「またな、桐生ちゃん!」
にこやかな挨拶を残して歩き去る男の背に向け、こぼれ落ちるため息は無意識のものだった。
「そろそろ諦めてくれねぇかな…」
何度この台詞を呟いたことだろう。
桐生は襲い来る疲労感に首を振り、歩き出そうと踵を返す。
見知らぬ男とぶつかった。肩がぶつかった相手はよろめき、連れの男達が色めき立つ。
すまんと一言謝っても良かったが、生憎そんな気分ではなかった。
「…うるせぇ雑魚ども。喧嘩売ったこと、後悔させてやる」
背後に気を配っていなかった己の落ち度を、すり替える。
拳を振り上げ向かってくる男達を倒し、晴れぬ気分のまま顔を上げた遙か遠く、スマイルバーガーの看板の物陰から、こちらを窺う男の視線に気がついた。
「…早ぇよ、来るのが!」
ストーカー真島に終わりはないようだ。
目が合った瞬間、こちらに向かって猛然と走り寄って来たので、反対方向へと逃げ出した。
「そこの桐生ちゃん、止まりなさい!」
「全力でお断りだ!」
どこから見てもヤクザにしか見えない隻眼の男が、これまたどこから見てもヤクザにしか見えないスーツの男と追いかけっこ。今回は警官のコスプレをしているが、ある時はゾンビで、またある時は一昔前のアイドルの格好だったりと、バラエティに富んでいた。
だが追いかけっこは長くは続かない。隻眼のコスプレ男はすぐに追うのを諦め、別の場所へと移動するのだ。
異様以外の何者でもない光景は、ここ最近よく見られるイベントとなっていた。
一方逃げた桐生はといえば、ひとまず食事を取って体力を回復し、人心地ついていた。
神室町にいる限り、安住の場所はない。
神室町の外に出ると言う選択肢は存在しない。
仕方がないので、真島に捕まらないよう、用心しながら進むしかないのであった。
『桐生ちゃん!』
呼ばれて、周囲を見渡し姿が見あたらないときは、どこかに隠れている時である。
町中を練り歩いている時もあり、店の中にまで現れることもある。
神出鬼没で、油断大敵。
真島を見かけたら、逃げる。
視界に入らない場所まで、逃げる。
「こっちも暇じゃねぇんだよなぁ…」
喧嘩になることがわかっているのに、近づこうとは思わない。
店外の様子を窺って、周囲に真島がいないことを確かめてから外に出る。
緊張と疲労を強いられ、桐生のため息の数は増えていた。
さて、今日はもう寝よう。
誰もいなくなってしまったセレナへと、向かう。
遥は賽の河原に預けており、そちらへ戻っても良かったが、とにかく疲れていた。
より近い場所で、早く休みたかった。
通い慣れた店内に入り照明をつけた瞬間、またしても名を呼ばれ、背がひきつる。
「!?」
いつもの、『桐生ちゃん!』である。
まさか、こんなところまで?
カウンター裏をのぞき込む。いない。
裏口を開けて外を見る。いない。
裏口を閉めるついでに、施錠することも忘れない。
テーブル下をのぞき込むが、そこにもいない。
店内は広くはない。隠れられる場所も限られている。
奥の部屋かと覚悟を決めて、ドアを開けるがそこにも真島はいなかった。
声は一度きりであり、それ以降は聞こえない。
あの声を聞き過ぎて、ついに幻聴が、と思うとため息が漏れた。
「寝るか…」
奥の部屋に入って用心のため鍵をかけ、ソファへと倒れ込む。
そのまま目を閉じれば、睡眠への道は早かった。
「桐生ちゃん!」
夢の中でも真島と戦っている。
胸ぐらを掴まれ振り払う。
「楽しいなぁ」
口角を引き上げ笑う男は、しつこく手を伸ばし、胸ぐらを掴もうとする。
新手の戦法かと、距離を取る為下がろうとするが、背後は壁で下がれない。
いつのまに、と思う間もなくまた襟を掴まれ、至近に寄せられた片目が愉快げに細められた。
「はよ起きや」
「…何?」
囁かれた言葉で、目が覚めた。
目を開けた先には、何かがあった。
何か、とは何だ。
桐生は眉を顰め、瞬きをして眼前にある「何か」を見ようと試みるが、ぼやけてよくわからなかった。視線をずらし、焦点の合った先には照明のついた天井がある。
セレナの、天井である。
寝る前には照明を落としたはずで、ついているということは、誰かが来たか、消したつもりが消していなかったといううっかりかのどちらかしかない。
「……」
眼前にある「何か」は動かないが、わずかに揺れている。
呼吸しているのだ。
ああ、と、ため息が漏れる。
焦点が合わぬ程至近にいるそれを、両腕で掴んで引きはがした。
「何やってんだ、真島の兄さん…!」
「来たで、桐生ちゃん!」
「来んな。寝かせろ」
「喧嘩しよ」
「聞けよ話を」
「喧嘩する理由ならあるで!」
「…あん?」
眠いんだが。
言ったところで、聞いてくれそうもない。
爛々と輝いた真島の瞳は、楽しいことを思いついた純粋な子供のそれだった。
…子供のように純粋なわりには、口元に浮かぶ笑みは不吉である。
身体を起こそうとする桐生の肩を掴んでソファに戻し、馬乗り状態の真島は、再度距離を詰め桐生の眼前に迫る。
あからさまに、桐生の表情が歪んだ。
嫌がっているのだ。
あとは、僅かばかりの警戒があった。
「筋が通った喧嘩は買うてくれるって、約束やろが」
「人の安眠を妨げる、正当な理由があるなら言ってみろ」
かかった。
売り言葉に買い言葉を、安請け合いすると痛い目を見るんやで、桐生ちゃん。
「お前は夜這いに来た不埒な輩を撃退すんねん。筋通っとるやろが」
「……」
何言ってんだこいつ、と言いたげに、桐生が半眼で睨み上げた。
「ええんか?撃退せんと、恥ずかしい思いすることになんで?」
ほれ、と少し距離を離し、視線を桐生の身体に落とせば、つられるように桐生の視線も下がって、動く。
桐生の両目が見開かれ、頬が紅潮した。
両肩が震えているのは羞恥の為か、驚愕の為か。
両方やな、と、真島は思った。
「…何やってんだあんた…」
「剥いた。十年もムショ入ってた割に、エエ身体しとるのぅ。鍛えとったんか?ほれ腹筋もちゃんと六つに割れとるしなぁ」
シャツのボタンを外してはだけられた上半身を、革手袋の冷えた感触が這い回り、桐生は身震いした。
「…おい、触んな」
「感じちゃう~ってヤツか?桐生ちゃんのエッチ☆」
「違う!」
ソファに肘をつき、上半身を起こした桐生は己の全身を見下ろし愕然とした。
「あああああんた、下も…」
「剥くん苦労したんやでぇ?」
床に転がるスラックスと下着を認識し、気づかず寝ていた己の無防備さ加減に思わず唸る。
「…マジでか」
「マジマジ。マジマジック!」
「うるせぇ黙れ」
「…そんなナマイキ言うてええんかいのぅ~?触って欲しそうにすり寄ってきとったくせに」
「嘘付け!」
「十年のお勤め明けで、ちゃんと抜いとるんか?あ、そういやキャバ嬢連れてホテル行っとったな。ヤることヤっとるやん、いややわぁこのドスケベが」
「……」
何故知っているんだと、聞くまでもなかった。
四六時中ストーカーしているのだから、知っていて当然である。
「その割にちょっと触ってやったら嬉しそうに反応しとったけどな。嬢がヘタクソやったんか?桐生ちゃん、満足できてへんのやな。かわいそうになぁ」
「…コラ待て」
前半聞き捨てならない台詞を吐いた。
後半は聞き流す。…というより、聞かなかったフリをする。
「人が寝ている間に、何やってくれてんだ、あんたは」
「何って、せやから夜這いやっちゅうてるやろが」
「喧嘩の口実じゃねぇのかよ!」
「既成事実は大事やねんで?覚えとき」
「…野郎の身体まさぐって何が楽しいんだ」
面白味の欠片もないだろうに。
嫌がらせだとすれば、真島は随分根性があるなと思う桐生であった。
見上げれば、真島は表情を改めた。
神妙な顔、というやつである。
「俺な、女に興味ないねん」
「…え…そ、そう…なのか…?」
カミングアウトされた。
…いや待て。
その告白はすなわち、己のイロイロの危機を指す、ということではなかろうか。
「に、兄さん…?」
「嘘やけどな」
「え?」
「俺が今興味あんのは桐生ちゃんだけや!これはホンマやでぇ!」
「あ?…いや、嬉しくねぇ」
「喜べや!」
桐生はどう撃退すべきか思いを巡らす。
真島の思い通りになるのは癪ではあるが、ここはおとなしく喧嘩を買ってやった方が、己の為でもある気がした。
何より寝たい。
早く寝る為には、さっさと追い出さなければならなかった。
「わかった兄さん。喧嘩、買ってやるから」
「お」
どけよ。
服を着させろ。
桐生の言葉を受けて、身体に跨がっていた真島がどいた。
やけに素直だな、と思った桐生が甘かった。
位置をずらしてソファに座った真島は、桐生が起きあがる前に右腿を掴んで、開脚させた。
「は!?」
一瞬固まった隙を逃さず、両足の間に身体を割り込ませ、掴んだ足を高く持ち上げ下半身を晒す。桐生が慌てて足をばたつかせたが、遅きに失した。
押さえつけられ、身動きがとれなくなる。
「おい!兄さん!」
「丸見えやでぇ桐生ちゃん!ココもアソコも全部モロ!」
「離せ!」
これは冗談の域を越えている。
笑えない。
「なぁ桐生ちゃん」
ひどく優しげに、真島が呼んだ。
猫なで声に、いやな予感しかしない。
「俺に隠し事はナシやで?」
「…何のことだ。ていうか、離せ変態」
「それは離さないで、むしろ触ってってことかいな?可愛いこと言うのぉ」
「……!」
反応しては負けである。
睨む瞳に力を込めるが、薄笑いを浮かべて返された。
「ところで桐生ちゃんは、ムショで色々仕込まれんかったか?コッチは、使ってたんか?」
コッチ、といって革手袋ごしの手が後ろに回り、容赦なく中指を突き入れる。
「…ッぃ…!」
「桐生ちゃん、締めすぎ!指動かんて」
ひきつる身体を押さえつけ、力を抜けと促すが、涙目になった桐生は息を詰め、真島を無言で睨み上げた。
「指抜いたるから、力抜けて。お前は処女か」
浅い呼吸を繰り返す桐生に深呼吸をさせ、落ち着いた頃合いを見て指を動かす。
内壁を指の腹で擦り、肉の具合を確かめる。
最初の衝撃から立ち直れていない様子の桐生は、真島の指の動きに気づかなかった。
「…っ、処女って何だ、俺は女じゃねぇぞ…!っつか、いきなり突っ込んでくんじゃねぇ!痛ぇだろうが!!」
「いきなりじゃなければええんか」
「そういう問題じゃねぇ!…っておい、いつまで指突っ込んでんだ…!」
ようやく気づいた。
中を押し広げるような慎重な動きは、痛みを伴うものではなかったが、異物感と肉がひきつれるような感覚は、耐え難い。
「痛ないやろ?」
「…痛くなきゃいいって問題じゃねぇ」
「よしよし、ほなしっかり濡らして塗りたくって慣らしたろな。それでええやろ?」
「…良くない!いいから抜け!」
「俺の突っ込んでから言われるなら涎モノなんやろうけどなぁ…言われたいわぁ…ほなちょっとそこまで、挿れさして?」
真島の目がヤバイ。
本気でヤる気になっていた。
「買い物行くみたいなノリで言うんじゃねぇ」
「先っちょだけ、先っちょだけやから!な!」
「それで済むわけねぇだろ!」
「んじゃ先っちょから根元まで全部!ズブっと!気持ちよくさせたるから!な!」
「……」
それ普通にヤっちまってんだろ。
「…なぁ兄さん、喧嘩、してやるから」
「コッチの喧嘩がええな」
「そんな喧嘩ねぇよ!俺が一方的に不利じゃねぇか!」
「叫ぶと穴締まるなぁ。ええなこのキュッとした感じ。俺のも締めてぇな」
「…っつか、抜けよ!」
「おお、ええ締まり」
「……ッ!」
完全にそっちモードに入ったらしい真島に、聞く耳はないようだ。
もう、隙をついて殴るしかない。
正面から視線がぶつかり、真島が笑う。
「…やれるもんなら、やってみぃ」
「…っ」
読まれて詰まる。
「俺を欲しがってヒィヒィよがるお前が、目に見えるわぁ」
「…上等だ。やれるもんなら、やってみろ」
「……」
「な、何だよ」
「…ほな、まずチューしよか、ちゅー」
「したけりゃやれよ。俺はしねぇ」
「腰抜けても知らんで?」
「そいつぁ楽しみだなぁ」
挑戦的に睨み上げ、笑む桐生はかつて『堂島の龍』と呼ばれた最強の男そのままに、真島を誘う。
…桐生ちゃんの将来が心配や…。
イヤなら断固拒否すべき一線が、簡単に崩壊してしまった最強の男の今後を憂う、嶋野の狂犬であった。
でも、据え膳は頂く。