眠らない街、神室町に雪が降る。
 日が落ちてからのこの街は、昼間とは比較にならぬほどに華やかな装いで賑わっている。夜空をネオンで明るく変えてしまえる程の熱量は、夜通し絶えることはない。
 通りは人で溢れ、客引きのセールスや酔っ払いの怒鳴り声が響くのも、ケンカや厄介ごとが起こることも日常茶飯事だ。
 喧騒と享楽が混然とする街。
 眠って夢を見るよりも、起きて夢を見る街だった。
 星も見えない夜空に舞い降りる雪はともすれば埃かゴミのようで、場所を変えれば情緒ある風情になったであろうそれは、この街で存在を主張するには儚すぎた。
 古びた雑居ビルの中から外を見ても、向かいや周辺ビルの明かりに照らされた雪がかすかに認識できる程度でしかない。
 吸い込んだ煙草の煙を吐き出して、煙ごしにガラス窓をみやれば雪は完全に姿を消した。
 季節外れの降雪は、近年の異常気象によるものか。
 暖房を入れ続けていなければ寒くて部屋にいられないとは、春も見えたこの時期にしては不可解極まりない。
 半分ほどに減った煙草を灰皿に押し付ければ、山と詰まれて均衡を保っていた吸殻が中央から押しのけられ、溢れた端から崩れて落ちた。
 黒く細かな灰が散って書類を汚し、慌てて指先で拭えば更に黒く線を描く。
「あぁ~…しまった…」
 ため息混じりに項垂れて、汚してしまった書類を目の前にかざしてみる。
 布で拭えばいいのか?それともティッシュで優しくやればいいのだろうか?
 顎に手をやり考えてみるが、実際に行動に移そうとすると面倒だった。
 綺麗に元通りになるとは限らないし?
 余計汚しちゃったら徒労に終わるし?
 もしかしたら綺麗になるかもしれないけど、そこまで手間をかけるほどの書類じゃないし?
「いっか。花ちゃんに出し直してもらおう…」
 プリントアウトするだけだ。花ちゃんもため息はつけども怒りまではしないだろう。
 なんと言っても彼女は優秀な秘書というか、事務員と言うか、片腕であった。
 彼女にお願いしておけば、仕事の大半は片付けてくれる優秀な人材である。
「うん、そうしよう。花ちゃんが来たらお願いしちゃおうっと」
 それきり書類に興味を失くして机の上に放置して、飲みかけの缶コーヒーを一息に煽る。
 時計を見ればもう深夜も2時になろうとしていた。
 この街は眠らない。
 2時とは言っても喧騒がやむことはなく、明るいネオンはまだまだ元気だ。
 この街で金貸し業をしているからには、営業時間はないに等しい。…と、思っている。
 いつ何時、客が来るかわからないのが神室町だからだ。
 切羽詰った客に時間は関係ないのだ。
 しかし外は季節外れの雪が降っており、降り始めてから客足は止まっていた。
「今日はもう店じまいかな…」
 窓から外を見れば、雪の勢いが増しているような気がした。
 まさか積もるということはあるまいが、先ほどまでの儚さからは想像も出来ないほどに、雪は明らかな白さと大きさを持って地上へと落ちていた。
 缶コーヒーを買いがてら雪がどれほどのものか見てみようという気になり、コートも羽織らず外に出てみれば想像以上に寒かった。
「うわっさむ…!」
 五階から一階まで非常階段を降り、自動販売機に小銭を入れる指先が冷たさで震えた。
 選ぶのはもちろん、「あったか~い」コーヒーだ。
 音を立てて取り出し口に落ちてきたコーヒーを急いで手に取り、その温かさに安堵する。
 地上から夜空を見上げれば、はらはらと音がしそうに白い雪が、落ちてくる。
 手に、肩に、靴先に。
 熱を持った皮膚に触れた雪はすぐに消えてなくなったが、服や靴に落ちた雪は融けずに結晶のまま残っていた。
 これは、積もるんだろうか。
「今3月だっつーの…」
 ため息混じりに吐き出した息も白い。
 というより、寒い。
 やはり今日はもう店を閉めてもいいかもしれない。
 コーヒーを飲んで、一息ついて、そのときの気分で決めよう。
 朝の営業開始時間は花ちゃんがいるから決まっているが、閉店時間はその日の気分によって異なった。
 自分が社長だから、好きなようにやる。
 そうやって生きてきて、今の自分があるのだった。
 非常階段は鉄筋で出来ている為、靴を落とせば音が鳴る。
 カンカンカン、と甲高い音を立てて五階まで一気に駆け上がればさすがに息も上がろうというものだったが、寒すぎるのでそれどころではない。
 一刻も早く暖かい室内に入りたい思いでドアノブに手をかけるが、非常階段を使う他人の靴音に気がついた。
「…あれ…?」
 こんな時にお客さんかと思うが、音は思いのほか近い。
 しかも、上から降りて来る。
「…そんなところで、何をしてるんですか…?」
 唖然と見上げれば、相手は小さく笑ったようだった。
「…雪を、見ていた」
 さらりと気障な台詞を吐いて、そのまま相手が降りて来る。
 男が着ているグレーのスーツにはうっすらと雪が積もっていて、結構な時間屋上にいたのだと知れた。
 この寒空に、物好きな。
「…あー、よかったら、あったかいコーヒーでも淹れましょうか?桐生さん。寒いでしょう」
「…まだ営業しているのか、熱心だな」
 肩に積もった雪を払い落とす桐生に扉を開けて、中に入るよう促せば躊躇を見せたが、断りはしなかった。
「まぁここに住んでるようなものなので、寝るときに閉めるって感じですねぇ。営業時間はあってなきが如しですよ。あー部屋あったけー」
「…ほう」
「あ、そっちのソファに座ってください。あー雑誌とか気にせずよけちゃってください。あっそっちの灰皿もいっぱいだし…桐生さん煙草吸いますよね?」
「ん?あぁ、いや…かまわねぇぜ」
「いやいや、そういうわけには。今片付けますんで。いやーすいませんねぇどうも適当でいけない」
 テーブルの上に買ったばかりで早くも冷め始めている缶コーヒーを置き、灰皿に山積みになっている吸殻をゴミ箱へ無造作に捨てた。
 座る場所だけは確保した桐生が横によけた雑誌類を取り上げて、まとめて向かいのソファの端へ置く。
「花ちゃんがいる時はある程度片付けもしてくれるんですよ。…と言っても俺のスペースはほったらかしなんですけどね。まぁ最初に自分のとこは自分でやるって言っちゃったからなんですけど。あ、花ちゃんっていうのはうちで働いてくれてる子で、頼りになる子なんですよ」
「ほう」
「さってと、これで俺も座れるかな。あ、そうだコーヒー淹れますね。お湯沸いてたかな…」
「……」 
 忙しなく行ったり来たりを繰り返す男に呆れた視線を投げながら、桐生は煙草を取り出し火をつけた。
 テーブルに使い終わったライターとシガレットケースを置けば、目の前には男が買ったと思われる缶コーヒーが目に入る。
 …果たして奴は、まともにコーヒーを淹れることが出来るのだろうか?
「…おい秋山」
 不安に駆られ、キッチンと思われる狭いスペースに入り込んだ男に声をかければ、食器が壊れそうな音を立てた。思わず腰を浮かせた桐生だったが、割らずに無事食器棚から取り出せたらしい秋山が、ひょっこりと顔を出す。
「はーい、何でしょう?お湯、ギリギリ二人分ありましたー。インスタントになっちゃいますけど、いいですかね?あ、桐生さんはやっぱり高級品嗜好だったり…?」
「…いや、そんなことはない。インスタントで構わねぇよ」
「良かった~。今度桐生さんの為にいいやつ買っときますよ。淹れ方も勉強しときますんで!」
「……」
 「今度」がいつあるのか不明であったし、自分の為に買っておいてくれなくても全く構わなかったのだが、何かを言う前に秋山が両手に一つずつマグカップを持って歩いてきたので、きっかけを失った。
「いやー普段来客時はお茶なんですよね。うっかりコーヒーなんて言っちゃって、あはははなかったらすいませーんって言うとこでした」
「……」
 臙脂色のスーツに黒の上下でなかなか洒落た格好の男が、マグカップを二つ持って歩く姿は間抜けであった。
 ビールジョッキでも持っていればまた話は別であったかもしれないが、しまりのない顔で笑いながら渡されても返答に困るのだった。
「いやぁあの「伝説の桐生一馬」を前にすると緊張しますねぇ。いやーホント、世の中って何があるかわかんないなー」
「何を今更言ってんだ」
「いえいえホントに。「生きた伝説」ですからね、あなたは。こうやって知り合いになれたこと自体が奇跡に近い」
「大げさだな」
 つい先日のことだ、ミレニアムタワーで1000億をばら撒きながら共に戦ったのは。
 …その少し前、事情を知らぬ状況で谷村と二人がかりで戦って、全く歯が立たなかったことも記憶に新しい。
 この自分が。
 この自分が!
 神室町で金貸しとして生きていて、常に危険に晒されそれなりに場数も踏んで鍛えてもいるこの自分が、全く敵わなかったのだ。
 
 神室町に戻ってきたカリスマは、本当に「伝説の男」であったのだ。

「俺はあなたが帰ってきてくれて本当に嬉しいんですよ、桐生さん。そう思ってる人間、多いと思います」
「どうだかな。…それに俺がここにいるのは、落ち着くまでだ」
「ええ~それは寂しいなぁ。…ところで桐生さんは、何故屋上に?何かありました?」
「いや」
「…あ、もしかして二階のニューセレナに行ってました?」
「ああ。…閉まってた」
「あら~…あ、そういえばママが風邪引いたって言ってました。伊達さんが寄ってくれて教えてくれたんですよ」
「…何で俺に連絡くれねぇんだ、あの人は?」
 秋山よりも遥かに長い付き合いであるはずなのに。
 大きなため息と共に、桐生がマグカップを一気に煽った。
 …と思ったら、同じくすごい勢いでマグカップをテーブルに置いた。中身はほとんど減っていないようだった。
「き、桐生さん?」
「…苦いぞ、秋山」
「え?」
「入れ過ぎだ!」
「ええっ!?そそ、そんなはずは…!」
 自分のマグカップに口を付ける。
「にがっ!」
「……だろう」
 二人そろってため息をついた。
「すすすすいません桐生さん…!すぐ淹れ直しますんで!」
「いや、いい。アンタ…やったことないだろ」
「…………、…………、いや、むかし、ぎんこういんじだいはよく…」
「動揺するな。何年前だ」
「…5年くらい前かな…」
「…そうか」
 桐生が立ち上がり、二つのマグカップを取り上げてキッチンへと無言で向かう。
 ついていくべきか、座って待っているべきか迷い、結局中腰でついてきた秋山の視線は戦々恐々としていた。
「…邪魔だ、向こうで座ってろ」
「…え、いや、…はい…」
「ポットに湯はちゃんと追加したんだな。偉いじゃないか」
「は、はい。おかわりいるかなと思ったんで」
「…そんなに長居する気はねぇ」
「はい…そ、そうですよね」
 結局必要になったわけだが。
 皮肉な状況に口元を歪めた桐生をどう思ったのか、秋山は頭を下げて謝った。
「ほんっとーにすいません桐生さん。…ていうか桐生さん、器用ですね」
「あ?」
「食器も洗っちゃうんですね…。コーヒー淹れるのも手馴れてますね」
「……」
「あ、そういえば沖縄で養護施設を運営されてるんでしたね。家事全般できちゃったりするんですか」
「一通りはな」
「えっ料理とかもできちゃったりするんですか」
「…料理も作る。それがどうした」
「ええっ…!伝説の極道がッ!!!!堂島の龍がッ!!!!神室町のボス猿がッ!!!!!!料理を!掃除を!裁縫も!?」
「…いやさすがに裁縫は…」
「うわーうわー!すごい!すごい!桐生さんすごい!」
「……」
 三十路も超えた男のこのテンションは素直にウザイ。
 通路に立ち塞がる秋山に新しく淹れてやったコーヒー入りマグカップを押し付けて、桐生はソファに戻った。
「そういうアンタは全くダメそうだな」
「…ええ、まぁ、はい。お恥ずかしい話ですけど、食事は外で済ませますし、すぐ下に自販機もあるし、基本面倒くさがりなもんで…」
「まぁそんなもんだろうな…。ところでアンタ、1000億をなくしてこの商売やっていけてるのか」
「ええ、はい。それは大丈夫です」
「ほう」
 向かいのソファに腰を下ろした秋山は、伝説の男が淹れてくれたコーヒーをしばらく色々な角度から眺めていたが、桐生の視線に気づいて「いただきます」と口をつけた。
「美味いし…ありがとうございます桐生さん」
「ああ。で?」
「ええ、ほら、俺の命を救ってくれた300万があったでしょ」
「…あぁ、銃で撃たれた時に懐に入れてた金か」
「そうそう、それです。それで、また増えちゃいました」
「ほう」
「当面、この仕事やっていくのに十分な額は。1000億にはまだまだ遠いんですけどね~」
「そうか」
「いやーやっぱ俺、お金に愛されちゃってますよ。天職なんでしょうねこれ。金貸し」
「羨ましい話だな」
 桐生が素直に頷けば、秋山が驚いたように目を見張った。
「羨ましいって…あなたに言われると妙な感じがしますね。桐生さん、お金が必要ならお貸ししますよ、いくらでも。もちろん、無利子無担保で。期限もありません…あ、1000億は無理ですけどね」
「随分良心的な会社だな。やっていけるのか?」
「うちの方針なんです。もちろん審査代わりのテストは受けて合格してもわらないとダメなんですけど」
「なるほど」
「桐生さんならテストなしでお貸ししちゃいますよ。ご入用の際には、スカイファイナンスをご指名下さい」
「ああ、必要になったら頼らせてもらう」
「…頼る気ないでしょ桐生さん…」
「……」
 二本目の煙草に火をつけた桐生がソファに背を預けて足を組んだ。
 秋山も倣って煙草に手を伸ばし、火をつける。
 外の雪は小降りになってきたとはいえ、まだ降り続いている。
 外の喧騒は聞こえなくなっていた。
 雪が音を吸収するのだろうか、降れば降るほど、音が消えて行く気がした。
 ぼんやりと桐生が煙草を持つ指先を眺めていると、その指先がついと横へ動かされた。促されて指が指す方向へ視線を流せば、壁一面に置かれた本棚があった。
「…随分難解な本が並んでいるな」
「ああ、あれですか。仕事柄必要そうなやつを揃えてあります。頭良さそうに、見えるでしょ?」
「実際頭良いんだろう?」
「えっ…いやそんな、面と向かって言われると照れるんですが…」
「……」
 絶句する伝説の男、貴重だ。
 秋山は内心喜びながら立ち上がる。
 本棚へ歩み寄って、背幅10センチ近くはあろうかという分厚い六法全書を取り出した。
「これ、愛読書です」
「ほう」
「これがないと、仕事が成り立たないんですよ」
「そうなのか」
 素直に頷く桐生は、きっとこんな話に興味はないに違いない。
 だが、静かに聞いている。
 あの「桐生一馬」が、自分の話を聞いている。
「…実はここにスイッチがありまして」
「?」
 六法全書の奥に隠されたスイッチを押せば、機械音を発しながら本棚が振動し、横にずれた。
「…なんだそれは」
「隠し金庫っていうやつです。ナイショですよ」
 重い金属扉を引き開けると、中には札束の山がうず高く積まれている。
「…税務署が入ったら一発でアウトだな」
「あははははは、そうなんです。だから、ナイショなんですよ」
 これでもまだまだ以前の量には届かないんですと笑えば、桐生は複雑な顔をした。
 ここから盗まれた1000億を、そのままミレニアムタワー上空からばら撒いたのはつい最近の出来事だ。
「今は簡単に開かないようにはしてあります。以前はちょっと無用心すぎちゃいましたね」
 そして他人を信用しすぎた。
 手痛い失敗だったと思っている。
「今も十分無用心だな。俺に教えてどうする」
 煙草を銜えたまま呆れたように金庫の中の札束を見やる桐生の瞳に、金への執着は見られない。
 馬鹿だなと言わんばかりの口調に秋山が笑う。
「いいんです、桐生さんだから」
「はぁ?」
「あなたが必要とするなら、使ってくれて構いません」
「…意味がわからねぇな」
 音を立てて金属扉を閉め、本棚を元の位置へ戻す。
 その間に桐生はソファへ戻り、灰皿へ煙草を押し付け冷めたマグカップへと手を伸ばしていた。
 最後に六法全書を本棚に戻して、秋山が振り返る。
「俺は嘘は言いません」
「ん?何の話だ?」
「さっきの話です。金が必要なら言ってくださいね」
「…ああ、その話か」
「本気ですよ?」
「…そこまでしてもらう理由がねぇよ」
「あります」
 刺さる「伝説の極道」の視線は強すぎた。
 不意打ちで食らったこちらの心臓は止まりそうだ。
「…そんな目で睨まないで下さい。俺ノミの心臓なんで、ビビっちまいます」
「嘘つけ」
「…ひどいなぁもう」
 部屋の外は静かだ。
 いつも華やかで喧騒に包まれた深夜の神室町はここにはないようだ。
 再びソファに腰を下ろし、マグカップを手に取るが中身はすでに空だった。
 落ち着かずに煙草に手を伸ばすが、じっと見つめる視線が外れることはない。
 一本取り出したものの、火をつけることは諦めた。
 無言で答えを求めてくる圧力に屈し、秋山はひっそりとため息をつく。
「5年前に、あなたが金をくれたから、今の俺があるんです」
 眉をひそめる男の目線は、何かを思い出すように揺れていた。
「前言いましたよね、これ」
「ああ。だが俺がやったわけじゃない」
「同じことですよ。あなたがあの場にいなければ、あの金は手に入らなかったんだから」
 空から金が降ってきた。
 嘘のような、ホントの話。
「俺の人生を変えてくれた恩人ですから、桐生さんは」
「……」
「俺が勝手に思ってるだけなんで、気にしないで下さい。桐生さんが助けを必要としていたら、協力したいって思うのも俺が勝手に思ってるだけなんで、気にしないで下さい」
 眉間に指を当ててため息をつく伝説の男は、呆れているのだろうか。
「ほら、俺金に愛されちゃってるんで、いくらでも増やせますから!必要なら使ってくださいよ!」
 片手を上げて明るく言えば、苦笑混じりの視線が返る。
「秋山」
「はい?」
「お前は馬鹿だな」
「…は、はい…えっと、チンピラの売り言葉以外で馬鹿と言われたのは初めてです…」
 くっと、桐生が息を詰めて一瞬笑ったのは気のせいか。
「そろそろ帰る」
「え…」
 深夜ですよ、とか、雪降ってますよ、とか、色々言葉は頭の中を駆け巡るが、どれも陳腐で引き止める手段は思いつかなかった。
 出口へ向かう背中を後ろについて見送って、何か言わねばと秋山が口を開く。
「あー、あの!ニューセレナがやってなかったり、ちょっと暇だなーなんて思った時には、いつでも遊びに来てください!」
「……」
「コーヒー、ちゃんと淹れられるように練習しときますんで!」
「…ああ、それは是非頼む」
「は、はい」
「またな、秋山」
「お、おやすみなさい桐生さん」
 外は皮膚を突き刺すほどに寒い。
 風に顔を嬲られ思わず首を竦める秋山だったが、桐生は一つ白い息を吐き出して、淡々と階段を降りて行った。
 寒さに強い人なのだろうか。
 カンカンと、鉄筋階段を降りる音が小さくなっていく。
 雪はほとんど止んでいた。
 まもなく完全に止むだろう。結局積もるまでには至らなかったようだった。
 完全に地上に降りたところで、桐生が頭上を振り仰いだ。
 視線が合って、秋山は動揺する。
 桐生が片手を上げて笑った。
 こちらが返す間もなく、角を曲がって姿が消えた。
「…桐生さん、カッコイイなぁ…」

 誰か俺をアホだと、罵ってくれ。


END
・4で3月なのに雪が降っていた。
・秋山は絶対桐生さん大好きっ子だと思う。
・アホは私です。

善意の人

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