「覚悟決めやぁ、桐生チャン」
赤黒い固形物と液体に塗れたドスを右手に握り、今にも振り下ろさん勢いで眼帯の男が、哂う。
雨だ。
視界に映る手すりに凭れかかった己の両腕はすでに濡れ、グレーのスーツは暗く変色し袖口は水を含んで重い。取り出した煙草は銜えた時には既に湿り、ライターに至っては情けない音を出すだけで火がつくことはなかった。
降り出してどれくらい経ったのか、正面を流れる汚れた川は水位と勢いを増して流れている。
ああ、ここは蒼天掘かと納得し、足元を見やれば未開封の缶ビールが転がっていた。
缶ビールを転がしてきた薄汚れた男をみやる。「すみません」とくぐもった声で謝りながら、近づいてくる男には見覚えがあった。
ああそうだ、この男に刺されるのだと、思った。
激痛だ。
灼熱の痛みというのはこういうものを言うのだ。
深々と腹に突き刺さるドスは遠慮の欠片もなく、柄の際まで埋まっている。
熱い。
痛い。
そして、息苦しかった。
息を吸い込もうとすれば腹が引きつれ激痛を伴う。
吐き出しても同じように激痛が伴った。
抜けば死ぬかもしれないと思う。だが抜かなければ息ができない。
悲鳴を上げて逃げ去った見知らぬ女が戻ってくる気配はなく、周囲に人影はない。
長時間雨に晒され続けすでに冷え切っていた体温が、流れ出る血でさらに指先から凍えるように冷たくなっていく。
刺された腹は熱を持って痛むと言うのに、歯の根が合わぬ程に震えが走る。寒いのだ。おかしな話だと思う。
膝から力が抜け、よろめいた。
ドスを抜こうと手をかけ、雨と混じって広範囲に広がり始めた己の血だまりに視線を落とす。
目に入り込んだ雨水で視界が歪んだ。
反射的に目を閉じれば、平衡感覚を失って膝から崩れた。
全身の力が抜け感覚が消えて行く中、刺された腹だけは熱く、痛い。ドスを握っていたはずの左手も力を失い虚しく空を泳いだ。
死ぬのか、と半ば他人事のように遠く思った時、地面に転がった己を抱えようとする手に気がついた。
「おじさん!しっかりして、おじさん!」
縋りつくように叫び、覗き込んでくる悲壮な少女の顔はこの場にはないはずのものだった。
少女の背後に広がるのは、真っ青な空と白い雲。
雨はいつやんだのだろうなどと思えば、すぐ側でざわめきと悲鳴が広がった。
「死ぬ直前になってもまだ、信じるなんて言えるのかよ!」
一輝とユウヤに抑え込まれた大柄な男が、自分に向かって叫んでいる。
ああ、あいつは浜崎かと思う。
ではここは、神室町なのだと思った。
か弱く小さな手が、必死に身体を抱え起こそうとしていた。「死んじゃいやだよ」と、涙を溜めて覗き込んでくる顔があまりにも悲しそうで、慰めに思わず伸ばした手は血に塗れて汚かった。
空を切る手を少女は取り、しっかりと握りこんだ。涙が頬を伝って、スーツの上に落ちる。
「大丈夫だ」と、目の前の少女に笑いかけようとしたが、声は出なかった。
腹に刺さったナイフが、痛い。
いつも肝心なところで詰めが甘いのだと、誰かが嘲笑う声がした。
白く塗りつぶされていく視界の中、やけにリアルにその声は響く。
誰だお前はと、問うたところで目が覚めた。
ベッドサイドの弱い明かりに照らされて、天井が揺らめいている。
夢と現の境を彷徨いながら、桐生は身体の重さに眉を顰めた。
重い瞼を引き上げて視線を流せば、右手を絡め取られた状態で真島が上に乗っていた。
「……」
夢で少女が握ってくれた右手は、現実では真島が指を絡めて握りこんでいたのかと思えば何とも言えずやりきれない気分になった。
「…なぁ桐生チャン、桐生チャンの利き腕は右やんな?」
「…そうだが」
目を覚ました桐生に待ってましたとばかりに声をかけ、答えを聞いて真島は頷く。
「ならええわ」
「…?なに、が、」
質問は最後まで言葉にはならなかった。
左手に、衝撃があった。
いつ己の左手を枕元まで持って行ったかの記憶はない。
認識できたのは耳の横を通り過ぎる何かと、己の左手のひらにぶつかる硬質で冷たい何かと、枕カバーを切り裂く軽い音だった。
「……ッ!!」
左肩から先が、震えた。
震えた振動で左手のひらに走った激痛に、桐生はこれが現実であることを知る。
信じられない思いで顔ごと向ければ、そこには己の手のひらを抜け枕まで刺し貫く血塗れのドスがあった。
「…っ何なんだ、一体…ッ!?」
叫ぼうとしたが、傷に響いて脳を直撃する痛みが走り叶わなかった。
「…これはな、いけるねん」
「……っ…」
ドスから手を離す、その些細な動きすらも痛いというのに、真島は無造作に手を引いた。ホテルのスィートルームの枕は弾力はあれども所詮は詰め物をした布であり、桐生の手を縫い止めるには至らなかった。
ドスは左手のひらに埋まったまま、しかし支えを失って傾いた。骨の間を抜け途中で止まった長さ54センチ程の直刀は、柄の重さに引っ張られ抜けようとするが、肉に食い込み目的は果たせなかった。
絡め取られたままの右手を真島から奪い返し、神経を苛む痛みに顔を顰めながら、不安定に動くドスの柄を掴んでこれ以上傷口を広げないよう、真っ直ぐ引き抜く。
溢れ出る血の臭いが無駄に広い部屋を満たし、力の抜けた左手は再び枕へ沈み込む。障害物のなくなった傷口は止め処なく血を流し、真っ白な枕はあっという間に真紅に染まった。
桐生がシーツの上に放り出したドスを、真島は再び手に取った。
「けどな、ココはあかんねん」
桐生の痛みなど知らぬ気に、話の続きと言わんばかりにココ、と真島は桐生の心臓の上にドスの刃先を置いてみせた。
「桐生チャンと殺し合いできたらええなぁとずっと思とったのになぁ。桐生チャンに死んで欲しないんかな俺は。ないんやろな俺は」
「……っ」
「まぁ他の奴に殺られるような桐生チャンちゃうからええんやけどな…それにしても」
刃先を滑らせ、今度は脇腹の上へと移動した。
「ここはいけるやろと思ってさっきから試そうとしてるんやけどな、どうもあかんねんな」
「兄さん、アンタ…は、」
「いっつも狙っとるんやけどなぁ、桐生チャンに刺せた試しがない。おかしいなぁと思て公園で試したらいけたしな」
「……」
「やっぱ桐生チャンの避け方が上手いんやな…うん、そうなんやろな」
「……」
脇腹を刺される夢ばかりを見たのは、コイツのせいか。
コイツが掴んだり刃先で突付いたり、色々と試してみたりしたせいだ。
ああ、刺された左手が痛い。
利き手じゃなければいいという、その理屈が理解不能だ。
殴ってやりたいが相手は己の身体の上だ。体勢が悪い上、左手がずっと激痛で疼いて耐えがたかった。
脈打ち熱を持ったそこから、どんどん血が流れ出ている。早く止血をしたかった。
「…どいてくれ、兄さん。…手をどうにかしねぇと…っ」
「ああ、放っといたかて死なんやろ桐生チャンは」
「…死ぬとか死なないとかの問題じゃねぇ!…ッ!」
力が入ると余計に痛い。
息が上がった。思わず左手をかばうように上半身を丸めようとした桐生を阻止するように、真島の左手が伸びて、首を掴んだ。
「…ぐ…ッ」
呻いた桐生の唇に己の唇を近づけ、至近で囁く。
「…いつでも桐生チャンを殺りたいと思とるのになぁ…残念でならんわ」
「知るかよ…ッ!」
右手で掴んで引き剥がそうとするが、力は入らない。
吐き出した息は熱かった。
「…桐生チャン、まだまだヤれるやろ」
ヤるんだか殺るんだか、痛みで刺激され続ける脳では真島の言うことを理解できない。
何をだと問えば、わかってるくせにと言いながら真島は桐生の腰に下半身を押し付けた。
元からむき出しのソコに押し付けられる質量に、ため息が漏れる。
「…ッアンタは、…ホントに、好きだなぁ…」
「何や桐生チャン今更。桐生チャンも、好きなくせに」
「…勝手に決めるな…」
「覚悟決めやぁ、桐生チャン。出血多量でイく前に、もっとイイ顔見せてくれや」
「…ッホントに、アンタは、どうしようもねぇな…っ!」
真島が赤黒い固形物と液体に塗れたドスを、床の上へ放り投げた。
毛足の長い臙脂色のカーペットは音もなく受け止めたが、変色し始めた血はカーペットに同化することなく点々と散った。
染まった枕の真紅も端から乾き始めていたが、真新しい血は止まることなく流れ続け、血だまりの範囲は広がっている。
真島は苦痛に歪む喉元に唇を寄せ、仰け反った所に吸い付いた。
呻く桐生の右足を肩に乗せて、一度繋がり解れたソコに己の先端を捻じ込めば、太腿を引きつらせて拒絶を見せる。
指先が食い込むほどに太腿を掴んで開かせ、右の指先で押し広げながら奥まで挿れれば肉壁が締め付けながら悦んだ。
「…っは…、…っ!」
身体の上に乗り上げるように膝立ちになり、しっかり根元まで銜え込ませれば苦痛だけではない吐息が漏れた。
動かせず顔の横に放置したままの左手首を真島が掴み、前のめりになれば締め付けが強くなる。
「…っ、桐生チャン、容赦ないな…!」
「る、さい…っ!いい加減、頭痛がするぜ…ッ!」
「俺が、掴んどいたる。…これで血ィ止まるかな…?」
「…アンタが、…っさと、イけば、治…療で、き…っぁ…く…!」
勢いに任せて真島が突き上げるたび、ぐちゅぐちゅと溢れるのは散々突っ込まれたローションのようだった。
粘つく液体はかき混ぜられ押し出されて尻を伝ってシーツを汚す。
肉がぶつかり立てる音には興奮するが、貫かれた手のひらの感覚が覚束ない。
力任せに掴まれた手首は痛く、血液が循環できない為指先は冷たく動かすことすら困難だった。
頭の中で打ち鳴らされる銅鑼のような音がうるさかった。
拡散する思考はもはや言葉にならない。
「…っもっとや、桐生チャン。もっと締めて食いちぎってくれや…!」
「ッァ、ま、ジマ…っこの、…ッ!」
変態め、と言ってやりたかったが、擦り上げられる自身の感覚に身震いした。
肉を掻き分け奥まで押し込んでは引いていく熱くて硬いモノに侵され、何なんだろうかと思う。
どこに神経を集中していいのかわからない。
だが痛みよりは快楽を追う方が楽だった。
真島の後頭部に手を回し、引き寄せる。
舌を出せば荒い息を吐いて笑った真島が答えてくれた。
ああ、左手が痛い。
…殺したいというのなら、殺してみればいいのだ。
そうやって生きてきた「狂気」が、躊躇う様は安堵と共に落胆を呼んだ。
己を犯す眼帯の男が、笑っている。
そこに狂気は見えないが、コンナコトを平気でやれるのだから正気ではないだろう。
いつも肝心なところで詰めが甘いのだと哂う男は、この男なのかもしれなかった。
己への、自嘲も込めて。
馬鹿らしい行為で、生まれるのは熱と快楽と苦痛だけだ。
哂う男は楽しそうで、己も同じような顔をしているのかと思えば反吐が出そうだった。
まともな世界で生きるには、あまりにまともじゃないことが多すぎた。
平和に暮らしたいと願っても、つきまとう狂気は、簡単には離れそうもない。
END
真島の兄さんは桐生チャンに負けてもしょうがないと思っている、と、思っている。