極道の世界に決まった勤務時間は存在しない。
  事務所に毎日「出勤」する必要もない。下っ端構成員は交代で事務所に詰めていなければならなかったが、己でシノギを見つけて稼げるようになれば自由だった。
  呼び出しがあれば何時であろうとも駆けつけなければならなかったが、何もなければ組員は各自金策しているのが常である。
  まとまった給料がもらえるわけではなく、己の食い扶持は己で稼がなければならないのだ。
  犯罪行為を裏でやっているヤツもいれば、店舗経営や金貸しなどで収入を得ているヤツもおり、かと思えば一般企業にバイトとして働いているヤツもいた。会社員として働き、上納金を納めるのが馬鹿らしくなって極道から足を洗うヤツもいる。「組」としてまとまっているように見えても内実は十人十色で、金策方法も枚挙に暇がない。
  ただ一つ、どの極道組織にも共通して言える事は、のし上がれる人間は金を稼ぐのがべらぼうに上手いか、腕っ節がべらぼうに強いかの二択しかない。
  桐生一馬という男は明らかに後者であり、聞いた限りでは最強だった。
  部屋に出入りするようになって、大吾は桐生の生活の不規則さに驚いた。
  基本的に夜型の生活をしている男は昼まで寝ている事が多かったが、早朝に出かけることもあるようだったし、昼に帰ってきて夜まで寝ていることもあるようだ。外泊で戻って来ないこともよくあるのだという。
  大吾が学校帰りに寄ってみても不在であることが多く、帰るまでに戻って来ないこともしょっちゅうだ。
  桐生の部屋に出入りする為の条件として提示されたのは三つ。
  一つ、夕食までには帰ること。泊まらない。
  一つ、桐生の許可を得た物以外の私物を放置しない。散らかさない。
  一つ、合鍵を持っていようとも、必ずインターフォンを押して在宅確認をすること。
  約束はきちんと守っていた。
  無人の部屋で大吾が何をしているのかといえば、真面目に参考書を開いて勉強をし、飽きたらテレビを見たりゲームをしたり、少し横になって昼寝をする。
  桐生の部屋には食べ物飲み物のストックなどは殆どなく、酒の類は何本かは入っていたが、驚くほどに少なかった。
  酒を飲まないわけではなく、馴染みの店で飲んでくるから普段は必要ないということで、どんな店だろうと興味は沸いたが、未成年なので当然連れて行ってくれとも言えない。
  食欲旺盛な高校生が何もなしで空腹を凌げるはずもなく、桐生の家に寄る時にはコンビニで食べ物と飲み物を調達する。桐生が在宅だったり、途中で帰宅してきてもいいように、余分に買い込むことも忘れなかった。
  余ったペットボトルや缶は冷蔵庫の中に入れておけば桐生が勝手に飲んだ。
  飲んでいいから、と言っておけば、桐生はちゃんと飲んでおいてくれるのだった。
  正直な所、桐生のいない部屋にいた所でつまらないのだが、別の部屋が出来たようで嬉しくはある。
  こっそり部屋を漁ってみたりもしたが、何も面白いものはなかった。
  エロ系グッズもないのだ、どういうことだ!男なら持っていて然るべき、と思ったが、もしかしたら大吾が来るから処分したのかもしれなかった。
  …桐生一馬がこっそりエログッズを処分している様は想像できなかったが。
  特定の女がおらず、色々どうしているのだろうと思ったが、「桐生さんはおモテになりますよ」と聞くヤツ全てが答えるので、困っているという事は全くなさそうで羨ましい限りだった。
  この部屋には寝る為だけに帰って来ているような状態なのだろう。殺風景な部屋だった。壁際に服は山ほど掛かっていたが、並びは適当で色味もバラバラだった。系統ごとにわけるとか、色ごとに分けるとかしても良さそうなものだが、袖を通していないことが窺えるタグつきの物が飛び飛びに掛かっていたりと、頓着している様子はない。小さめの下駄箱の中には靴がいっぱいに入ってはいたが、あまり履いているという感じもない。
  大吾が知る桐生はファッションに気を遣っている印象だったが、実際部屋を目の当たりにするととてもそうは見えなかった。でも数と種類はやたらと多い。ベルトの種類も多く、指輪やブレスレットやネックレスなどのアクセサリーがないのが不思議なくらいだ。
  どうにもちぐはぐな印象を拭えない。
  誰かからののプレゼントとか貢物とか、そういうことなのだろうか。
  よくわからないな、と大吾は首を捻った。
  桐生一馬という人物像を知りたいと思うのだが、どうにも掴み所がない。まだ高校一年生でしかない大吾に知られる程度の人間像ならば大したことはないのだが、それにしても見えなかった。
  わかっている事は、とんでもなく強くてカッコ良くてすげぇってことだ。
  …うん、ちっともわかってない。
  そういうことではなく、性格とか、色々もっとあるだろう、と思うのだが、性格も男前でカッコ良かった。これしかもう、言い様がない。
  いやいやもっと弱点とか、情けない所とか、ダセェ所とか、幻滅するような部分があるだろう。人間なんだから、あるはずだろう。
  でも、今のところ見当たらなかった。
  今までのサイクルでは桐生の本性を垣間見る事は難しいかもしれないと思い、大吾は週末、学校休みなのをいいことに朝早く押しかけた。
  現在の時刻は朝八時。
  おそらく寝ている。
  一応もっともらしい理由として、中間テストが近いから集中して勉強する、というのを用意していた。コンビニで差し入れを購入してくることも忘れなかった。
  インターフォンを押し、反応を待つ。
  寝ているならしばらく待たねばならないと思っていたのに、ドアは程なく開けられた。
「…今何時だと思ってやがる」
「おはよう、桐生さん。勉強しに来た」
「……」
  胡乱気な瞳で見つめられたが、桐生は服をちゃんと着ていた。
  あれ?と首を傾げ、出かけるのかと問うが否と返る。
「今帰ってきた所だ…これから寝るんだが」
  帰れと告げられていることを理解したが、大吾は気づかないフリを決め込んだ。
「朝帰りかよ。邪魔しねぇし、寝てくれていいよ」
  間近に立つ桐生からは酒の臭いと、甘い香水の匂いがした。
  桐生の部屋にあるどれとも違う香だった。
「…いるだけ邪魔だろが」
「条件守ってるけど」
「……」
  一度たりとも約束を破った事はない。
  桐生に対してこの言葉は何よりも有効に働く事を、学んでいた。
「…騒ぐなよ」
「ガキじゃねぇんだから、大人しく勉強するって」
  渋々ながらも招き入れられ、満足した。
「…条件に帰れと言ったら帰ること、を追加していいか」
「何だ今更。男らしくねぇな桐生さん」
「……」
  肺一杯に吸い込んだ息をため息として吐き出された。
  これ見よがしのそれに、子供かよと思う。
  鞄を畳の上に置き、コンビニの袋を卓袱台の上に乗せて中身を取り出す。
「コーラは俺の。桐生さんも飲むならもう一本あるからあげようか?」
「…ああ、風呂上がったらもらおうか」
「オッケー。冷蔵庫入れとく。サイダーもあるけど」
「お前が買ってくるのは炭酸ばっかりだな」
「ばっかりじゃねぇよ!茶もあるし缶コーヒーとか新製品のジュースとかあるぜ」
「はいはい、すぐ飲まないヤツは冷蔵庫入れとけ」
「おう、入れとく」
  買ってきた物を冷蔵庫に入れている間に、桐生はタオルと着替えを持って浴室に消えた。
  週末の朝八時は爽やかな陽光が部屋に差し込み、静かだった。
  無音の中、シャワーの音が聞こえてきて落ち着かない。
  女と一緒にいたのかなと思った。
  ホントにモテるんだなと納得する反面、普段全く女の気配を感じないのが不思議だと思う。
  ぼんやりと閉めた冷蔵庫の前で座り込んでいたが、我に返って鞄の中から教科書とノートを出す。
  テスト範囲を確認し、暗記作業だったが全く集中できない。
  シャワーが止まって、桐生が出て来て漸く落ち着いた。
  タオルを首にかけ、上半身裸の男は卓袱台の上に広げられた教科書を見下ろして目を細めた。
「…何だそれ、歴史か?」
「世界史だよ」
「世界史?」
「日本史もある。まだ習ってねぇけど」
「ほう。ネアンデルタール人がどうの、メソポタミア文明がどうのというやつか」
「そうそう。詳しい?」
「いや、一般教養の範囲だな」
「ふーん」
  冷蔵庫を開け、コーラのペットボトルを取り出す背中には、見事な応龍の刺青があった。
  カッケー。
  マジでカッケー。
  龍を彫るなんて並じゃない。
  でも、合ってる。
  『堂島の龍』の二つ名はここから来ているのだ。
  極道世界に興味を持てば、否応なく聞かされるのは堂島の龍の活躍だ。
  輝ける武勇伝は数知れず、堂島組のみならず東城会はもはや最大の極道組織になっていた。
  実在するにも拘らず、すでに伝説の域なのだった。
  そんなすごい男は今大吾の目の前でコーラを立ち飲みし、げっぷをしていた。
  無駄のない筋肉が素晴らしく、バランスが良く完璧だった。良く鍛えられている、ということもあるだろうが、実戦で培いしなやかで柔軟な身体が出来ているのだった。
  こんな身体になりたい。
  やっぱカッケーんだよなぁ。
  五百ミリリットル一本飲み干す様をただ見つめていれば、気づいた男が怪訝に眉を寄せた。
「…何だ」
「その身体いいなぁ」
「あ?…頑張れよ」
  軽く鼻で笑われたが、カッコイイので気にならない。
  寝ると言い、布団を敷くのに卓袱台が邪魔になるので部屋の隅に寄せ、大吾も移動して壁際に座る。
「オールで遊んでたのか?」
「…遊ぶの意味がわからねぇが、まぁ、色々だ」
「…ふーん」
  色々、という表現の中に、女との色々、も含まれているのかなと思ったが、ツッこんだところでどうしようもないことだ。
  納得を見せれば何かを思い出したのか、桐生が布団の上を歩いてスーツのポケットへと手を伸ばし、出した物を大吾へと放り投げた。
「わっ」
  慌てて受け取り手を開くと、四角い箱のような物は包装も何もなくむき出しで、黒のそれに銀文字で何かが刻印されていた。店名だろうか。
「俺はそういうの、つけねぇからな。気に入ればやる」
「え」
  中を見ればシルバーアクセサリーだった。
  ハードなデザインのゴテゴテと飾ったタイプの指輪が一つ入っており、あっと気づいて店名を確認すればそれは雑誌で良く見かける有名ブランドのロゴだった。
「すげ、これめちゃ高ぇブランドじゃん!」
「そうなのか?…いるならやる。いらなければ返せ」
「いる!いるいる!ありがとう頂きます!!」
「…そうか」
  大吾のはしゃぎっぷりに気圧されたように頷き、桐生は今度こそ布団の上に横になった。
「起こすなよ?」
「おう。…あ、一つだけ!これ、どうしたんだ?貰い物?」
「まぁ、そうだな。仕事だ」
「へぇ…うん、ありがとう。おやすみなさい!」
  深くは追求せず、大吾は引いた。
「ああ、おやすみ」
  目を閉じる。
  他人の気配が間近にあると気になって眠れないかと思ったが、意外にも気づけば深い眠りに落ちていた。
「……」
  しばらく指輪を眺めていたが、桐生が静かな寝息を立て始めたことに気づいて箱を閉じ、鞄の中にそっと仕舞う。
  気まぐれだろうと、嬉しかった。
  桐生の睫毛は長い。
  意志の強すぎる瞳が隠れてしまうと、その顔はとても穏やかだった。
  夏に向けて少し強くなってきた日差しは、それでもまだまだ爽やかだ。
  明るい室内で良く寝れるなと感心したが、起こさないよう細心の注意を払って勉強に集中することにした。
  昼までのおよそ四時間、途中で教科を変更したものの随分と勉強は捗った。
  昼飯どうするのかなぁとそろそろ空腹を訴え始めた腹を押さえて大吾は桐生を見やるが、まだ気持ち良さそうに夢の中だ。
  買ってきた菓子は食べてしまったので、もうない。
  腹が減って集中力が途切れ、休憩しようと壁に背を預けてぼんやりと眠る桐生を見つめる。
  起きるなら一緒に食いに行きたいな。起きないなら何か買ってくるか、食いに行かないと。
  まだ四時間程度しか経っていないので、起こすのは躊躇われた。
  起こすなと言われていることだし、どうしよう。
  開けたての缶コーヒーを口に含む。
  甘ったるくて、コーヒーの味というより砂糖のような味が強いが、飲めないこともない。
  ずっと静かだったアパート周辺だったが、誰かが階段を上がってくる音がする。
  カンカンカン、と靴音高く鉄製の階段を踏む音は随分大きく響いた。
  コツコツと地面を踏む音がし、ドアの前でそれは止まった。
 
  ピンポーン。

  間抜けな音が室内に響く。
  来客だ。
  桐生を見れば、眉間に皺を寄せて身じろいだ。
 
  ピンポーン。

  大吾が出る筋合いはないが、用件くらいは代わりに聞いておいてやるべきなのだろうか。
  ドアと桐生とを視線が行き来するが、声は出さない。ややあって、桐生の目が開いた。
  不機嫌な表情に苦笑が漏れる。

  ピンポーン。

  諦めればいいのに、ドアの外の人物はしぶとかった。
  ため息を落とし、桐生が立ち上がる。
  缶コーヒーを抱えたまま大吾は後姿を見守った。
「…はい」
  不機嫌を示す重低音で桐生がドアを開けた瞬間、外から何かが飛び込んできた。

「桐生チャーン!腹減ったから喰わせろやー!!」

「……まッ…!?」
  ソレは勢い良く桐生に抱きつき、不意を突かれた桐生はそのまま後ろに倒れこんだ。
  どすん、とものすごい衝撃があり、部屋が揺れた。
  玄関先に仰向けで押し倒され桐生が呻く。
「…っつ…!ちょ、何ですかいきなり…ッ!!」
「おうおう都合良く布団があるでぇ。しかも都合よく桐生チャン裸やーん」
「…ッなん、何ですか退いて下さい真島の兄さん!」
「いややわぁ桐生チャン。退くわけないやんアホちゃうか」
「…ッ!!」
  蛇柄のジャケットを掴んで引き剥がそうともがく桐生と、両腕を腰に回して押さえ込み、首筋に舌を伸ばす真島という男との攻防を間近で見ることになった大吾は硬直した。
  何が起こっているのかわからなかった。
  真島の革手袋ごしの手が桐生の身体の上を這い回る。
  下衣を脱がそうと手をかけるのを、桐生が腕を掴んで止めていた。
「兄さんっ!」
  聞いた事もない必死な桐生の声にも驚いたし、この真島という男のいかにもヤクザといった風体と、強引極まりない行動にも言葉が出ない。
  何だこれ。
  何やってんだこれ。
  ヒヒヒと楽しそうに笑う真島と、目が合った。
「……何やコイツ」
  コイツ扱いされ、大吾は両手で握り締めた缶コーヒーを危うく握りつぶしそうになる。
  隻眼で睨み上げられ、負けじと大吾も睨み返す。
  だが本職の眼力は強かった。
  拮抗できたのはほんの僅かな時間だったが、破ったのは桐生だった。
「堂島大吾です、真島の兄さん」
「どうじま、だいごぉ?」
  動きを止めた真島の手を、引き剥がす。
「ええ…。退いて下さい、兄さん」
「……」
  無言で身体を起こして目を眇めながら見つめられ、大吾は非常に居心地の悪い思いをした。
  蛇に睨まれた蛙状態だった。
「何で桐生チャンとこに堂島の坊がおんねん」
「…色々とありまして」
  色々ねぇ、と呟きながら、至近ににじり寄り上から下まで視線が行き来した。
「……」
  値踏みするようなそれは温かみの欠片もなく、大吾は再び睨み返した。
「お初にお目にかかりますぅ。嶋野組の真島吾朗ですお見知りおきを」
  向けられた笑顔は底冷えのするものだった。
  真島吾朗。
  嶋野組。
「嶋野の狂犬…」
「ほほ~。ご存知でいらっしゃる?」
「…噂は」
「そら光栄やなぁ。今後ともどうぞご贔屓に~」
  にこりと笑んで見せたが、好意とは無縁の作り笑いに頬が引き攣るのを自覚した。
  何だコイツ、ガチすぎる。
  桐生とのあまりの違いに愕然とする。
  言うだけ言って興味をなくした真島は、靴のまま立ち上がった。
  畳の上を歩き、玄関へと向かう。
「真島の兄さん」
「…萎えた。帰ろ」
「そうですか」
「堂島はん必死やなぁ」
「どういう意味ですか」
「親子そろて囲い込みとか独占欲強すぎや」
「…?」
  首を傾げる桐生の鼻先に、人差し指を突きつける。
「坊にまで唾つけられんよう気ぃつけや。ワシ泣くで」
「…は?」
「ほなな」
  軽く手を振り、ドアは開け放したまま帰って行く男の存在が唐突すぎて、桐生も大吾もしばしその場から動けなかった。
  いち早く立ち直った桐生がため息をつきながらドアを閉め、土足で踏まれた畳を払う。
  卓袱台に肘をついて胡坐をかき、煙草を取り出し吸い始めて、ようやく壁に凭れたまま硬直していた大吾の意識が切り替わった。
「…何だったんだあれ」
「見ての通り、嶋野の狂犬だ」
「噂通りなのはわかった。何だったんだあれ」
「……」
  同じ言葉を繰り返す少年の意図を察したが、なんと答えるべきか逡巡する。
「桐生さん、あれ」
「ああ…あの人は、変わった人だからな」
「……」
  大雑把過ぎて適当過ぎるまとめ方をされた。
  それはすなわち、聞かれたくない、答えたくないということだった。
  顔を顰めて考え込む大吾を見やり、桐生は紫煙をため息に混ぜて吐き出す。
  眠気は飛んでいた。
  二度寝をするには時間が半端だったし、丁度昼だった。
「…飯、食いに行くか、大吾」
「…え、あ、」
「腹減ってるだろ」
「ああ、それはもちろん」
「じゃぁ用意しろ。すぐ着替える」
「わ、わかった…」
  昼食を取り、コンビニで菓子や飲み物を買い込んで家に戻って来たものの、難しい表情をして大吾は「帰る」と言って帰って行った。
  冷蔵庫の中の飲み物の山と、置かれっぱなしの菓子の山を見やり、お子様に見せるもんじゃなかったなと桐生は眉を顰めてため息をついた。


06へ

御曹司の躾作法-05-

投稿ナビゲーション


Scroll Up