言いたくなるのを堪え、ベルトを引き出ししっかりと固定してやる。
  邪魔臭いなぁ、とぼやく様子も子供のようで、桐生は呆れて苦笑した。
「でかい図体で文句を言うな」
「…でかいて…普通やないですか」
「普通ね…。で、行き先はどちらまで?」
「…タクドラ根性ですな。ほな人気のない静かな所まで」
「あ?」
「海とか良さそうちゃいます?東京の海は汚なそうやけどなぁ。大阪も大概やけどな」
「デートコースか」
「…デートコースの海はアホなカップルぎょうさんおりそうですやん。イヤやでそんな場所」
「なら埠頭にでも行くか」
「話できそうなとこならお任せしますわ」
「…殴り合いじゃなくて、話なんだな?」
「さっきからそう言うてますけど」
「……」
  サイドブレーキを倒し、車を出す。
  高級外車のエンジンは静かで、滑らかだった。
  首都高速に乗るまでは混雑していたが、乗ってしまえば後は早い。
  一定の速度を保って運転をする桐生の様子を眺めながら、渡瀬は何とも微妙な心境に戸惑った。
「東城会の四代目はんは、ごっつ安全運転かと思たら高速乗った瞬間速度上げてぶっ飛ばすとか意外やわ…メーター振りきっとるで」
「…福岡最速なんだそうだ」
「はぁ?何やそれ!走り屋やっとったんですか?」
「成り行き上な」
「どんな成り行きやねん。そこまでチェックしてへんかったわぁ。こんだけスピード出てても安定しとるんはさすがですな。ちゅうか、何やっとんねん堂島の龍は」
「首都高は車の数が多いからな。そろそろ速度落とさねぇとならないが」
「シカトかい。素性隠してタクドラちゅうだけでも驚きやのに、走り屋までとは恐れ入るわ」
  桐生一馬という男は、全国に知れ渡る伝説の極道だったはずだ。
  近江連合にとってみれば、五代目の頃からの因縁の男だったはずだ。
  頂点を極めようとするならば、立ち塞がる最大の壁であり、脅威であり、目標となる男である。
  それが、隣にいるこの男なのだった。
  この男の圧倒的な強さは身に染みて知っている。
  本気で殺すつもりで戦って、勝てなかった。
  恐ろしい男であって欲しかった。
  踏み台として潰していけるような、つまらぬ男であって欲しかった。
  だがこの男は気安く、情に厚く、筋の通った仁義の男であったのだった。
  全く恐れ入る、と渡瀬は内心でもう一度、呟く。
  地べたを這いずり回り、堅気として生きているのが残念でならない。それなりにそつなくこなし、何でもやってしまえているのがさらに無念さに拍車をかける。

  東城会の天辺で、ふんぞり返っていてくれればいいものを。

  話をしたいと言いはしたが、結局言いたいのは東城会に戻れということなのだった。
  目標であって欲しい。
  最大の敵として、立っていて欲しい。
  それは堅気では意味がないのだった。
  東城会という金看板を背負ってこそ、価値があるものなのだった。
  関東最大の東城会と、トップに君臨する伝説の極道を倒すことで、本当の意味での日本一が決まるのだ。
  天下を取りたい。
  その為に己は生きているのだから。
  一度負けはしたが、諦めてはいないのだった。
  車は首都高を降り、湾岸道路を走る。
  埠頭へと静かに滑り込み、停車した。
  周囲には巨大なコンテナが山積みにされていたが、船は停泊しておらず、人気はなかった。
「到着いたしました」
「…タクドラはん、ご苦労さんでした」
「高速料金上乗せだぞ」
「なんぼでも言い値でお支払いしますわ。さて東京の海はどんくらい汚れとんのかな」
「…暗くて見えないと思うがな…」
  外に出て、間近の海を覗き込む渡瀬が多少なりとも見えるようにと、ヘッドライトを灯したままで桐生も車から降りたが、不満気な唸り声にそれ見たことかと肩を竦めた。
「真っ暗で何も見えへんで。夜やと沖縄もバリも東京も一緒てことやな」
「いや違うだろ」
  振り返り、車へと戻ってくるのを見届けて、桐生はヘッドライトを落とし、エンジンを切る。
  閉めた運転席のドアに凭れかかり、煙草を一本取り出せば、すかさず火の灯ったライターを差し出され持ち主へと目を向けた。
「どうぞ」
「……」
  拒絶する理由はもはや見当たらず、桐生は大人しく火を受ける。
  吐き出した紫煙はぽつんと立った街灯の明かりに溶けて、儚く揺れた。
  この駐車場は、桐生が父にも等しい存在を亡くした場所だ。
  確か、あの辺。
  視線を向ければ、暗闇が落ちたその場所に、伏せる親っさんの姿が見えるようだった。
  もう、七年も前になる。
  遠くを見るような表情をする桐生を見つめ、渡瀬は後部座席のドアへと背を預けて同じ方向を見やるが、あるのは闇と静寂のみだった。
  桐生一馬については調べられる限りは調べた。
  データの上から見える「伝説の男」と、実際目の当たりにした人物像とそれほど大きな齟齬はない。
  秋山という名の金貸しは渡瀬の事を「器がでかい」と評したが、この男には適うまい。
  よく、わかった。
  この男は、「計り知れない」。
  だからこそ。
「桐生はんは傍観者で満足できるんですか?」
「…何の話だ?」
「いっつも巻き込まれとる」
「……」
「その割には楽しそうに潰して回ってはる」
「楽しそうは余計だ」
「ええ加減諦めはったらええのに」
「……」
「逃げられへんって。桐生はん。あんたは、無理や」
「渡瀬…」
「逃げられへんのやったら、せめて中心におった方がマシやとは思いません?」
「俺は」
「あんたの周囲の人間を巻き込むんは常套手段や。下衆な手やし軽蔑に値するが、有効やからいつまでも使われる」
「……」
  遥の事を言っているのだろうと、思った。
  アサガオの子供達のことを、思う。
「ワシが当代になったらそんな下衆い手使わんでも、堂々真っ向勝負しかけたりますわ。ケンカっちゅうのはそういうもんや。腹の探り合いとかどうでもええ。どっちが強いか、それだけや。白黒つけて、それで仕舞いですわ」
「……」
「それでええ。それがええ。あんたはわかってくれると思てます」
  桐生を見れば、桐生もまた渡瀬を見ていた。
  伸びた煙草の灰が、桐生の苦悩を物語る。
  指の間に挟まったそれを、渡瀬が取る。拒絶はなかった。
  地面に落とし、揉み消した。
  この龍は、戦いたいのだ。
  悟った。
  けれどしがらみが絡みついて離れないのだ。
  己が望んで囚われている鎖だ。それを解く事が出来るのもまた、この男自身でしかありえない。
  桐生のシャツの襟を掴んで、引き寄せた。
  僅かに目線を上げ、至近で正面から覗き込む。
  迷う龍など、見たくはない。
  雄雄しく、猛々しく、大空を駆け敵を薙ぎ倒す最強の龍をこそ、倒したい。
  目覚めよ。
  早く。
  そして、戦え。
「あんたはワシとはちゃうて言いはりましたな。生き様と死に様、何がちゃうんですか?生きてる間は同じことや。何を成すか、それが全てや。死を覚悟するんはあんたも同じ。ワシはあんたとケンカしたい。…何度でも、やりあいたい。勝つまでやりたい。…ワシの夢は、叶わんもんなんやろか?」
「…渡瀬」
  掴む手に力が篭り、桐生は眉を顰める。
「我侭なんやろか?あんたは東城会を賭け、ワシは近江連合を賭ける。あんたが勝ったら、ワシはあんたのもんや。ワシが勝ったら、あんたはワシのもんや。これ以上ないくらい、シンプルや。頭使う必要もない!身体一つあればええ!疼くやろ、桐生はん!やりたくてしゃーないやろ、桐生はん!」
  ドアに桐生の身体を押し付けた。
  胸倉を掴んで睨み合う。
  迷いを滲ませているくせに、桐生は一歩も引かなかった。
「…俺が東城会を背負う日は来ない」
「…何?」
  胸倉に伸びる男の両手を掴み返す。添えるだけで、力は入っていなかった。
「当代は、大吾だ。前も言ったが、次代の頃には俺もお前も引退だろうぜ」
「…あんたは、ホンマ酷い人やなぁ」
「どこが」
「今ワシ豪快に振られたで。何やこの寂しい感じ。十代の小僧に戻った気分や…」
「…意味がわからねぇが」
「堂島大吾はどうでもええねん。天辺取る気がないならそれでもかまへん。けどあんたには東城会に戻ってもらわんと困んねや」
「何故だ」
「ワシがケンカできる相手がおらんっちゅうとんねん。福岡でも言うたやないですか。忘れたわけとちゃうでしょ?」
「しなくていいだろ」
「…あんたは今ワシとあんた自身を全否定したんやで。わかっとんのか?」
  ため息が漏れた。
  アカン。この男は天然ちゃんか。
  どないしたらええねん。誰かええ方法教えてくれや。
  これ以上言い募るべき言葉が見つからず、渡瀬は胸倉を掴む力を緩めて項垂れた。
  沈黙した男の頭頂部を眺めやり、桐生は軽く首を傾げる。
「だが渡瀬」
「…なんですか」
「五年…いや、十年後の大吾はおそらく、東城会が誇る当代になってると思うぜ」
「……」
  聞いてない。
  そんなことは、聞いてない。
「ケンカなら、代紋背負わなくてもできるだろう」
「……」
  そういうことではないのだ。
「ケンカしたければ、いつでも俺のところに来ればい…」
「もうええわ」
  顔を上げ、桐生の顎を掴む。
「それ以上どうでもええことほざいたらワシにも考えがあります」
「…何?」
「代紋背負わんと意味がない。そんな詭弁が通じると本気で思てはるわけないわな?」
「…渡瀬、」
  神室町ヒルズの屋上で、向かってきたそのままの好戦的な瞳で射抜かれ、桐生は僅かに目を瞠る。
  野心剥き出しの笑みは、桐生の奥底に眠る本能を引きずり出してやまない。
  この男の存在は直裁に心を抉る。
  ベクトルの向く先は、恐らく同じ。 
  性質も、力も。

  戦いたい、ケンカしたい、強くありたい、示したい。
 
  愚直に過ぎて、心に痛い。
  認めてしまえば、引き返せなくなる気がした。
「俺はお前とは違…、…っ」
  呼吸ごと、飲まれた。
  力任せに掴まれた顎が痛む。
  引き剥がそうと腕を掴んだが、さらにその手を男が掴む。
  ぶつかるように唇が触れていたのはほんの数秒だった。
  唐突に離れ、渡瀬が不快気に眉を寄せた。
「…黙っといて下さい。逃げはアカンで、桐生はん」
「…お前…」
「ワシはあんたの味方とちゃうんで、そんな顔されたら食い殺したなってくる」
「…っ!」
「ふむ、それもええかもしれへんな」
  一人納得したように頷き、漏れた笑みに桐生の手に力が入る。
「…離せ」
「ああ、すんまへん。えらい長いこと掴んだまんまで」
  あっさり離れ、渡瀬は助手席へと回りこむ。
「もう真っ暗やなぁ。真冬の夜は冷えてかなんわ。…大分酔いは冷めたけど、桐生はんまた運転お願いしてええんやろか?」
「…ああ」
「高速ぶっ飛ばしてはよホテルで飲み直しましょか」
「…どこのだ?」
「品川の。泊まって行かはったら?」
  車に乗り込み、今度はきちんとシートベルトを締めて見せた。
「逃げたりせえへんよな?桐生はん?」
  座席から見上げてくる瞳は笑んではいるが、穏やかではなかった。
「…誰に向かって言ってんだ?」
「そらそうや。それでこそ伝説の龍や!ほな帰りましょ、タクドラはん」
「…おちょくってんのか」
「いえいえまさか、とんでもない」
「……」
  運転席に乗り込み、エンジンをかけサイドブレーキへと伸ばした手を、渡瀬が掴んだ。
「ワシはね、桐生はん。諦め悪く生きてきて今の立場があるんです。…おわかり頂けます?」
「…運転の邪魔をするな」
「おわかり頂けたらええんです」
「どいつもこいつも、お節介な奴ばかりだ」
「ハッ!ワシも仲間入りっちゅうわけか。嬉しないわー」
  鼻で笑いながらも、手は離された。
  深夜に差し掛かった道路は閑散としている。
  渡瀬は窓の外を見やったきり口を開く事はなく、静寂の落ちる車内は無音であった。
  積極的に話しかける気分にもなれず、桐生もまた沈黙していたが、空いた首都高をスピードを上げて走り始めた所でぽつりと渡瀬が呟いた。
「ワシは八代目になります」
「…そうか」
「近江は強なりまっせ」
  茶化したような口調だったが、顔は真剣そのものだった。
「…そうか」
「桐生はん」
  呼ぶ声は静かで、冷めた空気を乱すものではない。
  一瞬視線を投げて「何だ」と問えば、男は酷く魅惑的な笑みを刻んだ。

「…あんたが戻って来るまで、待っといてあげますわ」

  心臓が一つ、跳ねた。
  ハンドルを握る手に力が入ったことを、気づかれはしなかっただろうか。
  じわりと一滴、心に墨が落ちて行く。
  染まる黒を、漂白する術は持たなかった。
 
  その誘惑は、甘く、痛い。


END
桐生さん運転で渡瀬の兄貴に助手席に座って欲しかったっていう。

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