私は神室町でかれこれ二十年、タクシー運転手をしている神室卓三(五十六歳)と申します。
地元の高校を留年すれすれの成績で卒業し、父親が経営する小さな居酒屋に就職を致しました。
三十三歳の時に父親を病気で亡くし、母親と二人三脚で切り盛りして参りましたがあえなく閉店、タクシー運転手に転職し、以来二十年、なんとか勤続しております。
タクシー運転手をしておりますと、そりゃぁ色々なお客様がいらっしゃいます。
とても感じの良いお客様がいらっしゃるかと思えば、突然怒鳴りつけ殴りかかってくる輩も存在いたします。
最近こそドライブレコーダーも普及し、当車にも設置させていただく事が出来るようになったおかげでトラブルは激減致しました。
それでも色々な経験をさせて頂いております。
今日はそんな奇怪な日常の一部を、ご紹介させて頂ければと思います。
ある日、いつものように私はドンキホーテ前のタクシー乗り場にてお客様待ちをしておりました。
人口の多い町、神室町ですので、不景気と言いつつもそれなりにお客様にはご利用頂いております。待ち時間はそれほど長いものではございませんでした。
最前列にて待機しておりますと、大変身なりのいい、一目で高級とわかるダブルのスーツに、光沢のある格子模様の入った上品なネクタイを締めた紳士が当タクシーの前に歩み出られました。
紳士、と言ってもまだお若いようです。
髪はオールバックで、眉間に寄せられた皺は表情を厳しいものに見せておりましたが、目が合うと僅かに表情が緩みました。
まだ三十代くらいでしょうか、随分と存在感のある男性だと思いましたが、明らかに一般の方とは雰囲気を異にする方でいらっしゃいました。
長くこの業界におりますと、その筋の方にも多くご利用頂きます。一目見れば、そちらの方かどうかは判断がつくことを自負しております。
明らかに身なりの良い紳士然とした方は、基本的に大人しく、礼儀正しく、金払いも良いことが多いです。
ですので私はあまり心配はしておりませんでした。
車道を歩き、運転席横まで歩いて来られた男性は、窓を開けた私に向かって「少し聞きたい事があるんだが」と尋ねられました。
「何でしょうか」と問い返しますと、しばらく考え込まれ、「いや、済まない。乗せてもらおうか」と一人頷かれ、後部座席へと回られました。
行き先を尋ねても、「その辺を」と何とも曖昧な返答をされ、困った私は「では神室町周辺を流しますが、よろしいでしょうか」と確認を致しました。
「ああ、それでいい。適当に流してくれ」
「はい」
戸惑いましたが、私の売上に貢献して頂けるのであれば文句はございません。
走行中、紳士はタクシー運転手について色々なことを尋ねられました。
タクシー運転手はどうやってなるのか。
運転手として一人前になる為に、どんなことをしたか、しているか。
今までどんな客に当たった事があるか。
どんな客が嫌だったか。
一日の売上はどの程度か。収入はどれくらいか。
かなり不躾な質問には答えに窮しましたが、紳士は一歩も引く様子を見せず、迷惑をかけない、誰にも言わない、どうしても知りたいと粘られ根負けいたしました。
タクシー運転手は基本的には歩合制でございます。会社によっては定額プラス歩合制ということもあるかと思います。それは場所などによりそれぞれであり、収入も、個人によって様々です。
平均的な金額として例を挙げれば、紳士は「そうか」とため息をつき、沈黙されました。
どなたか運転手を希望されているのですかと問うてみましたが、お客様は答える気がないようでした。
聞いておいてだんまりか、と思ってはいけません。
お客様は神様なのです。
一方通行になってしまったとしても、お客様にとやかく言う権利など、運転手にはございません。
勤務時間など詳細な就業内容についても問われ、答えられる範囲でお答え致しました。
これはおそらく、かなり近しい方がご希望されている、もしくはすでにご就職されているのだろうと推察しましたが、もちろん言ったりは致しません。
タクシー運転手は客商売です。お客様のご機嫌を損ねてしまっては、いけないのです。
あらかたお答えした所で、お客様はご満足下さったようで、神室町ヒルズ前で降車されました。
時間にして三十分ほど。
ぐるぐると同じ所を回るだけの簡単なお仕事でしたが、精神的には大変疲労したことを覚えております。
「色々ありがとう」
と丁寧に礼を言われ、「釣りは結構」と渡された金額は、万札は万札でも桁が一つ多く、驚きました。
余程大切な方がタクシー運転手になろうとされているのかと思えば、そちらの筋の方でしかも明らかに身分の高いであろう紳士のお身内の方なのだとしたら、止めたくなる気持ちもわからなくもありません。
収入の安定しない職業でございますので。
…そちらの筋の方の収入がいかほどなのか、私は存じ上げませんが。
浮かない表情をしていらっしゃったので、推奨はしてらっしゃらないのだろうと推察します。
ありがとうございましたと頭を下げ、私はまた、日常の生活へと戻ったのでした。
とある日の夕方、時刻はそろそろ夜へと変わろうかという頃でした。
私は七福通り西でお客様待ちをしておりました。
ニュースで今現在、ミレニアムタワー前で大きな事件が起きているとラジオから流れてきており、大変興味は惹かれましたが、車内でじっと待機していた時のことです。
後部座席の窓をいきなり叩かれ、心臓が飛び出るほどに驚きました。
慌てて振り返ると、血相を変えたその筋の方が、開けろと催促していました。
肩で息をし、全速で走って来たのだろう事が窺えましたが、扉を開くと倒れ込むように座席へと沈み込み、大きなため息を吐きながら何かを呟かれました。聞き取れず、私は問い返しました。
「…東城会本部、へ」
「はい、かしこまりました」
その筋の方の総本山でした。
この神室町で、いえ日本全国でその名を知らぬ者はないでしょう。
日本一と言ってもいいくらいの大きな極道組織の中心部でした。
グレーのスーツに、臙脂色のシャツは所々埃や血でしょうか、汚れていました。
ケンカでもしたのでしょうか…額に汗を浮かべ、目を閉じるその顔は苦しそうにも見えます。
左腰骨の辺りを、スーツの上から握りこむようにして押さえているのが気になりましたが、単刀直入に聞くほど馬鹿ではありません。
「先ほど、ミレニアムタワーで何か事件があったらしいですね」
「……ああ、そうらしいですね」
話題を振ってみましたが、億劫そうなくせに丁寧な返答をされ、それ以上話しかけることを躊躇いました。
ミラーごしに見つめてみると、長身で立派な体躯を投げ出すようにして、窓に頭を寄せて俯き加減の顔色は酷く悪そうでした。
「体調が優れませんか?」
「…いや、少し眠いだけです」
「そうですか、着いたら声をおかけ致します」
「ああ、ありがとう」
たったそれだけの会話でしたが、安堵したように息を吐き、力を抜いた様子のお客様はお疲れのようでした。
満身創痍、といえばお分かりいただけるでしょうか。
見るからに上等なスーツ、というわけではなさそうです。
そちらの筋の方であることは確実ですが、威圧感といいますか、圧倒的な存在感というものは感じませんでした。
けれど只者ではないなと思ったのは、その身のこなし、でしょうか。
タクシーに乗り込んでくるその仕草。
身体を投げ出して辛そうにしているというのに、時折目を開いて周囲を確認し、位置を確認する隙のない様子。
全くの素人であり一般人である私に何がわかるのか、とお思いになるでしょう。
私もそう思います。
けれど何故でしょう、おそらく三十代後半から四十代半ばと思われるお客様の雰囲気が、今までに見たお客様とは違ったのでした。
静かに座っており、顔色も悪く、今にも倒れそうな様子であるのに、瞳を開けば全く弱さを感じさせませんでした。
不思議な方だなぁと、思った記憶がございます。
到着し、支払いを済ませ扉を開けた瞬間、お客様が豹変致しました。
あんなに辛そうだったのが嘘のように、地面に足をついたその瞬間から、堂々と歩き出したではありませんか。
真っ直ぐ伸びた背、大股で歩く足に迷いはなく、正面を見据える瞳は睨まれたら硬直してしまいそうな程でした。
門を潜って奥へと歩いて行く後姿をいつまでも見送っていると、門の先に、スーツを着た男たちが地面に倒れ込んでいるのが複数見えました。
その中の一人に男性が近づいて跪き、様子を窺いまた立ち上がって建物へと急いで走って行きました。
走れるのか!!と、驚愕した覚えがございます。
車内にいたお客様とはまるで別人のようでした。
さて私は救急車を呼ぶべきなのか、警察を呼ぶべきなのか迷いましたが、結局救急車に電話をし、そのまま立ち去ることに致しました。
くわばらくわばら、というやつです。
触らぬ神に祟りなし、です。
一旦休憩を入れようと店前の駐車場に停車し、ふと後部座席を見て戦慄致しました。
血が。
どこかに怪我を負っていたようなのです。
大丈夫だったのでしょうか…。
それからしばらく経ち、私はまたドンキホーテ前でお客様待ちをしておりました。
後部座席に乗り込んで来た二人連れは、カップルと言うには年齢が離れすぎており、親子のように見えました。
可愛らしい女の子と、もう一人は…。
「神室町ヒルズまで」
「はい、かしこまりました」
「短いドライブだね、おじさん」
「歩きたかったか?」
「ううん。おじさんの怪我、まだ完治してないから」
「歩くくらいは出来るんだぞ」
「おじさん、すぐ絡まれるからタクシーで正解だよ」
「……」
僅かに困ったような表情を浮かべて、苦笑する「おじさん」は、東城会本部へとお連れした男性客でした。
ああなるほど、と、私は納得したのです。
きっとこのお嬢さんを救い出す為に、この男性は単身飛び込んで行ったのだと。
…ドラマや映画の見すぎでしょうか?
直接聞くわけにはいきませんので、ささやかな妄想くらいはお許し頂きたいものです。
神室町ヒルズに到着し、降車された先には、いつぞやお乗り頂いた、身なりの良い紳士が立っていました。
「もう怪我は、大丈夫ですか?」
「その言葉、そっくり返すぜ大吾」
笑顔で言葉を交わす様子は親しそうでした。
共にいる女の子もまた笑顔で挨拶をしているので、家族ぐるみのお付き合いでもあるのだろうと推察しました。
今日は身なりのいい紳士のスーツの襟には、小さなバッジがついていました。
…その筋の方が所属を示す為につけている、代紋というやつです。
良く良く見れば、紳士の背後少し離れた場所にずらりと並ぶ黒服の厳つい集団が周囲を威圧し、異様な雰囲気です。
代紋をはっきりと見れるほど視力は良くございませんが、黒服の一人が「会長」と紳士を呼んだので、気づいたのです。
神室町を支配している組織は、東城会。
東城会の現会長の名前は…。
名前は確か…。
「おじさん」と呼ばれた男性が、紳士を呼んだ名前を思い出しました。
広域指定暴力団・東城会六代目会長、堂島大吾。
「…うわぁ、あれ、本物かぁ…」
感嘆とも驚愕ともつかぬため息が漏れました。
タクシー運転手歴、二十年。
その筋の方には数多くご乗車頂いておりますが、トップの方にお乗り頂く日が来るとは思ってもいませんでした。
根掘り葉掘り運転手業務について聞かれたのは、遠い昔の話ではありません。
…東城会が、タクシー業界に進出するとか?
イマイチピンと来ませんでしたが、ライバルが増えたら困るなぁと思ったのでした。
それにしても東城会の会長が敬語で接している男性は一体何者なのでしょうか。気になります。
女の子もとても可愛らしいのですが、どこかで見たような気がして仕方がありません。
うずうずしてしまいましたが、タクシー運転手は時間は自由になれども遊んでいる暇はありません。
名残惜しい気持ちを抱えつつ、日々の業務へと戻ったのでした。
後日、テレビを見てアイドルのデビューイベントでの騒動と、「おじさん」の正体を知ることとなり、世の中は狭いもんだなぁと、しみじみと世界の不思議を噛み締めたのでした。
またのご利用を、お待ちしております。
END