「覚悟決めやぁ、桐生チャン」
赤黒い固形物と液体に塗れたドスを右手に握り、今にも振り下ろさん勢いで眼帯の男が、哂う。
「そういえばお前には貸しがあったな、桐生」
地下の巨大な歓楽街を支配する男が、突然思い出したように声を投げた。
携帯で呼び出され、用もないのにわざわざ足を運んでみれば挨拶もそこそこに、伝説の情報屋と呼ばれる花屋は葉巻をこちらに向けながら、口角を引き上げた。
「…いつの話だ?」
記憶を探ってみれば確かに「貸しだ」と言われたような覚えはあったが、その後のやりとりで帳消しになった気でいた桐生は眉根を寄せてしかめっ面で返してみせる。
神室町の情報を支配する男は眠そうにも見える細目をさらに細めた。楽しげに笑っているようだった。
「タカシの依頼を最初に受けた時だ。父親としてではなく、情報屋として会うと言った」
「ああ、覚えてるぜ。タカシに関することについては色々と俺も手助けをしたつもりだが」
「それだよ。奴に関することで、お前から情報料をもらったことはねぇ」
「…おいおい、お前の息子の件で、俺から金を取るのか?」
「依頼は依頼だ。いつも言ってるだろう。お前から情報料を取らないってのは他に示しがつかないんだよ」
「…タカシ以外にも、帳消しになる程度の働きはしてきたと思ってたが」
「甘いな桐生。ビジネスってのはシビアにやらねーと成り立たねぇ。お前さん、いつどこで、どんな用件で何をしたか全部言えるか?」
「……」
「言えないだろう」
勝ち誇った顔で花屋が笑った。葉巻を銜えてご満悦の表情だったが、付き合いは長い。食えない男であったが、桐生に対して悪意を見せたことはこれまで一度もなかったし、信頼関係というものが互いの内にあることも知っていた。
「呼び出してその言い草ってことは、何かやらせたいことでもあるのか」
「あるんだよ。お前にしか出来ないことだ」
「…そう言われるのは、何度目だ?」
「フン、わかってるなら話は早い」
「頼み事なら素直に言えよ。回りくどいことをせずに」
「…俺の頼みじゃないからな。まぁ、俺も見たいっちゃ見たいんだが」
「トーナメントか」
「そうだ。俺も観戦させてもらう。楽しみにしてるぜ、桐生」
拒否する権利はなさそうだった。諦めのため息をついて、了承する。
最近はトーナメントに出場することはおろか、この地下歓楽街へ来ること自体がなかった為、久しぶりに足を踏み入れた闘技場の熱気に懐かしさを覚える。
『賽の河原』と呼ばれるこの歓楽街に出入りできるのは限られた上流階級の人間だけであり、その中でも闘技場でのバトルを観戦できるのはさらに一部の人間だった。バトルすら賭けと歓楽の対象だというのだ、呆れた趣味だと桐生は思う。
観戦するのに資格は必要だったが、トーナメントに参加し、戦うのに資格はいらない。
ただ、強さだけが求められる場所だった。
トーナメントにも種類があり、一対一で戦うだけでなくタッグマッチなども行われている。
真島と組んで古牧や風間譲二らと戦ったことも記憶に新しい。
純粋に強さを求めるも良し、ファイトマネーを求めるも良し、闘技場に居場所を見出す人間もいれば、ストレス解消と暇つぶしの為に参加するような人間まで多種多様だった。
重い鉄製扉が開くと、割れんばかりの歓呼の声に迎えられた。『伝説の龍』の称号は今でも健在のようで、連呼される呼び名は不快ではない。
チャンピオンとして君臨し敵なしであった時代は、さほど昔のことではないのだ。
中央のリングに上がれば、挑戦者は待ちくたびれたと言わんばかりに首を鳴らして両手を広げ、歓迎の意を示してみせた。
「待ってたでぇ、桐生チャ~ン!」
「…やっぱりアンタか。何やってんだ」
「つまらんこと言いなや桐生チャン。定期的にな、桐生チャンと戦わんと俺死んでまうねん。ウサギもそうやろ、寂しいと死んでまうねん。そんでせっかく戦うからには、ド派手にやりたいやんけ。やっぱ大観衆の前で戦うのは燃えるなぁ。桐生チャンもそう思うやろ?」
「ん、歓声がうるさくて聞こえねぇな。もう一回頼む、真島の兄さん」
「……」
「……」
「まぁええわ…。ゴッツく戦おうや!死んでも恨みっこなしやで、桐生チャン!」
「何でアンタだけ武器持込が許可されるんだろうな、納得いかねぇ…」
「何か武器使うんか?」
「いや、いい。…そもそもすでに素手と裸足だ俺は」
「わ、笑わんで、そんなダジャレでは俺は笑わんで、桐生チャン…!」
「……」
戦闘開始の銅鑼が鳴った。
「元チャンピオンと、伝説の龍のバトルは見ごたえがあったな」
壁面に埋め込まれた巨大水槽の前に設えられたデスクに陣取り、花屋が満足気に頷いた。純粋に楽しんだと言わんばかりの口調だが、闘技場観戦だけでも莫大な金が動いていることを知っている立場からすれば、本当に食えない男だと桐生は思う。
「これで借りはなしになったか?花屋」
スーツの襟を正しながら言えば、花屋は手を振って豪快に笑った。
「はっはっは!元から貸しなんざないさ桐生!むしろこっちが借りてるくらいさ」
「何…!」
「だから言ったろう。いつどこで、どんな用件で何をしたか覚えとかないと損するってよ」
「…あぁ、これからは覚えておくぜ花屋…」
眉間に皺を寄せてため息をつく桐生に、花屋が窺うような視線を投げた。
「…怒るなよ?」
「怒ってねーよ」
「ならいいが…真島の頼みは断れなくてな」
葉巻を指先で弄びながら、仕方がないと今度は花屋がため息をつく。
一度はこの地下を捨て地上へと移動した情報屋が、再び戻って来れたのは真島の力によるものだ。
貸し借りでは計りきれないものがそこにあるのかもしれなかった。
「次からは直接言えと言っておく」
「ああ、最優先で闘技場は使えるようにしておいてやる。…お前は金になるんでな」
「…最後の台詞は聞かなかったことにしておくぜ。そういえば兄さんの姿がないが、もう帰ったのか」
「いや、もう来るだろう」
花屋が視線を向けるのに合わせたかのように扉が開いた。「桐生チャーン!帰ろ~」と両手を広げて大股で歩み寄って来るのは先ほどまで戦っていた真島であった。
30メートルはあろうかという距離を、そつなく着込んだスーツで小躍りせんばかりのステップを踏みながら近づいてくる姿は相変わらずという他ない。
「…着替えたのか、兄さん」
「せや。最近は真面目スーツでご出勤や。窮屈でかなわんわぁ」
嫌々着ているとアピールする割には、ネクタイはよれることなく結ばれているし、ボタンも全て留められている。
真面目なサラリーマンというには眼帯と風貌が異様極まりない為無理があったが、真面目な極道には少なくとも見えた。
…真面目な極道というものが、存在すればの話だが。
「…ご出勤って…18時だぞ?重役出勤も甚だしいな」
「ちゃうちゃう。桐生チャンと戦えるっちゅーのに、仕事なんかやってられっかいな。今日はもう終わりや、終わり」
「…相変わらずだなぁ、兄さんは」
「桐生チャン、どっか遊びに行こうや。腹減ったな。飲みのがええかいな」
「いや、俺は帰…」
言い終わる前に腕を掴まれ、引っ張られた。
「まぁええがな。ほな行こか。花屋、今日はおおきにな」
「構わねぇよ。桐生、いつでも遊びに来てくれよ」
「…あぁ、」
扉へ向かって歩く真島に引かれるまま、桐生が頷く。
腕を外そうにも外せないほどに掴む力は強く、痛みに桐生が眉をひそめた。
「…兄さん?」
声をかければ、真島が振り向く。
「…どこがええかなぁ」
「……」
首を傾げ、とぼけた表情で答える様子に何故か違和感を覚えた。
歩いて行こかと真島は言い、返事も待たずに外へ出た。
華やかなネオンが輝き人で賑わう夜の神室町を、ただ歩く。腹が減ったと言いながら、店に向かう様子はない。
掴まれた腕は離されたが、二人が並んで歩けば注目を浴びる。行き交う人々の視線は明らかに二人の行く先を追っていた。
どこへ向かっているのかと問うても、「まぁまぁ」と言葉を濁す真島の真意は知れない。
普段よく喋るはずの真島は黙ったままで、桐生も声をかけるタイミングを逸したまま児童公園に差し掛かった時、自動販売機の前に座り込み大声で喋る数人の若者がこちらに気づいた。
児童公園という名前の割には昼間でも児童を見かけることは滅多になく、遊具も殆どない狭い空間は夜になればホームレスや若者達の溜まり場として利用されている場所で、そんな場所に自分達が近づくのは絡んでくださいと言わんばかりであろうに、真島は構わず若者達に近づいた。
「…オジサン達、何か俺らに用でもあんのー?あ、自販機使いたいなら俺らが代わりに買ってあげてもいいよ。お駄賃一万円もらうけどね」
中央に座った一際体格の良い男が、耳にぶら下げた派手なピアスを弄びながら舐めるように真島を睨み上げ、品の欠片もない笑い声を上げた。
周囲に陣取るチンピラ風の若者達が追従の笑いを上げ、内一人が立ち上がる。
「いいスーツ着てンじゃーん。やっぱ俺らにお小遣いくれる気なのかな、オジサン?」
「桐生」や「真島」の名前自体はこの街に畏怖と恐怖でもって嫌と言うほど浸透しているというのに、顔を覚えられていないのはどういうことなのだろうかと、常々桐生は疑問であった。絡んでくる連中は後を絶たず、次から次へと沸いてくる。知ってケンカを売ってくる連中も混ざっている為一概には言えないが、街を平和に歩ける日はいつ来るのだろうかと思いを馳せては気が遠くなるのだった。
真島のスーツの襟を掴んだ男は、次の瞬間爪先で股間を蹴り上げられ、前のめりになった所を胸倉を掴まれ公園内に放り投げられた。
背中から落ち無様な呻き声を上げた仲間を唖然と見やり、次に真島を見上げ、変わらぬ静かな表情を見て全員が一斉に立ち上がる。
「…な、なんだテメェ死にてぇのかよ!」
「桐生チャン待っといてや。すぐ終わるからな」
「……」
桐生を公園の外に待たせ、真島は公園内に足を踏み入れる。
まだ起き上がれずにいる20代前半と思われる金髪青年の身体を爪先で転がし仰向かせ、スーツの下に隠し持っていたドスを引き抜き右肩付け根に突き刺した。
聞くに堪えぬ絶叫を上げながら青年が地面の上を転がる様を真島は見下ろし、驚く桐生を尻目に不思議そうに小首を傾げて見せた。
「おかしいなぁ…」
「…兄さん、アンタ何やってんだ」
「何しやがんだテメェ…!」
ケンカを売ったのは自分達だと言うことを棚に上げ、理不尽にケンカを吹っかけられたと言わんばかりに桐生を押しのけ公園内に走り込み、若者達は真島を一斉に取り囲む。
ドスから流れ落ちる真新しい血の色に激怒したリーダー格の男が、「ぶっ殺す!」と叫びながらナイフを振りかざすのを真島は見やり、造作もなく身体を捻ってかわし様、男が自慢気にぶら下げた金の輪状のピアスを指に引っ掛け手前に引いた。
男の動きとは逆方向へ引かれたピアスは皮膚の薄い器官ごと容易く千切れ、闇夜にも鮮やかに紅が舞った。皮手袋の指に嵌った輪には肌色と赤色の混じった断片がこびりついていたが、くるくると回転させればどこかへ飛んだ。そのまま回転速度を上げ続ければ指から外れてピアス自体が空を舞った。明らかに金メッキとわかる軽い音を立てて地面に落ちたその先に、立派な体格をしたリーダー格の男が押さえた耳と手を真っ赤に染めながら呻いていた。
「すまんなぁ。引っ掛けてしもたわ」
「う、うわ…ッジュンちゃん、大丈夫かよ…!」
ジュンちゃんと呼ばれた男は返事もできず、右肩を刺された男と共にただ地面を転がり回る。
「こ、こ、こ、この野郎…!何なんだよ…!」
震える声で罵倒しながら、拾い上げた鉄パイプを握り締めた長身の男が無造作に突っ込んだ。集団でいたはずの他の若者達は及び腰で、遠巻きに様子を窺っている。
刺して下さいと言わんばかりに無防備に振りかぶった男の望み通り、真島は右手に持ったドスをそのまま真っ直ぐ突き出した。突き出した先は男の左脇腹だった。
あやまたず勢いのまま深々と脇腹に埋まったドスを見、硬直し鉄パイプを取り落として絶句する男を見て、集団は恐怖で完全に瓦解した。
悲鳴を上げて逃げる男達を冷めた目で眺めやり、目の前で息もつけずに痙攣する身体からドスを引き抜き軽く前へ蹴飛ばした。
力なく倒れこんだ男は後頭部から地面に落ちて鈍い音がしたようだったが、真島は頓着しなかった。
「やっぱり、問題ないよなぁ…」
血に塗れたドスを夜空に翳しながら、しみじみと見つめる真島に足下の状況はもはや意識にはないようで、足早に近づいた桐生は力任せに腕を引いた。
「問題大有りだ!何やってんだアンタは!!」
「ん?ああ、待たせたなぁ桐生チャン」
「やりすぎだ。さっさと行くぞ」
「ええ?」
「いいから、早く!」
賽の河原での立場とは逆に、桐生が真島を引っ張って公園を出ようとするのに逆らわずついて歩きながらも、ようやく顔を上げたリーダー格の男と視線の合った真島はにこやかに笑ってみせた。
「ジュンちゃん、またなぁ」
「…ヒッ…」
喉を引きつらせ仰け反る男に手を振って、真島は険しい表情を崩さない桐生に向き直る。
「桐生チャン、怒っとるんか?」
「…武器は仕舞え」
「おお、そやった。手、離してくれんと仕舞えんで?」
「……」
渋々離された右腕は、飛び散った血で汚れていた。
ダークグレーのスーツのおかげでそれほど目立ちはしなかったが、白日に晒せばさすがに汚れはわかるはずだ。
「タクシー乗ろか」
止まっていたタクシーに桐生を押し込み、自身も乗り込む。
行き先を告げて、嵌めていた手袋を外した。
訝しげに見つめてくる桐生に「汚れてしもたからな」と言えば、苦々しげな表情をして頷いた。
「桐生チャンは怒っとる割には、止めに入ってこんかったなぁ」
「……」
車窓から流れる景色を見ながら呟けば、不満気なため息が横から漏れる。
「何や?」
「待ってろと言うからだ…油断した」
そうだった、真島とは元々こういう人間だったのだ。
ここ最近は街で暴れていると言う話も聞かなかったし、建設事業も波に乗り落ち着いたのかと思っていたのだった。
「…甘いなぁ。桐生チャンは、相変わらずアマアマやなぁ」
いつかも言われた台詞だと思った。
だが、先ほどのあれは避けられたはずのケンカであった。
積極的に買ってみせたのだ、真島は。意図が何処にあるかはわからなかったが、違和感が付きまとう。
「……」
真島を見れば、向こうもこちらを見ていた。
何だ、と問おうとしたが、言葉にはならなかった。
「美味いモン食おなぁ、桐生チャン」
常と変わりない口調で、だが捕食者の目で真島が哂う。