世界は碁盤の目で出来ていて、周囲は生命に溢れている。
築数十年を経て錆びきった鉄階段を上がり、ひび割れだらけのコンクリートの通路を歩く。手摺りは赤茶色の塗装が剥げ、触れれば細かく砕け黒ずんだ内部の腐食部分が指先に残った。手を叩いて破片を落とし、落ちた床はひび割れに加え、所々吹き込んだ雨水が溜まって乾燥しきらず緑色に変色していた。
薄っぺらい板で出来た玄関扉の前に立ち、鍵を取り出し円形のドアノブ上へと差し込み、回す。途中で阻まれ、回しきる事はできなかった。
開いている事実に眉を顰めたが、父親の帰宅が不定期である事は常であったので驚きはしない。
ドアを開け、狭い玄関へと入って、閉める。
まだ夕刻には早い時間だったが、部屋の中はカーテンが引かれており薄暗かった。
玄関から入ってすぐ右手にキッチンがあり、流し場には洗われずに積まれた食器が異臭を放ちながら放置されている。
食品が入っていたパッケージも無数に転がり、ゴミ箱はとうに溢れてその役目を果たしてはいなかった。
生臭く埃臭い室内の臭いはとうに嗅ぎ慣れてしまった。
六畳間と四畳半の二間続きのアパートだったが、押入れは寝室として使用している四畳半にしかなく、箪笥から出された服は洗濯されることなく畳の上に堆く山となり、雑誌や酒瓶はすぐ目の前の六畳間を埋め尽くしていた。
いつも家事をやってくれていた母親は少し前に出て行った。
父親の暴力に耐え切れず、畳の上に転がされ鎖骨を踏まれて骨折し、帰って来た翌日には姿はなかった。
一人息子に対する言葉はなく、手紙もなかった。
もともとごく普通の一般家庭の次女だった母親は、特に不自由のない生活をしてきたらしく、とりたてて目立つ所もない常識的な人間だったが、働いていたレストランで父親と知り合い付き合い始め、妊娠がわかって家族の反対を押し切り結婚し、生んだのだと言っていた。
結婚したかったけど、こんな生活はしたくなかったと母親は常々漏らしたが、それでも「お前がいるから頑張れる」と言ってくれた。
母親は優しかったが父親が家に帰ってくると喧嘩ばかりで、夜通し怒鳴り声が途切れることなく続いた日もあったし、早々に父親が手を上げて力ずくで黙らせることも多かった。
父親は普段は寡黙で家族に興味を向けることもなかったが、気に入らない事があると暴れて手がつけられなくなった。「何が気に入らないのか」そのスイッチがどこにあるのか父親自身にもわかっていないようで、瞬間湯沸かし器のように、という表現がまさにぴったりの様子で突然怒鳴り出し、部屋のものを片っ端から蹴散らし、止めに入れば物もろともに吹っ飛ばされた。母親は毎日のように泣き、理不尽に怒りで震えた。
暴力の対象は母親だったが、見ていられず後ろに庇えば真っ先に殴られた。
部屋の壁に叩きつけられ、身動きできなくなっている間に母親も殴られる。
父親を止める術は「父親自身の気が済む事」にしかなかったが、いつ落ち着くのか知る術はなかった。父親を逆に黙らせるだけの力があれば良かったのだが、未だ小学生でしかない小さな子供に一体何ができただろう。
死ねばいいのに、と、何度呪ったか知れない。
鼻血を出しながら啜り泣く母親の手を取り、いつか必ず殺すと毎日のように誓った。
逆らうだけ無駄、と、逆らわずにいたらいたで気に食わないらしく難癖をつけてくる。
大人しく一人で酒を飲み勝手に寝ていることもあったが、何かストレスがあれば必ず発散の矛先は家族へと向いた。
頻繁に起こるそれに両隣は早々に退去し、下の階の住人もまた退去した。ボロアパートにもそれなりに需要はあるので入居者はそれほど経たずに決まるのだが、長く居ついた試しがなかった。
父親の職業が職業であったので、アパートの大家も強くは言えないようで、おかげでご近所トラブルはなく快適に生活する事はできたが、最大のネックはこの父親本人なのだった。
靴を脱ぎ、ゴミを足先で避けながら中に入る。
背負っていたランドセルを下ろし、卓袱台の上に置いた。
自分の部屋はなく、勉強机も存在しない。
母親がいた頃は、近所のスーパーで日中パートタイムで働いており夕方まで帰って来なかったので、その間は家にいた。テレビやその他娯楽になるようなものはない。家にいてやることといえば宿題くらいで、終われば母親が帰って来るまで近所をぶらつくか、家でじっと座っていた。父親がいれば地獄で、いなければ天国だった。
数日前に殴られた顔中の痣はまだ青黒く腫れ上がり、残っている。
腕や腹は言わずもがなで、母親がいなくなってから暴力の矛先は己へと向いていた。
抵抗すれば酷い暴力を振るわれ、無抵抗を貫けば反応を返すまで暴力を受ける。
「母親がいなくなったのはお前のせいだ」
は、母親がいなくなってからの父親の口癖だった。
お前のせいだ、と言いたいのはこちらの方だと思ったが、口答えすれば口が聞けなくなるまで殴られる。口を噤んで睨み上げれば、「その目が生意気で気に食わない」と殴られた。どちらにしろ一方的に殴られるのなら、大人しく殴られるだけ馬鹿らしい。必死に抵抗することが唯一許された手段だったが、それすらも大人の男の前には無力だった。
痛覚が麻痺するまで殴られた。
痛覚が鈍くなると言うことは少年にとっては幸いだったが、同時に不幸でもあった。
殴られる回数が増え、怪我の度合いが大きくなった。
相談できる相手はおらず、教師も目を逸らす。
学校の誰も近づいて来ようとはしなかったし、近所の誰しもが視線を逸らした。
味方はいない。
誰一人。
唯一共にいるのは、父親なのだった。
この父親が、学校にいる誰の親とも違うのだろうということは、感じていた。
クラスメート達の会話はとても明るく楽しげで、誰もが幸せそうだった。
父親と遊んだ話、家族で旅行した話、口げんかした話、父親が仕事で毎日遅く、全く会話がないと嘆く話。
不平不満が聞こえてくることもあるが、日常的に殴られ怒鳴られるという話は聞いた事がなかった。
何故己の父親はあんなクズなのだろうと、いるかどうかも知らない神を呪った。
母親は無事に逃げられただろうか。
落ち着いただろうか。
祖父母から勘当され、帰る所もないと嘆いていたが、大丈夫なのだろうか。
心配はそれのみで、いつか迎えに来てくれるに違いないと、信じていた。
狭い部屋を見渡し、さすがに掃除しなければと、思う。
家事の一切をやったことはなかったが、掃除くらいはできるだろう。寝るところもないのでは話にならないし、もし母親が帰って来た時、こんな状態では申し訳なかった。
だがそれも、今寝室にいるであろう父親のご機嫌を伺ってからだ。勝手に行動すると、殴られる。
父親が通ったままであろうゴミを避けて出来た細く短い道を歩き、襖を軽くノックする。
「…お父さん?寝てる?」
小声で呼びかけ反応を待つが、隣室は静かだった。
寝ているのだろうと思い、確認の為細く襖を開けて中を覗く。
寝室もまた、カーテンが引かれており薄暗かったが、正面奥の壁に凭れるようにして座り込む父親が見えた。
昼間から酒を飲んで寝てしまったのかと思い、襖を大きく開け放つ。
瞬間、充満していた臭いが鼻をつき、無意識に鼻から口元を手で覆った。
胃を押し上げ食道をせり上がってくる異物を押さえ込み、寝室から離れ六畳間の窓を急いで開け放つ。窓の外に顔を出して流れ込んで来る新鮮な空気に深呼吸をした。瞳が熱く、涙が流れそうになったが軽く拭い、気分を落ち着け再度ゆっくりと寝室へと歩み寄る。
猛烈な吐き気を催す臭気は鉄臭く、嗅いでいるだけで口の中に唾液と酸味が充満した。
まるで臭気自体が圧力を持っているかのように、生温く頬に当たって一撫でされ、それ以上近づくことはできなかった。
「…っと、父さん…?」
寝室に生ゴミはないはずだ。
いや、生ゴミの臭いではなかった。
生ゴミの臭気も耐え難いが、問答無用に吐き気を催させ神経をささくれだたせるような鋭さはない。
いやそれよりも。
震え出した膝に力を入れて、襖に縋りつく。
壁に縦に走った赤黒く飛び散ったモノは何だ。
両足を投げ出して、だらしなく寝ているようにしか見えない父親の足元に広がる黒い水溜りは、何だ。
「……っ、」
立っていられなくなり、その場に座り込む。
猛烈な血の臭いだと気づいた時にはすでに密度は薄まっており、窓から入る空気と混ざり合って流れて行った。
ぴくりとも動かないそれに確認する勇気は持てず、ただその場で硬直した。
思考が止まり、何も考えられなくなった。
真っ白だった。
玄関扉を力任せに叩く音で、我に返った。
先ほどまで明るかったはずの室内には夕陽が差しており、室内は橙色に染まっている。
力が入らず、座り込んだままの姿勢を崩すことができないまま、手を畳について上半身だけを玄関へと向ける。
酷く緩慢で、父親から目を逸らすまでに時間がかかった。
「すいませんがね、家賃二ヶ月分お支払い頂けないでしょうかね」
迷惑な住人がさらに家賃を滞納しているという暴挙についに大家が耐えかねたようだった。
外から大声で叫び、反応がないと見るや扉を荒々しく引き開けた。
「何だ、いるんじゃないですか!…って、坊やかい。坊やだけかい。親父さんは?」
でっぷりと太った腹を揺らしながら、土足のまま畳の上に乗り込んでくる大家は五十代から六十代だと思われたが、正確な年齢など知るはずもない。
ゆるりと首を振れば、近づいてきた男が首を傾げ、次いで鼻を摘んで不快気に眉を顰めた。
「坊や嬉し泣きかい?何かいいことあったかい。それにしても何の臭いだ?これ尋常じゃない…ぞ…」
少年から薄暗い寝室へと目を向け、大家はそのまま立ち尽くした。
無言で見上げてくる少年の視線を感じる余裕もなく、全身から汗が噴き出し震え出す。
「…っう…、あぁ…ッ、こ、」
上擦った呻き声を漏らし、次の瞬間大の男が絶叫した。
腰を抜かし、地響きのような音を立てて畳の上に尻餅をついた。
畳の床が揺れたが、周辺は静寂が落ちたままだった。
言葉にならぬ何かを喚き散らしながら、大家は立ち上がる事ができないままあとずさる。
山になった服に手を取られてバランスを崩し突っ伏したが、絡みつく衣服を剥がす余裕もなく今度は這うように玄関へと向かった。
転げ出るように扉を越え、外の通路へ這い出て、錆びて剥がれやすくなっている赤茶けた手摺りを掴んでよろめき立った。
震える膝を支えるようにしながら階段を下りて行く頼りなげな音を聞きながら、少年はまたゆっくりとした動作で父親の亡骸へと向き直る。
大家に言われて、己が泣き笑いをしていることに気がついた。
父親がもう、動かないということ。
もう、喋らないということ。
もう、殴らないということ。
「…誕生日過ぎたのに」
神様からのプレゼントだと、信じて疑わなかった。