床に血で描いた円環と三角形が光り輝いている。
蔵書を保管する為の広い地下室が、地響きで揺れていた。
一冊の古書を抱え、円環の中で身動き取れず片膝をついた男は、これから起こるであろう奇跡を固唾を飲んで見守った。
俗称魔法陣と呼ばれるそれは、最初淡く陽炎が立ち上ったが、やがて妖しく輝く赤い光の柱となり、白く眩い光へと変化して、地下室一面を浸食した。
男は反射的に目を閉じ、瞼から光の圧が消えるのを待って、ゆっくりと瞬きをする。
視界の先三角形の陣の上に、裸足の人間が立っていた。
「……」
思考する間もなく、男の視線は床から上へと持ち上がり、下半身から上半身へと移ろう中で「男だ」ということは認識したが、それよりもひらひらと光り輝きながら床へと舞い落ちる、白い羽根へと視線が向いた。
床へ触れた瞬間、光の粉となって消え去る様は、水滴が水面へと落ちた瞬間跳ねて飛び散る様に似ていた。
裸体の男の背後には、白く輝く羽根があった。
まさかと思い、視線を再度上向けて、男の顔を視界に入れた瞬間落胆をした。
そこには言語化するには足りないほどの、美しい「天使」がいた。
己の表情には寸分たりとも感情は現れてはいなかっただろうが、顔を見つめ沈黙した男の気配に気づいたのだろう、召喚された「天使」は気だるげに己の髪をかき上げながら、召喚主である男を見下ろした。
「おれを喚んだのはきさまか」
流麗にすぎる、声だった。
「…結果的には、そうなるかと」
返答は平坦であり、無感動になった。
こんなモノを召喚するつもりではなかった。
心の声が聞こえたわけでもあるまいが、眉を顰めた「天使」は三角形の陣から円環へと無造作に踏み出した。
三角形は檻となるべきものであり、円環は自らを守る為に敷くものだ。
それは絶対のルールであり、許可なく外へ出るなどありえないことだった。
檻であるべき三角形は召喚主を守るべく役目を果たし、踏み越える前に力を発動するはずであった。
だが光の柱が「天使」に突き刺さることはなく、容易く陣を踏み越えて、男がいる円環の中へと踏み入った。
片膝をついたまま、無表情ではあるもののいささか呆然と言った体の召喚主の顎を掴んで上向かせ、美貌の「天使」がその瞳を覗き込む。
息を呑めば、完璧な角度で口角を引き上げ笑みを形作り、楽しげに薄氷色の瞳を細めて見せた。
「なるほど、ばけものの血と存在で、おれを喚んだか」
「……」
「きさまの名を聞いてやろう。名乗れ」
本来であれば、召喚主が求めるべきものだった。
名で縛り、契約を交わす。
「……」
さすがにこれでは主従が逆転する。
躊躇していると、「天使」は煌めく金髪を揺らして、笑った。
空気が瞬時に軽く暖かくなったような錯覚を起こし、己の額から汗が一筋、流れ落ちていくのを男は自覚した。
目の前の美貌の若者は、間違いなく人外のモノである。
容易く名を与えることの危険性を、理解していた。
男の葛藤を見透かしたように、「天使」は笑う。
「用心深いな。では先に、望みを聞いてやろう。言ってみろ」
それならば躊躇なく言えると、口を開いた。
「私は己の生を、終わらせたい」
「…ふん?容易いことだろうに」
「あなたにとって容易いことならば、それは僥倖というものだ」
己にとっては、至難の業だった。
言えば美しい笑みを深くして、彼は一つ、頷いた。
「きさまの願いを叶えよう」
「…本当に?」
問えば優しく諭すように微笑まれ、「嘘はつかぬ」と重ねて囁くその声音は、悪魔の誘惑のごとき甘さに満ちていた。
「だが私は、先にあなたの名が知りたい」
口走りそうになる己の名を喉の奥に押し込んだ。
逆に名を求めると、形の良い指先は己の顎先から離れていった。名残惜しい、と、思った感情は胸の底へと踏みつけた。
立ち上がり、正面から相手を見つめる。
絡む目線の高さはそれほど変わらなかった。
返答を待つこともなく、「天使」はその象徴ともいうべき輝く羽根を消し去って、「好きに呼べ」と宣った。
「は?」
「おれの名は、きさま達には聞こえぬものだ。きさま達が勝手につけた名はおれの名ではない。ゆえに、きさまも好きに呼ぶがよい」
「…はぁ…?」
「おい、頭は悪そうに見えないが、実は悪いのか。知能指数が低いのならば、悪かったな。もっと易しい言葉で噛み砕いて言うべきなのか。だがおれは馬鹿はきらいだ。畢竟言葉を尽くすに値しない馬鹿に重ねる言葉を持たぬ。理解せよ」
「…いえ、理解しました。問題はありません」
「ならばよい」
稀代の名工が情熱を傾けて作り上げたかのような美しい唇が、ひどい毒を吐き出す様すら優美である、という事実に半ば呆然としたが、我に返って男は己の敗北を悟った。
己の存在は、彼の前には塵に等しい。
「私の願いを、叶えて頂けるのですか」
「二度は言わぬし、二言はない」
「…私は、パウル・フォン・オーベルシュタインと申します。…あなたを、わが主として迎えましょう」
自ら名乗るということは、そういうことだった。
自らを差し出す。
「天使」が召喚に応じるとは思わなかったが、「悪魔」との契約とは、本来そういうものだった。
だが「天使」は、本棚に並べられた蔵書へと向けていた意識を戻し、目を見開き、眉間に皺を寄せた。
「はぁ?」
頓狂な声を上げたが、そんな声すらも美しいと思うのはどういうことなのか、オーベルシュタインにはわからなかった。
「…はぁ?とは?」
問い返す。
「天使」に知能指数が低いと言われてしまえは反論の余地はないが、己は馬鹿ではないと信じたい。
人間年齢で言えば二十そこそこに見える比類なき美貌の持ち主は、嫌そうな表情を隠しもしなかった。
「従僕などいらぬ。そもそもきさまは贄である」
「…なるほど、贄」
「大人しく、時を待て」
「御意」
簡潔な服従の言葉は「天使」のお気に召したようだった。
満足そうな笑みを向けられ、オーベルシュタインは目の前の若者との、取るべき距離感を理解した。
また意識が蔵書へと向かった「天使」は、話が終わったと同時に書架へと歩き出す。
引き止める理由は見当たらなかったが、とりあえずいつまでも全裸のままでいさせるわけにはいくまい。
服と部屋の手配の必要を感じたが、御前を辞すための挨拶に呼ぶ彼の「名」がないことに不便を感じる。
さてどうするか、と思っていると、廊下へと通じる扉が開き、外から血相を変えた男が飛び込んできた。
「閣下!こちらにいらっしゃいましたか!先ほどの地震ですが、被害はなかったよう…で…す…?」
語尾が消え、こちらへと走ってきていた足が途中で止まった。
不審に思い見つめれば、男の視線はオーベルシュタインをすり抜けて、書架へと向かっていた。
そちらを見やれば、類を絶する美貌の男が、全裸のまま入ってきた男へと視線を向けていた。
あ、と思ったが、遅かった。
「…閣下、愛人を連れ込んでらっしゃるなら先に一言言って頂けませんと」
「「違う」」
異口同音に否定され、男はきょとりと目を瞬いた。
地下室を出て、居間へと移動した。
「天使」には仮の服としてオーベルシュタインの私物を渡したが、黙って着こなして見せた。「足の裾が短い」などとさりげなく嫌味を言うことも忘れなかったが、美しい天使の囀りだと思えば微笑ましいものだった。
愛人扱いされたことなどどうでもよさそうに、出された赤ワインを一人で吟味しては「悪くない」などと呟いている様も絵になった。
「ローエングラム公、ワイン以外にも何か召し上がりますか?」
愛人呼ばわりをした張本人の男は悪びれもせず、給仕に徹している。
「…食事は必要ない。ローエングラム公とは、おれのことか」
給仕されるのは当然と言わんばかりに二杯目のワインを注がせながら、長い足を組み替え金髪の青年が問う。
「ローエングラム公ですよね?」
「…そういうきさまは名乗らぬのか」
「これは失礼を致しました。小官はアントン・フェルナーと申します。以後、お見知りおきを」
「見知りおく理由がないが、まぁよい。おれのことは好きに呼ぶがいい」
「…はぁ、でも、ローエングラム公でしょう?」
「フェルナー」
オーベルシュタインは抑揚に欠ける口調で呼び止めたが、窘める色を持っていることに、唯一の下僕は気づいた。
「…これは出過ぎた真似をいたしました。ではなんとお呼びすれば?」
半白の髪を持つ主を見て、ワケアリの美貌を見るが、どちらも素知らぬ顔でワイングラスを傾けている。
「好きに呼べ」と青年は言ったのだから、やはりローエングラム公でいいのだろうとフェルナーは思った。
「閣下、好きに呼べとおっしゃるのですから、小官はローエングラム公とお呼びします。…それはいいとして、公は本日はこの屋敷にご宿泊で?」
部屋の用意が必要か否かを問うたのだったが、世界に二人と存在しないはずの美貌をきょとりと傾けて、しばし考える様子を見せた。
「宿泊の定義とは?」
「は?えーと…」
ここで宿泊の定義を問われるとは想像の埒外であった。
黙して金髪の美青年を見守る己の主の表情は、読み取れない。
「自宅以外の場所に泊まること、一夜を明かすこと、でしょうか」
「その定義ならば是と答えよう」
「は、はい、では部屋の用意を」
「部屋など必要ない」
「…はい?」
何言ってんだこの元帥閣下は、と、フェルナーは思った。
こんな顔、そっくりさんすら存在するわけがない。
ローエングラム公と呼ぶことを否定しなかった目の前の美貌の男は、銀河帝国唯一の元帥閣下であるはずだった。
護衛もなくたった一人で、いつのまにこの館の主と懇意になったのかは知らないが、地下室で己の主と全裸で共にいたのだった。
ここまで考えて一つの可能性に思い至り、ああ、と、嘆息した。
「これまた失礼を。閣下と一緒にお休みになる、と…」
「「それはない」」
再度異口同音に否定され、フェルナーは思考を放棄した。
「…閣下、説明をして頂けませんか?」
助けを求めたのだった。
オーベルシュタインは自ら説明する気はないらしく、ただ金髪の若者を見ていた。
グラスを弄びながら、まるでこの館の主であるかのように堂々と振る舞う若者は、何でもないことのように今後の予定を口にする。
「久しぶりの自由だ。好きにさせてもらう。休憩したいときにはここへ戻ることを約束しよう」
「…はぁ…、はぁ?」
ローエングラム公は休暇を取ったのか。
それで一人でここに遊びに来た?
そういうことか?
主を見ても、否定はなかった。
では、そういうことなのだろう。
「…わかりました。一応部屋は用意しておきますので、必要であれば使ってください」
「フェルナーと言ったか、きさまなかなか出来るな」
「ありがたき幸せ」
部屋を用意し終わっても、時刻は二十三時を回る位のはずだった。
それから屋敷を辞し、自宅へ戻る。
出勤し、帰宅してからまたこの屋敷へ来る。
それがフェルナーのルーチンワークだった。
好きでやっていることだった。
数年前に執事夫妻を事故で亡くしてから一人になった主の、世話をするのが自分の役目であると弁えていた。
仕事を辞めて専属でお仕えしますと言っても、首を縦に振らない主の為に、できる精一杯が今である。
そんなフェルナーを見る他称「ローエングラム公ラインハルト」の瞳は、興味深そうに細められていた。
「人間がばけものに仕えるのは、よほどの物好きかお人好しか」
「…っ!!」
「……」
フェルナーは絶句したし、オーベルシュタインはただ沈黙を守った。
そこだけ時間が止まってしまったかのような硬直を見やり、前髪をうっとうしげにかき上げながら、若者は「驚くことなど何もなかろう」と平然と答えた。
「操られているわけでもない人間が、自ら進んで仕えるというのは面白いな」
「…フェルナーは全てを承知の上で、仕えてくれています」
「きさまも、眷属にはしないんだな」
「はい」
「ふうん」
二杯目のワインを飲み干して、三杯目を平然とフェルナーに要求した。
フェルナーは手に汗をかいていることを自覚したが、表面上は完璧に給仕を行い、一歩を下がる。
ローエングラム公に似た男は、本当にローエングラム公や否や。
主に害意があるようには見えない。
休憩したければ戻ってくる、とも言っている。
横目で主を窺えば、こちらを見ていた。
「閣下、何か?」
「そろそろ帰宅時間だろう」
「ああ、…そうでした」
部屋の用意もしなければならぬのだ。
手に持っていたワインをテーブルに戻せば、僅かばかり不満を見せる白皙の美貌があった。
「何だ、帰るのか。手酌で飲めと?」
「申し訳ございません、ローエングラム公。小官にも生活がありますので」
「それもそうか。人間だものな」
「はぁ。あの、まるで公ご自身は人間ではないかのようですが」
「気にするな。仕方がない、オーベルシュタインに酌をさせよう」
「御意」
「いやいや、御意じゃなくて。閣下、いつの間にローエングラム公と親しくおなりで?小官、まったく存じませんでしたが!?」
「「親しくはない」」
「ああぁ…もう、そうですか。そうですね、大変失礼いたしました」
それでは客室を整えてから失礼いたします、と一礼をして居間を辞す。
ローエングラム公ラインハルトと言えば、先だって賊軍を打ち破り、帝国の貴族支配を終わらせた英雄だった。
事実上の独裁者として権力を振るい、急速に体制を変えていた。
貴族の圧政からの解放。
税の公正化。
法の公平化。
教育や医療制度も、庶民が暮らしやすいように変化しつつある。
政治の天才、戦争の天才、そしてあの外見だった。
帝国中の誰もが彼を知っている。
無論、わが主であるオーベルシュタインもだ。
本当にこの国の独裁者と親しいというのなら。
主の行く末を、どうにかしてもらえないものか。
フェルナーは、オーベルシュタインが人間ではないことを知っている。
その行く末を見届けたいと、興味を持った。
だが主が目指す行く末は、フェルナーが期待するものではない。
なんとかならんものか。
オーベルシュタインに仕えて数年、ようやく変化が訪れたようだった。
フェルナーが去り沈黙の落ちた室内で、ローエングラム公と呼ばれた「天使」はこの館の主からワインの給仕を受けながら、四杯目へと口を付けた。
本来であればオーベルシュタインが給仕することなどないが、文句一つ零すことなく、フェルナーと名乗った男がそうしたように、一歩下がった位置に控え、ワインを持って立っていた。
「酌をしろとは言ったが、給仕しろとは言ってない」
ため息交じりにそう零せば、表情に乏しい顔を僅かに傾げ、「しかし」と小さく言を継ぐ。
「酌をするたびに席を立っていたのでは非効率です」
本来この館の主であるオーベルシュタインが着くべき席は上座であったが、今は目の前で優雅にワインを楽しむ青年の席となっており、自身は下座に着いていた。
行ったり来たりを繰り返すのは無駄というほかない。
己がそれでいい、と納得して行っているのだから、構わなかった。
しかし青年は不満そうである。
不機嫌な表情をしていても美しさが損なわれることはなかったが、薄氷色の瞳で射抜かれ「いいからそこに座れ」と命令されては拒否できない。
「グラスを持って来い」
「…御意」
長方形のテーブルの、端と端からすぐ脇へと席を移動し、オーベルシュタインは腰を下ろした。
すぐさま青年に手ずからグラスにワインを注がれ、礼を述べれば「構わぬ」と鷹揚な応えが返る。
「閣下」
呼ぶべき名は、「ローエングラム公」でいいのだろうかと、オーベルシュタインは思う。
青年は否定しなかったが、実在する人物の名を呼ぶのは、憚られた。
たとえ瓜二つであろうとも。
「閣下はきさまだろう?オーベルシュタイン。あの男がそう呼んでいた」
「かつて准将の地位を得て、辺境の惑星で軍務についておりました」
「ほう?」
グラスを持ち上げ、シャンデリアの光にワインを透かしながら色を見ていた「天使」の瞳が、オーベルシュタインへと移る。
興味を引いたようだったが、今の内容のどこに惹かれたのかは不明であった。
視線が合ったのをいいことに、確認事項を口に出す。
「あなたは、実在するローエングラム公ラインハルトでよろしいのですか?」
「よろしいのですか、とは不可解な問いをする」
「同一人物でいらっしゃるのかと」
「そのローエングラム公ラインハルトとやらは、羽根を持ち、きさまの願いを叶えてくれる者なのか?」
「…さぁそれは、お会いしたことがないのでわかりかねます」
「だろうな。でなければそのような問いは出まい」
「はい」
素直に頷くオーベルシュタインを横目で見つめ、「天使」はワイングラスをテーブルに置いた。
腕と脚を組み、椅子の背に身体を預けて一つ息を吐く。
「高次の存在は肉を持たぬ」
「…は…」
「おれが顕現するにふさわしい形が、これだったというだけのこと」
「…なるほど…」
帝国宰相ローエングラム公ラインハルトの外見は、「天使が取るにふさわしい形」であったということか。
「では、軽々にローエングラム公とお呼びするわけにはまいりませんな」
「ラインハルトさまとでも呼んでみるか?」
「……は?」
「冗談だ」
「は…」
オーベルシュタインが反応できぬ間に、「天使」の笑みは一瞬で消えた。
「名など、個を識別するための物。好きに呼べばよい」
「…では閣下と」
「構わぬ」
結局一巡して終わったが、徒労であったとは思わなかった。
ようやくオーベルシュタインもワイングラスに口を付けたが、その様子を金髪の青年は無感動にただ見ていた。
「…何か?」
「きさまは血生臭い」
「…でしょうな」
「軍務につく吸血鬼とは寡聞にして知らぬが、…ああいや、日光も十字架もにんにくも、聖水も平気なやつがいたな」
「私は信仰を持ちませんので。…ところで私が、何故吸血鬼だと?」
問えばテーブルに頬杖をつき、「愚問だ」と返す青年の行儀はお世辞にもいいとは言えなかったが、オーベルシュタインは黙してただ見守った。
「おれを召喚した陣は、きさまの血で描かれた物だった。血とは魂、きさまそのもの」
「……」
ああそれで、と、納得する。
どこまで知られたのやら、と思わないでもなかったが、隠す気もないオーベルシュタインが困ることなど、何もなかった。
無表情のまま固まって動かぬばけものを見やる「天使」の視線は、温かみには欠けるものの、奥には光が宿っている。
少なくとも契約を履行する気は、あるようだった。
「だがこの時代に吸血鬼とは。…ばけものの類は人間が駆逐したものと思ったが」
「他の吸血鬼を私は知りません」
「始祖はとうに絶えたはずだな」
確か地球にのみ人間がいた頃。
謳うような美しい声音には、まるでその時代を見知っているかのような響きがあった。
「天使」であるならば、それもあり得るのかもしれぬと、オーベルシュタインは思う。
「始祖が誰かは存じません。私が私を認識した時には、眷属と呼べる者は存在しませんでした」
「始祖は首を切り落とされ、心臓に杭を打たれて死んだはずだ」
「残念ながら、私はそれでは死ねません」
「面白い」
素直な興味を唇に乗せて、揺れる金の前髪の下から薄氷色の瞳が輝いた。
身を乗り出すようにして、オーベルシュタインを覗き込む。
「吸血鬼と信仰とは表裏一体であったもの。信仰を持たぬばけものに死は訪れぬか。他には試したのか」
「重石を付けて海に沈んでみましたが、意識を絶えさせる方法がないので、断念しました」
「他には?」
「絶食を試みましたが、限界を迎えたところで近隣の村を全滅させてしまい、断念しました」
「それから?」
「原点に戻り、頭と心臓を潰してみましたが、再生しました」
「全身ミキサーにでもかけねば無理ということか?」
「それも試してみましたが、再生に時間がかかるだけで滅びるには至りませんでした」
「燃やしても無理なのだろう?」
「火山に身を投げてみましたが、気体から再生いたしました」
「素晴らしいな」
「…そうでしょうか」
「天使」の称賛は心に響くが、オーベルシュタインは喜べなかった。
「興味深い。とても興味深いな。原子レベルで分解せねばならぬということか」
「さて、それもどうですか。宇宙の塵となることも考えましたが、再生が不可能となるだけで、永遠に浮き漂う意識体として残りそうな気がして、まだ実行には至っておりません」
「実行してみろ、その想像は現実のものとなるだろう」
「左様で…」
容赦の欠片もない非情の言葉を事も無げに投げつけて、さらに「天使」は美しい顔と声に似合わぬ辛辣な毒を吐いた。
「きさまの意識は、ばけものとしては薄弱だ」
「自覚はしております」
オーベルシュタインは無表情に受け入れた。
薄弱でなければ、「悪魔」を召喚して殺してもらおう、などとは考えない。
結果的に召喚に応じたのは目の前の絶世の美青年だったわけだが、オーベルシュタインの望みを知っているにも関わらず、吐き出す言葉はばけものの在り方への不満だった。
「全く、とても残念で、がっかりだ」
「意味が重複しておりますが…」
「この世界最強のばけもの兵器として、宇宙を焦土と化すことも可能であろうに」
「興味がありませんな」
「本当にがっかりだ」
「ご愁傷さまです」
「つまらぬ男だな」
「恐縮です」
言葉で言う程、「天使」の表情は残念そうには見えなかった。五杯目のワインを手酌で注いで一息に飲み干してから席を立ち、扉へ向かって歩き出す。
時刻は二十四時を回った所だった。
唐突な行動も、オーベルシュタインは驚きはしない。呼びかければ振り返って答える青年の興味は、すでに別の物へと移っているようだった。
「閣下、どちらへ?」
「まだ読んだことがない本があった」
「書庫ですか。案内を」
「不要だ。ところできさまはやはり、吸血鬼らしく夜明け前には棺桶に入るのか?」
扉を半ば開きながら、ついでとばかりに問い返され、オーベルシュタインは頷いた。
「人間同様の生活は可能ですが、やはりばけものはばけものらしく在るのが一番でしょう」
「本当につまらぬ男だ」
「恐縮です」
「恐縮という言葉の意味を調べてから使え」
「……」
理解した上で使用しているのだが、と、言う間もなく扉は閉められた。
さて今後についてどうするか。
彼は彼のやりたいように行動するのだろうし、そこに制限を加えるつもりもなければ、可能であるとも思わない。
こちらが合わせる分には構わないが、就寝時間を確認してきたことから、用があれば夜明け前に顔を見せるだろう。
用がなければ、休憩の必要を感じたときに戻ってくる、ということだった。
己の望みが叶うのは、果たしていつか。
契約は交わした。
ならばいずれ必ず叶う。
長い長い時を、死ぬ為に生きてきた。
もう少しばかり待つくらい、どうということはないのだった。
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