クリスマスイヴの神室町に、雪が舞う。
未だ建設中の高層ビルに吹き付ける風は、剥き出しの鉄骨の間をすり抜け冷たく肌に突き刺さった。
計画通りに龍司を倒してくれた桐生の前に姿を晒せば、驚愕の表情を浮かべて先代を務めた男は己の名を呼ぶ。
「寺田…!」
それはこの二十六年呼ばれ続けてきた名前であった。
もうすぐ、終わる。
感慨深く、吸い込んだ煙草の煙を吐き出した。
寺田行雄が、終わるのだ。
二十六年前のクリスマスの日、壊滅させられトップを失った組織の惨めな生き残りが復讐を果たす日が来た。
東城会を潰すこと。
鉄の掟に縛られた二十六年間が、今ようやく終わろうとしている。
桐生一馬を殺してしまえば障害はもはやない。
手負いの男を始末するのは、それほど困難なことではないと誰もが思い賛同した。
もうすぐ、終わる。
共に生き延びた倉橋はもういない。
大阪で村井と名乗りひっそりと息を殺して生きていた仲間も死んだ。
二十六年前を知る者は、目の前で静かに佇む一匹の龍のみだった。
命を救ってくれた一人の極道の後ろをついて歩いていた、あの時の少年のみだ。
「桐生さん、死んでもらいます」
一体誰がこの男を殺せると言うのだろう。
ちらつく白い雪が邪魔だった。
敷き詰められた鉄板の上を軽やかに駆け迫る革靴が立てる音が、甲高く耳をつく。
マシンガンを向けても怯まない男に、誰が勝てると言うのだろう。
この屋上へ上がってくるまでの間に仲間と幾度も戦闘を繰り返したはずで、郷田龍司は桐生一馬と対等に渡り合える程に強いはずであった。
全ての戦闘に勝利した男の体力は尽きていてもおかしくはなかったが、プロの集団として鍛え上げられた仲間達が次々となぎ倒されていく。
いっそ爽快と言っても良かった。
応戦するが桐生の動きの方が早かった。
そんな馬鹿なと動揺している間に胸倉を掴まれ殴られる。
クレーンでまとめて止められたままの鉄骨を操作し振り回しても桐生は冷静にかわしてみせた。
一体誰がこんな化け物に勝てるというのだろうか。
再び迫った桐生の拳が振り上げられた。
視界が暗転し、跪いた時にはすでに勝負はついていた。
「まだや…!」
「寺田…もうお前との勝負はついている」
戦う気はないと言い切る男の甘さに知らず笑みが漏れそうになった。
だからこその先代。
だからこそあの極道が認めた子供なのだろう。
…もうすぐ、終わる。
爆弾のスイッチは最後の切り札であった。
全てを片付けて、全てをあなたに押し付けよう。
あなたが親と慕う風間という男は、本当に出来た男であった。
何故俺を殺さなかったか。
何故仲間を殺さなかったか。
生かそうとしたか。
…残酷なほどに、優しい男であった。あなたのように。
命を狙う俺の将来を何故心配し関西に逃がしたのか。
「生きろ」と言った風間の言葉はすなわち復讐せよということだ。
ジングォン派の掟に従い、親でも殺せということだ。
それでもいいと男は言った。
自分の為に生きろと一言、言葉をくれた。
「金大津」から「寺田行雄」として生きろと名前をくれた。
近江連合で勢力を伸ばし幹部になるに従って、己が取れる手段が増えていく。
本国から仲間が送り込まれてくるに従って、己が取るべき道が狭まっていく。
一年前、再開した風間は歳を取り片足を不自由してはいたが人間性は全く変わっていなかった。
近江連合で大幹部となり四天王の一人と呼ばれるまでになったことを愛しい子供を見るような目で見て喜んでくれ、そして「一馬を頼む」と頭を下げた。
かつて寺田のことを頼みますと郷田会長に頭を下げたように、東城会の大幹部は桐生一馬のことを頼むと己に向かって頭を下げた。
未だに決まらぬ東城会の跡目が桐生であることを知っているかのように、かつてと変わらぬ目でそう言った。
なぜあなたは俺を信用するのですか。
やって来た桐生一馬は強い男であった。
風間が認める、東城会の跡目であった。
「風間さんには恩がある」と言えば、「そうか」と認めてそれきり疑うことをしなかった。
あっさり四代目の地位を投げ捨てた男は、五代目を自分に指名した。
近江連合の四天王である自分を、親しくもなければ人間性を知っているわけでもない自分をだ。
何故だと問えば「風間の親っさんが信用した男だから」と簡単に言ってのけた。
恐ろしい男だと思い、自分とは器が違うのだと悟ったのだった。
進むべき道が、閉ざされた。
東城会の、会長だ。
潰すべき組織の、トップだった。
二十六年間、誓い続けてきた復讐を、しなければならなくなった。
逃げ道が、なくなった。
なぜあなたは俺を信用したのですか。
高島に撃たれた箇所から血が溢れ、冷えた身体が寒かった。
もし、自分が死ななかったら。
もし、桐生が自分に負けていたら。
復讐を、果たしていただろう。
自分は甘い人間ではなかったから、もし自分の計画通りに最後まで進めることができていたら、東城会はなくなり近江連合もなくなり、ジングォン派が日本に勢力を伸ばす日が来ていたはずだった。
だが、ifが実現する日は来ない。
「桐生さん…最後に俺を、信じて」
爆弾のスイッチを入れた。
倉橋の分の、爆弾だった。
これで二十六年前の生き残りは誰もいなくなる。
復讐はもう、終わる。
なぜあなたは俺を信用したのですか。
…なぜ俺は、あなたに阻止されることを前提にした計画を立てたのですか。
あなたの力が及ばなければ、成功したはずの計画だった。
けれどあなたは勝利した。
安堵している。
「寺田行雄」として生きた時間が、長すぎたのだ。
ジングォン派として死んで行く自分が、「寺田」と呼んでもらって嬉しいだなんて馬鹿げた話ではないか。
…あなたの勝利を、確信している。
ガタガタになった東城会をあなたに押し付けることが、最後の嫌がらせだと思って欲しい。
あなたに幸せな堅気生活なんて、無理ですよ。
風間さんにしろあなたにしろ、俺を信用するからですよ。
ああ、雪が。
目を閉じれば白い世界が広がっていた。
クリスマスの日、死ねなかった自分がようやく死ねる。
メリークリスマス、良い夢を。
END
「自分と桐生さんでは器が違う」と言った時に、止めて欲しかったのだろうかと思ったのでした。