桐生さんが帰って来ない。
  遅くなったら泊まるとは言っていたが、明後日来ると言った時、何も言わなかったではないか。
  無人の部屋でいつものように勉強をし、横になって昼寝をする段になっても桐生は戻らず、帰宅の時間になっても何の連絡もない。
  仕事にトラブルがあり、帰れない事態になっているのだろうか。
  桐生のアパートを後にし、帰宅すべきか事務所に寄るべきか迷い、大吾は結局家へと帰った。
  帰宅した大吾を待っていたのは血相を変えた母親で、普段動じることのない肝の据わった母親が「出かけてくる」と言いおいて出かけようとするのを慌てて引き止める。
「何慌ててるんだよ?何かあった?」
「ああ大吾。…いや、ああ」
「ちょ、落ち着けよ。どうしたんだよ」
「立場上お前が行くわけには…いや、ああ、いいか。この時間だし。お前もおいで。病院行くよ」
「…病院…?親父に何かあったのか?」
「風間さんと桐生だよ!」
「……え」
  わけもわからず病院へ連れられて、向かった先が集中治療室だった時には心臓が止まるかと思った。
  命に別状はなく、明日には一般病棟へ移れると聞いて腰が抜けそうになるのを堪え、壁際に設置されたソファへと沈み込む。
  容態を聞いて安堵した母親は風間さんを見舞ってくると言ったが、大吾はその場から動けなかった。
「坊ちゃん、お気を確かに」
  堂島組の組員が二名、側に立っている事に初めて気づき顔を上げ、かけられた言葉の珍妙さに思わず苦笑した。
「死んだわけじゃねぇんだから、それはおかしい」
「え、そ、そうですか…?」
「桐生さん、ヘマしたわけじゃねぇんだろ?」
「はい」
「風間さんが助けに行ったってことは、そもそも危険性があったってことだ」
「…は、はぁ…そうでしょうか」
「桐生さんが事前に察知してたら、みすみすこんな大怪我することなかっただろうさ」
「な、なるほど」
「どんな仕事だったのか知らねぇけど、行けって命令したヤツの説明責任放棄だろ」
「ぼ、坊ちゃん、それは…!」
  大の男達が揃いも揃って狼狽し、相手を庇う様子に誰が命令したのかを察したのだった。
「あ、そう。親父かよ」
「……いや、坊ちゃん、」
「堂島の龍失っちまうとこだったんだぜ。注意して然るべきじゃねぇのかよ」
「……」 
  言葉を失った男達から視線を外し、大吾は立ち上がる。
「風間さんの病室どこ」
「あ、はい、ご案内します」
「主だった幹部は皆もう帰ったよな?」
「はい」
「じゃ、俺が行っても平気かな」
  先に見舞いに行っていた母親は、風間の病室の前で大吾を待っていた。
  入れと促され中に入る。広い特別室のベッドの上に、半身を起こしてシーツを腰までかけた風間と、傍らには柏木がいた。
「やぁ大吾君。来てくれたのか」
  笑顔で迎えられ、元気な様子に肩の力が抜けた。
「お怪我は大丈夫ですか」
「ああ、命に別状はねぇよ。一馬のように全身怪我というわけじゃないからな」
「…あの、桐生さんを助けてくれてありがとうございました」
  深々と一礼すれば、声を上げて笑われた。
「何、可愛い息子の為だ。これくらいは何でもない」
「…あと、親父がすいませんでした」
「……」
  風間は柏木と顔を見合わせ、大吾へと視線を戻して静かに言った。
「大吾君」
「はい」
「堂島組長の命令に間違いはねぇ。親の言う事は絶対だ。不足があるなら補足するのはてめぇの裁量だ」
「…はい」
「俺はてめぇの裁量で助けに行った。それだけなんだよ大吾君」
「…はい、わかりました」
  迷いのない口調は、今回の事態は桐生の責任であるといい、風間が負傷したのは自らの責任であると言っていた。
  風間の言う事は理解する。
  それは恐らく一般社会においても大なり小なりあることで、そしてその理屈は「使う側」の傲慢さに満ちていた。
  絶対君主制の如しであった。
  これが、極道世界なのだった。
  子を生かすも殺すも親次第。
  親の采配の元、生き残るか否かは、子の裁量次第だった。
  だが、と、大吾は思う。
  万難を排することは不可能でも、子が生きて帰れるように采配するのは親の義務ではないのか。危険性を指摘するくらいはできたはずだ。
  父親は、その義務を怠ったのではないのか。
  風間は、ルールを曲げて桐生を助けたのだった。
  風間の行動をこそ、評価する。
  …偉そうに言えた立場ではなかったが。 
  また来ます、と挨拶をして病室を辞し、帰宅したのは夜も遅かったが、ベッドに潜り込んでも眠れなかった。
  「死」というものを、間近に感じた。
  一般社会にいるよりも可能性は跳ね上がるはずのそれを、今まで全く感じることがなかったのは桐生が最強だったからだ。
  誰よりも強い男は危なげなく、いつどこへ出かけても必ず戻ってきた。大怪我をして帰って来ることもなかったし、死なないのだと思っていた。死ぬ、ということすら念頭になかった。
  人間は死ぬのだ。
  桐生も、死ぬのだった。
  極道になれば、己もまた。
「……」
  悠長に構えている場合では、なかった。

  学校帰りに病院へ行こうと足早に校門へと向かう途中で、校舎にでかでかと掛かった垂れ幕に気がついた。
  『祝!野球部都予選決勝進出!目指せ甲子園!』
「…え、マジで」
  万年予選敗退していたはずのわが校の野球部が、甲子園一歩手前に来ていることに驚愕した。
  すげぇな野球部。「甲子園目指そう」と言っていたもう顔も朧気な生徒の言葉が現実のものになろうとしている。
  俺もぼんやりしてらんねぇ。
  …俺のは全く健全じゃないけどな。
  病院に着き、面会者受付をしてから向かった桐生の病室には「面会謝絶」の札が掛かっており、焦った。
  通りがかった看護師に容態が急変したのかと問うが、ナースステーションまで行って確認してくれ、笑いながら「ご本人に確認して来ます」と病室の中へ入り、程なくして「どうぞ、お入りください」と通され首を傾げた。
  中に入れば風間が入院している部屋と同タイプの個室であり、広い病室に置かれたベッドの上で、上半身を起こした桐生が本を閉じて脇に寄せた。ベッド脇には点滴パックがぶら下がり、チューブは桐生の左腕に繋がっていて痛々しいが、顔色は良く苦笑交じりに迎えられて、大吾は安心すると同時に疑問を口にした。
「何で面会謝絶?」
「朝から騒々しい男がやって来て、病室で騒がれたんでな」
「…えーとそれはまのつく人か」
「まとじとまがつくな」
「真島じゃん」
「…まぁ、座れ」
  椅子を示され、鞄を床に置いて腰掛ける。
  真島とどんな話をしたのか気になって仕方がなかったが、喉まで出かかった言葉を嚥下して耐える。
「飲み物は自由に飲んでいいって聞いたから、色々差し入れ持ってきた。冷蔵庫入れとく?」
「…相変わらず炭酸か」
「このコーラは今俺が飲む。桐生さんも飲む?」
「炭酸以外はねぇのか?」
「じゃ、これ。ピーチ」
「…甘そうだな」
「甘いらしいぜ」
  ピンクの可愛らしいデザインのパッケージを見て、桐生が微妙な表情をするのがおかしくて大吾は笑い、まだ腕の力が入らないという桐生の代わりにペットボトルの蓋を開けてやる。
「怪我はどうなの?身体起こせるってことは大丈夫なのか?」
「寝たきりじゃなく、身体は動かせと言われたからな」
「痛くない?」
「痛いに決まってる。…む、すげぇ甘いぞ」
  一口飲んで顔を顰め、記入されている文言に変化などないというのに再びペットボトルを眺めやる様は無意識なのだろうか。
「不味い?」
「…不味くはない。甘い」
「どれどれ」
  桐生の手からペットボトルを奪い、口に含んでみる。
  まったりと濃厚な桃の味わいが喉に絡み、食道を滑り落ちて行く感覚すらもわかりそうな程だったが、後味は悪くなかった。爽やかに口の中に桃の香が残る。
「悪くねぇけど濃いな」
「ああ」
「他のにする?これ飲んでやろうか」
「いや、開けたもんは飲むぜ」
「そっか」
  ペットボトルを桐生に返す。伸ばした桐生の指が触れ、その温かさに震えた。
「ん?どうした、大吾」
「ああ、うん」
「…?」
  己の指先を見つめ、立ち尽くした少年は眉を顰めて辛そうな表情をしていた。
  桐生は首を傾げ、「体調悪いのか」と己の状態を棚に上げて尋ねるが、首を振るだけで答えない。
「大吾?座らねぇのか」
「あー…桐生さん、ちょっといい?」
「ん?なん、だ…」
  両手を広げ、身体を寄せた大吾が桐生の身体を抱きしめた。
  力は篭っておらず、触れるだけの身体は温かく、桐生は目を見開く。
「…大吾?」
「あー!生きてる!桐生さん、生きてる!」
「……あ?」
  首筋に鼻先を埋められ、叫ばれては鼓膜に響く。
  ベッドの上に片膝を乗り上げ、頭から抱き込むような形になった大吾の腕に触れればそれは微かに震えていた。
「……」
  離せと言いたかったが、口を閉ざす。心配させたか、と思えば拒絶する気は失せた。
  手を背に回し、軽く撫でてやれば明らかに背が強張って、次の瞬間力いっぱい抱きしめられた。
  拷問傷はようやく血が止まったというのに、圧迫されて激痛が走る。
「…ッ!い、たい!!痛ぇぞ大吾!傷に当たってる!」
「えぇぇえ男なら我慢!」
「出来るかッ!」
  敵との戦闘中なら我慢もするが、無茶言うなと叱れば渋々ながら力を抜いた。だが離れない。
  離れろと言えば「うん」と答えはするものの、片手は背に回って撫でるように上下し、もう片方は項から肩へと滑り、腕を撫でてを繰り返す。眉を顰めて行方を見守れば、そのうち腰周りを撫で始めてさすがに手首を掴んで引き剥がす。
「…おい」
「…どの辺怪我してんのかなと」
「確認してどうすんだ」
「いやなんとなく」
「……」
「上着めくってみたら一発でわかんじゃね?」
「しなくていい」
「えー」
  不満そうに唇を尖らせながら身体を起こし、椅子には戻らずベッドサイドに腰掛けた。
  毎日鍛えているという大吾は出会った頃に比べれば随分と身体が出来ていた。
  筋肉の厚みが増して、しっかりと存在感がある。
  顔つきも大人になった。
  まだ多少幼さは残るものの、何かを秘めた男の顔をしていた。
  正面から真っ直ぐ見つめ合い、桐生は今朝風間から聞いた昨夜の出来事を思い出す。
  成長したな、と思った。
  大局的に物事を見る目が養われ始めたのはいいことだと思う。
  「あれは見所がある」と親にも等しい存在が笑い、「俺もそう思います」と桐生も笑った。
  仁義と矜持だけは立派で非力だった少年がそれを表現する力を身につけたとき、強大な武器になるはずだった。
  将来が楽しみだと思う。
  組を継ぐ事が決定付けられた少年が権力を手に入れ、どのように行使するのか見物だった。
「…桐生さん、何考えてんの」
  僅かに目を伏せ笑みを零せば、大人になり始めている少年が静かに問うた。
「お前のことだ、大吾」
  素直に言えば、大吾の手が伸び桐生の頬を捉える。
  上向けられるまま何だと目線を上げるが、至近に大吾の目があった。
「……っ!」
  唇を塞ぐ暖かな感触は、大吾のものか。
  一瞬の自失から立ち直り、口内に入り込もうと伸ばされた舌を拒絶する。
  頬に添えられた手をどけようと手首を掴むが、力は入らなかった。
  上半身を倒そうと力を込めて肩を押され、腹筋に力を入れて抗おうにも激痛が走ってバランスを崩し、枕に後頭部が沈んだ。圧し掛かってくる大吾の身体は満身創痍の身体で支えるには重すぎて、呻く。
  顔を背けようにも固定されている為動かない。
  下手に口を開けば舌が入り込んでくる。
  仕方なく、拳を作り大吾の肩を叩く。力は入らないが、それくらいはできるのだった。
「…痛いって、桐生さん」
  ようやく唇が離された。
  大きく息を吸い、ため息をつく。
「…何のつもりだお前」
  それには答えず、軽く唇を舐めながら大吾が首を傾げた。
「そういや桐生さん、入院何日くらいするの?」
「あ?…一週間って聞いたが」
「その間女抱けないじゃん。一人ですんの?」
「……、…はぁ!?」
  いきなり何を言い出したんだこのガキは!?
  絶句し硬直した桐生の身体を服の上から掌で撫で回し、さらにシーツを捲ろうとする手を払いのける。
「…大吾、ふざけてんじゃねぇぞ」
  ドスを効かせて脅しをかけるが、大吾はきょとんと目を見開き、嬉しそうに笑ってみせた。
「カッケー桐生さん!俺殺される?」
「殺されてぇのか!」
「いや、まだ死にたくねぇし。うん、冗談ですゴメンナサイ」
  あっさりと両手を挙げて降参のポーズを作り、シーツを掛け直して椅子へと戻る。
  悄然としているように見せながらも、俯いた顔は笑っていた。
  桐生は身体を起こし、戸惑いを混ぜて大吾を見る。
「…何なんだ…何がしたかったんだお前?」
「若気の至り」
「あぁ?」
「ヨッキューフマンの解消方法を教えて下さい」
「…風俗行け」
「あ、やっぱそこ?そうかさすが桐生さんオトナだなぁ」
「…馬鹿にしてんのか」
「してねぇって。んじゃ俺、殺される前に帰ろっと」
  鞄を抱え、さっさと帰り支度をする大吾に釈然としない物を感じながらも、引き止める理由はないので見送ることにする。
「お前にも面会謝絶適用させておくからな」
「えっ勘弁してくれよ…。ちゃんと桐生さんの元気な姿確認しねぇとテスト勉強集中できねぇって!」
「もう確認しただろが」
「次は飲みやすいジュース持ってきます!」
「……」
  向けられる笑顔は常と全く変わりのない少年らしいものであり、桐生は気にする程のことでもないかと軽く息を吐き出し笑みで返す。
「…茶も頼むぜ」
「お、りょうかいです!んじゃまた!お大事に!」
「…ああ、気をつけて帰れよ」
  手を振り軽い足取りで少年が出て行った後室内に落ちた静寂の重さに、桐生は枕を背に上半身をベッドヘッドに凭れさせてため息をついた。
  傷口は熱を持って疼くように痛み神経に障るが、少年の存在にしばしそれを忘れていた事を自覚した。
「……」
  廊下に出、帰宅する為に歩き出した大吾は終始俯き、何事かを呟いていた。
  強く握り締めた両の拳は震えており、緩やかになった歩みはすぐに止まり前屈みになる。
  すれ違った看護師が怪訝な表情で手を伸ばし、「大丈夫ですか?」と問いかけながら肩に触れようとしたが、触れるより先に大吾が勢い良く跳ねんばかりの勢いで上半身を起こした。

「よっし…!イケる…!イケるぜマジ頑張れ俺ッ!!」

「…!?」
「…あ、すんません!何でもないっす…」
  唖然と目と口を大きく開け、硬直している若くて可愛い看護師に頭を下げて謝って、小躍りしそうな心を抑える気にもならず、弾む足取りで病院を後にした。

  翌日学校に登校した大吾は、校舎にかかっていた垂れ幕が変わっている事に気がついた。
  『祝!野球部都予選二位!』
「…あれ、駄目だったのか…残念だな」
  このご機嫌な気持ちを分けてやりたい。
  まぁ大会はこれから先もあるのだから、次を頑張ればいいのだった。
  俺も次の手考えるし。
  一歩ずつ着実に、進んで行けばいい。
  望みが出来たことで少し余裕を持つ事が出来るようになっていた。
  高い目標は必要だったが、モチベーションを維持する為にはある程度の餌が目の前にぶら下がっている方がやりがいがある。
  まだまだ、これから。
  全く何の関係もない野球部に、勝手に親近感を覚えて垂れ幕を見上げながら大吾は一人頷くのだった。


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御曹司の躾作法-09-

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