立入禁止の札の掛かった学校の屋上は静かで過ごしやすかった。
  じりじりと焼ける陽光は肌に痛いが、日陰に潜り込んでコンクリートの壁に凭れてしまえば凌ぐに容易い。
  照りつける日差しを屋上のど真ん中で倒れ付して浴びる先輩方は、きっと目覚めた時には汗だくだろうと思ったが、ケンカを仕掛けて来たのは向こうなので放置している。
  中学三年間で校内に敵なしになったものの、高校に入ればまた一からやり直しだった。
  同じ中学で大吾に負かされた先輩方はケンカを売るような馬鹿な真似はせず、目が合わないようにあからさまに顔を背けて廊下をすれ違う。名前も顔もそもそも記憶していなかったが、その行動で「ああ、俺に負けたヤツか」と気づくのだった。
  他校で関わりのなかった先輩方はご丁寧に挨拶に来て下さり、「中学で随分腕鳴らしてたんだってな」とお約束の言葉を頂き失笑した。
  高校に入ってからは、「堂島組長の息子」というよりは「中学で粋がってた生意気なガキ」を締める方向へとシフトしたようだった。
  最初の先輩を倒した後は、芋づる式で次から次へと現れた。
  ケンカを売ってくる輩を一掃し終わったのは夏休みも間近になった頃であり、意外にかかったな、と思ったのは高校のレベルがレベルであったので、それなりの連中が多く在校している為だった。
  これで漸く学校生活が平和になるなぁと空を見上げながら呟く。
  中学時代とは違い、通学範囲が都内全域に広がったおかげで「堂島組長の息子」のレッテルは随分と薄まった。
  入学当初にはようやく友達らしい友達ができるかと期待もしたが、例によって先輩方の手荒い歓迎のおかげで巻き添えを恐れたクラスメートからは敬遠された。
  だが全く遠巻きにされるわけでもなく、中途半端な距離で必要な会話は交わす、その程度のものにはなれた。
  中学時代の舎弟どもは信じられないことに全員合格し、クラスはバラバラだったが同じ高校に通っている。
  連中をケンカに参加させることはない。ケンカを売られているのは己だけだったし、下手に矛先が他に向いても面倒だからだ。
  何を勘違いしたのか「堂島さんはいつも俺達のことを気にかけてくれてる」と言い出した時にはペットボトルのコーラを噴出したものだったが、面倒なので放置している。
  孤独ではない。
  友達はいないけど。
  …連中を「友達」と呼ぶには向こうからの距離がありすぎた。徹底してボス扱いなので、対等にはなりえなかった。
  夏休み直前で授業は午前中しかなく、放課後になってはいたがまだ昼だった。
  腹減ったなぁと思いながら、帰ろうと立ち上がる。
  制服についた砂や汚れを手で払っていると、屋上の扉が開いた。
「…堂島君?」
  覗き込んで来たのは別のクラスのなんとかいう女子だった。
「そうだけど」
  最近、こう言う事が増えた。
  手紙を渡されたり、放課後待ち伏せされたりする。
  これが青春か、と言ってしまえばそれまでだったが、悪い気はしない。
  だが断るのは面倒で、厄介で、非常に気を遣う。
  その場で泣き出したり、何で!?と詰め寄られたり、私のこと何も知らないくせに!と逆ギレされたりする。
  それはこっちの台詞だと、何度言葉を飲み込んだことか数知れない。
  大人しく引き下がる女はいいが、いつまでもしつこい女はその後もまた厄介なのだ。
  堂島君は酷い人、等とありもしない架空の出来事を言いふらす。こんな事を言われた、こんなことをされた、…キリがなくて嫌になる。
  放っておけば収まるが、上手い対処方法があるものなら教えて欲しいものだった。
  …一人、教えてくれそうな心当たりはあるが、最近顔を出していない。
  俺のことちょっとは気にしてくれてるかなぁなどと淡い期待を寄せている間に、女が目の前に立っていた。可愛い女だった。
  何組の何です、と名乗られたが、記憶する気がないのでスルーした。お約束の「好きです付き合ってください」に、「ごめんなさい」を返す。
  好きですって、一体何が好きなのか。
  話をしたこともなく、こちらは存在を認識していた程度なのだった。
  友達で良ければ、なんて返答はしてはいけない。絶対に。
  友達になったと言いふらし、何かにつけて困った事があればあれもこれもと頼り出し、休み時間に押しかけてきては延々喋り出し、友人を引き連れてきてさらに喋り出し、遊びに行こうと誘われ断れば逆ギレされる。
  本当に、面倒くさい。
  この年齢にして女に不信を抱くことになろうとは、思ってもみなかった。
  目の前の女は断られても泣きもせず、詰め寄りもせず、逆ギレもしなかった。
  突然ごめんね、聞いてくれてありがとうと素直に頭を下げた。
  なので大吾は少し譲歩した。
「ごめん、名前何だっけ」
  話をはなから聞いていなかったと言っても女は笑って答え、名前を認識して頷いた。
「好きになれるかわかんねぇけど、それで良ければ」
  随分と身勝手な事を言った。
  好きになれなかったらさよなら、という意味のそれを、女は黙って聞いた。
  女というのは不思議な生き物だった。
  ありがとうと笑って、お願いしますと頭を下げた。
  それは期待なのだろうと思ったし、自信なのだろうと思った。
  きっと好きになってくれるに違いない、という。前向きに過ぎて、恐ろしい。

  好きになる、恋愛対象として相手を見る、それがどういうことなのか、知りたかった。
 
  「付き合っている」らしく行動してみたが、すぐに無理が来た。
  彼女は明るく良く笑い、無理を言うこともなかったし、不快になるようなことも面倒だと思わせることもなく、気遣いのできるいい子だった。
  嫌いではなかったし、可愛いと思った。
  …が、それ以上には思えなかった。 
  家に遊びに来てと言われて躊躇した。
  親に紹介するよと言われて、嫌だと思った。
  それはまた今度、と言葉を濁せば今度は大吾君の家に遊びに行きたいと言われ、考え込んだ。
  堂島大吾の家庭の事情を知ってなお、そう言ってくれる彼女は懐のでかい女なのかと思えば貴重な存在なのかもしれなかったが、彼女を「彼女」として家の誰かに紹介する己の姿が想像できなかった。
  面倒だと思い、嫌だと思い、連れて行って紹介したい相手ではないと思った。「彼氏」として紹介されたくもない、と思ってしまった。
  彼女に酷い事をしているのだと自覚した。
  友達のように気軽に遊びに行くにしても、気を遣わねばならないことに、苦痛を感じ始めた。
  「彼女」として相手すると、好きじゃないなと思う己がいた。
  嫌いじゃないが、特別ではない。
  いつになったら特別な存在になるのか全くわからず、このまま続けて行くこと自体が苦痛になった。
  「ごめん」と謝り、別れた後に惜しくなるかと思ったが全くそんなこともない。
  悲しそうな顔をする彼女に申し訳ないと思ったが、別れて解放されたと思う気分の方が強かった。
 
  己は人でなしなのだろうかと、不安になった。

  久しぶりに桐生のアパートへと押しかける。
  夏休みも終わり、実に数ヶ月ぶりだった。
  親の組の構成員だと言っても、会おうとしなければ全く会う機会はない。
  行動範囲が違うので当然といえば当然だった。
  インターフォンを押して待つが、反応はない。
  鍵を開けて中に入る。
  桐生は外出していて留守だった。
  コンビニの袋を卓袱台の上に乗せ、余分に買ってきたペットボトルを冷蔵庫に入れようとドアを開けて、ペットボトルや缶の多さに驚いた。
「…あれ?桐生さん自主的にジュース買うようになったのか?」
  開いた所に押し込むが、転がり出た缶ジュースの種類に首を傾げる。
「これ期間限定でもう売ってないやつじゃね…?」
  別のペットボトルに手を伸ばす。
  新製品だと言って買った覚えのあるものだった。他にもコーラや炭酸飲料の類も、大吾が良く買うラインナップだ。
  何でこんなにたくさん入っているのだろうと思い、首を傾げる。
  冷蔵庫の上に乗せられた少し埃の被ったコンビニの袋の中身を見て、思い出した。
「…桐生さん、食ってねぇのかよ…」
  いつぞや、買ったはいいものの手をつけることなく帰ってしまった時のものだった。
  賞味期限はまだあるが、食わないなら捨ててくれたらいいのに。
  飲み物も、飲んでくれたらいいのに。
  古いコーラを一本取り出し、代わりに新しいものを一本入れた。
  古い菓子を袋ごと取り、埃を払って卓袱台の上に中身を開けた。
 
  俺が来るの待っててくれたのかな。

  そう思うことは、とても恥ずかしくむず痒い。
  教科書を開いて今日の分の復習と、次回分の予習を始める。
  学校の勉強は、日々少しずつやっていればテスト前に焦らなくとも点は取れる。大学は行く気はなかったが、行くのなら上は目指さず行ける所でいいかと思っていた。
  外の階段を上がってくる音がして、部屋の前で止まった。
  視線を向ければ鍵を開け、入ってくる男と目が合った。
「…おかえり、桐生さん」
「ああ、ただいま」
  初めて見た時の、ライトグレーのスーツにワインレッドのシャツを着た桐生が部屋に入り、冷蔵庫を開け缶コーヒーを取り出した。
「飲んでいいのかこれは?」
  自分の家の物だと言うのに、軽く笑って問われ大吾も笑う。
「冷蔵庫のモン、飲んでいいって言ったのに」
「そうだったな」
「今日さらに追加で大変なことになってるぜ」
「必死に飲んで帰れよ」
「桐生さんもな!」
  肩を竦めるような仕草を見せて「了解」と答え、缶を一息に煽るその様を大吾は見つめる。
  缶に口つけ、喉を嚥下していくラインを追う。
  桐生が視線に気づく前に、逸らしてノートへと向き直る。
  飲み終えた空き缶をキッチンに置き、タオルと着替えを持ち浴室へと向かう後姿を無意識に目線が追った。
「……」
  落ち着かなかった。
  卓袱台の上に両肘をつき、頭を抱え込む。
「あー…やっぱダメだ…クソ」
  チラつく。
  あの時の光景が、チラつく。
  桐生一馬というもはや伝説の男が、「そういう対象」に含まれるのだとは、知りたくなかった。
  見たくなかった。
  聞くところによれば確かに真島吾朗は一風変わった人物らしい。
  桐生一馬を気に入っていて、追い掛け回していると聞いた。
  …「そういう意味で」追い掛け回しているのかと想像する事は、精神的によろしくない。
 
  気づきたくなかった。

  「そういう目で」桐生一馬という男を見る事が出来てしまった己にだ。
  視点が切り替わってしまえば、カッコイイと思うことも、すげぇと思うことも、人間的な欠点のような部分が全く見当たらないことも、全てが「そのせい」なのかと思えてしまう。
  触ってみたいと思う。
  無邪気に身体を触らせてくれと言えば、何の疑問も持たずに触らせてくれるかもしれない。
  それから真島がやっていたように腰に手を回して抱きしめて、脇腹や腹筋の感触も確かめてみたい。下も、触ってみたい。
  …と、打算が膨らんで止まらなくなる。
  異常だと思う。
  桐生さんで勃つとか俺終わってる。
  しばらく来なかったのはそのせいだった。
  面と向かって顔を合わせる自信がなかった。
  気の迷いだと思いたかったが、払拭できるだけの材料が見つからない。
  この感情は、アコガレをこじらせただけなのだと、思いたかった。

  あー俺人生経験なさすぎる。

  もっと女と付き合って、友達も作りたい。
  色々と築き損ねている感情がある気がした。
  女と付き合ったら変な妄想しなくて済むかも。…いや前の彼女と付き合った時は無理だったけど。
  本気で好きになれたらいいのだ。
  そういう女を見つければいいのだ。
 
  うん、そうしよう。

  もはや勉強に集中できそうにないので卓袱台を脇に避け、ゲーム機を引っ張り出す。
  テレビに接続して、電源を入れる。
  浴室から出てきた桐生の視線がテレビへと向かうのを感じたが、桐生の方は見なかった。
「桐生さん、対戦しねぇ?新しいゲーム買ってきた」
「対戦だぁ?俺に挑戦しようってのか」
「ゲームだし!」
「…よしいいだろう。操作方法教えろ」
「んじゃ座って」
  隣に座る桐生の身体が温かい。
  上半身裸は勘弁して欲しい。
  コントローラーを手渡して、ボタンを指差し教えてやるが、確認するように覗き込んでくる顔が近い。
  いやいや、桐生さんは男だし。野郎だし!
  いい加減目、覚めたらいいのに俺。
  苦悩がどうか気づかれませんように!
 
  対戦して勝てたのは最初の一回だけだった。

「…桐生さん、ゲームもできるんだな…」
「コツさえわかればどうとでもなるな」
「……」
  桐生の新たな一面を発見し、喜んでいる己に落ち込んだ。


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御曹司の躾作法-06-

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