世界は碁盤の目で出来ていて、周囲は生命に溢れている。
年が明け未だ正月気分の抜けきらぬ町は日中から多くの人で賑わっていた。
十代と思しき若者の姿が多いのは冬休みが続いているからだろう、お年玉目当ての店側は店頭にスタッフを並べてお買い得セールを連呼していた。
東堂ビルから一歩外に出た瞬間、吹き抜ける寒風に首を竦めて立ち止まったが、すぐ背後から「邪魔じゃボケ」と暴言を吐かれ眉を顰めて振り返る。真冬だというのにスキンヘッドが寒々しい、巨漢が立ち塞がってこれ見よがしに舌打ちをしていた。
「ど真ん中でボケッと突っ立っとったら邪魔なんじゃ。はよどけや風間」
「…テメェはいいな寒さを感じなさそうでよ」
「あ!?馬鹿にしとんのかこのボケ!寒いもんは寒いわ頭とかな」
「寒いなら見せんじゃねぇよこっちまで寒くなるだろうが!」
「これはトレードマークっちゅうやつじゃアホが。お前の似合わんヒゲと似たようなモンじゃボケ」
「ボケとアホしか言えねぇのかタコ頭。いや、タコ頭という名の嶋野だったか」
「外見で判断しよったらあっさり死ぬでお前。あっさり死ねやお前。いつ死ぬんじゃお前」
「退いて下さいの一言が言えねぇ可哀想なヤツがほざいた所で痛くも痒くもねぇ」
「さっさとどけやクソ風間が」
「クソが増えたか。それにしても貧困だな語彙がよ」
「じゃかぁしいわ。はよどけっちゅうねん。帰ってカチコミ準備せんといかんやろがボケが」
「テメェがもっとスリムになりゃ、横から通れるんじゃねぇか」
「これは筋肉じゃドアホが!人をデブ扱いしとんちゃうぞワレェ!」
「うるせぇなぁ。吼えりゃ言うこと聞くと思ってんのかハゲ」
「ああ!?表出ろやオラァ!!」
「今表出てるだろうが。お前はまだ出てねぇがな。俺も準備があるからよ、テメェと遊んでる暇はねぇんだ」
「ならさっさと去ねや!!このボケ!!」
「お、親父…」
人通りの多い劇場北通りで、大声を張り上げて怒鳴る派手な紫のスーツを着た巨体と、応酬する黒スーツの男は酷く目立っていた。
ビルの前で車を停車させ待っていた柏木は、運転席から下りたものの近づくことを躊躇った。同じく嶋野組の組員と思しき男達も、車の前から動けずただ二人のやり取りを見守っている。
別れの挨拶などという殊勝なものをすることもなく、二人は入り口でさっさと分かれて各々の車へ乗り込んだ。
運転席へ乗り込み、柏木はやれやれとため息を漏らす。
仲がいいのか悪いのか、顔を付き合わせれば毒舌の応酬をする堂島組幹部の二人であった。
風間も嶋野も未だ若輩と呼ばれる年齢ながら華々しい功績を上げており、兄貴分でもある堂島組長の指揮の下、二人が組んで行動することはよくあった。
その度に激突し、険悪な雰囲気であるくせに実行段階になれば驚くほど息の合ったコンビネーションを披露した。
おそらく堂島組長の作戦指揮が上手く、それに合わせて戦果を上げるだけの能力があるからこその功績である。
いずれ東城会の最重要幹部になるだろうと目されている三名は、組員達にとっては非常に誇らしい存在ではあったが、この険悪さだけは頂けなかった。
おかげで風間組と嶋野組自体の仲も悪い。
険悪というほどではないにせよ、積極的に交流しようという気配は微塵もなかった。
バックミラーごしに見える風間はもう気持ちを切り替えているようで、不機嫌ではない。内心安堵し、柏木は話しかける。
「親父、準備はできてやす」
「…さすがわが構成員は優秀じゃねぇか」
「へい、嶋野組に遅れは取りやせんぜ」
「今回は時間行動厳守だ。ヤツとは別行動だが俺らの部隊が実働部隊だ。ヘマは許されねぇ」
「へい」
「最短距離、最短時間で終了する」
「了解しやした」
この時代、東城会は未だ地方組織の一つでしかなく、力をつけてきてはいたがまだまだ周囲との軋轢は激しく、抗争は頻繁だった。
堂島組も神室町の全てを掌握するには程遠く、地道な制圧活動が必要な時期だった。
敵は多く、味方はそれほど多くない。
黎明期は抜けたという手ごたえは感じていたが、安定期まではまだまだ時間が必要だ。
常に死と裏切りと腹の探り合いは身近にあり、昨日の友が今日の敵、というのは日常茶飯事であった。
堂島組の目下の目標は神室町征服であり、利権の奪い合いは熾烈を極めていた。
カチコミをかけるのもかけられるのもまた日常茶飯事であり、戦争は終わったというのに極道組織の中では未だ戦時中であった。
だからこそ、風間や嶋野のような戦うことに長けた人間が台頭し、のし上がる。
のし上がり続ける為には、生き残らねばならなかった。
風間も嶋野も、所帯は持たない。
鉄砲玉に所帯を持つ資格などない。
いつ死ぬかも知れぬ男を伴侶に持つ妻が哀れでもあり、また妻自身が敵に狙われるからでもある。
「守るべきもの」など、持ってはならない。それはすなわち枷となり、人質となる。
持つのなら、それなりに落ち着き安定した地位を確立してからだ。
己と家族の安全を、守れるくらいの力を持ってからだった。
他人にこの価値観を共有してもらうつもりはないので、所帯を持ちたいヤツは持てばよいと思っているが、風間が少年を引き取れない理由はそれであり、それはすなわち少年の身を守る手段でもあるのだった。
風間の身辺が落ち着く頃には、少年はおそらく大人になっているに違いない。
成長を側近くで見守ってやりたい気持ちは十分にあったが、手元に置くということは、生命の危険を意味するのだった。
少年の死は望まない。
共に生活するようになって数ヶ月、すでに生活の一部として己の中に存在していることを自覚していた。
失ってはならないものに、なっていた。
早く、手放さなければ。
そう思うことは、苦痛を伴うのだった。
冬休みが終わり三学期が始まったが、一馬が学校から帰って来てもまだ家政婦が戻ってくる時間ではなかったので、風間からもらった合鍵を使って鍵を開けて、中に入る。
寒々とした廊下を歩き、部屋にランドセルを置いて今日の宿題だけを取り出し、リビングへと向かう。
真冬の冷え切った空気が室内にも蔓延し、肌を刺すような冷たさであったが一馬はかじかむ手に暖かい息を吹きかけて、テーブルに置いたノートを開いた。
冷暖房のない家で育った為、暖房はつけなくとも我慢できた。
着込めば済む話であり、買ってもらった服はかつて着ていた薄いセーターとは比べ物にならないほど暖かく、過ごしやすかった。
ただ、家政婦が戻って来る時間の少し前には暖房を入れておかねばならないので、時刻の確認は怠らない。
暖房なしで過ごしていたのを目に涙を溜めながら見つめられ、「いいんだよ、暖房つけても。あったかい部屋で過ごしてよ。ご主人様もそれをお望みだから」と言われてからは気をつけるようにしていた。
本人は気にならなくとも、他人が気にすることもあるのだということを、学んだのだった。
飲み物も、ジュースは必ず冷蔵庫に常備され、「飲みたい時に飲んでね」と言われるのだが、遠慮した。
出されれば飲むが、自主的に飲もうとは思わない。
それも全て、風間のお金から出ているものだからだった。
贅沢はしなくても生きていける。
必要最低限のものがあれば幸せで、何もなくとも生きるだけならできるのだった。
養護施設の存在は、必要最低限を保証してくれる場所なのだということを知った。
己のわがままで出てしまった事を申し訳なく思っている。
もう何ヶ月も風間の家に世話になっていて、まだ施設が決まらないようなのだ。
自分から聞くことは躊躇した。
ここを出て行きたいわけではないし、風間を責めたいわけでもないからだ。
風間さんの迷惑になってなきゃいいんだけどな。
それだけが、気がかりなのだった。
宿題を終わらせ、部屋に戻しに行くついでに辞書を持ってくる。
本棚に戻しておいた読みかけの小説を手元に置いて、挟んでいたしおりのページを開いた。
風間が読んでいるだけあって、内容は非常に難解で子供には理解し難いが、辞書で意味を調べながら読んでいけば少しずつ頭の中に入ってくる。
内容の咀嚼は不可能でも、単語や文章の流れは追えるようになり、推理小説なのだなということは理解した。
トリックなどは読んだ所でわからないが、誰が犯人なのかを考えることは楽しかった。
辞書を引きながらの読書は遅々として進まないが、時間が経つのは早い。
ふと目線を上げれば十七時であり、家政婦がそろそろ戻ってきて晩御飯を作ってくれる時間であることに気づいて慌てて暖房を入れる。
本を本棚に戻し、辞書を片付けてリビングに戻ろうと部屋を出た所で、電話が鳴った。
この家に電話をかけてくるのは、風間本人か、風間の部下か、家政婦のみだ。
家政婦が電話をかけてきたのはただ一度、風邪を引いて熱が出たので休ませて欲しいと言ったきりである。
電話には出なくていいと言われていたが、今この家には一馬しかいなかった。
家政婦さん何かあったのかなと思いながら、電話を取る。
「はい、風間です」
声は小さくなってしまったが、相手には聴こえたようだった。
「ああ、一馬か。水無月さんはまだ来てないか?」
「もうすぐ来ると思います。あの、勝手に出てごめんなさい」
「いやいい。出てくれて助かった。今日は早く帰れそうなんだ。そうだな十八時までには帰れると思うから、伝えておいてくれるか」
「はい、あ、じゃぁすぐですね」
「ああ、すぐ帰る」
「わかりました、伝えます」
切る直前に玄関扉が開き、家政婦が入ってきた。
風間からの伝言を伝えると、慌てた様子で「まぁ大変」と台所へと小走りに向かうので、ついていく。
「お手伝いします」
「ありがとう一馬君。ご主人様が帰ってくるまでに、美味しいご飯作らないとね」
「はい!」
家政婦のおばさんは、一度として同じメニューが出たことがないほどレパートリーが豊富だった。
すごいと言うと「そのうちネタ切れ起こすからね。前食べたなって思っても、大目にみてね」と笑顔を向けられたが、どの料理も美味しいので何が出てきても文句など出るはずがなかった。
食べたいものはあるかと聞いてくれることもあり、リクエストをすれば必ず次の日の晩御飯に出してくれた。
家族でアパートに住んでいた頃、母親は毎日仕事で疲れきっており、スーパーで半額になったお惣菜と、お味噌汁と、ご飯があればご馳走だった。
それでも美味しかったし、文句などなかった。
自分の為に作ってくれる料理は、とてもありがたいものなのだった。
慣れた手つきで野菜を切り、同時進行で小鍋に湯を沸かし、フライパンで何かを炒める家政婦は手際が良く見ているだけで楽しい。
あっちこっちと台所を動き回り、「そこのお皿取ってね」と一馬への指示も忘れない。
「はい」
もう大人になった息子が二人いると教えてくれたが、きっといいお母さんなんだろうなぁと思う。母親とは似ていないが、優しくて温かかった。
「あ、しまった」
調味料入れを見やり、家政婦が声を上げたので一馬は思わず覗き込んだ。
「どうかしましたか?」
「お砂糖が足りない…」
「あ、じゃぁ俺買ってきます」
「え!?あ、いいの、いいのよ。ハチミツで代用できるから…って、ハチミツも足りないわ…」
「両方買ってきます俺」
「あああ家政婦失格だわ。ご主人様もう帰って来ちゃうんだよね?」
「すぐ帰るって、言ってました」
「…うん、いいの。これはおばちゃんのミスだからね。自分で買いに行って来るから」
火を止め、エプロンを外し始めた家政婦を、手を振って止めた。
「俺に行かせてください。走って行って来ます!」
「でも一馬君に行かせるわけには」
「風間さんの帰りに間に合わなかったら、一緒に謝りましょうね」
「…おばちゃん、一馬君みたいな子供欲しかったわ」
「え?」
「うちの息子どもはちっとも手伝いもせずにやんちゃばかりで困ったもんだったのよ」
やれやれと言いながらも、その目は懐かしげに細められていた。
「…申し訳ないけど、お砂糖だけ、お願いしていいかしら。ハチミツは明日自分で買って来るから」
「はい、すぐ行って来ます!」
お金を受け取り、売り場と簡単なパッケージデザインやおおよその値段などを教えてもらって、ジャケットを羽織り外に出る。
日が落ち寒さは増していたが、走って行けばすぐに温かくなった。
夕方のスーパーは予想以上に混雑しており、大人の客が抱えるカゴに頭をぶつけられながらも人ごみをかきわけ砂糖を探した。
十七時以降になると、朝から出ていた売れ残りの惣菜や生鮮食品などが安くなる。
それを狙って来る人達も多かったし、仕事帰りや学校帰りの人達が一気に押し寄せレジには行列が出来ていた。
子供が一人砂糖を抱えて立っていると怪訝な顔で見られたが、きちんと列に並んで会計を済ませ、小さなレジ袋に入れてもらって家路に着いた。
初めての経験だった。
弾む心を抑え、一馬は落とさないようスーパーの袋をしっかりと握る。
遅くなってしまったので、もう風間は帰って来ているかもしれなかった。
怒ったりはしないと思うが、もし家政婦さんが叱られていたら一緒に謝ろうと思う。
もっと早く砂糖を買って帰っていたら、間に合ったかもしれないのだから。
肩で息をしながらマンションの通路を走り、玄関前に辿り着く。
上がった息を整え、最後に深呼吸をして鍵穴に鍵を差し込んだ。
誰かが家にいようとも必ず鍵はかける約束になっており、買い物に出かける時にも一馬は自ら鍵をかけた。
回した鍵が途中で阻まれ、首を傾げる。
開いていた。
もうすぐ帰ってくるだろうからと、開けておいてくれたのかもしれない。
気にすることなく扉を開け中に入り、後ろ手に鍵をかけた。
「ただいま」と声を上げ、靴を脱いで室内に入ろうと足を上げた所で動きが止まった。
「…?」
板張りの廊下が汚れている。
身を屈め、指先で汚れに触れればそれはざらりとして土のような感触がした。
いや、「ような」ではなく、泥土だろう。
それは複数の足の形をして廊下の上を無尽に埋め尽くしており、廊下に面したドアというドアの中に踏み込んだ痕跡までがはっきりと見えた。
家の中は静寂に満ちており、リビングに続くドアは半分程開かれ漏れる明かりは煌々として玄関先まで届いていた。
全身が、震えた。
何故心臓が跳ねるのか、呼吸が浅くなっているのか一馬は己で理解ができなかったが、抱えたスーパーの袋を握り締める手に力を篭め、唾が干上がり乾燥して震える口を無理矢理開いて、家政婦の名前を呼んだ。
返事はない。
換気扇を回した台所で食事を作っているから聞こえないのかもしれなかった。
力の入らぬ膝を動かす度に廊下に座り込みそうになるが、壁に手をつき縋るようにして奥へと歩く。
土足で踏み荒らされた部分を踏まぬよう、端を進んだ。
名前を呼ぶが、どこからも応えはなかった。
開け放たれた己の部屋が見えたが、ランドセルや教科書が床に散乱し、押入れも開けられ毛布やダンボールの箱が落ちていた。
向かいの風間の部屋も、同様だった。
泥棒か、強盗か。
しゃがみ込みそうになるのを意志の力を総動員して耐え、中途半端に開かれたリビングのドアに手をかけたが、そこで力尽きへたり込んだ。
ソファのすぐ側で、うつ伏せで倒れる家政婦の背中が血に染まり、床に赤黒い血溜まりを作っているのが見えたからだった。
「おうクソボケ風間」
「…枕詞に知性が感じられねぇな嶋野」
風堂会館から出て車に乗り込もうとするのを遮るように声をかけられ風間は振り向く。
昭和通り方面から現れた巨躯は、部下を数人引き連れ腕を組んで不機嫌そうに眉間に皺を刻んでいた。
偶然通りかかった、ということはありえない。
通常嶋野が天下一通りへ足を運ぶことなどありえないからだった。
無論風間組事務所があるからであり、余程緊急の案件でもない限り近寄ることはない。
「何だ、急用か?」
車の前で立ち止まり用件を促せば、男はスキンヘッドを軽く撫で不満気にため息をついた。
「まだおったんか」
「あぁ?」
「ならええわ。お前の死に顔拝めるかと思たのに残念じゃ」
言うだけ言って踵を返す男の背に、声を投げる。
「待て嶋野。説明しろ」
「ワシの家に襲撃があった」
「…何?」
「お前もう家帰るゆうてたんちゃうんけ」
「仕事上のトラブルがあったんでな、始末に当たってたんだよ。…それで」
「内通者がおるな。返り討ちにしたったが、ワシんとこに襲撃があったっちゅうことはお前んとこにもあるやろ」
「…!!」
瞬間顔色を変えた風間を怪訝に見やるが、いちいち気にかけてやるような間柄ではない。
「あぶり出しはワシがやる。お前はぐっちゃぐちゃになった家の掃除でものんびりしとけや」
「……」
蒼白にも見える顔色で黙り込んだ男を一顧だにすることなく、「ほなな」と言い置き嶋野は待たせていた車へと消えて行った。
「親父、どうされやすか?」
この日たまたま運転手を買って出た柏木が、風間の心中を慮って声を潜める。
家に確認の電話をするか、一刻も早く家に帰るか、それとも事務所で連絡を待つか。
顔を上げた風間の目を見て、柏木は後部座席のドアを開けた。
「全速で向かいやす。お任せください」
「…ああ」
報復だろうということは想像がつく。
風間と嶋野は有名だった。
単独で狙われる位には。
敵は多すぎて判別がつかぬ程で、消しても潰しても後から後から沸いて出た。
全て排除し神室町を手中にするその日まで、敵が消える日は来ない。
神室町を手にした後には、また別の敵が現れるのだろうが、現在安寧とは程遠い状況なのだった。
わかっていた。
身に染みて知っていたはずだった。
なのに夢を見ていた。
自らのところに敵は来ていない、と思えるほど楽観的ではなかった。
電話をしたとき、少年は家にいた。
家政婦も間もなく来るだろうと言っていて、ならば家には二人ともいるのだった。
膝の上で組み合わせた両手に力が篭る。
震えはしなかったが、ただ後悔だけが心を占めていた。
風間が所有するマンションは、高級マンションの部類には入るが立地を優先した為セキュリティが完璧というわけではなかった。
風間名義ではなく別人の名義で所有しており、表札もなく調査した程度ではそこが風間の居住場所とは知れないようにしていたはずが、おそらくどこからか知れたのだろう。
尾行でもされたか、誰かの口から漏れたか。
…誰かの口から、ということはすなわち風間の居場所を知っている構成員の誰かということであり、疑いたくはなかったが嶋野の「内通者がいる」という言葉も気になった。
運転手は信頼の置ける者に任せている。
経路も日によって変えており、疑わしき車両の確認も怠った事はなかった。
どこから知れたか。
いや、それよりも今は現実逃避をしている場合ではないのだった。
駐車場に滑り込み、停まるのももどかしく自ら車のドアを開け、風間は走った。
扉を開けようと取っ手を引いたが鍵がかかっており、ポケットの中から鍵を出す手がもたついて苛立った。
後ろから柏木がついて来ており、周囲を警戒している様子だったが気にかけてやる余裕はない。
力任せに扉を引き開け、中に踏み込む。
廊下は汚れており、正面奥のリビングへと続くドアは開いていて明かりもついていたが、異様な静けさがあり緊張が走る。
人の気配は感じるが、複数ではなかった。
銃を抜いて手に構え、気配を殺し少年の部屋を覗き込むが、荒らされているだけで姿はない。己の部屋も同様で、浴室洗面所も人の姿はなかった。
先行する柏木もまた銃を持ち、リビングへと踏み込んだ瞬間身体を引き攣らせて立ち止まったが、それは僅かの時間で声を出すことはなく、奥の台所へと姿を消した。
全室見て回ったが敵はすでに引き上げた後のようで、風間は銃を下ろしリビングへと向かう。
足を踏み入れ、視界に飛び込んできた光景に知らずため息が漏れた。
「…ああ、一馬」
「……」
全身の力が抜けて行く感覚に、床の上に座り込みそうになるが堪え、うつ伏せに倒れ付した家政婦の側に呆然と座り込む少年の傍へと近づき膝をついた。
「一馬、怪我はないか。大丈夫か?」
「……か、ざまさ…」
恐ろしくゆっくりと顔を上げた少年の顔は、流れた涙が乾いて筋ができていた。
肩を抱き寄せてやり、軽く涙の後を擦ってやれば、新たな涙が瞳に溢れ、頬を伝った。
視線を上げ風間の姿を捉え、少年はしゃくりあげた。
「すまない、遅くなった。…守って、やれなかったな。すまなかった」
お前が無事で良かったと言えば、細い両手を風間の背に回してしがみついた。
震える身体を両腕で抱きしめてやり、戻ってきた柏木に視線を向ける。
痛ましいものを見る目で見下ろしていた柏木は言わんとするところを察し、事務所に電話をかけ行動に移す。
移動しなければならなかった。
後の処理は組の者がやる。
だが準備が整うまでの間はここで、待機せねばならない。
風間は冷静だった。
家政婦とは何年もの付き合いだった。
少年が来てからはなおさら家族のように接してきた。
よく出来た、これ以上ない家政婦だった。
彼女のご家族には申し訳ないと思う。
出来る限りのことはさせてもらう。
…もし、少年が死んでいたら、己は冷静でいられたか。
自問するが、答えは出なかった。
静かに声を殺して泣く少年を見下ろし、背を撫でる。
「一馬、よく無事で」
「…砂糖がなくて、俺、もっと、…っ」
「買いに行ってたのか」
家政婦の遺体の側に、何かが入ったスーパーの袋が転がっていた。
察して言えば、スーツを掴む手に力が入り、「俺のせいですか」と吐き出すように言葉が漏れた。
「何でだ?」
「お父さんも、お母さんも、おばさんも、俺がいるから、死…っ」
「いいや、違う。お前のせいじゃない。俺のせいだ。俺が悪いんだ、一馬」
お前の父親は俺が殺した。
母親は不幸だったが、家政婦は俺のせいで死んだのだった。
お前が気にする事はない。
お前が気に病む事はないのだ。
だが堪えきれない呻きを上げて、少年が涙に濡れた顔を上げた。
「かざまさんが、死んだら、俺…っ!どうしようって、おばさんみたいに、殺されてたら、どうしようって!帰ってきてたら、死んでたら、って、思ったら、俺…!」
家政婦が死んでいるのを見たとき、真っ先に浮かんだのは風間のことだった。
早く帰ると言っていた。
買い物に行っている間に帰ってきていて、もし自分の部屋で死んでいたら。
ちらとしか見なかった風間の部屋に、実は風間が死んでいたら。
恐ろしくて、動けなくなった。
確認しなければならないと思ったのに、身体が硬直して動かなかった。
知りたくなかった。
現実を、直視したくなかった。
こういう時にすべき事は、かつて大家がやったように、救急車を呼ぶことだと学んでいた。
わかっていたのに、できなかった。
かざまさんがもし、しんでいたら。
思考が停止し、何も考えられなくなった。
悲しいとか、辛いとか、そんなものではなかった。
もっと大きな何かが壊れる気がして、心の中に壁ができた。
壁の前で途方に暮れて、ただじっとしていることしかできなかった。
風間が今目の前で生きていて、抱きしめてくれる手が暖かい。
声を殺す事はもう、できなかった。
生きてて良かったと、思う。
風間がここにいて、嬉しいと思う。
家政婦のおばさんが死んだというのに、風間が生きていてくれて喜ぶ己は人でなしだと思った。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ただ、謝った。
しっかりと抱きしめてくれる風間は優しい声で、「お前が生きていて良かった」と言った。
生きていて良かった。
生きていてくれて良かった。
人でなしだ。
風間さんも、ひどい人だ。
…
…
…
でも、嬉しかった。