それは神という名の利己的な存在。

 白灰に垂れ込めた空は今すぐ雨粒を落とすというほど重くはなく、かといって太陽を覗かせるほどの力強さも持たない半端さで、朝から地上に湿度と冷たい風をもたらしていた。季節はもう冬と呼べる時期に入っているにも関わらず厚手のコートを羽織る者は少なく、師走を迎えても未だ秋の気配をどこかひきずったまま、人々は思い思いに日々を過ごす。その年は近年まれにみる暖冬と言われた。
 吐息をひとつつけば、外気よりは温かい空気が白く染まって消えていく様に、遅いながらも冬は確実に迫っているのだと視覚で感じながら、同じ制服に身を包む集団に混じって一人の少年が家路を辿っていた。
 すらりと伸びた背は高く、両頬からうなじに流れる髪はしなやかに細い。時折かけられるクラスメートの声に振り返って笑顔で答えてみせる姿は年相応に明るさと若さを感じさせるが、再び前を見据えて一人歩くその表情は不相応に凪いでいた。
 陽光が西へと傾き薄暗くなりつつはあったが、まだ一般的な就業時間が終わっていない時刻、住宅街を歩くのは学生か買い物帰りの主婦ばかり、それらの人もまばらになったところで少年は口を開く。
「…面白いものでもあるのか?」
 独白のように呟かれた言葉は、己の背後についてくる存在に向かって投げられていた。視界の端に漆黒の翼が羽ばたくたびに見え隠れし、視線を投げれば黒く大きな人型の塊が肩を揺らしながら笑う。
『人間界はどこもかしこも面白い』
 背を曲げひょろりと長い手足を放り出すようにして宙を飛ぶ醜悪な生き物は、飛び出した眼を忙しなく動かしながら何の変哲もない街並みを面白いと評す。人間からしてみればこの異形の存在の方がよほど興味深いと思いながらも、表面上は納得したふりをして玄関の扉を開ける。
『ライト』
 呼びかけてくる声を無視し、居間にいる母親にただいま、と声を投げて階段を上り、自分の部屋へと入ったところで正面から真っ直ぐ人ならざる者を見る。
『なんだ?俺の顔になんかついてるか』
「死神」
『リュークって名前があるって言ってるだろ』
「リューク」
『おう』
「僕は死神の方がよほど面白いと思うよ」
 カバンをベッドの上に投げだして、ブレザーを脱ぐ。ネクタイを外しクローゼットに片付ける一連の動作を小首をかしげて見守る死神の表情は醜いながらも愛嬌があると月は思う。
 デスノートという死神の道具を手に入れたら、この死神がやってきた。
 ノートの行く末を見守らなければならないという掟に従い、リュークは所有者である月の傍にいる。月の部屋に己よりはるかに大きいこの死神の存在は、控えめに言っても邪魔以外の何者でもなかったが、数日もすれば慣れてしまった。なによりこの黒ずくめの死神は傍観者たるに徹していたので、月の思索や行動の邪魔になることはない。ただ常に月の傍にいて、リンゴを強請る。それくらいだった。
 ダイニングに置かれたリンゴをひとつ失敬してリュークに与えてから、もう日課となってしまった作業をこなす。
 死神が落としたノートに、死すべき犯罪者の名前を書き連ねていく。死神は関心がないのか、終わることのない犯罪と繰り返される日常を綴るニュースを見ながら時折、「うわーひでぇことする人間いるなぁ」などと人間臭い台詞を吐いては、ガリガリとリンゴを齧る。
 見慣れてしまった死神の姿、デスノートを使うことに違和感を覚えなくなった自分。
 ノートの力を使って己のしたことに戦慄した日はもはや過去であり、突如目の前に現れた人間であろうはずもない容姿の化け物に驚愕した日ももはや過去となった。
 自分しか知らない力も。
 自分に与えられた最高の武器も。
 手に入れたときの感動は日々移ろううちに風化していき、今あるのは静かな信念。
「面白い世界、面白い過程を見せてやるよ、リューク」
 それは己に向ける言葉。
 楽しげに喉奥で笑ってこちらを見やる死神の真意など、月にはわからないし興味もない。
 慣れはすなわち退屈だ。
 死神も自分も退屈だ。ならば退屈な世界を変えてしまえばいい。

 自分しか知らない力で。
 自分に与えられた最高の武器で。

 淡々とノートに書き込む作業は続く。
 今の世界を変えるために。
『ライト、なんか楽しそうだな』
「…楽しいさ。長大な宿題をやっている気分だよ」
 楽しいさ。もちろん。
『宿題が楽しいのか?普通人間はめんどくさがるもんじゃないの?』
「わかってないな、リューク。これは僕だけに課せられた宿題なんだ、こんなやりがいのあるものはないよ」
『そんなもんか?』
「そうだよ…」
 表情が緩むのを押さえられない。
 僕だけに。
 僕だけの。
 指先が震え、シャープペンシルの芯が折れて飛んだ。搾り出すように笑いが漏れる。哄笑できればどれだけ楽かしれなかったが、胸がすくほど笑ってしまえば残るのは空虚な脱力感のみな気がして、腕に爪を立てることで耐えた。皮膚に爪が食い込んで赤く腫れるが、その程度の痛みは今心にある使命感に比するまでもなく小さいものだ。どんな刺激も、このノートの存在にはかなわない。
 やがて全身が震え出したが、これは喜びだ。
 まだだ。
 まだ早い。
 内臓が引きずりだされるほどに笑うのは、世界を変え自分が神として君臨してからだ。
 人間でありながら神となる。
 僕が。
 僕だけが。

「…さぁ、ゲームをしよう」
 瞳を閉じて天井を仰げば、人口の光が瞼を照らすのを感じる。隣で身体を揺らして笑う死神の気配にまた口角を引き上げながら、月は報道される犯罪のニュースに耳を傾けた。
『今日の分は終わったのか?』
「そうだね…何の障害もなく宿題が終わってしまうのはつまらないからね」
 退屈は精神を殺す。

「…Lの出方を、見ようじゃないか」

 突き立てた爪に破られた皮膚の下から、真紅の情熱が滴り落ちた。

檻は何を守る

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