世界は碁盤の目で出来ていて、周囲は生命に溢れている。

 翌日、同じ時間に再び風間はアパートを訪れた。
  柏木には怪訝な表情をされたが、あの少年が気に掛かっていた。
  あれからひたすら睨みつけられ、会話は成立せず、子供相手にむきになる気にもなれず、大人しく引き上げた。
  放っておけばいいことは理解している。
  あの子供には施設という場所がある。
  施設にいれば十八歳まで面倒を見てくれるのだから、大人しくあそこに厄介になるのなら、施設が潰れない程度の資金援助はしてやってもいいと思い直していた。
  あの少年が何故ここに足を運んでいるのか、理由を知りたいと思う。
  理由がわかり解決してやれば、大人しく施設に戻るのだろうから。
  そこまでしてやる義理はあるのかと自問すれば、あるのだという結論に達した。
  父親が死亡する前から母親は逃亡した後であり、一家離散は時間の問題であったが引導を渡したのは風間である。
  そこに家庭内暴力があろうと、児童虐待があろうと問題ではなく、父親を殺害したのは風間なのだった。
  昨日と同じように、音を鳴らして階段を上がる。
  少年がいれば気づくはずで、上がりきった時には果たしてぴったり目が合った。
  敵を見る目で睨み上げられ、ガキのくせにすげぇ目をしやがると感心する。
  人を殺したいと、望む目だった。
「俺は君のお父さんじゃねぇんだがな」
  苦笑交じりに呟いて、廊下に出てすぐの所で立ち止まる。
  距離は開いて、七メートル程になっていた。
  少年は手負いの獣ではなく、もはや獰猛な一人の「人間」だった。
  人間以外に殺意は存在しないのだから。
  風間はしゃがみ込み、遠いながらも目線の高さを合わせ、視線を合わせて向かい合う。
  ヤンキーのような座り方になってしまったが気にしても仕方がない。
  警戒を解く事をしない少年に、敵意のない事を証明しなければならなかった。
「君はお父さんが嫌いなんだな」
  少年の表情は変わらない。
「ここは君とお父さんとお母さんが住んでた場所だ。でももう、君の家じゃねぇ。何でここにいるのかな」
  君の家ではないと言った瞬間、少年はほんの僅か眉を動かした。
「家の中に大事なモンでもあるのかな?それならおじさんが大家に掛け合って、中に入れてもらえるように計らってやってもいいぜ」
  己を「おじさん」と呼ぶのは抵抗があったが、こんな子供から見れば十分おじさんに見えるだろう。「お兄さん」だと言い張る程図々しい神経は持ち合わせていなかったし、「お兄さん」に見える程生温い外見をしているつもりもなかった。
  少年の表情がやや改まり、殺意が緩んだ。
  穏やかな表情で見守るが、やはり返答はない。
「よし、じゃぁ明日にでも中に入れるようにしてやる。またこの時間でいいか?」
  軽く首を傾げ、優しく聞けば少年が眉を顰めて戸惑った様子を見せた。
「都合が悪いか?いつがいいんだ?」
  風間とて暇ではない。
  だが時間をわざわざ作ってやっているのだと、この少年に言った所で無意味であったし、言う必要もなかった。
  風間が己で望んで来ているのだから。
  返答を待つが、やはり言葉は返って来ない。
  しばし考え、風間は軽く頭をかいた。
「中に入りたいわけじゃねぇのか?じゃ、最初の質問に戻っちまうが、何でここにいるのかな」
  少年はこの日初めて視線を逸らし、自らの膝を抱えて蹲った。
  子供だからと言って侮るなかれ。
  少年の意識が己から外れた瞬間、確かに空気が軽くなったのだった。
  末恐ろしいガキだと思う。
  向かって来られた所で返り討ちすることなど容易いが、こういう手合いは非常に厄介だ。
  死ぬ瞬間まで、諦めない。
  敵に回すと苦労するタイプだった。
  頑なに口を閉ざしその場に留まり続ける理由は、一体何なのか。
「答えたくねぇか。まぁいい、明日もまた来るが、構わねぇよな?」
「……」
  何で?と、顔を上げたその表情が問うていた。
  満足し、風間は立ち上がる。
「今日もちゃんと、晩飯までには帰るんだぜ。皆が心配するからな」
「……」
  この場に風間がいる時間は十分にも満たない。時間の確保が困難だからということもあったが、それ以上にこの子供が他人との接触を望んでいないことを肌で感じでいたからでもある。
  その割に、真っ直ぐ射抜いてくる瞳に迷いはないのだった。
  まるで何かを待ち詫びているかのようだと思い、風間はようやく思い至る。
  大家の元へ行けば、困りきった表情で眉を下げ、窮状を訴えられた。
「あんな殺人事件が起こっちゃ、当分貸し出しなんてできません。元々空き室も多かったし、生活できませんよ」
「はぁ、大変ですなぁ」
「それにあの坊や…気持ちはわかるんですがね、毎日来られてもねぇ」
「やはり待ってるんでしょうな」
「ええ、母親が迎えに来てくれると信じて待ってるんですよ。泣ける話ですが、うちでやられちゃ困るんですよねぇ…」
「迎えには来ないんですかね」
「来るわけないと思いますがね。話によると逃げたっていうじゃないですか。パート先にも無断で姿晦ましちゃったっていうし、警察もパート先の上司さんもうちに来て話聞かせろですよ。お話できることなんてあるわけないじゃないですか。むしろこっちが問い詰めたいですよ。せめて家賃払ってから…っといや、これはあれですな、不謹慎でしたな。…そもそも失踪だなんて、初耳だったんですから」
「なるほど」
「それにしてもおたくさん、どんなお知り合いで?」
  身なりの良い紳士然とした風間の素性に興味を持ったらしい大家の視線が、値踏みするような物へと変化した。
  近しい間柄なら、せめて家賃でもせしめようという腹なのが見え見えで、風間は侮蔑の眼差しを向ける所を笑顔で誤魔化した。
「ええ、金を貸してたんですよ。いい加減返せとやって来たらこんな有様で。迷惑してるんです」
「はぁ…それはそれは。お互い、大変ですなぁ」
「そうですなぁ」
  何だ借金取りか、とあからさまにがっかりされては何を言う気にもなれず、苦笑を返してその場を辞した。
  母親を待っているのなら、母親を探してやれば良い。
  迎えに来るのなら良し、拒否するのならばそれはそれであの子供の諦めもつくだろう。
  帰りの車中で柏木に指示を出せば、ハンドルを握った男は二つ返事で頷いた後物問いたげな視線をミラーごしに寄越した。
「何だ」
「いえ…随分入れ込んでらっしゃるんだなと思いやして」
「俺が?」
「あ、いや…すいやせん、失言でした」
「母親さえ見つかりゃ大人しく施設に戻るだろうが。そしたら俺ぁ綺麗さっぱり忘れて次の仕事にかかれるんだよ」
「へい、わかりやした」
「お前は一言多いのがいけねぇ」
「すいやせん…」
  柏木はまだ若いが優秀だった。
  デスクワークも厭わない。肉体馬鹿の多い極道においては貴重な存在であり、信頼を置いていた。
  差し出口を許しているのも信頼の現れであるのだが、それを知っているからかいつまで経っても直らない。
  逆鱗に触れる事はないのでもうどうでもいいかと思い始めている風間であった。
  次の日階段を上がると、少年はいなかった。
  いつも少年が座っている場所まで行き、確認の為玄関扉を手前に引いてみるが、鍵がかかっており中には入れなかった。昨日大家と内見交渉はしなかったのだから閉まっていて当然である。
  殺人事件の現場であるというのに警察は早々に引き上げていた。
  ヤクザの抗争と片付けられ、捜査は続けられてはいるようだったが本腰を入れてやっているわけではない。いわゆる世間向けへのポーズというやつであり、この時代警察との関係は悪くなかった。
  さてどうするかとその場で逡巡するが、階段を上がってくる軽い足音に振り返る。
  目が合い軽く笑いかけてやるが、少年は階段を上がりきった所で立ち尽くした。
「今日は場所が逆だな。交代してやる。どうぞ、桐生一馬君」
  狭い通路を手摺り側ギリギリまで寄ってやり、狭いスペースを空けてやる。足元を指差し手招くが、警戒の様子が窺えた。
  どの道先に帰る為にはすれ違わなければならず、嫌がられようとも遅かれ早かれ位置の入れ替えは必要なのだった。
  肩に背負ったランドセルのベルトを両手で掴み身体を強張らせる少年は、アパートの壁ギリギリに寄って、歩み寄ってくるスーツの男を露骨に避けた。
  すれ違う瞬間には小走りに駆け抜けて、定位置へと収まる。
  苦笑が漏れた。
  今日は五メートルの位置で立ち止まり、再度少年へと振り返る。
「そうか、今日は月曜日か」
  思い出したと言わんばかりの風間の口調に、少年が眉を寄せて睨み上げるようにしたが、険はなかった。
  随分な進歩じゃねぇかおい、と風間は心中に呟いたが、もうここにいられる時間はない。
  腕時計で時刻を確認し、用件だけを少年に告げる。
「君のお母さん、探してやる」
「…え…」
「だから施設に迷惑かけんじゃねぇぞ?」
「……」
  目を見開いた少年の表情は年齢相応に幼くあどけなかった。
  子供はこうでなくちゃいけない。
「明日は来れるかわからねぇが、晩飯までには帰るんだぜ。おじさんとの約束だ」
「……」
  少年が、素直に頷いた。
  なんと素直に頷いたではないか!
  自然、笑みが零れた。おそらく優しい笑みだったはずだ。
「じゃぁまたな」
  踵を返す瞬間見えた少年の顔に、敵意はもはやなかった。

 
 
 
 
  上がってきた報告書に目を通し、風間は眉を顰めた。
  中一日で結果が出てくるとは思いも寄らなかったが、最悪の結果に途方に暮れる。
「柏木」
「へい、親父」
「間違いねぇんだよな?」
「ありやせん。テレビでは取り上げられてやせんが、地元紙には身元が掲載されてやす。警察にも確認しやした。両親は引き取りを拒否したようです」
「そうか。ガキの身元引き受けも拒否するくれぇだからな」
「あのガキ…いや、子供に報告されるんで?」
「うるせぇそれを今考えてんだよ」
「は、すいやせん…」
  柏木を下がらせ、思案する。
  あの子供が求めているのは「母親」であり、生きてさえいればどんな手段を使っても対面させてやることはできた。結果がどうなろうとも、それで少年のふんぎりはつくはずだったのだ。
  だが、死んでしまってはどうしようもなかった。
  田舎の山中で全裸で発見。
  持ち物は付近に散乱していたが金目の物はなく、暴行の痕多数。
  夫にやられた傷も残っていたようだったが、新たに出来た傷が致命傷になった。
  息子を捨てて一人逃げた結末がこれとは、自業自得と言ってしまえばそれまでだったが、これまでの軌跡を思えば哀れだった。
  さてあの子供はどうすればいいのか。
  素直に言えば諦めるか。
  死体を見せてやれば満足するか。
  葬式の一つでも上げてやり、もうお前の帰る場所は施設にしかないのだと知らしめてやればいいのか。
  残酷だなと思う。
  小さな子供が背負うには深すぎる傷だ。
  だが直視しなければならない。
  目を塞ぎ、耳を塞いで事実を遠ざければ幸せでいられるとは思わない。
  いつまでも戻らない母親を待ち続けることが幸せだとは思わない。
  事実を受け入れ、前を向いて歩かなければならないのだ。
  直視できずに壊れるというのなら、それはあの子供の許容量が足りなかっただけのこと。
  風間が負うべき責はない。
  果たすべきは「母親を探すこと」、この一点であり、その結果を知っている。
  ならば、知らせるべきだった。
  あの子供は泣くだろうか。
  およそ子供らしくない子供は、やっと素直になりかけていたというのに。
 
 
 
 
 
  翌日、少し時間をずらして向かったアパートにはすでに少年が来て座っていた。
  平日は学校がある為、遅くなるようだった。
  目が合った瞬間少年が待ちわびていたように前のめりになった。
  言葉には出さないが、母親の居所はわかったのかと問いたげなそれに、風間は心のどこかに痛みが走るのを感じた。
「昨日は来れなかったが、ちゃんといい子にしてたかな」
  軽く問えば、大人しく頷いた。
「そうか、じゃぁ一つ、話をさせてくれ」
「…?」
  少年の近くへと歩み寄ったが、警戒する様子はない。
  距離にして一メートルにまで迫る事ができ、母親の存在の偉大さに舌を巻いた。
  しゃがみ込み、目線を合わせる。
  嘘偽りなく、ありのままを言うことは何故だか躊躇った。
「君のお母さんな、見つかったよ」
「…っ!!」
  瞳に浮かんだ涙がみるみる溢れ、頬を伝いそうになっていたが、少年は乱暴に手で拭った。
「会いたいよな?」
  少年は大きく頷いた。
「そうだよな。けどお母さんな、会いに来れねぇんだ」
「え…?」
「会いに行くか?」
「え…」
「車で連れて行ってやる。得体の知れないおじさんと一緒じゃイヤかもしれねぇが、施設長にはちゃんと許可取…」
「行く!!」
「ん?」
「お母さんに、会いたい!!」
「…そうか」
  にじり寄り風間のスーツを掴む少年の手が震えていた。
  小さなその手を掴めば、酷く冷たく緊張している事が伝わった。
  らしくもなく、頭を撫でてやる。
  子供のお守りなんぞ、したことねぇ。
  どうしてやればいいのか、風間にはわからなかった。
「今から行くぞ。晩飯までには帰れねぇが、おじさんが奢ってやる。ちゃんと施設まで送ってやる。それでいいな?」
  大人しく頷く少年を促して、駐車場へと向かう。
  後部座席に座らせて、隣に風間も座った。
  事情を理解している柏木は一言も発することなく運転手に徹しており、こちらを窺うこともない。
「あの」
  変声期前の小さな声が、躊躇いがちに車内に響く。
  何だと視線を向ければ、強張った表情のまま「おじさんの名前は?」と問われ、己が少年に対して名乗っていなかった事を知った。
「俺ぁ風間新太郎という」
「かざましんたろう」
「おうよ」
「…風間のおじさん、親切にしてくれてありがとう、ございます」
「あ?…あ、あぁ、いいってことよ。気にすんな」
  殺気に塗れたあの少年からは想像もつかない変化だった。
  あのろくでもない父親とは似ても似つかぬよく出来た子供だった。
  反面教師というやつか、と納得している所を、柏木の呟きによって邪魔される。
「親父が、おじさん…おじさんか…」
「うるせぇてめぇ片すぞ!」
  己でも納得しきれていない部分を抉るんじゃねぇ、と運転席を後ろから蹴れば、「すいやせん!」と情けない声が車内に響いた。

 

 

  連れて行かれた場所が警察であることを、一馬は知っていた。
  父親が死んだ時、大家が呼んだ救急と警察にもみくちゃにされ話を聞かせて欲しいと連れて行かれた場所に酷似していたからだった。
  灰色の壁に囲まれた殺風景で冷たい箱だ。
  同じ制服を着て、同じような顔をしてうろつく人間達の視線が刺さる。
  担当としてついた警察官がどこかへ案内しながら「身元引受人」がどうのという話をしていたが、一馬にはわからなかった。
  警察に母親がいるということは、何か悪い事をしたのだろうかと不安になり、両拳を握り締め俯くが、背を軽く撫でるように触れられ見上げた先には穏やかな表情をした風間がいた。
  風間という男について何も知らない。
  父親の知り合いだと言うが、粗野な所もなければ乱暴な所もなかった。いや、車内で座席を蹴り飛ばした時には驚愕したが、運転手は特に嫌がる素振りは見せなかったし、あれは暴力ではないのだということは理解していた。
  クラスメートが良くふざけて遊んでいる、そんな感じに見えたのだった。
  どんどん人気のない通路へと進み、階段を下りてさらに歩く。
  不安に鼓動が跳ね、無意識に風間のスーツの裾を掴んでいた。
  お母さんは何をやったの。
  まるで牢獄じゃないか。
  カツン、カツンと響く靴音がいやに高く耳を刺激する。
  怖かった。
  殴られる痛みや恐怖とは違った意味で、逃げ出したい衝動に駆られる。
「こちらです」
  警察官が開いたドアの中に入るよう促され、視界に飛び込んで来たのは白く長方形の台の上に、盛り上がった何かだった。
  シーツを被せられこちらから全容は窺えないが、良くないモノだということは直感した。
  近づく事を本能が拒絶した。
  握り締めたスーツの裾は皺だらけになっていたが、さらに力を込めて動きたくないと主張する。
  だが風間は背中を押すように、「さぁ」と進めと促した。
  温かいその手に押されるように、引き攣る足を無理矢理前へと動かす。
  シーツを被った何かの横に回り、向こう側へ回った警察官が「ご確認ください」とシーツの一部を剥がした。
  一馬にも見える低い位置に下ろされた台の上に乗っていたのは、真っ白い顔をした人形だった。
「……」
  否、人形ではない。
  女だ。
  …見た事がある。
  …知っている。
  …

  …

  …

  嘘。

  血塗れになって座り込んでいた父親の顔を見た。
  同じように、真っ白だった。
  カーテンの引かれた薄暗い部屋にあってなお、普段の父親と違うことくらいはすぐにわかった。
 
  これは、おかあさんなのか。

  手を伸ばす。
  額に触れた。
  冷たい。
  鼻に手をやる。
  …息をしてない。
  口に手をやる。
  閉じている。
  足元から這い上がり脳天を突き抜けて行く震えを自覚し、そこから記憶が、途切れた。
「……」
  無言で母親に触れる少年から視線を逸らし、風間は天井を振り仰いだ。
  泣き叫ぶかと思ったが、静かだった。
  何かを言うかとも思ったが、一言も発しない。
  何故死んだのかと聞かれたら、事実を知らせてやるべきなのか迷っていたが、少年は静かに母親と対面していた。
  死体など見慣れている為今更感慨など沸きようもないが、向かいの警察官を見れば同じような表情をして少年を見下ろしていた。
  こういう場で、かけるべき言葉など存在しない。
  父親の死体の第一発見者はこの少年だった。
  大家が訪ねて行くまでの数時間、この少年は父親の死体とただ向き合い座り込んでいたという話だった。
  泣いていたとも、笑っていたとも聞いたが真偽の程は不明だ。
  この子供が激昂することはあるのか、風間に殺意を向けたあの時と、母親の元へ連れて行って欲しいと懇願した時だけが、少年の感情らしい感情の発露であった。
  しばし待つが、少年は母親を見下ろしたまま動かない。
  好きなようにさせてやるかと少し下がるが、少年の左手に掴まれたスーツの裾が引っ張られただけで移動する事は叶わなかった。
「…一馬君」
  名前で呼べば、僅かに頭が動く。
「少しそこの警察の人と話をしてくる。君はしばらくいるといい」
  警察官と視線を合わせ、廊下へ出ようとしたが掴まれた裾は離れなかった。
  もう一度名を呼ぼうと口を開くが、音を発する前に少年が振り仰ぐ。
「……!」
  虚ろな瞳は何も映してはいなかった。ガラス玉の様なそれは、初めて会った時に見たものに良く似ていた。
「…かずまくん」
  掴んで離さないその手が震えている。
  覚束なさげにふらふらと揺れ始めた身体を抱き寄せ、「帰ろうか」と語りかけるが反応はなかった。
 
  諦めだ。

  この少年は、諦めようとしている。
  それは事実を受け入れるということであり、己を保護してくれると信じていた者との決別を意味した。
  この少年にとって母親がどれだけの存在であったのか計り知れない。
  唯一の心の拠り所を失ったのだった。
  もしかしたら迎えに来てくれて幸せな生活が待っていたかもしれない。
  拒絶されいらないと言われる残酷な現実があったかもしれない。
  だがどちらの仮定も死んでしまっては無意味だった。

 …いや。死んだからこそ。

  今にも倒れそうな少年の身体を抱えるようにして、霊安室を後にした。
  遺体を引き取り、荼毘に付してやらなければならない。
 
  少年にとっては、「いつか迎えに来てくれるはずだった優しい母親」のまま、心に生き続けるのかもしれなかった。


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