誘惑する、指先。
足元の地面が平らであるのかすらおぼつかない暗闇の路地を、歩く。
すれ違う他人がやってくれば、互いに譲り合わなければ肩が触れ合う程には狭い。点々と設置された街灯は薄暗く、長屋のように隣接する建物が密集する、古く鄙びた雰囲気のこの場所は、好景気まっただ中の日本、アジア有数の歓楽街である神室町の中にあって、異質な存在感を示していた。『チャンピオン街』と呼ばれるこの場所が、四角く囲まれ町とは隔絶されているように見えるからかもしれない。
戦前からこの場所だけは変わりなく、密集する店舗の看板と店主は替われども、狭く、雑然として、けれど懐かしさを喚起する、その印象は何十年経っても変わることがない。
ここは神室町の『根っこ』なのだそうだ。
歴史を感じさせるこの場所は、地上げが進み変わりゆく町の中にあって、完全に取り残されている感があるのだが、実は『能動的に』、そのままの形で残っているのだと知ったのは最近のことだった。
人通りの少ない通路を歩き、バー『シェラック』へと足を踏み入れる。
カウンター席のみの店内は、視線を動かす必要もなく全体が見て取れた。「いらっしゃいませ」と迎えてくれるマスターに軽く会釈をし、桐生は手近な席へと腰掛ける。
他に客はいなかった。
何度か来たことのある店であり、悪い印象はない。
時間があれば町をぶらつく。
最近は特に、用事があってもなくても町中観察をすることが増えた。
不動産経営を任されてまだ日が浅く、もっと神室町のことを知っておく必要に迫られたからである。
つい先日採用したばかりの小清水は、食べ歩きが趣味だと言っていた。神室町の飲食店にも詳しく、色々話を聞き、実際に食べに行ったりもする。彼の情報は正確だった。ガードマンとして日々真面目に働いている彼を採用して正解だったと桐生は思う。
経営は現在のところ順調と言って良い。
邪魔は入るが、一つずつ排除しており、確実に管理物件は増えている。
自分にこの仕事が向いているかは不明だが、やりがいは感じていた。
グラスに注がれたブランデーが半分程なくなった頃、一人の客がやってきた。マスターに片手を上げながら笑顔で話しかける様子を見るに、馴染みなのだろう。
通り過ぎる男の声を背に聞きながら、グラスを持ち上げ一口煽る。グラスをテーブルに置いた視界の端に、折り畳まれたメモがあった。
「…ん?」
常連と思しき男は一番奥の椅子に座り、軽い口調でマスターに世間話を振っていた。
全くこちらを見もしない男の様子に確信を得、メモを手に取り片手で開く。
時間と場所、それだけだった。
名前はない。
なんだこれは、と、握りつぶしても良さそうな内容である。
再度メモを置いた男を見やるが、素知らぬ顔でマスターと酒談義に花を咲かせている。差出人はこの男本人ではなく、誰かに頼まれたのだろうと推測した。
差出人不明の呼び出し。
心当たりがありすぎて、特定できない。
桐生には現在敵がいた。
数は少ないが、味方もいた。
そして仕事関係の人間もいる。
もしかすると、兄弟からかもしれなかった。
ただ兄弟ならばポケベルに連絡を寄越すか、アパートに直接来るだろうから可能性は低いように思う。
この怪しげなメモでは、呼び出し内容すら推測できない。
仕方ねぇなとため息を漏らし、グラスを空にして立ち上がる。
呼び出されれば、出向くまでだった。
時刻は二十二時を回っていたが、神室町の喧噪はますます盛んにして衰える様子がない。札束をちらつかせながら飲み屋をハシゴしようと騒ぐ中年、仲間と騒ぎたいだけの学生、成人しているのか疑わしい程幼い顔に厚化粧を施した女は男達に声をかけ、店で飲もうと袖を引く。毎夜お祭り騒ぎの賑やかさは、見慣れた光景になっていた。
皆金持ってんなぁ、と他人事のように呟きながら、人混みをすり抜けるように歩く。
ピンクのネオン輝くホテル街を抜け、一本路地を折れた。
雑居ビルの立ち並ぶ薄暗い道の中程に、目的地はあった。
五階建ての古びたビルは、半分以上のテナントが空いており、真っ暗だった。どこもかしこも地上げの影響で、空いたまま放置されているテナントは神室町中に数えきれないほど存在する。
指定された最上階を見上げれば看板はなく、闇が落ちていた。メモを確認し、確かにあそこだよな、と見直した。
呼び出しておきながら、来ていないのか?
不可解に、桐生は眉を顰める。
だがここまで来て引き返しても仕方がない。最上階へ向かう。
おそらくどこかの会社の事務所が入っていたであろうその場所の入り口の鍵は、開いていた。
中に入ると、ビルの外観のイメージ通りというべきか、古びた簡素な室内ではあったものの、照明はついており明るい。
あれ?と、思う。
階段を上がってくる間に誰かがつけたのか。
エレベーターは電気が落とされており使用禁止となっていた為、仕方なく五階まで階段を使ったのだが、いつの間に。
物がほとんどなく、静まりかえった室内を見回し、足を踏み入れて、気づく。
外から見た時にはカーテンが引かれ、真っ暗だったはずの窓が、見あたらない。
理由はすぐにわかった。
窓際にパーティションが設置されており、壁となっていた。あるはずの窓は隠され、見えなくなっているのだった。
パーティションは床や天井にはめ込んで設置するタイプの、しっかりとした作りになっている。不要になれば取り外しもできるので、勝手に穴を開けて改造ができない賃貸などでよく使用されていた。
ワンフロアの事務所に、会議室や応接室などを個室として間仕切りする時に使用するものである。
簡素だが壁代わりとして、遮音や遮光に効果を発揮する。
なるほど、これならば外から見れば明かりは漏れない。空室に見えるだろう。
だが、何の為に?
パーティションから離れ、再度室内を見回す。
人の気配はなかった。
ひび割れの目立つコンクリートの壁。
床はグレーのカーペットが敷かれているが、これは真新しく綺麗だ。
中央に置かれているのは正方形のローテーブルと、挟むように向かい合わせで置かれた三人掛けソファが二つ。黒に近い濃いグレーの布張りのものであり、値段の程は不明だが、高級そうである。これもまた新しいものであり、退去者が置いていった物ではなさそうだ。
天井に備え付けのエアコンは稼働しており、寒くはない。
…だが待て。天井に備え付けのエアコンなど、この時代、しかもこんな古びたビルにあるわけがなかった。
よく見れば、明らかに新しい。
その他目につく家具類は特になかった。
ドアが一つと、小さな給湯室があるだけだ。
ドアはトイレだろうと見当をつけたが、中に人がいる気配はない。
事務所にしてはデスクがなく、書類などを保管しておく棚もなかった。
かといって家として過ごすには、色々な物が欠けている気がした。
臨時に作った応接室。そんな印象である。
呼んだのは誰か。
敵ではなさそうだ。敵ならば堂々と待ちかまえているはずだからだ。
親しい人間でもなさそうだ。親しい人間ならば、なおさら部屋で待っているだろうからだ。
ならば。
ローテーブルの上に置かれたメモに気がついた。
取り上げて、走り書きのような文字を読み上げる。
「二十三時まで待機。…って、何様だテメェ!」
ツッコミも無理からんことである。
己の腕時計で現在時刻を確認する。
二十二時十五分。
最初のメモに書かれていた指定時刻は、二十二時であった。
到着したのは、ほんの三分前である。
「……」
十二分の遅刻だ。
「いやしかしだな、メモ受け取ったのが五十五分だったわけで」
五分でここまで来られる訳がなかった。
…まぁ、言い訳はさておき。
「…クソ、一時間待ちぼうけさせる気かよ」
舐められているな、と、桐生は思った。
二十三時丁度にドアを開けた時、室内で一時間待っているはずの人物はソファの上で靴を脱ぎ、肘おきを枕に身体を横たえて眠っていた。
「…あれ」
予想を外し、立華は目を瞬いた。
不機嫌に睨まれ叱られるかと思っていたが、本人は夢の中のようだ。
耳鳴りを自覚する程の静寂が落ちてはいたが、エアコンの稼働音と、桐生の規則正しい呼吸音は僅かに聞こえた。
一本路地を入っているからか、車の走行音も町の喧噪も、全く気にならない。
オフィス向けの閑静なビルとして、最近まで人気のある場所であった。
仕事に集中するにも、リラックスするにも、いい場所といえた。
歩み寄り、桐生を見下ろす。
「……」
随分無防備に眠っているように見えた。
表情は穏やかであり、呼吸で上下する胸は安定している。
腹の上に置かれた左手はぴくりとも動かず、力の抜けた身体は熟睡しているようにしか見えない。
「よく眠れるなぁ」
敵からの呼び出しではないということをわかっているからなのだろうが、それにしても。
図太いのか、大物なのか、天才的な役者なのか。
ひたすら見つめてみるが、桐生に変化はない。
「すみません桐生さん、お待たせしてしまいました」
仕方なく、軽く右手を、肩に置く。
手袋をはめた硬質な感触が、桐生の体温を立華に伝えることはない。
無機質なモノが、桐生の身体に触れた、という感覚があるのみである。
「急ぎの仕事が入ってしまいまして。お暇だったでしょう」
だから不貞寝しているのだ。
そんな桐生の声が聞こえてきそうである。
「不動産経営、頑張ってらっしゃるようですね。報告は受けていますよ」
順調に売り上げを伸ばしている。
誰に教わったわけでもなく、自分で考え実行し、成果を上げているというのだから立華は驚いていた。
さすが風間新太郎の秘蔵っ子、というのでは桐生に対して失礼だろう。
才能溢れる若者なのだと、いうことだった。
「…えーと、すみません、そろそろ面と向かってお話させて頂きたいのですが…」
起きろよ、と、立華は催促したのだったが、桐生は動かなかった。
少し肩を揺すってみるが、僅かに身じろいだだけで、相変わらず目を閉じたままである。
おかしい。
少なからず修羅場の経験もあり、敵も存在する今の桐生が、いつまでも無防備に熟睡しているとは思わない。他人の前でそんな姿を見せることはすなわち、危険を意味するからだ。
これは、一時間も待たせてしまったことに対する、桐生なりの意趣返しのつもりなのだろうと思った。
狸寝入り、というやつだ。
随分子供じみたことをするなと思えば微笑ましいが、さてどうする。
こんな態度を取られたのは、遙か昔小さな子供の頃、妹と喧嘩して以来のことだなぁ、と、立華は思い出した。
日本人の子として周囲から蔑まれ、虐められ、疎まれてきた兄妹は、普段は固い絆で結ばれ互いに心許せる大切な家族ではあったが、家にいれば些細なことで喧嘩はよくあった。
十分に物も食べ物もなく、我慢を強いられることは日常茶飯事で、妹のために食べ物を我慢する、服を我慢する、満足に勉強もできず、母の仕事の手伝いをすることは決して苦痛ではなかったが、幼いが故の妹のわがままに振り回されることも一再ではなく、やっと買ってもらえた新しい鉛筆を妹がおもちゃとしてかじり出した時には、我を忘れて叱りつけたなぁ、あれは今思うととても大人げなかったなぁ、と、苦い思い出として蘇る。
妹は、怒ると不貞寝して口をきいてくれなくなるのだった。
…ああ、懐かしい。
妹よ、今どこにいるのか。
立派な体格をした、どこからどう見ても男にしか見えない桐生を見下ろし、妹を思い出してしまったことにため息をつく。
どうか妹がこんなにゴツくなっていませんように。
…うん、あり得ない話である。
杞憂、というやつであった。
しかし。
「起きて頂けませんか?」
妹の機嫌を取るのに、自分はどうしていただろう。
ほとんどの場合、一晩寝れば翌朝には「おはよう」と妹の機嫌は戻っていた。
戻らない時も、こちらが折れてやって、「ごめん」と謝ってやれば妹は笑顔になった。
桐生はどうだろう。
「桐生さーん」
桐生は妹ではないので、どうすればいいのかわからなかった。
「怒ってますか?桐生さん?…どちらかというと、大人の対応をお願いしたいところなのですが」
子供じゃないんだから。
ここで今更ながらに気づいた。
何故己は下手に出ているのだろう。
社長なのに。
丁寧な口調は仕事で必要だからである。
柔らかな物腰は、仕事で必要だからである。
だからといって、遜っているわけではない。
現在プライベートも仕事も関係のない生活を送っている立華にとっては、仕事用がすなわちプライベート用であると言っても過言ではなくなっているとは言え、下手に出るとはどういうことか。
立場的には上のはずだった。
…上下関係を盾にどうこう、というつもりは全くないが、彼に気を遣う必要は今この時点であるだろうか?いや、ない。
遅れたことについては謝罪した。これを受け入れないのは、桐生の度量の問題であって、これ以上時間を費やす必要があるだろうか?いや、ない。
倒置法で結論を出し、立華は一つ深呼吸をする。
本日の予定は終了しており、これが終わればあとは寝るだけではあったが、こんな不毛なことを延々と続けていられる程暇ではない。
よし、起こす方法はあれしかない。
「桐生さん」
静かに、声をかける。
「くすぐりますよ」
真剣に、言った。
妹と喧嘩しても、殴ることはできなかった。
口喧嘩しても、埒があかなかった。
子供同士で理性的に解決できるわけがなかったので、当時は喧嘩になると妹をくすぐってやれば勝利は確定であったのだ。
桐生を殴る気はない。
叩き起こす、という選択肢もない。
自主的に起きて欲しいのだが、起きる気はないようだ。
これこそが平和的で唯一の解決法であると、立華は確信している。
最後通牒だったが、それでも桐生は反応しなかった。
「……そうですか」
やれるものならやってみろってことだな、この野郎。
効果的な場所を考える。
服の上からくすぐっても、効果が薄いことは明白だ。
幸い桐生はスーツを着ていても、胸元は開いている。
ここしかないな。
人間の急所である首を狙えばこちらのものである。
多少暴れられても対処できるよう、押さえるように右手を桐生の肩の上に置き、左手で猫の喉元をくすぐるように耳元から顎先へと、輪郭をなぞるように撫でる。
猫ならば喉を鳴らして喜びそうなものだが、桐生は猫も驚く程の機敏な動きで、跳ね起きた。
「……ッんな…!?」
危うく頭突きをくらう寸前でかわした立華は、目を見開いて驚いた。
「…何ですかその反応。びっくりしました」
「び…っくりしたのは、こっちだ立華!」
「はいぃ?」
ソファにへばりつくように丸まった桐生だったが、収まり切れずに長い足ははみ出ている。
蹴られないよう位置をずらし、立華が姿勢を正した。
「くすぐれ、ということだったので」
「いつ誰が言った!?」
「桐生さんの身体が」
「言ってねぇよ!っつか、妙な言い方すんな!」
「おかしいですね」
「おかしいのはアンタだ…」
立華と距離ができたことを確認し、身体の力を抜いた桐生がソファに座り直す。
何なんだ、一体何が起こったんだ。
静寂の落ちた暗闇の中で微睡んでいたところに、突然冷水を浴びせられた気分だった。
くすぐった、と言った。
ぞわぞわと背筋を這い上がる奇妙な感覚は今もあり、軽く頭を振って追い出そうとするが、触れられたと思しき耳元から顎先にかけても冷たい感触が残っており、熱を取り戻そうとじわじわ疼いている。
むず痒いようなそこへ無意識に手を触れて、顔を顰める。離した指先を見つめて舌打ちをした。
「…ここ、血が出てんじゃねぇか」
「桐生さんが敏感に反応するからでしょう?」
「…だから、妙な言い方すんなつってんだろ。痛ぇし。顔洗ったらしみるだろこれ絶対」
「ああ、私の指にも桐生さんの血が」
「こっち見せんな。何で見せんだ。見たかねぇよ」
眼前に突きつけられた左手の指先を見ないよう、桐生は顔ごと逸らし眉間に皺を寄せた。
上向き晒された桐生の右顎には、一センチ程のひっかき傷がついている。滲んだ血は早くも乾きかけており、浅いものだと知れた。
拒絶され行き場のなくなった立華の指先はそのまま、桐生の顎先へと伸びる。
傷の範囲を確かめるように皮膚を滑る指先の冷えた感覚に息を飲み、桐生が上半身を逸らして逃げた。
「傷、すぐに治りそうです。消毒薬はないんですが」
「ああ、放っときゃいい。唾でもつけときゃ治るだろ」
「なるほど、つけます?」
「………」
「桐生さん?」
「…いや、いい。いらん。不要です」
「?そうですか」
敬語で引いた桐生の顔には、不審がいっぱいである。
言葉にするなら、「何なの?この人」であった。
「自分でできますか?」
「問題ない。つーか、お気になさらず」
「わかりました。手を洗ってきますね。血を落としてきます」
「ああ、うん、どうぞ」
給湯室へと向かうスーツの男の身のこなしに無駄はない。
危険な仕事も多いようで、鍛えてもいるようだ。
話によれば風間の信頼も厚く、山野井も信頼を寄せており、闇の不動産王と呼ばれるほどのやり手のはずであった。
キレ者でなければ、生き残れない世界にいるはずの男だ。
金も情報も力も持っているはずの男だ。
なのに、アレ。
あの残念な感じは、わざとか。
作戦なのか。
油断させておいて、潰しにかかる手なのか。
あれで桐生が騙されると思っているのだろうか?
いや、騙すも騙さないも、仲間であり社長と社員であるのだからそんな必要はないはずである。
「わけがわからん」
「何がですか?」
高そうなブランドのハンカチを取り出して、指先を拭いながら歩いてくる男を睨み上げる。
「なんつー起こし方をしやがる、と思ってな…」
「桐生さんが寝たフリなんてするから」
「あぁ?」
「血はこびりついたら落とすのが大変ですよね」
「誰が寝たフリしてたって?」
「しかも爪の間はなかなか落ちなくて」
「おい立華」
「え?」
「え?じゃねーよ」
険しい表情で睨みつけられる意味がわからず、立華は軽く首を傾げて見せた。
「やれるもんならやってみろってことだったでしょう?」
「意味がわからん。俺は寝ていた」
「まさか」
「…あ?アンタの言ってる意味がますますわからん。まさかって、何が」
今度は二人そろって、首を傾げた。
「冗談ですよね?」
「何で冗談になるんだ。俺は寝てたって、言ってんだろ」
「だって、私からの呼び出しだって、わかってましたよね?」
「そうだろうとは思ってたが。…それがなんだ」
首が肩につくほどに傾けて、立華が唸る。
「…おい、首、折れんぞ?」
「大丈夫です。自分で折れやしませんから」
「…ああ、うん、そうですね」
真面目に返され、桐生は黙る。
しばし考え込み、立華が目線を上げた。
「本当に寝てました?」
「しつけぇな」
「…本当に?」
「何でそう思う」
「だって」
「あん?」
片眉を器用に上げて、不機嫌に問う桐生の姿はどう見てもカタギではなかった。
中学を卒業してすぐ極道の世界に入り、殺伐とした生き方をしてきたはずである。
極道は生ぬるい世界ではないことを立華はよく知っていたし、己と桐生の関係も理解していた。
利害の一致。
それだけのはずである。
己が完全に信用されているとは思っていなかったし、こちらもまだ完全に信用するには足りていなかった。
二人の間の架け橋となっているのは『風間新太郎』であり、その橋は強固で信頼に値するものではあったが、そこを無防備に行き来できるだけの材料は互いに持っていないはずである。
自分なら…と、立華は思う。
仮に桐生に呼び出されたとしても、いや、尾田だったとしても、寝て待つなんて考えられないことだった。
たとえどれだけ徹夜続きだったとしても。
疲れていたとしても。
だから桐生の対応は、想像を超えていた。
そこまで気を許しているとは、思わなかった。
「桐生さん、あなた大物になりますよ」
「…はぁ?なんだそりゃ」
「すみません、ちゃんと起こせば良かったですね」
「…ああ、寿命が縮んだぜ。アンタ左手も冷たいんだな」
言われて、立華はまず義手である右手を見、そして左手を見て、己の頬に押し当てた。
「ああホントだ、冷たいですね」
感心したと言わんばかりの立華に、桐生は頭を抱えたくなる。
「アンタ今、手洗ってきたばかりだろ」
「あ、そうでした」
天然か?
天然なのか?
それともわざとなのか?
こめかみを押さえてしまうのは、無意識のなせる業だった。
「今頬が熱いので、余計に冷たさを感じます」
「そうかい」
「でも桐生さんの方が熱かったような」
「ほ~お…って、おい、」
桐生の言葉が詰まった。
ひやりと、右頬に押し当てられたのは立華の左手だった。
包み込むように触れた指先が、撫でて、動く。
「ああ、やっぱり」
「…いいか?アンタが温かく感じるってことはだな、俺にとっては冷たいってことなんだがな」
だが最初の冷たさに比べれば、随分とマシにはなった。
耐えられない程ではない。
耐えられない程ではないが、何故撫でられなければならないのかは、不明である。
「眠いと体温が上がるそうです。桐生さん、眠いんですね」
「…目は覚めたよ、おかげ様でな」
「それは申し訳ないことをしました」
さらりと指先で耳元にかけて一撫でし、逃げようとする桐生の動きに逆らわず、手を引く。離れ際、触れた唇は少し乾いていた。
テーブルを回り込み、立華は向かいのソファへと腰掛ける。
「実は今桐生さんが経営を任されている山野井さんの件で」
「…ああ」
「芸能王の物件、買い付けできるように手配を進めています。秘書の方から後ほど報告はあると思いますが」
「ああ…」
桐生は頬杖をつくようにして、膝に肘を乗せて右頬を覆うように隠す。
何故だか、ひどく熱を持って疼いていた。
「すごいことですよ、桐生さん。こんなに早く、ファイブビリオネアを切り崩せるとは思っていませんでした」
「…俺だけの力じゃない」
「ご謙遜を。期待しています」
差し出された左手は、握手を求めるものではない。
単なる、身振り手振りの一端だ。
「俺も色々勉強させてもらってる」
「いいことですね」
温められた彼の左手は、まだ温かいのだろうか。
桐生の視線が向かう先に、立華は気づいた。
再び己の頬に手を当てて見せ、「大丈夫ですよ」と笑えば視線を逸らす。
わかりやすい反応だった。
桐生のことが、理解できた気がした。
「…桐生さん、今日はお待たせしてしまって、申し訳なかったですね」
「ん?ああ…今更だろ」
「お疲れだったんですね」
「…あー…いや」
「ここ、静かでしょう。ゆっくりするにはいい所です」
「…確かにな」
「昼はまだ少し事務所が残っているので人の出入りがあるんですが…オフィスビルですし、夜は静かです」
「ああ…」
「それにしても、熟睡できるのは羨ましい」
「…いや、熟睡するつもりはなかったんだが」
暇だったので、時間を潰すつもりで横になったら本気で寝ていた、というオチである。
「私もここで寝たら熟睡できるでしょうか」
「さぁ…って、おい」
ソファの感触を確かめている立華に、思わずツッコミを入れる。
「寝る気か」
「寝心地はいいのかと思いまして」
「いいわけねぇだろ」
「でも」
あなた爆睡してたでしょ、という目で見られては、返す言葉がない。
立華は、変な男だった。
天然だ、間違いない。
確信した。
「…アンタ、よくそれで不動産王とか呼ばれてるよな…」
思わず漏らせば、男が目を細めて笑う。
足を組み、左手で軽く髪をかき上げる仕草は自信の現れのようだった。
「私、敵なしですよ。…今までは、と、とりあえず言っておきますが」
「…すげぇな」
「というより、敵にしないことが重要なんですが」
「カラの一坪」の件で、それも通用しなくなってますけど、と呟いて、立華はため息混じりに桐生を見つめ、困ったように微笑んだ。
「これはあまり言いたくないことなんですが…」
「何だ?」
「私、小心者なので」
「はぁ?」
「おまけに臆病で」
「信じられるか!」
「あはは、ひどい」
声を出して笑ったのは久しぶりだな、と、立華は思う。
人を信頼し、信用するのは怖いことだ。
誰も信じてはいけない世界に己は生きている。
誰も。
誰一人として。
己の左手を見下ろして、その温かさに安堵する。
己も血の通った人間なのだと、安堵する。
それと同時に、恐ろしい。
浅ましい人間なのだと、気づいてしまう。
「桐生さん」
「何だ」
「…風間さんはね、温かい手をしていました」
「……」
「何故でしょう。私は、彼を信用しました」
「……」
痛いほど刺さる桐生の視線は、真剣だ。
美しいと、思う。
それは風間に対する、絶大なる信頼だった。
その眼差しは歪みなく、一途に信じ続けるものだった。
「今でも不思議なんですよ。…あなたに言うことではないですが」
「…親っさんが、アンタを信用したからだろう」
「でしょうね。でなければ、大切なあなたを頼むとは、言わないでしょうから」
信用してくれたから、信用した。
己の利己的な告白にも、桐生は全く動じない。
話をすれば、わかる。
風間がどれだけ桐生を大事にしているか。
どれだけ想っているか。
逆もまた、然り。
風間も桐生も真っ直ぐだと、思う。
ああ、恐ろしい。
羨ましい。
誰かを信じることができるなんて、幸せだと思う。
「桐生さん」
左手を伸ばす。
彼に向かって、差し出した。
「あなたの手は、温かいですか?」
テーブルを挟んだ距離では、桐生が手を伸ばした所で届かない。
「……」
躊躇いを見せた桐生の視線が泳ぐ。
立華は、待てば良かった。
唇に刻んだ笑みは柔らかく、見つめる瞳は優しげに。
あとは、こう囁いてやればいい。
「私から行くべきですか?」
「…社長様だからな…」
不満に唇を尖らせながらも、拒絶はなかった。
桐生は音もなく立ち上がり、テーブルを回り込んで差し出された左手を取り、握り込む。
なんと間抜けな握手の光景であることか。
なんと己の計算高く、浅ましいことか。
うんざりするほど、思い通り。
何かを手にする為の行動は、こんなにも簡単に行える。
呼吸をするように、さりげなく。
張り巡らせた糸を、手繰り寄せることは、とても容易い。
立華は笑みを深くし、そのまま己の頬へと桐生の左手を押し当てた。
「あれ、ちょっと冷たいんじゃないですか?」
「…っなに、やってんだアンタ!」
手を引こうとするのを、力を込めて止める。
「さっきも言いましたが、私今頬が熱いので、ちょうどいいです」
「離せコラ」
「頬、赤くなってませんか?…私、純情なのでこういうの恥ずかしいです」
「どこからツッこんでいいのかわかんねぇよ!」
「ねぇ桐生さん」
立華が、微笑う。
優しげに、温かみのある表情を浮かべて、桐生の視線を正面から射抜く。
「誘惑したのは、あなたですよ」
「…は…」
意味が分からないと、桐生は思う。
何言ってんだ、と言いたい。
この状況についていけない。
離され自由になった手に気づいた時には、桐生の唇の輪郭をなぞる立華の指先があった。
「…っ」
「さっきからずっと、頬が熱いですよ。…眠いわけではないのなら、何故でしょう」
「…気のせいだ」
「私もね、ずっと熱いんですよ。どうしてでしょうね」
さらりと囁かれ、桐生は言葉を飲み込んだ。
男の指先は項を伝って鎖骨へと滑る。
払いのけるべく手首を掴んで睨みつけるが、立華は笑っていた。
「私の体温、上がってるでしょう。鼓動も早いです。確かめてみます?」
「……」
「ほらほら、触ってください」
「い…いらん」
やっぱり、変な男だと桐生は思った。
「キスしてもいいですか?」
「い…いやだ」
手首を掴まれていても気にすることなく、立華は桐生の頬に手を伸ばす。
「やっぱり、熱いです。恥ずかしいんですね。私と同じ」
ふふ、と漏れる吐息を至近で感じ、桐生は思わず目を閉じる。
何故己は床に跪いているのだろう。
「人間の作りは基本単純なんです。…自分も人間なんだなぁって、自覚しちゃいますね」
「…何の話だ?」
「性欲の話です」
「……」
「あ、体温上がりましたね桐生さん」
「…ね、眠いんだ!」
「なるほど、では一緒に眠りましょうか」
ダメだ、何を言っても通じない気がした。
触れる男の指先は冷たい。
温まったはずなのに、すでに冷えているとはどれだけ血行が悪いのか。
肌の上を這う冷たさに、息が上がる。
「私は痛みだけでなく、色々な感情が顔に出にくいみたいなんですが」
桐生の額に口づけながら、ぽつりと呟く。
「今とても楽しいです。…伝わってますか?」
「…知らん」
「顔も身体も熱いです」
「眠いんだろ」
「いえ、興奮してるんです」
「…ああ、そうですか」
「桐生さんも熱いから、」
「うるせぇ黙れ」
口を塞げば、喜ばれた。
絡め取られたのは、どちらが先か。
END
社長は計算高い天然だと信じています(矛盾)。