「…腹減った…」
  己の呟きで目が覚めた。
  否、目覚めてはいたが空腹を自覚し無意識に出た言葉で完全に覚醒した。
「さすがにそれだけ寝りゃぁな」
「……」
  声を投げられた方向へと首を巡らせれば、逆光の中窓辺に片膝を立てて座り、指に煙草を挟んで煙をくゆらせている男が笑んでいた。
  細く開かれた窓から流れ込む風に乗って紫煙が舞い、天井付近で遊んでいる。
  男は昨日のスーツよりは濃いめのグレー地に白ストライプのスーツを着ていた。上着は壁に掛けてあり、シャツとベルトは黒だ。ネクタイはなく、白のボタンは上からいくつか外されている。サラリーマンには見えなかった。
  夢じゃなかった、と思い、大吾は身体を起こそうと力を入れた。
  全身筋肉痛のような痛みが走り、怪我をした箇所がじくじくと痛んだが、ゆっくりと手をつき痛みの少ない角度を探りながら持ち上げれば、時間はかかったが上半身を起こすことができた。
「さすが十代は回復が早い」
「…どーも」
  ではこの男は十代ではないということだ。見たところ二十代前半から半ばくらいかと思うが、それでも十分若いと思う。
  大吾の知る「大人」は皆、中年以上だったのだから。
「昨日の夜に一度目覚めて、今は昼だ。コンビニで食えそうな物を買って来たが…」
  灰皿に煙草を押し付け、桐生と名乗った男が立ち上がれば、六畳一間の部屋は酷く狭く感じた。
  狭いキッチンの上に乗せられたコンビニの袋を持ち、冷蔵庫の中からサラダや飲み物などを取り出して、部屋の隅に避けていた卓袱台を大吾の側へ寄せ、持って来た物を乗せた。
  菓子パン、おにぎり、サラダ、茶。
  各数個ずつ種類違いで揃えられ、好きなだけ食えと言われて腹が鳴った。
「弁当系はまだ重いだろうと思ってな…」
「頂きます!」
「お、おう…食え」
  ケンカ上等で地面に転がっていた少年は、意外な程行儀の良い食べ方をした。
  育ちの良さというものは、滲み出るものなのだった。
「桐生さんは食べないの?…ですか?」
「食ってきたから、気にするな」
「そう、ですか」
  行儀がいい割に、敬語の使い方はなっていなかった。
  普段敬語を使う環境にいない事が窺える。
  まぁどうでもいいことだが、と桐生は己の為に買って来た缶コーヒーを開けて飲む。
  少年が着ていた学生服は、近所の中学校のものだった。
  学生鞄の中には教科書やノートが少しと筆記用具が、共に持っていたスポーツバッグの中には着替えや私服が最低限。服のポケットの中には財布があり、万札が数枚と銀行のカードが入っていて、生徒手帳は綺麗な状態で入っていた。
  家族に連絡をして引き取りに来て貰わなければと思ったのだったが、連絡をした返答は「連れて来てくれ」だった。
  否やのあろうはずもない。
  卓袱台の上の食べ物全てを綺麗に平らげ、少年は満足そうにため息をついた。
「…足りたか?」
「腹いっぱい。…です。えと、ごちそうさまでした」
「ああ」
「あ、それから」
  茶を飲み干し、一息ついてから少年は布団の上で正座をし、桐生に正面から向き直って頭を下げた。
「助けてもらって、ありがとうございました」
「…ああ」
「死んだかと思ったのに、生きてた」
「運が良かったな」
「はい」
  あいつら今度会ったらぶっ殺すと、決意する。
  次こそ無様なやられ方はしない、絶対に。
「…大吾、早速で悪いが動けるか?」
「え?」
「無理そうなら寝ていろ」
「あー…多分、動けると…思う…ます」
「思うます、って日本語じゃねぇな」
「す、すんません…」
  軽く笑われ、頬が熱くなるのを自覚した。
「敬語は無理に使わなくて構わねぇよ。使われる筋じゃない」
「…え?」
  どういうことかと大吾が問うが、大吾が食べ終わったゴミを袋にまとめて片付ける桐生は答えない。
「動けるなら少し出かけるぞ。着替えろ」
「…あ、ああ…、はい」
  スポーツバッグの中から私服を取り出し、着ていたTシャツを脱ぐ。
  包帯をあちこちに巻かれ、剥き出しの部分も至る所に蒼痣が出来ていた。
  小さな擦り傷切り傷は数えるのも嫌になる程で、己の顔を鏡で見た時にはあまりの酷さに笑いが漏れた。
「ひでぇな俺」
「…男前な顔じゃねぇか」
「こんなズタボロが男前なら桐生さんはどうなんスか」
「俺を比較に出すんじゃねぇよ」
  どうとでも取れる言い方をして、のろのろと服を着替える大吾の横を通り過ぎ、壁に掛けていたスーツの上着を羽織る。ライトグレーの光沢感のあるナロータイを取り出し無駄なく結んで行く様を何とはなしに眺めやりながら、やはりサラリーマンには見えないなと大吾は思った。
  かといって、夜の仕事系にも見えない。
  どちらかと言えば我が家の家業系。
  率直に言ってカッケー、と思った。
  きっちりスーツを着込んだ桐生は「男前」だった。
  家に出入りしているどの男よりもカッコ良かったし、父親のような威厳というか威圧は感じないが迫力はある。
  時間はかかったが何とか着替えを済ませ、どこへ行くのかと今更ながらに問う。桐生は肩を竦めるようにして、「お前の家」と言った。
「えっ!!俺んち!?」
「ああ。連絡しておいた」
「…いや、ちょっ…それはちょっと」
「怪我してるんだから帰れ、家出少年」
「……う、何でそれを」
「荷物見りゃわかるし、連絡した時聞かされた。舐めんな」
「……」
「荷物はこれで全部だな?」
「です…」
  学生鞄とスポーツバッグを抱え上げ、桐生は玄関の扉を開けた。
「ゆっくりでいい。無理はするな」
「…はい」
「タクシーで行く」
「……」
  助けてもらっておいて何だが、ウチがどんな家なのか知っているのだろうか。
  正直一般人にはオススメできない。
  …桐生が一般人かどうかは不明だが、あまり積極的に関わり合いになりたい家ではないはずだ。
  恩を売っておこうとか、そういうセコイ人間には見えないだけに、送ってもらうことに躊躇する。
  タクシーに乗り込み、桐生は正確に家の住所を言った。
  運転手が一瞬引き攣った笑みを浮かべたのを大吾は見逃さなかったが、「よろしく」と桐生が念を押した為、運転手は大人しく従った。
  大吾の自宅は、神室町中心部から少し離れた住宅街にある。
  駅周辺は巨大なビルや繁華街が占拠し、毎日数百万人が行き来するメガシティとして二十四時間眠らぬ喧騒を見せていたが、距離を置けば驚くほどに平凡な住宅街が広がっている。
  狭い生活道路の両脇にはこじんまりとした一軒家が立ち並び、古くなった家屋を取り壊してそこに無理矢理建築したと思しきマンションは狭く、窮屈そうに細長い身体を伸ばしている。あちこちに古い一軒家と新築のアパートというちぐはぐな並びは見受けられ、昔からこの地に住み続けている住人は多いが、次々に建てられるマンションやアパートに入居してくる新規住人の数も近年爆発的に増えていた。
  狭く、新旧入り混じる雑多な臭いのする住宅街の坂道をさらに上がったところに、それはあった。
  関東一円に勢力を伸ばす極道組織『東城会』の大幹部、堂島宗兵の自宅は「邸宅」と呼んで差し支えない日本庭園を擁する屋敷であった。周囲は高い塀に囲まれ、塀に沿わせて木々が植えられ、外からの視界を完全に遮断し、干渉を拒んでいるかに見える。
  門は閉ざされ、監視カメラで来客者は二十四時間チェックされた。
  門から離れた所に停車しようとする運転手に「門前まで」と桐生が言えば、「勘弁してください」と泣きそうな声が返って来て大吾は顔を顰める。

  これが、一般人の反応なのだ。

  だが桐生は引かない。
「怪我人がいるんだ。こんな所で降ろされちゃ困る」
「しかしお客さん、ここは…」
「お願いします」
  丁寧な言葉だったが、有無を言わせぬ響きがあった。
  運転手は汗を流しながら、門前まで車を移動させた。
  金を払い、大吾を降ろさせ桐生が降りる。タクシーはさっさとドアを閉めて去って行ったが、桐生は一顧だにくれなかった。
  ポケットからバッジを取り出し、スーツの襟につける様子を怪訝な表情で見つめてくる大吾の身長は、桐生とたいして変わらないが、少し低い。
  だがまだまだ成長期だろうから、もしかしたら今後伸びるのかもしれなかった。
  門が内側から開き、黒服の男が「坊ちゃん!」と叫んで飛び出してきた。
「…ただいま」
「おかえりなさい!お母様が心配してらっしゃいますよ!」
「…ああ…」
  気まずい思いで、大吾は俯き加減に頷いた。
  どうせ帰ってくるのなら、自分の意志で帰ってきたかった。詮無きことではあるけれど。
「怪我もなさってるとか?とりあえずこちらへ。お母様の所へ行きましょうね」
「…ガキ扱いすんなって」
  黒服の男は桐生へと向き直り、大吾の荷物を受け取る前に、腰を落として深々と一礼をした。
  桐生は平然と受けている。
  大吾はぽかんと口を開けた。
  その礼は、己よりも上の立場の人間に対して行うものだったからだ。
「…おい?」
  大吾の呼びかけは無視された。
「他の者がすぐ案内に参ります」
「ああ」
「さぁ坊ちゃん。参りましょう」
「いや、桐生さんは」
「別の者が、ああ、来た。彼が案内しますんで、坊ちゃんは先にお母様にご挨拶なさって下さい」
「…あぁ…」
  桐生を見れば、視線が合った。落ち着き払った様子で小さく笑う。
「後でな」
「……」
  この男は、こちら側の人間なのかと、思った。
  襟につけたバッジは、代紋か。
  良く見ることなく、早くと男に急かされ歩き出してしまったことが悔やまれた。
  母親の元へ連れられて、しっかりと怒られた。
  家出は許したが大怪我をすることは許してない、ともっともな事を言われ、反論する気も萎えた大吾は大人しく「悪かった」と謝った。
「拾ってくれたのが桐生で本当に良かったよ」
「…え?」
「お前は運がいい。桐生に感謝しな」
「…あぁ…って、桐生さんを知ってんのかお袋?」
「はぁ?知ってるも何も、」
  呆れたため息を漏らした母親は、ああ、と気づいたように言葉を切った。
「そうか、お前は全く関知してないことだもの。仕方ないね。とりあえず、お父さんのところへ行って来な」
「…え、親父いるの」
「いるに決まってんだろ。馬鹿息子が大怪我して帰って来るってんだからね。しかも桐生が連れて来るってんだから組長が応対するのが筋ってもんだ」
「……」
  よく、わからなかった。
  首を傾げようとしたが、痛みでできなかった。
  あからさまに顔を顰めた大吾を見やり、呆れた表情を崩しもせずに母親は早く行って来いと背中を押した。
「…ッ背中も痛ぇから!!」
「…まったく…情けないねぇ…」
  鬼だと思いつつ、大吾は部屋を移動する為歩き出した。
  部屋の外に待機していた男に父親の居場所を問えば、案内しますと先導された。
  この家は無駄に広く、父親は来客用の客間をいくつも所有し、客の身分によって場所を変える為、都度聞かねばならない。
  大人しく案内され、着いた部屋は上客用の部屋だった。
  息子を助けてくれた恩人だからか、それとも桐生が上客なのか。
「失礼します」
  部屋に入る事を許され、大吾は廊下に膝をついて障子を開けた。
  上座に父親が、テーブルを挟んで向かいに桐生が座っていた。
  他には誰もおらず、完全にサシだった。
  全く萎縮した様子も見せず、桐生は泰然として座しており、桐生さん勇気あるなぁと思ったのは、大吾にとって父親が親しみやすい存在ではなかったからだ。
  父親は大吾を見やり、桐生を見た。
「大吾、桐生に礼を言え」
「…はい、桐生さん、本当にありがとうございました」
「倅が世話になったな、桐生」
「いいえ」
  緩やかに首を振り、口元に笑みを刻む桐生は穏やかな、優しい表情で大吾を見た。
  視線を合わせ、笑みを深くする。

「大事なくて良かったですね、大吾坊ちゃん」

「……」
  大人の男の顔で、よそよそしい笑顔で笑う。
  だいじなくてよかったですね、だいごぼっちゃん。

  何で?

  父親の前だからか。
  父親に媚びてるのか?
  呆然と座り込んだ大吾を放置し、父親と桐生の話は進む。
「舎弟頭補佐になってから、益々堅調だな、桐生。堂島の龍の名が、轟いてるぜ」
「ありがとうございます」
「俺も鼻が高い。風間はいい子飼いを持っていたもんだ」
「恐れ入ります」
「……」

  舎弟頭補佐って言った。
  堂島の龍って言った。

  桐生が何者であるのかを理解した。
  こちら側の人間で、しかも父親の組の構成員だった。
  喜ぶべきことなのだろう。
  身近な存在と呼んでもいい。
  だが何故だか、酷く遠い存在に感じて大吾はただ俯いた。


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