神室西高野球部が有名になっていると聞いたのは、三年になってからだった。
  何でもプロ球団からスカウトが来たらしく、校内はその噂で持ちきりになっていた。
「うちにそんなすげぇ奴いたんだな」
  購買で買ったパンを頬張りながら大吾が言えば、舎弟の一人が弁当の玉子焼きをつつきながら頷いた。
「品田らしいですよ堂島さん。品田辰雄」
「知らねぇ」
「同じクラスになったことないですよね。今年こそは甲子園行けるはず!って、皆期待してます」
「ああ、去年惜しかったんだよな」
「そうなんですよね。わが校始まって以来の天才バッター現る!とか言って騒いでますし」
「そんなにすげぇの?」
「です」
  野球好きらしい舎弟は何故か自慢げに頷いた。「へぇ~」と感心したように答えてみせはしたものの、大吾は「甲子園を目指す野球部」を勝手に応援しているだけなので、選手個人に興味はない。話に乗ってきた他の舎弟達に会話を譲り、大吾は聞き流しながら野菜ジュースのパックにストローを突き刺した。
「そういや今も都予選勝ち上がってるんだろ?」
「そうそう、今年のウチは強ぇよ。攻守のバランスが取れてんだ」
「こ、攻守のバランス?」
「そうだよ個人成績とか見てみたら面白いんだぜ」
「え?いやそこまではどうでもいいっつーか」
「えー!聞いてくれよ!プロになるかもしれない選手がいるんだぜ!貴重だろ!」
「…お前ドームまで観戦とか行っちゃうタイプ?」
「祖父の代からギガンツファンだ」
「知らねぇし!興味ねぇし!」
「聞いてくれよー俺の趣味ー!」
「いやどうでもいいし!」
「……」
  初耳だったが、確かにどうでもいい話ではあった。
  プロになれる実力があるなら、いいことじゃないかと他人事として思う。
  三年になってからしつこい程に提出させられる「進路希望」と「進路相談」に、頭を悩ませる必要もないのだから。
  希望進路に「プロ野球選手」だなんて、華々しくて羨ましいことだ。
  空白のままの自らの用紙を見下ろし、大吾は深くため息をつく。
  大学の名前を書くべきか。
  それとも「堂島組」とでも書くべきか。
  大学を希望するにしても、どこの大学を目指すのかまだ決めあぐねていた。成績は学年トップだったし、内申も悪くはないはずだ。目立った悪行はしておらず、学校では極めて真面目で出席状況も良好だった。望めばおそらく推薦枠で入ることは可能であったし、大学に出自は問われないのだから問題はなかった。
  推薦ならば早ければ二学期中には決定し、そうすればあとは自由なのだった。
  一般入試で入るのは面倒だ。
  年末まで必死に机にかじりついて勉強をし、センター試験から二次試験まで延々試験が続いて行く。
  苦痛だ。やってられない。
  大学名にこだわりはなく、行けるところに行ければ良い。
  行くなら経済学部かなぁ、と思ってはいる。
  法学部でも良かった。
  とにかく就職先はもう決定している為、就職先で役に立つ勉強をしておかねばならなかった。
  そこまで考えていてなお用紙が白紙であるのは、大学へ行く必要性を感じないからである。
  すぐに組に入って早く一人前になった方が余程有用である気がした。
  桐生一馬の下で働く。
  遅かれ早かれ現実の物になるのだが、気持ちとしては早い方がいいに決まっている。
  早く同じ土俵に立ちたかった。
  それを言えばどの大人も「もったいない」と言い、反対をした。
  せっかく行けるのなら行っておけ、と言うのだった。
  桐生さんもそう思うか、と問えば桐生は顎に手をやり少し考え、銜えた煙草から細く紫煙を吐き出して、笑うのだった。
「皆お前に夢を見てるんだろうさ」
「え?夢?」
「大学に行きたくても行けなかった連中ばかりだろうからな」
「…ああ…」
「しっかり悩んで、決めるんだな」
「…桐生さんはどう思う?」
「そうだなぁ」
  大学に行けと言うのなら行ってもいい。
  組に入れと言うのなら、入る。
  桐生さんの言葉を聞きたかった。
「俺は早く一人前の大人になりたかった。…お前は、どうだ?」
「……」
  それは決して独創性に富んだ言葉ではなかった。
  けれど確かに大吾の背中を押したのだった。

  心は決まった。

  桐生のアパートを出たのは夕方六時であったが、夏が間近に迫ったこの時刻は日の入りまでまだしばらく猶予があった。
  昼ほど明るくはないが、夕方を主張するほど橙に染まる日差しは強くもない。陽光の傾きを感じる中を歩いていれば、ビルの間から人の呻きと何かを蹴るような音がした。
  ケンカかと思い興味もなく通り過ぎようとしたが、聞こえてくる嘲笑は複数あり、苦しげな声は一つしかない。
「……」
  足を止め、通り過ぎた隙間へと引き返して踏み込む。
「何やってんだ!」
  遠くから叫べば、「ヤベ!」と叫んだ男達がバタバタと忙しない音を立てて逃げ去った。
  後ろを振り返ることもせず走って行く男達は着崩した制服を着ていた。見覚えのある制服は近くにある他校のものだと思いながらも追うことはなく、地面に倒れ付し砂と埃と血に塗れた男子生徒に歩み寄り、しゃがみこんで声をかけるが苦しげな声が漏れるだけで明確な言葉は返って来ない。
  見下ろした生徒は大吾と同じ制服を着ており、遠くに転がったスポーツバッグは野球部のものだった。
  眉を顰め、救急車を呼んでやると声をかければ、弱々しく小さく頷いた。
  よりにもよって甲子園出場が掛かっているこの大事な時期に、災難だなと思いつつ、やって来た救急車に生徒を任せて大吾は帰宅したのだが、事件はこれでは終わらなかった。
  昼休み、いつものように大吾の席へと集まってきた野球好きの舎弟が、暗い表情でパンを齧っているのを見咎めた一人が、どうしたと声をかける。
「野球部、甲子園無理かも」
「は?何で?順調に勝ってんじゃん?」
「レギュラーメンバーが襲われて入院沙汰になってんだよ…」
「ええ!?マジで?」
「うん…しかも入院したの一人じゃないし」
「狙われてんのかよ。ライバル校とか?」
「さぁ…そこまでは。けど警察動いてるみたいだけどな。地元新聞で小さいけど記事になってるし」
「うわ怖ぇ。野球ってスポーツマンシップとかねぇの?」
「あるに決まってんだろ。だから異常なんだって」
「へぇー」
「……」
  へぇー、と思ったのは大吾もだった。
  卑怯な手を使ってくるクズがいるもんだ。どこの世界にも足の引っ張り合いはあれども、暴力で引きずり落とそうとするのは下衆のすることだった。
「天才バッターは健在なのか?」
  そいつがいればまだ何とかなるんじゃないかと思うが、入院した側ならお仕舞いだろう、今年の甲子園は。
「品田ですか?品田は毎日練習してますよ。一番うるさいヤツがそうです」
「へー」
  ならまだ可能性はあるのだった。
「甲子園、行ってもらわねぇとな」
  大吾が笑うと、舎弟どもがきょとんと目を見開いた。
「あれ?堂島さん、野球お好きでしたっけ」
「いや全然。けど去年あたりから野球部応援してるんだよな」
「えっ知りませんでした」
「俺も初耳です」
「何かあったんですか?」
「…まぁ個人的に親近感」
「?」
  三人に揃って首を傾げられたが、大吾は笑って答えなかった。
  放課後、野球部の練習が終わるのを待ってみようと思い立ったはいいものの、いつまで経っても終わらず感心したが、いつまでやってんだ、と呆れもした。
  三年生の教室は自習の為に遅くまで解放されている為、大吾は己の席に座って練習風景を眺めていたのだったが、甲子園を本気で目指す野球部の熱意と本気には頭が下がる。
  「一番うるさいヤツが品田」と言っていた通り、指示を飛ばすその声は監督よりも大声で教室にまで聞こえてきた。
  練習熱心なのが伝わってくるし、野球に賭けているのだということもよくわかる。
  周囲が薄暗くなり、日が落ちて来て漸く練習は終了した。
  どこのクラブよりも長く、遅くまで練習していた。
  また明日ー、などと挨拶をかわして部員達がバラバラになり、各々帰宅の段になって大吾は一人で歩き出した品田へと声をかけた。
「ちょっといい?」
「え?何?」
  振り向いた品田はいかにもスポーツ少年です、と絵に描いたような顔をしていた。
  間抜け面ではないが、何か一つのことに打ち込んでいるのだという意志の強い瞳がある他は至って平凡だった。
「天才バッターのなんとかってお前?」
「…え、何?誰?」
  一軒家の立ち並ぶ住宅街の真ん中で、人通りはあるとはいえ不躾に話しかけられ品田は警戒の様子を見せた。
  そりゃそうだろう、今野球部は狙われているのだから。
「神室工の奴らに狙われてるってマジ?」
「…何で知ってんの?」
  驚きの表情に、やはり路地で逃げ去って行った神室工の連中は、野球部を狙っていたのだなと納得した。
「それでも試合出るんだ?」
「出るよ、決まってんだろ。脅しには屈しないし絶対棄権なんかしないからな!」
「警察駆け込めよ」
「証拠がないって言われるんだからしょうがないじゃん!…てか、君誰よ。何かどっかで会った事あるような…ないような…」
「ねぇよ。お前のこと知らねぇし」
「え!?じゃぁ何で声かけたの?」
  同じ学校の生徒である事は制服を見ればわかるが、声をかけてきた少年の外見は大人しいとは言い難い。不良という雰囲気ではなかったが、普通の生徒というには存在感がありすぎた。
  えーと、どこで会ったんだっけかなぁ。
  記憶のどこかに引っかかるその外見は、身長も体格も品田とそれほど変わりなく、だが大人びた雰囲気は年上のようにも見える。だが品田は三年生であり、上級生は存在しない。
  同学年でこんな目立つ奴いたっけかなぁ。
  基本的に野球以外のことに無頓着だった為、クラスメートの名前すら全員把握していない有様なので、他のクラスの生徒ならば知らなくとも仕方がない。
  考え込む品田を見やり、大吾は真面目に一言問うた。
「なぁお前、甲子園行くんだろ?」
「へ?」
「目指して来たんだろ。行くんだよな?」
「……」
  何故そんなことを聞くのだろう。品田は首を傾げたが、答えなど決まっていた。
  親指を立て、名前も知らぬ少年に向かって決意を示す。
「当たり前!絶対行く!甲子園目指して頑張ってきたんだぜ!」
「…あ、そう。わかった」
「え、あ、ちょ」
  熱意と決意の篭った品田の言葉を冷めた口調で受け流し、見知らぬ少年が歩き出す。
  結局何だったのかわからなかったが、品田はその背中に声をかけた。
「何?今から野球部入りたいとか?」
  三年だったらもう遅いよー!と親切にも付け足してやるが、振り向いた少年の顔は呆れに彩られていた。
「はぁ?いや、入んねぇし」
「……あ、」
  ぽかんと品田は口を開けた。
  思い出したのだったが、それきり振り返ることもなく去って行った少年に、言葉をかけることはできなかった。
 
  ホームランボールを投げ返してくれたいい肩してる生徒、だった。

  野球に関しては記憶力に自信があった。才能のありそうな奴のことは、忘れない。
  あいつ名前なんていうんだっけ?と、首を傾げたが、また会った時にでも聞けばいいかと踵を返し、腹減った!と呟きながら品田は家へと向かうのだった。

  日を改めて放課後大吾が向かった先は、神室工業高校だった。
  制服は着たままで、正門から堂々と乗り込んだ。
  どうせ、バレる。
  好奇と怪訝を織り交ぜたような視線が周囲から刺さる中、大吾を見つめてくる生徒の一人に野球部はどこかと問い、教えてもらって向かった先はまるでヤンキーの溜まり場のようだった。
  まだ着替える前であるらしく、制服姿の彼らはスポーツマンと呼ぶには荒んでいる印象を受ける。
  ウチの野球部が可愛く見えるなぁと思いながら歩み寄れば、集団の中の一人が立ち上がって誰何の声を投げて来たので素直に名乗る。

「神室西高から来ましたー、三年一組堂島大吾でっす。神室工野球部にカチコミに来ましたー」

「…はぁ?」
「え、一人で?」
「そうでっす」
  見上げてくる部員達は、地面に両膝を立てて座り込んだ行儀の悪い連中から、ベンチにだらしなく滑り落ちそうな角度で身体を投げ出して座っている連中まで様々だったが、皆一様に呆気に取られた様子で返答までに間があった。一人が喋ると周囲の男達も我に返り、互いに顔を見合わせながら品のない笑いを上げた。
「頭沸いてンの?」
「病院行ったら?」

「お前らよりマシだクソどもが」

「…あ!?」
  一斉に色めき立つ部員達の反応が、まさにヤンキーそのものだった。
  これが、野球部員。
  神室西の部員達を襲ったのがこいつらである証拠はないが、こいつらであったとしても驚かない。
  スポーツマンシップとやらの欠片も窺えそうにない品性だった。
「カチコミに来たつってんだからよ、さっさとかかって来いカスども。時間かけさせんじゃねぇぞ」
  わかりやすく挑発してやれば、わかりやすく乗ってきた。
「…やっぱ馬鹿じゃねぇのコイツ?死にてぇらしいぜ」
「そっちから殴り込みに来やがったんだから、正当防衛だよなぁ?」
  金属バットを各々持ち出し、手で叩きながら大吾を取り囲む。
「俺ら全員対お前一人で勝てると思ってんの?ホントに死んだらどうすんの?俺ら責任持てねぇよ?」
「俺が死んだらお前ら終わりだぜ。気をつけろよ?」
  鼻で笑ってやればキャプテンと思しき男が歩み出て、歪んだ笑みに口角を引き上げながら高らかに宣言した。
「死んでも構わねぇーよ!何とかしてくれるからな!!」
「…へぇ?」
「安心して死ねよ!ドウジマ何とかクン?」
「……」
  バックになんかついてるんだな、と思った。
  なら遠慮はいらないなと思い、大吾の事を知らない連中であることに安堵した。

  桐生さんに殴られるかな。

  それだけが、唯一気がかりだった。
  その場にいる全員を地面に這い蹲らせた後に、ようやく教師と警察がやって来た。
  こいつら殆どが病院送りだ、ざまぁみろ。
  堂々と他校の制服を着て逃げる素振りもなく、どこの誰かも淀みなく答える大吾に警察は明らかな戸惑いを見せた。何故こんなことをしたのかと再三問われはしたが「ムカついたから」と適当な答えを返す度、「真面目に答えなさい」と机を叩いて恫喝されたが、大吾の出自を知って態度は一変した。
  ヤクザの抗争か、と問われ違うと答えれば「そうか」と返されそれ以上追求はされなかった。
  一人で乗り込み、ケンカを吹っかけ、生徒を多数負傷させたという事実のみで十分だと判断されたようだった。大吾もそれで納得した。
  神室工野球部は一人に負かされ病院送りにされたと言う事実は近隣からの笑い種となった。再起不能状態であったが誰も訴えることはせず、神室西高は無事甲子園へと出場を果たした。
  おーついに甲子園、夢が叶って良かったなと純粋に喜んだが、観戦した一回戦で敗退した。
「ダセェ~。一回戦敗退かよ。うわーダッセェ…」
  笑えた。
  酷く笑えて止まらなくなり、腹筋は引き攣り押さえるものの収まる気配がなく、呼吸が苦しくなり息継ぎが出来ずに身悶えた。
  何だそりゃ。夢叶えて破れるの早すぎ。もっと頑張れよ。
  俺までそんな人生辿ったらどうしてくれる。
  夢叶えたらその先まで頑張るだろ。
  破れるなんて笑えねぇぞ。俺は絶対イヤだからな。
  切なかった。
  己と野球部を重ね合わせた所で無意味だったが、残りの高校生活を捨てた結果がこれとは報われないなと思う。
  だが後悔はなかった。
  手に入れる。
  絶対俺は、手に入れる。
  手に入れたら、なくさないからな。
  夢破れるなんて、俺は絶対やらないからな。
 

 
  出所日、車で迎えに来てくれた人物に大吾は驚いた。
  入所から今日まで、面会を許されたのは三親等までの血縁であったので、母親は来れども他人と面会する事はなかった。
  運転席のドアに凭れ煙草をふかす久しぶりに見る男は、ダークグレーのスーツにブラックのシャツを着て、ネクタイはグレーとホワイトのストライプ柄を締めていた。そつなく着込んだその姿は異様に目を引き、やはりというべきかサラリーマンには見えなかった。
  目が合い、大吾は喜びと戸惑いと覚悟に身を竦ませた。
  歩み寄り、名を呼べば男は軽く目を細め、煙草の火を消し笑みを刻む。
「…いい面構えになったな、大吾」
「色々勉強させてもらった」
「そうか、そりゃぁ良かったな」
  助手席に回れと促されたが、大吾の足は動かなかった。
「…桐生さん」
「何だ?」
「…殴らねぇの?」
  窺うように視線を向けるが、桐生の表情は変わらぬままだ。
  殴る価値もないと、思われたのだろうか。
  馬鹿な奴だと、見限られたか。
  ちゃんと学校を卒業するべきだっただろうか。
  大学に行くつもりはとうになく、卒業したら組に入るつもりでいた。
  組に入るのに学歴は必要なく、前歴すらも関係なく、ならばと自らが必要だと判断するままに行動したのだった。
  後悔はない。
  己に恥じる所はない。
  恐れる事があるとすれば、目の前に立つ、この男に見捨てられることだった。
  この男ならわかってくれると、思いたかった。
  わかって欲しいと、思っていた。
  殴った後で、「しょうがねぇ奴だ」と笑って許してくれるなら、救われる気がした。
  だが何も言われなかったら。
  俺の心は行き場を失くす。
  叱られるのを待つ子供のようにじっと佇み見つめれば、桐生は一瞬視線を泳がせ空を見上げて、ため息混じりに微笑んだ。
  瞳を伏せ笑う表情は穏やかで優しかった。
「おかえり、大吾」
「…え…」
「組に入ったら舎弟としてこき使ってやる。覚悟しとけ」
「……え…っ」
  息が詰まって、呼吸ができない。
  車を出すから助手席へ回れと再度促されたが、膝が震えて動けない。
  喉がひきつり、ひくりと鳴った。
  両肩に力が入って、痛み出す。
  目の前に立つ、桐生の姿が滲んで歪んだ。
  瞬きをすれば生温かな何かが頬を滑り落ち、一瞬視界は晴れたがまたぼやけて定まらなくなった。
  下を向いたら、ぼたぼたと水滴が落ち、服を濡らす。
  顔を拭こうと触れた己が指先は震えていて、思い通りに動かなかった。 
「…ッ…、…っく…」
  何故泣いているのか、わからない。
  許されたからか。
  桐生が、微笑って迎えてくれたからか。
「…男に泣かれても、抱きしめてなんかやらねぇぞ?」
  冗談交じりの軽い口調に、救われた。
「いーよ。…俺が、抱きしめるから!」
  言い終わらぬうちに、桐生の腰へ両手を回してきつく抱きしめた。
  本当は抱き寄せられれば良かったのだが、己よりも強くしっかりとした体格を持つ桐生に踏ん張られてしまっては無理だった。
「…お前はなぁ…!」
「あー、もっとちっさくてかよわければしっかり収まるのになぁ!」
「俺に言うな、俺に」
「いいけど!桐生さん腰は結構細かった」
「…撫で回すんじゃねぇぶっ飛ばすぞガキが」
  威嚇されても、今日はおそらく殴られない。
  情けなくしゃくり上げながら、大吾は笑う。
「…桐生さん、ただいま」
「…ああ、いいから、車乗れよいい加減恥ずかしいんだ俺は」
「あー…守衛のおっさんがこっち見てるなぁ。ホモがいちゃついてるとか思ってるぜきっと」
「やめろそこへ持って行くんじゃねぇ」
  涙の止まったらしい大吾の両手を引き剥がし、さっさと乗れと三度促せば、ようやく大吾は助手席へと回って車へと乗り込んだ。
  桐生も運転席へと乗り込んで、さっさと車を発進させる。
「堂島組長がお待ちだ」
「…そか」
  それで桐生はスーツをきちんと着込んでいるのだなと納得した。
  自宅へと久しぶりに戻り、迎えてくれる黒服の男達に案内されて、父親が待つ部屋へと向かう。桐生と共に入室するが、桐生は挨拶をしたのみで早々に帰って行った。
  二人残され大吾は居心地の悪い思いをしたが、かつてのような威圧はもはや父親からは感じなかった。
  一年弱ぶりに帰って来た息子を労うでもなく、高校を退学になったことについて何を言うわけでもなく、父親は用件のみを簡潔に言った。
「お前は桐生を気に入っていたな」
「尊敬してます」
「桐生をどう思う」
「…素晴らしい極道だと思います」
「そうか」
  一つ頷き、茶を啜って堂島組組長はさらに簡潔に大吾へ告げた。

「組を継げば、堂島の龍はお前のものだ」

「…はい」
  欲しい。
  何よりも欲しい。
  あの人の全てを手に入れる。

  …必ず。

  堂島宗兵は、大吾から最初で最後の父への尊敬と親愛を勝ち取ることに成功した。


END
リクエストありがとうございました!

御曹司の躾作法-最終話-

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