派手な呻き声を上げて、男が地面に頭から突っ込んだ。
朝から時間をかけてセットしたであろう金髪モヒカンは砂に塗れ、逆立てた髪は地面に擦れてぺたりと沈んだ。
すぐ側にはヤンキースタイルに学生服を改造した男達も複数転がり、それら全ての顔は腫れ上がり鼻血を垂れ流していた。
雑居ビルが乱立する中ぽかりと開いた建設予定地という看板の掛かった空き地の中央で立っているのは、一人の少年だった。
肩で息をする度に大きく上下する服はあちこち綻んでおり、ズボンは激しく動いたせいだろう、土埃を被って膝から下は薄茶に変色している。
とめどなく流れる汗に髪が貼り付いて、うっとうしさに舌打ちが漏れた。
前のめりになる身体を支える為腿に手を置き、萎えて座り込みそうになるのを耐えながら、少年は「ざまぁみろ」と呟く。
大きく息を吸って呼吸を整え、少し落ち着き身体を起こす。
少年の顔もまた、瞼は痣になって腫れ上がり、頬は殴られ唇は切れていた。
他校の生徒で顔も名前も知らない奴らだったが、ツラ貸せやと校門で待ち伏せされて返り討ちにしてやった。いい様だ。いい気味だゴミどもめ。
薄汚れたベンチの上に放り出しておいた鞄を掴み、転がる奴らを放置して帰ろうと踵を返す。
空き地から一歩外に踏み出したが、声をかけられ立ち止まった。
「あれ?お前堂島じゃん?何で死んでねぇの?」
「…あ?」
苛ついた。
それはすなわち、死ねと同義だからだった。
出来る限りの悪意と殺意を混めて不躾な声の主を睨みつけるが、背後に二人男を引き連れた中央に立つ頭の悪そうな金髪長髪の男は、唇に刺さったピアスを撫でながら細い目をさらに細めてニタリと哂った。
爬虫類の如き醜悪な顔に少年は嫌悪し、目を眇める。
「何か用かよ」
「佐崎ちゃんどしたの?ケツまくって逃げたの?」
「…ササキちゃんて誰だよ。そこで寝こけてる馬鹿のことか?」
「あんれ?もしかして五人がかりでやられちゃった系?」
手を額に当て空き地を覗き込むようにする爬虫類男を放置して、少年は歩き出す。
「こらこらこらこら堂島クン、お前もケツまくって逃げんのかよ」
背に投げつけられる声は本当に不愉快だった。
神経を逆撫でする抑揚のつけ方とやらを、良く知っている男だった。
「…意味わかんね。何でお前らの相手してやんなきゃなんねぇワケ」
「だって堂島クンだから」
「あぁ?」
「パパお偉いヤクザなんでしょ?」
「……」
「息子より俺らの方が強いってなったら色々やりやすくなるんだよネー。わっかるかなぁ?ボクちゃん」
「……」
「今さぁチームとか数激減してんの。のし上がるチャンスなんだよね。正々堂々勝負して、勝ちました!っていう勲章、わかる?」
複数でしかかかって来れない雑魚のくせに、口だけは一人前だった。
「お偉いヤクザの息子なのに、一般人に負けちゃう無様さ、わかるぅ?」
両手を広げて首を傾げ、嘲笑する様はとても一般人には見えなかった。
少年は鼻で笑い飛ばし、鞄を地面に置く。
ケンカを吹っ掛けられては、帰れない。
「…馬ッ鹿じゃねぇの」
「おっやる気になってくれたじゃん。死んだらごめんねぇ?」
「そのまま返してやるぜ」
せっかく出てきた空き地へと逆戻りするはめになり、少年は内心うんざりとため息をついた。
体力はすでに限界だった。
こいつらがどの程度強いのかは知らないが、どう考えても分が悪い。
勝ち負けよりも、「逃げた」と評されることの方が、屈辱だ。
歩くだけで震える膝を叱咤する。
転がる五人を避けて進むが、爬虫類男は避けなかった。
「おいぃ佐崎ちゃんさぁ。ダッセェから消えてくんねぇかなぁ」
靴先で、金髪モヒカンのササキちゃんとやらの顔面を蹴り上げた。
血を撒き散らしながら仰向けへと転がされ、さらに脇腹を蹴って脇へとどかされる様は見ていて愉快ではない。
吐き出す呼吸は、腹の底からの不快が混じっていた。
「…ダチなんじゃねぇのかよ」
言えば、「そうだよ?」と軽く返され吐き出したはずの不快が募る。
「邪魔だったし。さ、始めようぜー」
半円形に囲まれて、身構える。
たった、三人。
けれど途方もない重労働だ。
雑魚はどうでもいいが、爬虫類男だけは潰したかった。
砂利を踏む音を立てながら、男達がにじり寄ってくる。
構えたまま、動かない。
身体二つ分にまで迫った。
まだ、動かない。
男達の身体が、動いた。
「ォラァ!!」
雑魚はどうでもいい。
正面に立つ、お前を潰す。
駆け込み、拳を振りかぶる。
一発、顔面に入れたかった。
鈍い音と共に視界に閃光が弾け、気づいた時には激痛と共に地面に転がっていた。
「ダッセェエエエエエエ!!!堂島クン、ダッセェエエエエエエエ!!!!」
「バレバレだっつーの!!」
「この距離でまともに喰らいやがった!!馬っ鹿じゃねぇ!?つか、馬鹿だろ!!」
パンチをぶち込む前に、囲んだ二人からの攻撃をまともに喰らった。
体勢を崩した所を、狙い済ましたような爬虫類男の拳が顎に決まった。
「………」
あ、終わった。
俺死ぬかも。
手足の感覚がなくなっていた。
顎に走る痛覚が強すぎて、他の感覚が全てなくなった。
「死んどく?死んどくぅ?」
脇腹に、男の靴が食い込んだ。
マジで、痛ぇし。
吐きそう。
つか、吐く。
背中も蹴られた。
好き勝手にボコられ状態、俺カッコ悪ぃ。
腹を庇うように身体を丸めるが、どうしようもなかった。
頭を蹴られて、地面を転がる。
閉じた瞼の上を流れる液体は、確実に血だ。
男達が何かを言っているが、耳も馬鹿だ。聞き取れない。
意識が遠のいてきたな、と他人事のように感じたが、同時に痛覚も遠のいてラッキーだった。
何かの衝撃があるだけで、とても遠い出来事のように感じる。
早く終わらねぇかな、もしくは俺意識飛ばねぇかな。意外としぶといな俺。
茫としてすでに思考は断片にも満たない細切れ状態だったが、まだ己が生きていることだけは知っていた。
「……」
上から声が聞こえなくなった。
声というよりは、音というべき認識だったが、雑音がなくなりやけに静かだなと思い始めた頃、身体に降って来ていた衝撃もまた止んでいる事に気づいた。
もしかして俺、とっくに死んだ?
瞼はもう開かなかった。
声も出ない。
やけに喉が渇いてひりつき、呼吸なのか悲鳴なのかわからない音が漏れたようだった。
耳鳴りを自覚し、反響する世界の中、何かが触れた。
「……?」
何かを問われたが、認識できない。
帰らないと。
…帰るって言っても家出中だけど。
…家出中つっても、行くとこないんだけど。
「……?」
また何かを問われたようだ。語尾が上がっている。
悪ぃけど、答えらんねーわ。
今度にしてくれる?
俺ちょっと、無理そう。
……
意識が落ちた。
身体が熱い。全身が痛む。
そして、息苦しい。
身体の上から重しを乗せられたように、仰向けに横たわった己の身体は重かった。
指先に力を込め、少し動かす。
神経が通っていることが自覚できれば、己が今どういう状態であるかも理解した。
額に冷やりと濡れたものを置かれる感覚があり、薄く目を開けば木板の天井が目に入る。
家は和風建築だったが、こんな天井の部屋は果たしてあっただろうかと茫洋と眺めれば、頭元から「大丈夫か」と声をかけられ瞬きをした。
低音で落ち着いたそれは男のものであり、聞き覚えのないものだった。
動けない様子を悟った男は位置をずらし、視界の範囲に納まった。
「…誰」
乾いてひび割れたような声が己の口から飛び出し、驚く。
水を飲むかと問われたが、身体を起こせる気がしない。
戸惑う視線を正面から受け、男は小さく頷き身体の下に手を差し入れて、上半身を起こす手伝いをしてくれた。
コップを両手で持たされ、底は男が支えて持った。
一口のみ、その甘さに感動する。
二口三口と喉に流し、飲み干した後で唇に染みて痛みに顔を顰めれば、男は苦笑したようだった。
「まだ寝ていろ。内臓は傷ついてない。脳も問題なしだ。お前は運が良かったな」
布団の上に寝るのもまた一苦労だったが、男は背を支えてくれ、落ちたタオルをまた氷水に浸して絞り、額の上に乗せてくれた。
「今日はここにいる。何かあったら言え」
「…どーも…ありがとう、ございます」
口ぶりからすると、この男が助けてくれたようだ。医者にも連れて行ってくれたのだろう。
親切な男だったが、外見は親切そうには……いや、見えるか?
「若い大人の男」だった。
オールバックと呼ぶには前髪は短く、逆立てたというほど長くもないが、額を出して見下ろす瞳は自信に満ちて、一目で並の男ではないと知れた。背が高く、肩幅もあり、筋肉もしっかりとついていそうで、男の表情と合っていた。
羽織っただけのグレーのスーツに、ボタンをいくつか外したワインレッドのシャツという姿は随分とラフに見える。普段見慣れているスーツを着た大人達は皆ネクタイをきっちり締め、上着もボタンを留めてしっかりと着込んでいたので新鮮に映った。
強面は見慣れすぎる程に見慣れているので、すぐ側で胡坐をかいて見下ろしてくる男の顔は随分と線が細く見えたが、モデルのような繊細さとは違い、男らしく精悍な顔立ち、というやつなのだろうと思った。
「…どうした?水、飲み足りねぇか」
「あ…いや…」
長い時間見つめたままでいたようで、男は怪訝に眉を顰めた。
「寝れるうちに寝ておけよ」
「えっと…あんた、誰ですか?」
恐らく脳が正常に活動していないせいだろう、助けてくれた恩人に対して使う言葉ではないと思ったが、言い直すだけの気力はなかった。
言葉遣い自体はどうでもいいらしい男は咎めることなく、ただ軽く首を傾げてため息をつく。
「まずはお前が名乗れ」
「…大吾」
指摘はご尤もだと思ったが、フルネームで答えていいものか迷う。「堂島」の名前は諸刃の剣だった。
「大吾ね。…俺は桐生だ」
「…きりゅうさん。…下の名前は?」
「さぁな。おしゃべりはこの辺にして、寝ろ。熱が上がってきてるぞ、大吾」
「…うん」
男の暖かい手が額に触れる。不快ではなかった。
促されるまま目を閉じれば、猛烈な眠気に襲われる。
闇の中に引き込まれる感覚に身を任せながら、ああ俺が名前しか名乗らなかったから、この男も名字しか名乗らなかったのだなと、思った。
小さい頃、風邪を引き高熱を出して寝込んでいたら、母親がつきっきりで看病してくれた。
やけに優しく食べたいものはないか、苦しくないか、痛くないかと心配してくれ、それを当たり前だと享受していたのはまだ小学生になる前だった。
物心ついた頃には「坊ちゃん」と呼ばれ大人に傅かれ、大勢の人間が出入りするでかい邸宅に住み、何不自由なく、幼稚園、小学校は車での送迎が当たり前の金持ち学校に通った。周囲全てが金持ちであり、生活水準は似たようなものではあったが、質が違った。
友達が出来たと思っても、すぐによそよそしくなり、他人行儀になり、そのうち挨拶すらも交わさなくなる。
気の合う奴、合わない奴がいるのは仕方がないと思えたが、集団の中から疎外される理由は本人のせいではなく、親のせいだと知ったのはクラスメートからの心ない一言からだった。
「堂島君と関わっちゃダメってお母さんに言われた」
この台詞を一体何度聞いただろう。
気にしないクラスメートも確かにいた。
けれどクラスメートも共に疎外されるようになると、互いの間に気まずい空気が流れるのだった。
学校での孤独に耐えられず親に泣きついたことがある。
誰がそんなことを言ったのかと問われ名を答えた数日後、クラスメートは転校して行った。
父親は、力の行使を躊躇わない人間だった。
噂が噂を呼び、大吾に好意的に近づいて来ようとする人間はいなくなった。
教師ですら、真っ直ぐ視線を合わせない。
家庭訪問は自宅ではなく、喫茶店などで行われた。家庭訪問の意味がないが、親に子供の家での様子が聞ければそれでいいらしかった。
授業参観には母親がやって来たが、父兄参観に父親が来る事はなかった。
運動会などの行事には、母親と数人の「父親の部下」がやって来て、母親手作りのお弁当を囲んで食べた。
母親はクラスメートの親達に対して常に低姿勢であり丁寧であったが、関わりたがらない相手から向けられるのはよそよそしい挨拶だけだった。
家には大人しかいなかった。遊ぼうと言えば誰もが嫌がることなく「坊ちゃん」と親しみを込めて呼んでくれ、遊んでくれた。同年代の子供と外を走り回って遊びたいとは、言えなかった。外で遊べるような友達も、いなかった。
うちはすごくお金持ちなのだと思っていた。
事実堂島家は金持ちであったが、父親の職業はおおっぴらに誇れる仕事ではないことを知ったのは、小学校も高学年になってからだった。
お金があるのは、人を脅して貶めて、酷い事をしているからだとクラスメートに言われた時には、世界の崩れる音がした。
疎外されてきた理由がわかって納得した反面、クラスメート達は己をそういう目で見ていたのだと知る事は酷く辛く悲しかった。
父親は家にいることがほとんどなく、子育てに無関心だったが、いずれ家業を継ぐんだぞと言われて嫌だと初めて逆らった時には、殴られ部屋の端まで飛ばされた。
お前はそう決まっているんだと、反論できなくなるまで殴られても、普段坊ちゃんと呼んで遊んでくれる男達は誰も止めてはくれなかった。
駆けつけた母親が泣きながら止めに入ったが、その時にはすでに意識はなかった。
父親が激怒するのは家業について否定的な口出しをした時のみであり、それ以外のことには鷹揚で、邪険に扱われたことはない。
行儀、礼儀、勉強も、きちんとやれと言われ続け、逆らったことは一度もなかった。
父親の家業を継ぐことについても、もはや逆らう気は起きなかった。
小学六年の冬、己は一大決心をして親に言った。
「近所の公立中学に行きたい。車の送迎もいらない。普通の学校生活を送りたい」
この希望は叶えられた。
同時に、今まで親によって庇護されていたものがなくなったことにより、思わぬトラブルが舞い込むことになった。
「堂島組組長の息子」のレッテルが、今まで以上について回るようになった。
金持ちのお育ちのいい子息子女達は内に篭る陰険さで無視されるだけで済んだが、ここではクラスメートの疎外よりも先輩の存在が癌だった。
媚び諂ってすり寄って来る輩はまだいい。
問題なのは、生意気だのなんだのと、因縁をつけてはケンカをふっかけてくる連中が現れたことだった。
殴り合いのケンカなど、したことはない。
ケンカのやり方を学ぶ所から始めなければならなかった。
教師にバレないように場所を選ぶこと、時間を選ぶこと。
親に頼らないこと。
…親に言わない頼らないと知った連中は図に乗った。
堂島を負かして自慢する、という、歪んだ虚栄心に囚われた思春期まっさかりの馬鹿な奴らは校内だけに留まらなくなった。
傷だらけになって帰れば親は当然どうしたと問う。ケンカしたと言えば、「勝っただろうな?」と父親に迫られる。
家業を継ぐ為には、強くなければならないのだった。
学校では相変わらず友人らしい友人は出来なかったが、舎弟のような奴らは増えた。
校内で逆らう人間はもはやなく、それだけは気楽だったが気分は晴れない。
嫌になった。
家出しようと思い立ったのは中学三年の秋だった。何かを変えたかったのかもしれない。
行動する為、真面目に親に報告をした。
「しばらく家には帰らない。心配しなくていいから」
我ながらなんと恥ずかしい反抗期であることか。
親は反対しなかった。
「そうかい。けど学校には毎日行きな。勉強も怠るんじゃないよ。…いつでも帰ってきていいからね」
必要な金は通帳に入れておくから引き出して使えと言われ、果たしてそれは家出と呼べるのか疑問であったが、とにかくも生まれて初めての自由を満喫できるのだと思えば多少なりとも気分は晴れた。
舎弟の家に転がり込み、数日厄介になっては別の所へと渡り歩く。
学校へは毎日真面目に通い、夜は舎弟のご家族と一緒に食事を取った。
一般家庭の食事と言うものを目の当たりにした時、基本的には我が家の食事と変わりはないが、家族が揃って一つの食卓を囲んで食べるのだという事実には感動した。
品数は多くなく、食べきれない程の料理が並ぶこともない。
家政婦はいないのが当たり前で、大抵は母親が、娘がいれば娘が手伝う家庭もあった。
新鮮で楽しかったが、一巡してしまうとまた世話になるのは気が引けた。
金だけは困る事がなかったので、どこかのホテルにでも泊まろうと思ったが、中学生を一人泊めてくれるところなどありはしなかった。
コンビニで深夜一人で時間を潰していても、家出少年と思われ通報されるか追い出されるのが常であり、仕方なく夜中町をうろつけば変な輩に声をかけられる。
何を目的にしているのかわからない派手な格好をした男だったり、けばけばしい化粧をし露出度の高すぎる服を着た年増の女だったり、チンピラだったりヤンキーだったり、とにかく子供の一人歩きにろくなことはなかった。
ホームレス達がたむろしている駅前や公園に行こうという勇気は持てず、深夜まで遊び回っている俗に言う不良と呼ばれている舎弟に声をかけて便乗するしかなかった。
一月経たないうちに家出生活に限界を感じた。
中学生ではできることなど知れていて、自由に寝床を確保することすら難しい。
そもそも明確な不満があったわけでもなく、家も学校も息苦しかっただけだった。
学校は真面目に通っているのだから、家も好きな時に帰った所で問題はない。
学校を捨て、家を捨て、遠くに逃げるという選択肢も考えないではなかったが、逃げた所でどうするというのだ。
当てもなく、親の金があるうちはいいがいずれ連れ戻される事は必至で、仮に親にすら見捨てられた時、完全に一人で生きて行くだけの覚悟はまだ持てなかった。
変な輩に絡まれようが、家業を継ぐ為のプレッシャーに潰されようが、己の帰る場所は結局家しかないのだと思い知る事は苦痛を伴うのだった。