世界は碁盤の目で出来ていて、周囲は生命に溢れている。

 「失礼しやす、親父」
  応えを確認し扉を開いた先、デスクに陣取り書類を見ていた男が顔を上げた。
「おう柏木、どうした」
  親父と呼ばれた男はまだ若い。三十代前半と思しき顔だったが、黒のスーツを着こなす姿は堂に入っており、貫禄を感じさせた。
  デスクの前へと歩み寄る柏木の姿を視線で追い、軽く首を傾げ用件を促す。
「企業の一つで行っている慈善活動についてなんですが」
「ああ」
「是非直接見て頂きたいと施設の一つから打診がありやして」
「あぁ?」
「多額の寄付のおかげで運営できていると、感謝の言葉が」
「それで十分だろうが」
「ええ、はい、そうなんですが」
  言葉を濁した男を見上げ、デスクに肘を突いて両手を組んだ。
「何だ柏木、さっさと言え」
「先日の件の子供がいるようでして」
「どの件だ」
「親父が直接手を下された、例の男の件です」
「何故施設に?母親がいるはずだろうが」
「ええそれが」
  ターゲットの男の身辺は調査済みであった。男には妻子がいた。
  周囲からの評判は最悪であり、裏社会においてもタブーを犯し最悪だった。
  故に消さなければならなかったが、遺された妻子は可哀想ではあるが暴力からの解放をも同時に意味した。
  どちらが幸せであるかなど知ったことではないが、妻の稼ぎを使い込む男がいなくなれば多少なりとも生活は楽になるだろう。
  所詮他人事ではあったが現状より最悪になることはあるまい。
  躊躇いなく下した判断だったが、柏木の報告によれば母親は失踪したということだった。
  行く当てのない子供は施設に入れられ、生活しているというのだ。
「それで?」
「は…?」
「それが俺に関係あるのか」
  だからどうした、と問えば、柏木は黙り込む。
「柏木よ」
「へ、へい…」
「それを俺に知らせてどうすんだ。慈悲でもくれてやれってのか」
「い、いえそんな」
「母親に捨てられて可哀想にな、と声をかけてやればいいのか」
「か、風間組長…」
「慈善事業ってのはな、他人事だから成立すんだ。正確に言やぁ偽善事業よ。てめぇでやる程暇じゃねぇんだよ」
「…す、すいやせん。出過ぎました」
  深々と一礼する頭頂部を見やり鼻で笑い飛ばしながら、風間はデスクの上の書類を一枚取り上げ、突き出す。
「持って行け。許可する」
「へい、親父」
「あと視察の日程組んどけ」
「は…」
「何度も言わせんじゃねぇぞ」
「は、はい!すぐに!」
  慌しく部屋を出て行く後姿を見送ることなく風間は立ち上がり、窓から外を眺めやる。
  一日曇天ですっきりしない天気であったが、雨が降る事はなさそうだった。
  昼間の神室町は人通りは多けれども、サラリーマンや学生が多く夜の喧騒とはまた違った趣があった。
  こうして見下ろしていると、どこにでもあるオフィス街であるかのような錯覚を伴う。
  少し歩いて新宿まで行けばありふれた光景であり、なんら面白みのない町であった。
  やはり神室町は夜がいい、と、風間は思う。
  くだらなくて、馬鹿馬鹿しくて、クズがクズらしく在れる場所だった。
  己がクズであると自覚しており、同時にクズがどこまで上り詰める事が出来るのかに人生を賭けていた。
 
  くだらぬ。
  本当に、馬鹿馬鹿しい。

  だがその生き方しか知らなかった。
  望むと望まざるとに関わらず、己はこの世界でしか生きられないこともまた、自覚しているのだった。

  最近出来たばかりの真新しい施設は清潔感に溢れ、子供の玩具等多数の物に囲まれてはいたが散らかっているという印象は受けない。
  天井は高く採光も工夫され、クリーム色の壁は優しく、床の緑も強くはない。
  さして広い施設ではなかったが、狭さを感じさせない構造は良く出来ていると思った。
  だがまるで病院のようだった。
  俺はこんな所には住みたくねぇなと風間は思ったが、施設長だと名乗った初老の男はぺこぺこと腰を折り、卑屈な顔に笑顔を浮かべて「ご案内します」と施設内を連れ回す。フロント企業の慈善活動はポーズでしかなく、本当に困った人達に何かをしたいと言う気持ちがあるわけでは全くなかった。利益を還元し宣伝することでさらなる利益を生む、それは企業戦略の一環であり、寄付した金をどう使われようが知ったことではないのだったが、額に汗を浮かべ派手な身振り手振りで「感謝の意」を表されては興醒めだった。 
  柔和な笑顔を作り丁寧に頷きながらも、こいつはダメだと判を押す。
  寄付金は沸いて出るわけではない。従業員の労働によって生まれる対価なのだから、もっと有効活用せねばと思う。
  来年度にはもっと精査させてからにしようと心のメモに書き込んだ。
  一通り案内され、今度は子供達の部屋を紹介すると言われて柏木を見やれば、察した男は一つ頷き前へと進み出る。
「一番最近入って来たお子さんは、どれくらいになるんですか?」
「はい、一番新しい子で一週間になります」
「つい最近なんですね」
「そうなんです。ただこの子がちょっと問題ありまして…ああ、この部屋です」
  四人部屋だと言う一室に案内されて入室するが、部屋にいたのは三人の少年達だった。
  一番上が中学生、一番下は小学校の低学年くらいか。
  施設長が困惑しきった表情で眉を顰め、中学生の少年へと声をかけた。
「一馬はどうした」
「朝からいないよ」
「ええ?また?この時間は部屋にいなさいと言っただろう」
「俺に言われても知らねーよ。本人に言えって」
「全く…」
  ため息をつき、風間へと振り返って頭を下げた。
「申し訳ございません。一馬が…ああ、一番新しく入った子なんですが、しょっちゅういなくなるんですよ」
「ほう?」
「平日は学校に行ったら晩御飯まで帰って来ない、休日は朝食を摂ったら晩御飯まで帰って来ない…誰とも口を利こうとしませんし、手を焼いてます。事情が事情なのでショックもあるのだろうと思うのですが」
「それは大変ですね」
「そうなんです…ああ、一番年上の子の所へご案内します。建て直す前からずっといた子で、古株です」
「そうですか」
  もはや早く帰りたくて仕方がないが、切り上げるわけにもいかない。
  予定通りの時間を過ごし、なおも引きとめようとするのを振り払うように足早に立ち去って、車に乗り込んだ時にはため息が漏れた。
「親父、お疲れ様でした」
  運転手を務める柏木がバックミラーごしに労わりの言葉を投げてくるが、返答代わりに投げ返したのは別の言葉だった。
「もっとマシな寄付先選べと言っておけ」
「へい」
「あと…例のアパートへ行ってくれ」
「…子供がいるかもしれないとお考えで?」
「ガキが歩いて行けない距離じゃねぇ」
「へい、了解しやした」
  行ってどうするというのか行動を決めてなどいなかったが、視察の目的の大部分は子供を見る為だったので、会えないまま終わってしまうのでは座りが悪かった。
  車で大通りを走って十分程の場所にあるアパートは変わりなく廃墟の如しであったが、洗濯物が干されていたり、雑然と用具が外に置いてあったりと生活観は感じられた。
  少し離れた駐車場に無断で駐車し、柏木を待たせて風間は降りる。
  以前歩いた道を進み、階段に足をかければ甲高い音がした。
  殺した男とは面識があった。
  ノックをし、名乗れば疑いもなく扉を開けて招き入れ、「汚い所ですがどうぞ」と言った。
  本当に汚い部屋だったので顔を顰め、中に足を踏み入れることなく後ろ手に玄関扉を閉めその場で銃を抜いた。
  一瞬恐怖に引き攣った男はさすが極道と言うべきか、精神を立て直し「どういうことか」と問い詰めて来たが、一発こめかみを掠めてやれば虚栄心は瓦解したらしく寝室へと背中を向けて逃げ出した。
  背中から正確に心臓を撃ち抜く。
  風間にとっては造作もない作業だった。
  引きっぱなしの布団に足をひっかけるようにして、男は顔から壁へと突っ込んだ。
  鈍い音がして、ずるずると音を立てて座り込む。
  すでに息はなかった。
  サプレッサーをつけてはいたが、真昼間である。完全消音など不可能であったが、銃声を聞きつけてやってくる他者の気配はなかった。
  そういう時間を選んで実行したのであった。
  現在時刻もちょうど、それくらいだ。
  あの日は音のしない靴を履いて来ていたが、今日は革靴である。気配を殺す必要はなく、むしろそこに目的の少年がいるのならば気づいてもらわねばならなかった。
  階段を上がりきり、通路へ入ればこちらに顔を向けた少年と目が合った。
  無表情であり、目は虚ろでガラス玉のようだった。
「桐生一馬君かな」
  優しげに聞こえるよう、精一杯の努力をした成果はだが、沈黙によって報われた。
  生活をしていた部屋の扉の前で、壁を背に座り込む少年はやせ細っており小さい。
  向けられていた視線が途切れ、興味をなくしたように少年は手摺りの向こう、眼下に広がる伸び放題の雑草広場を見下ろした。
「こんな所で何をしてるのかな」
  言葉は虚しく風に流された。
  少年は聞こえているのだろうに、答える気がないようだった。
  己は何をしに来たのだろうと不意に馬鹿馬鹿しくなり、漏れたため息は無意識だったが、少年が肩を揺らして大きく跳ねた。
「…?」
  近づこうとしてみるが、一歩踏み出した所で諦める。
  少年が恐怖に引き攣った顔をして、あとずさったからだった。
  距離を取ろうとする少年とは五メートル程の開きがあり、これを縮めることは不可能に思えた。
  父親による暴力の引き金の一つがこれなのかと、察した。
  ならば何故こんな所にいるのだろう。
  ここは、父親の恐怖に晒され続けて来た場所である。
  目を細め、ただ見やる。
  害意の有無など、子供に果たしてわかるのだろうか。
  静かに見つめ合うが、ややあって少年は恐怖の表情を和らげ、ゆっくりとまた無表情へと戻り、距離は縮まらないまま遠くへと視線を投げた。
  こちらとコミュニケーションを取る気はないという意思表示に、風間はやれやれとため息が漏れそうになるのを危うく飲み込んだ。
「ちゃんとご飯までには帰るんだぜ。皆心配してるからな」
  声をかけ、踵を返す。
  返答は期待していなかったが、背中にかけられた声は小さく力が篭っていなかった。
「…何で知ってるの」
「あ?」
「施設にいるって、何で知ってるの」
「ほう」
  聡い子供だなと思った。
  振り返り、風間は特に考える事もなく言葉を零した。
「君のお父さんの知り合いでね」
「……!」
  己の言葉が失言であったことを悟ったのはその瞬間だった。
  どこに持っていたのか、小石を投げつけられ、過たず顔面に向かってきたそれを身体を捻ってかわす。
  階段を越えて飛んで行った小石が地面に落ちる音は聞こえなかった。

「死ね!!」
 
  少年の口をついて出た呪詛の言葉は恨みと怒りに満ちていた。
  殺意を、感じた。
  こんな小さな子供から。
  その幼い顔におよそ似つかわしくない恐ろしい表情をして、どす黒く渦巻く気配は子供が持つべきものではなかった。
「死ね!!殺すッ!!二度と、来るな!!」
  憎悪の深さを知った。
  血の繋がった己の子供にここまでの恨みを買うあの男に、父親の資格はなかったのだった。


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