世界は碁盤の目で出来ていて、周囲は生命に溢れている。

 帰りの車中もずっと少年は虚ろな瞳のまま、目を合わせることもなければ口を利くこともなく、飯食って行くかと問うても反応はなかった。
「腹減ってねぇか?」
  と尋ねても反応はなく、このまま施設へ帰すのは躊躇う程だったが他に連れて行く当てもない。
  ただ、「明日お母さんは火葬して納骨するからな」と言えば微かに頷いた。
「一緒に見届けるか?」
  と問えばそれにも小さく頷いた。
  迎えに来るからなと言いおいて施設へと帰し、手配させておいた葬儀社の確認をする。
  葬儀社は遺体を引き取り、社内で一晩預かってくれる手はずになっていた。
  翌朝火葬場へと運んで、葬式はせず荼毘に付す。
  骨が焼かれている間も少年はじっと待合室で座って動かず、一言も喋らなかった。
  棺が引き出され現れた骨は白く粉々で、骨壷に納める段になっても少年は無表情に手を動かし箸で骨を挟んで骨壷へ移した。
  人間は生きている間はクズもいればご立派な奴も存在するが、死んで骨になってしまえばどれも同じだ。
  心臓を動かし「生きる」という行為と、心臓が止まって「死ぬ」という行為は誰しもが平等だ。
  そこに感情が介在するから運命とやらが存在するわけで、まだ三十にもなっていなかった少年の母親の短い人生は、幸か不幸かはともかくとして、平等に生き平等に死んだ。
  骨を大事に拾った所で価値などないと思う。それは物だ。そこに死者の意志はない。
  だが少年にとっては大事な母親だった「物」だった。それを否定しようとは思わない。
  全ての骨が小さな骨壷に入りきるはずもなく、母親だった骨の殆どが産業廃棄物として処分される現実は、少年が知る必要のないことだ。
  布に包まれ大事に抱えたその四角い箱こそが、少年にとっての「母親」であり、その事実で十分だった。 
  墓を作ってやる義理はなく、かといって火葬場に置いてくるわけにも行かず、寺に金を払って永代供養を頼んだ。
  少年は理解しているのか疑問だったが一通り説明をし、寺に全てを任せるといえば頷き、会いに来たければ来てもいいと言ってやれば首を振った。
「…お母さんに会いたかったらいつでも来ていいんだぞ」
「お母さんはもういない」
  恐ろしく冷めた口調で呟いた、その一言に戦慄した。
  この少年は全てを理解しているのだと思った。
  一人で生きていかねばならない事を、受け入れたのだった。
  静かに、取り乱すことなく飲み込んだのだ。
  施設へと送る車中で少年は風間を見上げ、頭を下げた。
「風間さん、ありがとうございました」
「…ああ」
「このご恩は忘れません」
「忘れてくれていいんだがな」
  「父親の知り合い」程度の人間が、安くはない金を使い時間を使い、手間をかけてここまでしてくれるのは何故だろうと少年は思っていた。ありえないことだと思っていたし、施設長から「あの方とは懇意にしなさい」と強く勧められたことも疑問だった。
  どこかの会社の偉いさんで、お金持ちで、施設にたくさんの寄付金をくれる人なのだと言った。
  暇を持て余していて、身寄りを亡くした子供を哀れに思って親切にしてくれたのかもしれなかったが、そんな大層な人物が父親の知り合いであるはずがないとも思っている。
  何を目的にしているのか不明だったが、何も持たない小さな子供に出来ることなど存在しない。
  両親共に生活していた頃から、物心ついた時から、親戚縁者との交流は全くなかった。
  両親の「友人知人」が訪ねて来ることもなかったし、両親共に身寄りがないのだと思っていた。
  風間はどちらかの親戚なのだろうかと考えないでもなかったが、家に来たことも話題に出たこともない。
  そんな人物が突然現れ、母親を探してくれて、お墓にまで入れてくれた。
  父親がどうなったのかは興味もないし頭の片隅に上ることもない。思い出すだけで不快であり、怒りが沸いてどうしようもなくなった。
  少年にとって風間は遠すぎる存在であり、降って沸いた幸福だった。
  神様がいたらきっとこんな形をしている。
  半ば本気でそう信じた。
  けれど親切にしてくれるのもここまでだ。
  もう何かをしてもらうような事はなく、あとは勝手に一人で生きていくしかないのだった。
  いつか恩返しをします。
  大人になったら、必ず。
  施設に到着し車から降りれば、後部座席の窓が開いて「元気でな」と手を振る風間に、頭を下げた。
「お世話になりました」
  さようなら。
  至極当然の別れの挨拶だったというのに、風間は眉を顰めて辛そうな顔をした。

 
  柏木が書類を小脇に抱えながら盆に載せた湯飲みを持って組長室に入った時、部屋の主は窓の外を見ていた。
「…親父、お茶と書類をお持ちしやした」
「あ?ああ、いつ来た」
「え?今です、今」
「そうか」
  気配に聡い「東城会一の殺し屋」が、入室してきた音にすら気づかないとは珍しい、…というよりありえないことだと柏木は思いながらも、デスクに戻った組長の前に湯飲みを置き書類を渡す。
  無言で茶を啜る風間は問答無用に渋くカッコイイ親父であり誇らしいが、ここ最近元気がなかった。
「親父、出過ぎた事を申しやすが」
「あ?何だ」
「何か気に病む事でもおありで?」
「……」
  眼光鋭く睨み上げられ身が竦む思いがするが、覇気がない。
  珍しい。
  思い悩む親父の姿など、滅多にないことであった。
  返答を待つが、すぐに視線を外され書類へと向き直った風間は黙々と書面にサインをし、あっという間に書類を見終わり柏木へと突き出した。
「持って行け」
「へい」
「よう柏木よ」
「へい、親父。何でしょう」
  一礼し踵を返した瞬間呼び止められ、柏木は再度振り返る。
  風間は苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
「お前子供いたか」
「はい!?」
「…ああ、いねぇよなその反応じゃな」
「…おりやせん」
「ならいい。行っていい」
「あのー、親父」
「……」
  ぐるりと黒の革張りチェアを回転させ横を向いた風間は足を組み、背凭れに深く腰掛けため息をついた。
「車、出しやしょうか」
「あん?」
「次の予定まで時間ありやす。さくっと行って帰ってくる余裕はありやすぜ」
「…柏木」
「四十九日ってやつですよねそろそろ」
「……」
「施設に行きやすか?寺で?」
「…おう柏木よ」
「へい」
「施設に行ってそれからだ」
「了解しやした!」
  笑顔で一礼し足早に退出する片腕と呼んでも差し支えない男は、よく出来た「子」だと思う。
  意を汲み取り言わずとも理解する。
  大人のそれは有能さの証であったが、子供のそれはあまりに辛い。
  全てを悟った顔をして、あの子供は「さようなら」と言った。
  ふざけるなと言って殴りたい気分になった。
  言いたい事を耐えている様子ではなかった。
  望みを言わない、のでもなかった。
  何も望んでいないのだった。
  「そう」したのは父親であり、止めを刺したのは母親の死だろう。
  不幸な子供はあの少年だけではない。だがきっかけを作ったのは風間だった。
  …否、正確にはやはり両親の在り方のせいだったが、関わってしまった。
  すっきりしない気分を抱え、柏木の運転する車に乗り込む。
  あの少年が気持ちを切り替え、前向きに生きていてくれればそれで良いのだった。
  楽しげに笑い、施設の皆と仲良く充実した毎日を送っていてくれれば、綺麗さっぱり忘れる事ができるだろう。
  自己満足と言われればそうだとしか言い様がないが、少年の大切な区切りに立ち会った身としては、きちんと幸せな姿を見届けておきたいのである。
  事前に連絡をしておいたおかげで施設長始めスタッフ総出で出迎えられうんざりしたが、手土産にスタッフ分と子供分の菓子箱を渡してやれば直角に腰を折って恐縮された。
  長居するつもりもなく用件を端的に言えば、施設長は眉を顰めて頭に手をやりへこへこと頭を下げた。
「ええそれが、相変わらず晩御飯まで帰って来ない生活で」
「未だに?」
「はい…しかも最近は入浴後、消灯時間までいないことも多々ありまして」
「…そうですか」
「口を利かないものですから、ルームメイトとも他の子供達とも壁が出来てしまっていて…」
「……」
  何故、と思った。
  まだ何かあるのか。
  今も一馬はどこかに行っていて、帰ってませんと申し訳なさそうに頭を下げられ、どうするかと思案する。
  お茶でも、と引き止めてくる男に「いえ、また日を改めます」と返し早々に車に逃げる。
「親父、お早いお戻りで」
「寺ぁ行ってくれ」
「へい、承知しやした」
  だが寺に行っても少年は一度も来たことがないと言われ万事休した。
「おい、ガキが行きそうなとこってどこだ柏木」
「俺に聞くんですか、親父」
「他に誰がいんだ。ちょっと前までてめぇもガキだったろうが」
「いやいやいやいや…あの子供の年齢だったのは随分前ですぜ…」
「学校か?帰り道にどっかの店寄ってるとかか?…あ」
「え?」
「アパートだ。アパート行ってくれ」
「ええ?…へい、わかりやした」
  何でアパート?と、問いたげな柏木の口調だったが確証などあるわけがない。
  他に知る場所がなかったのだった。
  かつてと同じように音を鳴らして階段を上がる。
  上がりきり、通路へ出ると見慣れた姿が扉前に座り込んでいた。
  こちらを見ていた少年と目が合う。
  少年は驚いたような顔をしていた。
「よぉ、久しぶりだな一馬君」
「…何で?」
「君が元気にしてるか見に来たんだが、あまり施設に馴染めてねぇようだな」
「……」
  歩み寄るが、少年は膝を抱えて蹲った。
  すぐ隣に立ち、壁を背に同じように座り込む。伸ばした靴裏が、赤茶けた手摺りに触れた。
「いじめられたりしてんのか?嫌なことあんのか」
「……」
  並んで座れば、小柄な少年の肘が腕に触れた。
  食事は与えられているはずだというのに、細く小さく頼りない。
「おじさんに言ってみな。ある程度のことならなんとかしてやる」
「…親切にしてもらう理由がない、です」
「理由だぁ?んなもん今更だな。今ここに俺がいる事がすでに親切だ」
「……?」
  怪訝に顔を上げた少年に、笑いかけた。
「親切ついでってことだ。ガキがこまけぇこと気にしなくていい」
「お礼できないです」
「お礼?」
「何かしてもらったらお礼しなさいって」
「ああなるほど。立派なお母さんだったんだな」
「……」
  俯く少年の表情は見えなかった。
「お礼はそうだな、君が大人になって余裕が出来たら返してくれりゃぁいい」
「…すごく先になります」
「待っててやる」
「……」
  ああやっぱり、神様なのかなぁと一馬は思う。
  人間はこんなに親切にしてくれない。
  神様なら、いいのかな。
  言っても、いいのかな。
「ん?言ってみな」
  顔を上げたら、視線が合った。
  真っ直ぐ見下ろしてくる瞳は優しげで、歪んでもいなければ怒ってもいなかった。
  一馬は小さく深呼吸し、腹に力を込めた。
「施設長が嫌いです」
「あの男か。何か言われたか?」
「言われます。あと触られます」
「え?」
「部屋に呼ばれてよくわからないこと言われます。服を脱げと言われて身体中触られます」
「…それは」
「誰にも言うなって」
「……」
  それは言うだろう。
  明らかに犯罪だ。
「気持ち悪いからあそこにいたくない。…でも他に行くとこないし」
「ああ…」
  こんな展開は望んでいなかった。
  全く、子供らしく朗らかに生活していて欲しかったというのに。
  他の施設を探すしかないのか。
  もっとまともな所を。
  探せば見つかるだろう。きちんと愛情を持って育ててくれる施設は、どこかに。
「よしわかった」
「え?」
  突然立ち上がった男を見上げようとしたが、至近にそびえる長身は子供が見上げるには酷だった。
  視界に納まりきれず、一馬はのけぞる。
  目の前に手を差し出されて、きょとんと見つめるが、通路に置いた手を取られ立ち上がらされる。
「帰らなくていい」
「…え?でも」
「他探してやる。それまで俺ん家にいればいい」
「…あ、あの」
「と言っても一人所帯だからな、家政婦は毎日入れてやれるが、賑やかな家庭ってのは無理だ。家政婦が帰ったら一人になっちまうし寂しい思いするだろうが、いいか?」
「は、はい、でもあの」
「そうと決まればさっさと荷物取りにいくぞ。俺ぁこうと決めたら行動は早ぇんだ」 
  手を繋がれ、引っ張られるように歩く。
  階段を下り車に乗り込めば、運転手が驚いた顔をした。
「どうされやした?」
「施設で荷物取ってとりあえずマンションだ」
「は…?マンションってのは、親父のマンションで?」
「他に何があんだ」
「いえ、へい、しかし」
「本宅よりマンションの方が事務所から近い。色々便利だからな」
「そのガ…いえ、坊ちゃんもお連れで?」
「ああ、施設から出す」
「…はぁ…わかりやした。向かいやす」
  大人しく風間の隣に座りながら、一馬はこれは夢ではないのかと思っていた。
  あそこから出れる。
  他のところを探してくれるって。
  それまでは、風間さんの家にいていいって。
  夢か現実かを確かめるのに、頬を抓ればいいと聞いた事があり、抓ってみるが痛くなかった。
  あ、これ夢かと思えば納得できたが、ならば覚めなくていいやと思う。
  隣で腕を組み、眉間に皺を寄せて厳しい表情で窓外を見ている風間は、だが目が合うと表情が優しくなった。
  神様に違いない。
  でも口に出すと消えてしまいそうだから、言わない。
  夢なら覚めなくていいけれど、現実に戻っても辛くないように、しっかりしなければと決意した。


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