あの場所に、還ろう。
各地で戦闘は激化していると光の戦士が言った。
イミテーションの存在は、すでに無視できぬ程に大きな障害になっている。
数はもちろんその強さも侮れず、カオスに与する連中は、戦闘を仕掛けてくる上で大量のイミテーションを戦略に組み込むことを覚え、戦況を有利に運ぶ為積極的に利用した。
眉を顰めて憂いを見せる女神に、それらを一掃する力はない。
女神の力は世界の均衡を保つ為に使われる。
女神の駒として動く彼らに直接の支援をすることは叶わぬのだと、女神の傍らに立つ長身の男は代弁した。
それはすなわち、無限とも思える数の人形共と、それを操る敵本体とを、少数で相手にしなければならないという気が遠くなるような事実であった。
だが誰一人として不満を漏らす者はいない。
絶望的とも思える状況であっても、戦う道を選ばざるを得ないことをその場にいる全員が知っていた。
休戦・停戦の選択肢はありえない。
圧倒的優位に立つ敵に、受け入れる理由がないからだ。
負ければ死。
死にたくなければ戦って勝利するしかないのだった。
その場にいる者は静かに現実を受け入れる。
この奇妙な世界で目覚めてから、元の世界へ戻ることだけを希望にして生きてきたのだ。
状況が困難を極めたというだけで、「勝利しなければ希望はない」という元からの目標設定に変わりはない。
「やるしかなければ、やるだけだ」
落ちついた態度で吐き捨てるように呟く女は、一流の兵士を思わせた。
不安や困惑は誰しもが持っていたが、断ち切るように踵を返したその後姿に迷いはない。
「ライトの言う通りだと思います。私も、行ってきます!」
およそ戦闘には縁がなさそうな優しく慈愛に満ちた瞳に決意を宿し、召喚士の女も躊躇いなく兵士の後を追って行った。
「俺も、行ってこよ」
行こ、と隣に立っていた黒髪の女に声をかけ、共に歩き出す少年は頭の後ろで両手を組んで、気負った様子もなさそうだった。
一人、また一人と聖域を去る後姿を見つめる女神の瞳は哀しみを湛えていたが、ただ静かに座していた。
己に、何を言う事ができるのだろう。
そんな無力感に苛まれる女神を、責める者は誰もいない。
この奇妙な世界で勝敗の引き換えにされるものは、女神自身の存在をも含まれている。
負ければこの女神もまた、駒と同じ運命を辿るのだ。
「あ、そういえば」
大人しく成り行きを見守っていたラグナが片手を上げた。
生徒が発言を求めて挙手をするようなそれに光の戦士が視線を向ければ、一つ咳払いをして人口の減った聖域を見渡した。
「来てない連中、死んでないよな?戦闘長引いて遅れただけ?」
何人か姿が見えなかったが、全員が揃うことは滅多にない。
連絡事項などがあったとしても、よほどの緊急時でもない限り、「会った時に話せばいい」というのが暗黙の了解となっていた。
今までならばそれでも問題なかったが、敵の数が把握しきれないまでに膨れ上がってしまった今、一抹の不安を感じたとしてもそれは仕方のないことだった。
その場にいた全員の視線が女神に向かうが、女神は小さく首を振った。
「…大丈夫。皆、無事のはず」
「そっか。ならいいんだ」
「彼らが来たら、伝えておこう」
大きく頷いたラグナに同じように頷きで返し、光の戦士は他の者達を見送った。
世界に溢れ返るイミテーションが、ここを避けてくれる道理はない。
もし敵が来た時、神を守る戦士は必要であり、その役目はこの男を置いて他になかった。
「あぁ、よろしくな」
親指を立て信頼を示してみせて、ラグナも伸びをしながら歩き出す。
「いっちょ気合入れてくかー」
そんな欠片も見えない口調で呟く後姿を見送って、スコールもまた、踵を返す。
戦闘が、待っていた。
道中でイミテーションを倒したら、アクセサリを落とした。
作り物の人形のくせに、アクセサリや素材、果ては武器や装備品まで落としていくことがあり、一体こいつらは何で出来ているのだろうと疑問を抱くこと幾星霜、考えるだけ無駄なので、やがて「落としたものはありがたく再利用すればいい」と誰もが思うようになっていた。
この不可思議で奇妙な世界で、深く考えた所で誰も答えなどくれはしないのだった。
専門の研究者がいるわけでもなければ、研究する時間も与えられはしないのだから、目の前にある事象を素直に受け入れた方が精神にも肉体的にも親切だ。
拾ったエンゲージジュエルを目線の高さに持ち上げて、その輝きを見つめてみる。
無色透明でカットの入ったその宝石は、ダイヤモンドではないのかと思ったがその正確な価値はスコールにはよくわからなかった。
装飾品は好んだが、宝飾品は興味の範疇になかったので、宝石の価値を決める基準も詳しくは知らない。
このジュエルは確か、エンゲージリングを作るのに必要なはずだった。
…エンゲージリングをアクセサリとして装備するのか?と言う問題にあえてツッコミを入れてくれる人間は自分以外にはいなかった。
仮に素材を持て余して作った所で、自分が装備する日は来ないだろうと思ったものの、不要であれば売却することもできる。
もしくは、自分が使わなくとも他の仲間が必要とする日が来るかもしれない。
こんな世界でエンゲージが必要になる状況というものを想像したくはないスコールだったが、せっかく手に入れたアクセサリだ、手に入れたら都度大切に保管しておかなければならなかった。
武器を鍛えること、心身を鍛えることは今、最重要課題となっている。
もっと戦闘を繰り返し、強くならねばならなかった。
そして思い出す記憶もまた、必要だった。
…放っておいても、敵の方から向かってくるので探す手間が省けてありがたかったのだが。
一度加速がついた記憶の展開は、戦闘を繰り返す度、ふとした瞬間に何かをきっかけに蘇る事が多くなったと思う。
随分と思い出せたものだと思うが、今まで生きてきた年数と日数を思えば、まだまだ話にならないほど抜けている箇所は多かった。
パズルのピースは、おそらくまだ三分の一も埋まっていない。
思い出さずとも支障のない些細なものを含めれば、三分の一どころではないのかもしれなかったが、差し当たりこの世界で必要と思しき記憶の内で、不便を感じることは減ってきたように思う。
真に倒さなければならない敵は、カオスだけではなかったことも、思い出した。
スコールはため息をつく。
同じ世界に存在した魔女、アルティミシア。
あの魔女と、戦ったことを思い出す。
そしてそれに付随する、アルティミシア以外に関わった魔女の存在。
姿形は朧げで、名前も未だ思い出せない彼女達の、関わりと力の大きさに途方もない絶望を感じたことを、覚えている。
同時に救うことはできないのかと、葛藤した感情も。
諦めたくないと、思ったのだった。
己の手を見下ろしてみる。
手に持つ武器を、眺めてみる。
今ここに立つ己はまだ、諦めてはいなかった。
まだ、生きている。
まだ、戦える。
この世界のアルティミシアが、明確な意志を持ってスコールの前に立ちはだかったことはまだない。
けれど敵として在る限り、対峙したなら倒さなければならなかった。
点在するひずみの一つに手を伸ばす。
光をくぐって、スコールは愛用のガンブレードを肩に担いだ。
空に浮かぶ月が明るい。
岩と砂に囲まれた夜の空間は、暗かったが足元が覚束ないほどではなかった。
人っ子一人いないと表現するにふさわしい、静かすぎる気配に、スコールは怪訝に眉を顰める。
イミテーションは世界中に蔓延しており、またカオスに与する者達も、こちらの気配を感じれば戦闘を仕掛けてくることも一切ではないというのに、ここには何もいなかった。
「……」
気配を探ってみるが、この空間には何もない。
誰かが直前に通ったのか、それとも。
…気配を消して、待ち伏せでもされているのか。
スコールの気配が緊張した。
あまりにも日常と化した戦闘の経験が、この違和感を警戒せよと訴えている。
岩場の多いこの場所は、隠れようと思えばいくらでも姿を隠すことは可能だった。
来るなら来いという気分で、大股で道を進む。
突然地面に影が、落ちた。
「……」
上から降ってきた気配に、スコールは一歩下がる。
スコールがいた場所に過たず着地した男は、槍を地面に突き立てていた。
「…あんたがこんな冗談をするヤツだとは思わなかった」
多少の不快を滲ませ言葉を投げれば、すらりとした鎧に身を包んだ長身の影が立ち上がる。
「…よくかわしたな、スコール」
「かわさなければ、下手すれば死んでいる」
「確かにそうだ」
笑みを含んで返す男の真意を測りかね、スコールは武器を構えて一歩引いた。
「何か用か、カイン」
「いや、用はない。お前が通りかかっただけだ」
「……」
不審は拭えなかったが、敵がいない理由は納得できた。
武器を納め「わかった」と言うが、カインは武器を離さない。
その手に握られた槍を見やれば、気づいた男が同じく武器を見下ろして、得心がいったように頷いた。
「…油断すると、痛い目を見る」
「…なるほど、肝に銘じておこう」
いつどこに敵が現れるかわからない。
仕掛けてくる相手はいつだって、こちらの都合など気にかけてはくれないのだから。
向かい合ったまま動こうとしない男に焦れて、スコールは通り過ぎようと歩き出す。
横を過ぎ、数歩進んだ所で、思い出した。
「…そうだ、記憶を少し、思い出した」
振り返れば、槍を手元に引き寄せ見つめていた男が怪訝に首を傾げて見せる。
「あんたがラグナに教えたんだろう」
同じ世界から来た者同士で戦えば、より早く記憶が戻ると言ったのは、目の前に立つこの男のはずだった。
言えば、理解したのか小さく笑って首肯する。
「ああ、スコールはラグナと同じ世界から来たのか」
「…そうらしい」
どこか憮然とした様子のスコールにその自覚はなさそうだったが、近くに同じ世界から来た仲間がいるのは幸せなことだろう。
…記憶を取り戻す事が、幸せであるかどうかは本人にしかわからないことではあったけれども。
少なくともカインは身近にその存在があることで、救われもしたし葛藤もした。
だがそれは、目の前の獅子に言う程のことでもない。
「大切にするといい」
「…言われるまでもない」
せっかく取り戻した記憶だ。それが明日への糧になることもあるだろう。
立ち止まったままのカインはこのままここに留まるつもりのようだった。
邪魔をする気のないスコールは、そのまま背を向け歩き出す。
「……」
無防備な少年の背を見つめ、カインは武器を持つ手に力を込めた。
油断をすると、痛い目を見る。
しかしこれは、未来へと続く一つの希望なのだった。
半歩で駆け寄り、一撃で落とす為に身体のバランスを整える。
息を吐いて、静かに吸う。
悟られてはならない。
振り向かれてもいけない。
ほんの僅か、上半身を沈めて初動に備える。
成人しきらぬ若い背中に、済まぬと心の中で一言、詫びた。
「あれ、カインとスコールじゃねぇか!いやー良かったー!道に迷っちまってさー!」
「……!」
「…ラグナ」
二人は同時に振り向いた。
駆け寄る男は「助かったー!」と手を振りながら、満面の笑顔だ。
スコールとカインはなんとなく顔を見合わせ、やれやれとため息をつく。
カインは気づかれぬようさりげなく力を抜いて、武器を下ろした。
「あれ?帰り道こっちで合ってるんだよな?」
「「いや、違う」」
二人同時にツッこんだ。
「あんれ?っかしーな。絶対こっちだと思ったのに…」
「「逆だ」」
またも同時に即答されて、ラグナの背が仰け反った。
「お、ぉう…何だよ二人仲いいな…」
スコールとカインはまた顔を見合わせたが、スコールはため息をついて踵を返した。
ラグナの相手をする気はないと言いたげな背中を見送りながら、カインはラグナに「いいのか」と問う。
「ん?いやぁ、スコールも一人になりたい時もあんだろ」
「…そういうものか」
同じ世界から来たというくらいだから、積もる話もあるだろうと思えば意外なほどあっさりとラグナは「とりあえず戻る」と言い出した。
「そうか」
「…お前さんも一緒に戻ろうぜ、カイン」
「いや、やらねばならんことがある」
「ふーん?」
首を傾げて考える素振りを見せながら、ラグナは腕を伸ばしてカインと肩を組んだ。
「…?」
組まれた腕の強さに眉を顰めたカインと、ラグナの目が合う。
「味方を闇討ちか?」
「……!」
小声で囁くその声に、日頃の軽さは微塵もなかった。
目を見張る男に笑って見せたラグナの瞳は、冷えていた。
返す言葉が見つからず、カインは唇を引き結ぶ。
ラグナは軽く息を吐き出し、何事もなかったかのようににこりと笑んだ。カインの背中を軽く叩く。
「なんだよ、ちゃんとワケ、おにーさんに聞かせろよ~?」
「……」
普段通りのラグナの様子に、けれどカインは反応を返せなかった。
夜空に浮かぶ真円の月は美しい。
どこの世界も、どんな世界であっても、空と月と太陽の配置は変わらないのだと思えば安心した。
ここではない己が生きたあの世界の月もまた、美しかったと思い出す。
あの世界に還りたい。
必ず帰ると、約束をした。
今ここにいる俺は一体なんなんだろうと考える。
しかしどれだけ考えても、呼ばれてしまったものは仕方がなかった。
未だ明確に思い出す事の適わぬ指輪を送った相手を想う。
心配しているのだろうか。
待って、くれているのだろうか。
同時に、同じ世界から来た少年を想う。
あの少年にも、還るべき場所があるはずだった。
スコール。
…申し訳ないことに、全く出会った記憶がなかった。
けれどあの面影は、何故か酷く懐かしい。
そして同時に、愛おしい。
抜け落ちた記憶のどこかに、きっと理由はあるはずだった。
…知りたかったし、思い出したかった。
「…ま、しゃーねーな~」
頭をかいて、ため息混じりに呟いた。
時間がなかった。
見納めとばかりしばし月を眺めてから、ラグナは一人聖域へと戻るのだった。
知りえた情報を、伝えるという大切な仕事が待っていた。