掬った掌から零れ落ちた砂は何をか云わんや。
望むと望まざるとに関わらず、目覚めは突然やってくる。
沈んだ水底のように重く闇に閉ざされた意識が、急速に上へと引き上げられた。
自身が意識体ではなくモノの中に納まっていることを知覚し、重力を感じ、収まっていたのは己の肉体であることを思い出し、顔と胴体と手足の存在に気づいた後、眠っている体勢と、次いで己以外の「外」の存在を感じ取る。
敵意や悪意、殺意といった警戒すべき気配は周囲に感じなかった為、意識の浮上はごく自然に行われ、短い時間とはいえ久しぶりに取れた睡眠に安堵する。
五感が完全に覚醒するまでの束の間、目は開かないまま組んでいた腕を緩めて地面へと下ろす。崩れかけたどこかの神殿のような建物の陰に身を潜め、凭れた壁は冷たかったが暑くもなく寒くもない世界にあってはそれほど苦痛も感じなかった。
点在する世界は覚束なく、歩くフィールドは季節感の欠片もない。狂った世界に秩序や理が幅を利かせているはずもなく、神の代理人として呼ばれ戦わされる駒でしかない存在にとっては、奇妙な世界とはすなわち己の存在自体であった。
点在する記憶と、存在する自我が覚束ない。
目を開けて飛び込んでくる陰鬱とした世界に目を覆いたくなる。
大きく息を吸い込み吐き出したところで、胸に落ちた重く黒い塊は霧散することはなかった。
凭れた壁に背をつけジャケットを擦りながらずり上がるように立ち上がり、崩れそうになる足を支える為伸ばした両掌に触れる壁は冷たく何の救いも与えてくれはしなかった。
諦め開いた目に映る己の足先と地面は黒と灰のモノトーンで、目線を上げ広がる世界もまた、黒と灰に覆われていた。
目を開くたび、眠りから覚めるたび、激しい違和感に動揺する。
俺の世界は、ここじゃない。
一つずつ増える記憶はもはや気のせいで済まされないほどに大きくなっていた。
敵を見るたびに、戦うたびに、仲間を見るたびに。
話しかけられ、会話をするたびに。
元いた世界を思い出し、何故ここにいるのかを思い知る。
俺の居場所はここにしかないのだと、思い知る。
神によって「呼ばれた」俺は、俺であって俺ではない。
壊れても壊れても「作られる」俺は、俺であって俺ではなかった。
けれど時間経過と共に思い出す「記憶」は、元いた世界の記憶とここで過ごした記憶が混在していて、ここで過ごした記憶が増えるほどにそれは「勝利」と「敗北」の軌跡だった。
何故思い出してしまうのか、神ですらその答えを与えてくれないが、記憶と力は切り離せるものではない。
本来神の為に戦う駒として形を与えられた俺達に必要なのは力だけであったが、記憶も一緒に取り込んでしまったのだろう、おそらくは。
人形として戦う為に記憶を封じてみたものの、力を発揮するごとに記憶が覚醒していくのは道理といえば道理であった。
用意された「敵」がいるから戦って、勝てと言われているけれども負けたところで失うものは「自分」だけだ。
くり返し、くり返し。
「自分」を失ったところで結局また新しい「自分」が作られるのだ。神によって。
くり返し、くり返し。
終わらない悲劇であった。いや、意志などお構いなく神に付き合わされる自分達にとっては喜劇と呼ぶべきなのか。
けれど結局、戦っても戦わなくても「終わり」はどこにもないのだった。
なんたる喜劇。弄ばれる自分達の、哀れなことよ。
乾いた空気が通り抜け、髪を揺らす。
伸びた前髪が目にかかるのを庇うように手で覆えば、額に残る傷跡に触れ眉を顰めた。
何故こんな傷跡が残っているのか、「知っていた」。
ある日突然身体の内で弾けた泡は、ここにはない世界の色と匂いをしていた。
あの世界を特別愛していたという記憶はない。
あの世界でなければ生きていけないなどと、言うつもりもなかった。
現に自分はこの無味乾燥とした世界で「生きている」のだから。
足元にしゃがみこみ、乾いた土を掴む。
少し力を込めるだけで、容易く塊は砕け粒子となって風に流れて空を舞った。
見上げた空は濁り、雷鳴を伴って暗く重い。
思い出すあの世界は、温かみに満ちて明るく、軽かった。
たとえ戦争に参加したくさんの人を傷つけようとも。
魔女を殺せと命令されようとも。
毎日モンスターと人間と仕事との戦いに追われ疲れきっていようとも。
それでもあの世界に「帰りたい」。
うつくしく彩られたあの世界は、ここよりずっと温かい気がした。
それを郷愁と呼ぶのだと、知ったのはいつだったか。
金属が何かを擦るような音が耳に届く。
この世界もまた戦いに満ちていて、そして孤独ではなかった。
何かがぶつかりあうたびに振動する空気が身体を撫でて通り過ぎ、殺気と呼ぶほど強くもない感情を相手に叩きつけては己の存在を自問する、それはこの世界にいる全ての「人間」に共通する確認事項の一つだった。
姿を視認できる位置まで近づき、見知った男とイミテーションと呼ばれる出来の悪い人形との戦いであったことを確認する。
クリスタルのように煌きながら人型を模して襲い来る、敵もまた見知った者の姿をしていた。
この世界の成り立ちを考えれば、悪趣味ではあるが不思議なことではない。
砕け散る輝きの残骸の行方を見守りながら、大剣を下ろした男へと近づくが、振り向いた顔には明るさの欠片もなかった。
かけるべき言葉が思いつかず無言で寄ると、拒絶はなかったが歓迎された様子もなかった。
「…一つ、思い出したぞスコール」
「何を?」
「楽しくないことを」
「…そうか」
零れ落ちる言葉に抑揚はなく、疲れたように金髪の頭を振る男もまた、神に呼ばれた駒の一つ。
クラウド、と男の名を呼べば俯き加減の髪が揺れて、覗く瞳は不可思議に蒼く輝いていた。
「…これからもっと思い出す」
「……」
「皆のように、帰りたいと思うようになるかもしれない」
これは果たして忠告なのか警告なのか、スコール自身にも判断はつかなかった。
そよと流れた冷たい風が、塵を巻き込み暗い空へと舞い上がる。
吸い込まれ見えなくなった儚い存在をいつまでも追いかけるように虚空を見上げるスコールを見やりながら、クラウドは僅かに首を傾げた。
「…それはお前も含まれているのか」
帰りたいと、思うのか。
問うがスコールの応えは望んだものではなかった。
「そろそろ集合時間だ。戻らないとうるさい小言を聞く羽目になる」
「おい」
踵を返す後姿はクラウドのことなど忘れてしまったかのように迷いがない。
つられるように歩き出し、スコールの隣に並ぶが長い前髪が邪魔で表情を窺い知ることは出来なかった。
「質問を。してるんだが」
「……」
空気とやらを読んでなかったことにしてやる気などさらさらない。
「お前でも、帰りたいと思うのか?」
「……」
「スコール」
食い下がれば瞬間嫌そうに眉を顰める様を見逃さなかった。
「なるほど、記憶というのは厄介なものらしい」
「別に」
「帰りたいって、顔してる」
「…うるさい」
「帰った所で、幸せとは限らないのに」
「……」
思わずスコールは足を止め、隣を歩き追い越して行くクラウドの横顔を見守った。
数歩先で、金髪の後頭部が怪訝な表情をしながら振り返る。
どうしたと問うてくる視線に頭を振って答え、再び隣に立って歩き出す。
「…あんたがちょっと大人に見えた」
「はぁ?っていうか、大人だし。敬ってくれてもいいけど」
「…敬うには色々足りてないような」
「聞こえてるんだが」
「聞こえるように言ってるんだが」
「……」
生意気なガキだと思う。ガキの割には大人ぶっていて、実際同年代のガキよりは色々と苦労もしているのだろうことは窺い知れた。
が、17歳は十分コドモだ。
「この世界には、何もないな」
隣を歩くコドモは無言で肯定したようだった。
「…元いた世界は、優しい場所だったのか」
スコールの世界など知らない。
スコールが築き上げてきた場所など、興味もなかった。
だが絡む視線に滲む色は、真っ直ぐでうつくしかった。
「さぁ…わからないな」
このコドモにとっての世界は、この世界にないものを求めるべき場所なのだと知った。
この世界に欠けてしまったものを知っている。
イミテーションとして存在するのに、「人」として存在しない者達。
キラキラとまるで光の結晶のように輝き消えて行くモノの欠片を掌に乗せてみるが、触れるか触れないかの位置でさらに細かく砂のように崩れていった。
何も残らなかった掌を握り締め、スコールはまた一つ、思い出す。
名を呼び軽く肩を叩く仕草のさりげなさであったり、自信に満ちた表情で間違った道を突き進み、周囲から非難の目で責められても「ワリィワリィ」の一言で済ませてしまう笑顔であったり、困ったと言いながらも嬉々として敵に向かって行く無鉄砲さであったり。
交わるはずのない時間が、確かにあったことを思い出す。
「妖精さん」として本人の視線でしか見たことのない姿を、見ていた自分を、思い出す。
触れた体温は温かかった。
笑う声は、うるさかったが懐かしかった。
同じ世界で生きるあんたを、交わるはずのない時間を生きたあんたと、共に戦ったことを思い出す。
キラキラと、ぼやけた輪郭で襲い来る、そのカタチが懐かしい。
地面に砕けて散った欠片を拾い集めるように両手を広げて跪く。
その名を呟き、スコールは目を閉じた。
元の世界に帰った所で、幸せとは限らない。
それでも俺は、あの世界へ帰りたい。
END
ラグナがいなくなった世界で、ラグナのことを思い出すといい。