世界は碁盤の目で出来ていて、周囲は生命に溢れている。

「おう柏木」
「へい親父。あ、お疲れ様です。ご帰宅で?」
「ああ帰る」
「じゃ、車回しやす」
「ああ」
  組員達が一斉に頭を下げ、声を揃えて送り出すのを手を振ることで答え、事務所を出れば冷たい風が頬を撫でて行くのに一つ身震いをしてコートの襟を締める。
  乾燥した風は落ち葉やゴミを巻き上げ神室町を吹き抜けて行くが、町並みは年中変わりなく季節感はなかった。
  否、今まで気にも留めなかっただけで、イベントごとに町は派手な装飾に包まれているのだが、今この時期はまさに赤と白と緑と黄色に染まりふわふわと浮かれた音楽が鳴り響いていた。
  クリスマスか、と、単語を呟けば心の中がくすぐったい。
  今まで全く気にしたこともなかったイベントであった。
  車に乗り、町を見やる。
  流れて行く景色はどれもこれも目に鮮やかで、行き交う人間達も楽しげで浮ついているように見えた。
「クリスマスだな」
  呟けば、柏木は何とも微妙に表情を歪め、「はぁ…」と頷いた。
  柏木はすでに多忙であり運転手を務める必要もなかったが、ある特定の話題をしたい時には指名した。
  了解している男は何も言わずに風間の口から語られる話に耳を傾け、他者に口外する事は一切なかった。
「プレゼントは買われたんで?」
「それがな、欲しいものはねぇと言うんだ」
「それは随分謙虚なお子さんで」
「だが何もなしじゃ俺の立場がねぇ。というわけでな柏木よ、図書券とかどう思う」
「はぁ…図書券ですか、いいんじゃないでしょうか。好きなもん、自分で選んで買えやすしね」
「だろう?商品券じゃ何でも買えちまって金と変わらねぇし夢がねぇだろ。図書券がカワイイもんだと思わねぇか」
「思いやす」
「ところでよ、図書券ってどこで買えんだ?」
「えっ?…えぇっと…図書券っつーくれぇだから、本屋でしょうか…?」
「よし、本屋行ってくれ」
「へい」
  風間宅で預かっている(と言っていいものか)子供の話題は、柏木の担当だった。
  直接関わる事はない。
  会う事もない。
  施設から連れ出し風間宅へと運んだ、あれきり顔を合わせた事もなかったが、知らぬわけでもない。
  子育て(と言っていいものか)などしたことのない風間はどのように子供と接していいのかわからず、よく柏木に話を振った。
  振られた所で柏木に答えられようはずもなく、大の男が角突き合わせて唸るだけという情けない姿の出来上がりだったが、風間の機嫌は良かった。
  風間組組長である風間は多忙であり、家に帰れる日数はそれほど多くはなかったが、子供が来てからは極力帰宅できるよう努力している様子が窺えた。
  日付が変わって深夜遅くになっても、帰宅する。
  そして朝食は必ず共にするというのだ。
  どんな良きパパだ、驚きだ。
  そんな風間は今、本屋の前で車を待たせ己の足で図書券を買いにレジへと向かっているのだった。
「親父…器がでかすぎるぜ…」
  今まで見たこともない所帯じみた殺し屋の姿だった。
  さすが俺の親父、そんな姿もカッコイイ。
  できる男は何をやってもサマになるのだった。
  あんな男になりたいと柏木は思う。
  だが所帯を持つ覚悟はまだない。
  カワイイ子供、どっかに落ちてねぇかなと思わないでもないが、風間のように育てられる自信はなかった。
  「買えた」と嬉しそうに笑う風間はとても極道には見えなかったが、そんなことはどうでもいいのだった。
「良かったですね、親父」
「ああ。プレゼント包装もしてくれたぜ。「子供に」っつったらな」
「喜んでくれるといいですねぇ」
「全くだ」
  完全に父親だと思ったが、口には出さない。
  上機嫌な風間は鼻歌を歌い出しそうな様子で窓の外を眺めているが、仕事に私情を持ち込む事は一切ない。事務所での組長は常と全く変わりなく、子供の話題を出すこともなかった。
「柏木よ」
「へい」
「ガキも悪くねぇぞ」
「は…」
「早く家に帰れた日にゃぁよ、玄関まで迎えに出てきて「おかえりなさい」つってくれるんだぜ。たまらねぇだろ」
「…は、はぁ…」
「仕事大変だったか、風邪引いてないかとか心配するんだぜ、あんな小さなガキがよ。それは大人の役目だっていうのにな」
「……」
  むしろそれは妻の役割ではないかと思ったが、言ってはならない気がして口を噤む。
「お前もよ、所帯持っていいんだぜ?祝福してやるぞ、柏木」
「は、はははははは…」
  まずは親父が持つべきでは、と言いたかったが、風間の口ぶりはすでに所帯を持っているかのようだった。
  それだけ子供に心癒されているということなのだろうが、聞かされる柏木にとってはのろけと変わらない。
  「縁があればいいんですがねぇ」と答えつつも、ツッコミを入れる勇気は持てなかった。

  毎朝七時が朝食の時間だった。
  着替えてリビングへ行けばすでに家政婦が台所で朝食の準備をしており、挨拶すればいつも優しげな笑顔で挨拶を返してくれた。
  おばさん、というよりはおばあさんに近かったが、動きは機敏で若々しい。
  家事の一切はこの家政婦が取り仕切り、主である風間が不在で一馬一人の時であっても、晩御飯まできちんと作ってから帰宅した。
  最初奥さんかお母さんのどちらかだろうと思い込み、「突然お邪魔してごめんなさい」と丁寧に謝罪をしたが、風間にも家政婦にも笑われた。
  「家政婦」という仕事がどういうものであるかを理解していなかった為で、毎日朝から夕方まで家にいる女性は家族だと疑わなかったのだが、理解した今ではなおさら「自分の為に申し訳ない」という気分になった。
  一馬はこの家の子供ではない。
  お坊ちゃんのように扱ってもらう云われはないのだった。
  なので家にいる間は、可能な限り手伝いをすると申し出た。
  向こうは「これが仕事なので大丈夫ですよ」と恐縮したが、恐縮したのは一馬もである。
  「何かやらせてください」とお願いをし、出来た料理をテーブルへ運ぶという仕事を与えられた時には嬉しかった。
  食べ終わった食器を流しへ持って行く、という仕事ももらい、こなすことが日課だった。
  風間の仕事は不定期であり、いる時もあるがいない時も多い。
  家政婦にとっては主の食事が必要か否かは重要な事柄であり、それを理解している風間はどんなに深夜の帰宅になっても玄関口のメモに「食事が必要か否か」を書き込むことを忘れなかった。
  早朝やって来た家政婦はそのメモを見て、食材の買い出し等の調整をする。
「ご主人様は朝食を摂られることが増えたのよ。一馬君が来てからね」
  そう言いながら今朝は和食、と味噌汁の椀を渡され一馬は素直に喜んだ。
  風間は恩人である。
  在宅時、風間はあまり喋らないが、会話が嫌いというわけではなさそうで、一馬が話しかければ目を合わせて聞いてくれた。
  未だ叱られた事はなく、怒鳴られたことも殴られたこともない。
  父親のように突然暴れ出すこともなく、理性的で優しかった。
  父親と似たような職業だろうことは察している。
  空気が、似通っていた。
  運転手の男もまた、同種の空気を持っており、それは血生臭い何かを伴ってはいたが、明らかに違うのは目だった。
  風間も運転手の男も、「まとも」だった。
  仕事の場でどうかは知らないが、少なくとも平常時は「まとも」であり、それは一馬にとって重要だった。
  己の身に危険が及ばないこと。
  最近ようやく、一馬は笑えるようになっていた。
  家政婦が笑うように、口元を緩めて笑う。
  母親と二人きりの時には笑えていたが、母親がいなくなってからは久しく笑っていなかった。
  未だぎこちないそれを、誰も咎めたりはしない。
  家政婦はただ笑顔で、一馬の手伝いに「ありがとう」と礼を言った。
  時間丁度に風間は起きてくる。
  どれほど睡眠時間が短かろうとも、寝坊した事はなかった。
「おはようございます、風間さん」
「ああ、おはよう一馬。今日も早いな」
  家政婦の挨拶にも笑顔で答え、食卓に着けば朝食の始まりだ。
  一馬も向かいに腰を下ろし、共に両手を合わせて「いただきます」と言った。
  いつまでも続けばいいのにと思ったが、いつまでも迷惑はかけられないとも思うのだった。
  朝食後しばらくして風間は仕事に出かける。
  冬休みに入っている為、一馬は家にいる事が多かった。
  家政婦は掃除洗濯買い物まで一通り済ませたあとは、一馬の昼食を作ってから夕食までいない事が殆どだった。
  一人は慣れており、特に孤独は感じない。
  テレビも本棚にある本も全て自由にしていいと言われていたが、テレビはなくても困らなかったし、本は色々と手に取り読もうと試みたが漢字が難しくて読めなかった。
  馬鹿では迷惑をかけてしまうと、宿題は真面目にこなしたし、自主的に勉強もした。
  友達はいなかったので、外に遊びに行くとしても気分転換や周囲散策が主目的だった。
  必要な物は何でも買ってもらえたし、小遣いも必要な物を買いなさいと与えてくれたが、使う気にはなれない。
  筆記具など必須な物だけ、もらった小遣いで買った。
  もらうばかりで何もお返しが出来ない事が悔しかったが、風間にもらった小遣いで何かをプレゼントしたとして、何の意味があるだろう。
  早く大人になりたいと願わずにはいられなかった。
  一馬は殆どの時間をリビングで過ごす。
  家政婦がいれば人の気配を感じる事が出来て安心した。
  一人の部屋は落ち着かず、せっかく物置として使っていた洋室を明け渡してくれたというのに広すぎて馴染めなかった。
  昼を過ぎ、夕食を作るにはまだ早い時間に家政婦が戻ってきて、「さぁ、腕によりをかけましょうかね」と言い出し首を傾げた。
「何かあるんですか?」
  と問えば、振り返った家政婦はフフフと声を出して笑った。
「クリスマスだからね、小さめだけどターキーを焼くよ」
「え!?」
「他にもごちそうをたくさん作るからね、楽しみにしていてね」
「えっ今日は人がたくさん来るんですか?」
  風間は何も言っていなかったが、クリスマスパーティーでもするのだろうか。
  クラスメートがパーティーするから来てくれよな、と、友人を誘っているのを耳にした事は多々あった。
  余裕のある家庭では家中飾りつけをし、ツリーに電飾を飾り、ケーキやご馳走を並べて集まり皆で騒ぐらしかったが、無論一馬には縁のない話であった。
  家政婦は首を振って笑いながら、「ご主人様と一馬君の分だよ」と買ってきたホールケーキを高々と掲げて見せた。
「…え」
「好きなだけ食べていいんだからね。食べきれないくらい作るよ今日は。余ったら明日に持ち越しだ。食べ終わるまで続くけど飽きずに頑張ってね!」
  食べ物は粗末にしちゃいけないからね、と言われ呆然と頷いた。
「ここで仕事をさせてもらってもう何年にもなるけども、イベントごとなんてやったことないから楽しみで。クリスマスツリーも用意したいとこだけど、ご主人様に確認し忘れちゃったからしょうがない。来年のお楽しみだね」
「えっと、俺のせいでしょうか」
「え?」
「気を使ってもらわなくていいんです、俺」
「一馬君?」
「クリスマスだからって変わったことやったこともないし。あ、クリスマス終わって半額以下になったケーキ持って帰って来てくれて、お母さんと食べたりはしてました」
「……」
「スーパーで働いてたから、余ったやつもらえたみたいで。でも食べれなくても全然俺平気です。毎日ご飯作ってもらって、ほんとに俺毎日嬉しいんです。すいません俺何もしなくて、迷惑かけてばっかりで」
「…かずまくん…」
  やめておばちゃん泣いちゃうから。
  少年に背を向け、手に持っていたケーキを冷蔵庫に入れる。眦を拭って、笑顔を作った。
「いやだね、何言ってるの。ご主人様のご命令だよ。一馬君と一緒にクリスマスパーティーしたいんだってさ。尊重してあげてよ。ね?」
「風間さんが?」
「そうだよ。ご主人様は独り身だからね、ちっちゃい子供とクリスマスだから浮かれてるんだよ。これは内緒だからね。言っちゃダメだよ!」
「え、あ、はい」
  人差し指を口元にあてて笑えば、少年は躊躇いながらも頷いた。
「サンタさんに欲しいものはお願いしたの?」
「え?あーえっと、何か欲しいものないかって聞かれたけど、何もないですって言っちゃいました」
「何でもわがまま言っちゃえばいいのに」
  夕食の仕込を始めた家政婦の背中が楽しそうに弾んでいる。
  リビングのソファから台所までは距離があり、もっと近くで会話したくて一馬はダイニングチェアに移動した。
「サンタクロースは俺のとこに来たことないです。それにここにいさせてもらえてるだけで十分わがままです。俺これ以上の幸せないです」
「あ、タマネギが目に染みた」
「大丈夫ですか?」
「涙出てきちゃった。やぁねぇ年取ると涙脆くて」
「?えっと、ティッシュ取りますか?」
「いや大丈夫。ハンカチ持ってるから」
「はい。何かお手伝いできることありますか?」
「…じゃぁ後で一緒に、ターキーに色々詰め物しようね」
「はい!」
  少年の家庭の事情は聞いていた。
  両親共に不幸な亡くなり方をし、施設でも酷いことをされて一時的に預かっているということだった。
  いずれちゃんとした施設を見つけるつもりで風間はいるようだったが、こんないい子なら引き取ってあげればいいのにと他人事ながら家政婦は思った。
  だがご主人様にも事情はある。
  ご主人様は会社をいくつも経営しているという話だったが、詳細については聞かされてはいなかった。
  生活ぶりは質素といっていい。
  あまり日常生活に興味がないようで、大金をはたいて何かを買う、というようなこともなかった。
  だが家政婦が必要だと申請したものについてはケチケチすることもなくすぐに揃えてもらえたし、食材はそれなりのものを使用していたが、それでも最高級品ではなくあくまでも「そこそこ」だった。
  一般家庭の食材費よりは高いかな、という程度だ。十分質素である。
  だが少年が来てからは食事に注文をつけるようになった。
  「栄養があって、バランスが良く、子供の為になる食事を」ということだった。
  今まで和食が中心だったが、洋食中華様々取り入れるようになり、バリエーションは驚くほどに変化した。
  毎日少年の為に違うメニューを考える事は楽しい。
  少年は目を輝かせて本当に美味しそうに食べ、風間も文句を言わずに全て食べた。
  ただ少年はピーマンだけはダメなようで、あらゆる手を尽くして調理してみても、ピーマンだけは嫌そうに食べていた。
  風間の前で食べ残すということはしなかったが、家政婦は気づいた。
  無理矢理食べさせるのも酷で、それ以来ピーマンは入れないようにしている。
  じっくりと時間をかけてオーブンでターキーを焼きながら、他の料理を作る。
  少年にはテレビでも見てゆっくりしてなさいと言えば大人しく背筋を伸ばしてテレビをつけてソファに座っていた。
  ホットココアを淹れてやり、お辞儀をして礼を言う素直な子供に感動すると同時に、切なくなる。
  とても素直で頭も良く、よく出来た子供だったが、出来すぎだった。
  もっと感情的であっていいはずなのにと思う。
  大声で笑うことはない。声を出して笑うことすら滅多にない。
  話をする時も身振り手ぶりを交えて話すこともなく、怒ったり泣いたりは必要がなければすることがないのは当然としても、全く抑制的だった。
  そういう生き方を強いられてきたのだと思えば可哀想で、今穏やかにいられるこの瞬間、この少年が幸せであればいいのにと思う。

  おばちゃんは息子が増えたくらいの気持ちでいるからね。

  己の息子達はすでに成人して独立していた。
  それを見届けるように夫は事故で他界し、家にいても生きがいがなくなってしまった為に、家政婦の仕事を始めたのだった。
  少年が来てから仕事が仕事ではなくなったかのようで、やりがいがあり毎日が楽しかった。
  また子育てをやり直しているかのようだったが、この小さな息子は全く手がかからない分、構いたくなってしまって仕方がない。
  度を越えてはいけないことは承知している。
  だができる限りの事はしてやりたかった。
「ご主人様がそろそろご帰宅の時間だね。食器を並べるの、手伝ってくれるかな?」
「はい、やります」
  帰宅時間がわかれば早めに連絡を入れてくれるいい依頼主だった。
  家政婦の立場を理解してくれ、やりやすいように計らってくれる。
  しかも金払いも良いので本当にいい職場だった。
「今日はご主人様にはシャンパン、一馬君にはジュースだよ」
「はい」
「コップはこれね、落とさないように気をつけて」
「はい」
  普段とは違う食器とテーブルクロスに、一馬は目を瞬いた。
  真っ白で統一された食器類に、銀のナイフとフォークが照明を反射して煌いていた。
「もうナイフとフォークは使えるようになったよね」
「はい、大丈夫です」
「偉いね。テーブルマナーは覚えてて損はないからね」
「はい」
  物覚えの良い少年は、一度言えば理解した。
  実際にやって見せれば見よう見まねで実践し、二度目にはもうできるようになっていた。
  わからない事はわからないと素直に言い、その度に風間は優しく目を細めて色々な事を教え、教えた事が出来るようになるのを見るのが嬉しいようだった。
「ただいま」
  玄関から声がした瞬間、一馬は走る。
「おかえりなさい、風間さん」
「ただいま一馬。今日もいい子にしてたかな」
「はい。宿題全部終わりました」
「早いな!けどな一馬、いい子じゃなくてもいいんだぞ」
「え?」
「たまにはやんちゃして俺に叱る役目を与えて欲しいもんだ」
「え、はい…」
「悩むな悩むな。眉間に皺寄ってるぜ。ガキがそんな顔するもんじゃねぇ」
「はい…」
  眉間に手を当てる少年の頭を撫でながら、廊下を歩きリビングへと入れば、香ばしいターキーが食卓に乗せられた所だった。
「すげぇ料理じゃねぇか。なぁ一馬」
「はい!俺見たことない料理ばっかりです」
「さぁ丁度出来上がったところですよ。ケーキは食後でいいですか?一緒に召し上がりますか?」
  笑いながら家政婦が迎えてくれて、風間もまた笑顔になった。
「食後にゆっくりコーヒーで頂こうか。それでいいか?一馬」
「はい」
「食い切れるかなぁこれ。一馬腹いっぱい食えよ」
「余ったら明日に持ち越しだそうです」
「何ぃ?」
  コートを脱ぎ、手を洗って食卓に着いた風間が眉を寄せたが、家政婦はしたり顔で頷いた。
「アレンジはさせて頂きますがね、食べ物は粗末にしちゃバチが当たりますからね」
「違いねぇ。だがこれは下手したら明後日まで残っちまうぞ。水無月さん、あんたも良かったら一緒に食べて行きなさい」
  え、と目を見開いた家政婦を、一馬は目を輝かせて見上げた。
「俺、お皿持ってきますね!」
「いえいえお気持ちだけで結構ですよ。私の事はお気になさらず」
「せっかくのクリスマスで、これだけのご馳走だ。皆で食べた方が楽しいだろう」
「いっぱい食べてくださいね!」
  自らの隣の席に皿と持ってきたナイフとフォークを並べ、グラスも持ってくると言って立ち上がろうとするのを止める。
「では今日だけ、お相伴させて頂きます。ありがとうございます。一馬君、私はアルコールは飲まないの。ありがとね」
「じゃ、ジュース飲みますか?」
「頂きます」
「はい」
  赤の他人が一つのテーブルを囲んでクリスマスの食事をする。
  何とも奇妙な光景だったが、とても温かかった。
  三人が満腹するまで食べてもまだ残った料理だったが、明日でなんとかなくなりそうな量には減っていた。
  料理を下げ、ケーキを出されて風間は口元を押さえ唸ったが、一馬は嬉しそうにケーキを上から覗き込んでいた。
「食えそうか?一馬」
「はい。あ、風間さんおなかいっぱいですか?明日でも」
「いや大丈夫…だ。やっぱりケーキも今日食わねぇとだろう」
「?そう…なんですか?」
「クリスマスケーキってのは、そういうもんだ」
「はい」
「切り分けますよ。四分の一ずつでいいですか?」
  家政婦が右手に包丁を持ち、左手に小皿を持ちながら問うて来るのを風間は遮った。
「俺が切ろう。あんたは飲み物を頼む」
「はい、承知いたしました」
  包丁を受け取って、小振りながらもたっぷりの生クリームとイチゴに彩られた丸く真白いケーキにため息が漏れそうになるが、堪える。
「一馬、お前はいっぱい食えそうか?どれくらい食う?」
「えっえっと、どれだけでも」
「遠慮すんな。食える分、言ってみろ」
「え、じゃぁ…これくらい」
「よし、切るぞ」
  まず半分に切り、半円を三分の一と三分の二に分ける。
  大きい方を一馬にやって、小さい方は己の前へと置いた。
  上に乗っていた「メリークリスマス」の文字入りチョコプレートを一馬のケーキの上に乗せてやり、己のケーキの上に乗っていたイチゴもやった。
「もらっていいんですか?」
「いっぱい食って、でかくなれよ」
「あ、ありがとうございます」
  かつて母親も同じようにイチゴをくれたなぁと、思い出した。
  父親さえいなければ、幸せだった。
「さ、コーヒーと、一馬君にはオレンジジュースね」
「ありがとうございます」
  飲み物を置いてもらって、再度「いただきます」をした。
  食べたケーキは今まで食べたどのケーキよりも美味しかった。
  イチゴは熟れて柔らかく、口の中で甘みが広がった。
  生クリームもしっかりしていて甘くはあったがしつこくなく、口に入れればふわりと溶けた。
  スポンジケーキもふわふわで、何日も経ち硬くなったケーキとは全く違って美味しかった。
  あまりの違いに目を見開き驚いていると、「うん甘い」と無表情に頷く風間と目が合った。
「美味いか?一馬」
「はい、おいしすぎてびっくりしてます」
「何だそりゃ、食い足りねぇなら残りも食っていいからな?」
  まだ半分残ったケーキを指差すが、少年はゆっくりと首を振った。
「これは明日、また風間さんと一緒に食べたいです」
「……」
  可愛いこと言いやがるなぁと思う。
  ということは、明日も早く帰って来ねぇとならないなと思う。
  明日のスケジュールを脳裏で確認し、なんとかなるなと頷いた。
「今日よりはちっと遅くなるかもしれねぇが、晩食うか。さすがに朝飯にケーキは食えそうにねぇからな…」
「はい!」
  嬉しそうに少年が笑う。
  この家に来てから、少年は笑顔を見せるようになったのだった。
  進歩だ。
  これはとんでもない進歩だった。 
  もう満腹で一口も入らない状態だったが、無理にケーキを押し込んだ。
  誰だデザートは別腹だなんて抜かした奴は。
  無理なもんは無理だと思ったが、目の前で幸せそうな顔をしてケーキを頬張る少年と話している間に、気づけばケーキはなくなっていた。
  ごちそうさまでしたと、礼儀正しく挨拶をする。
  可愛いなぁと思った。
  やはり子供はこうでなくちゃいけない。
  片づけをして家政婦が帰った後、風呂に入りテレビを見て寛いでいれば、少年の就寝時間がやってくる。
「おやすみなさい」
「ああ。おやすみ、一馬」
  少年は夜更かしをしたいと言うこともなく、いつも決まった時間に部屋へ戻って、就寝した。
  逆らった事はなく、わがままを言うこともなく、手を煩わせることもない。
  一時的に面倒を見てもらっているだけなのだということをよく弁えていて、全てにおいて控え目だった。
  施設を探してはいたが、なかなか条件に当てはまるところは見つからなかった。
  虐待のない所。
  条件はたったそれだけだというのに、精査すれば必ずどこも埃の一つや二つは出るのだった。
  施設長がまともでも、スタッフが嫌がらせを行うことは常習的にあるようで、全く被害を受けない子供もいれば、集中的に狙われる子供も当然ながら存在する。
  いじめの構図と似ていた。
  己より弱者に手を出す。
  子供同士のいじめも当然ながら存在し、一馬はどちらかと言えば目をつけられやすい子供だった。
  大人にとってよく出来た子供でも、子供同士でそれが通じるわけはない。
  子供同士のケンカなら己でなんとかしろというところだったが、施設は大人が介在する。
  密接に関わる大人がまともでいてくれなければ話にならず、集団生活である以上、トラブルは避けられない。
  今の一馬を施設に放り込んでいいものか。
  だがずっと家に置いておく気はないのだった。
  置いておけるものなら置いておきたいが、そうできない理由がある。
「…もうこんな時間か」
  思索に耽っている間に転寝をしていたらしく、ソファの上で気づけば時間は深夜になっていた。
  風間は立ち上がり、コートのポケットからプレゼントを取り出した。
  一生やる事はないと思っていた、サンタクロースの出番である。
  気配を消し、足音を忍ばせることは慣れていた。
  音もなくドアを開け、少年の部屋へと侵入を果たす。
  明かり一つない暗闇であったが、これにも風間は慣れていた。
  リビングからの遠い明かりがわずかに漏れ入るだけで、十分明るい。
  少年の枕元に、そっと置いた。
  靴下を用意してやるべきだったかと思ったが、後の祭りである。
  そういえばクリスマスツリーもなかったなと思い至ったが、時すでに遅しであった。
  父親の真似事は、心が浮き立つような気恥ずかしさがあった。
  喜んでくれたらいいんだが、と、期待と不安が押し寄せる。
  来た時と同じようにドアを閉め、何事もなかったかのようにリビングへ戻る。
  寝る用意をし、テレビを消し電気を消して自室へと向かう。
  ベッドに横になり、年甲斐もなく心が浮わついてしばらく寝つく事ができなかった。

「おはようございます、風間さん」
「ああおはよう、一馬。良く眠れたか?」
「はい、あの、あの、プレゼント、ありがとうございました!!」
  深々と礼をされ、風間の羞恥心に火がついた。
「え、な、なんのことだ…?」
  明らかに声が上擦ったが、少年は気づかなかった。
「俺、プレゼントもらったの初めてです!!ほんとにいいんですか?」
「あー…あー…ああ、いいんだ。欲しい本、買うといい」
「はい!!」
  少年はサンタクロースの正体を知っていたのだった。
  何ということだ。それならば素直に直接手渡してやれば良かったのだ。
  一生に一度のサンタクロース体験よ、さようならだ。
  ささやかな親心の傷心に気づかない少年は、手に持っていた図書券を大切そうに握り締めた。
「これで、辞書買います俺」
「辞書?」
「はい。そうすれば本棚の本、読めるようになります」
「……」
  何て健気で可愛らしいことを言うのだろう。
  風間と台所にいた家政婦は、二人揃って嘆息した。
  風間がため息をついても一馬が反応を示すことはなくなっていたが、それでも可能な限り控えていたというのに、無意識に出てしまった。
  辞書ならいくらでも買ってやるというのに。
  もっと漫画とか雑誌とか、個人的なものを買えばいいのに。
  けれど少年は「辞書高いから、嬉しいな」と喜んでいた。
  もう何も言えない。
  家政婦が何かを言いたげな表情をして風間を見ていた。
  ああ、あんたの言いたい事はわかっている。
  引き取れるもんなら引き取りたい。
「飯にしよう、一馬」
「はい」

 今幸せだと感じているのは、風間も同じだった。


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