思い出になるだけの、存在であったとしても。
ホロウバスティオンの街に、久方ぶりの雨が降った。
かつては「輝ける庭」の名称で謳われた美しい街はアンセム博士の実験により無残に破壊しつくされたものの、空だけは手を出すことが適わず、いつの時代も変わらず美しく地上に安らぎを与え続けていた。ここのところは穏やかな天候が続き、キーブレードの勇者の再訪と前後するように現れ始めたノーバディや、心無き者――ハートレス達との攻防も変わらず惰性の如く続いていたのだが、雨が降って街の外へ出る人間が激減すると、それらの者達の動きも鈍化した。それらのモノ達の目的は「生きた人間」であり、ハートレスは心を、ノーバディは心のなくなった人間の成れの果てを求めて徘徊している為、獲物がいなくなれば必然的にその行動も止まる。
街の再建委員会として日々人間の敵と戦い、破壊された街の建て直しに奮闘しているメンバー達は一時の休息を喜んだ。天気予報では雨は明日の午前中まで続くとの事だったので、メンバー達は相談し本拠地として提供されている魔法使いマーリンの家には一人を残し、交代で家へ戻ることにした。防衛システムが働いてはいるが、無人にするには危険に過ぎた為だ。
シドと交代したレオンがマーリンの家を出たのは、すでに深夜を回った頃だった。雨は叩きつける程強くはないが、無音という程弱くもなかった。地面を跳ねる雨粒にブーツとズボンの裾を濡らしながら、待ち構えていたように現れるハートレスの群れを蹴散らし、家へと向かう。せっかく借りたシドの傘を差すこともなく敵を倒しながら進んでいれば、足元だけでなく全身濡れそぼるのは時間の問題で、水を吸って重く張り付く服に不快を隠しもせずに足早に街を抜けていく。
早くシャワーを浴びて、今日は寝る。
頻繁に帰ることもない家は閑散としているが、誰にも邪魔されない自分だけの空間は得がたい休息の場所であった。自分の物のみで満たされた、誰にも気兼ねする必要のない自分だけの部屋。必要に迫られればどんな場所でも寝るし、最近はアンセムの研究施設で本を読みながら気づけば寝ていた、なんていう事も一再ではなかったが、自分のベッドで朝まで眠ることが出来る機会は貴重だ。
さっさと寝る。
そう決意すれば、疲れがどっと押し寄せた。
身体が重いし、まともな睡眠も取っていないし、いい加減限界を感じている自分を自覚する。張り詰めていた日々の緊張が緩みかけている証拠だった。
「…?」
不意に人の気配を感じて足を止めた。
気配というよりは戦闘の音であったが、それが誰のものか察してレオンはしばし逡巡する。
声をかけて、手伝うべきか?
だが、自分は疲れている。
それに。
10秒にも満たぬ短い思考の後、レオンは再び走り出した。
軽々と扱われる大剣が風を切る音は雨の中でも軽快に響き、自分が手伝う必要などないことは明白だった。クラウドという金髪の男は十分強く、ハートレス達に負ける要素など微塵もない。こんな時間に何をしているのかという疑問は頭を掠めたものの、わざわざ問いかける程の興味も持てず、姿を見ることもなく通り過ぎた。
何日ぶりかもはや忘れる程の帰宅は冷え切った身体に寒々しかったが、熱いシャワーを浴びて着替えを済ませた頃にはどうでもよくなった。程よく瞼も重く、今日は熟睡できそうだと心中に呟き、温かい飲み物でも飲んでから寝ようとキッチンに向かったところで、レオンの動きが瞬間止まる。
ドアを眺めやり、不審に眉を顰めた。
「…そんなところで何をしている?クラウド」
ドアを開けて、所在なげに壁に凭れかかった黒衣の男に呆れた視線を投げれば、バツの悪そうな表情で男は「ここお前の家だったのか」と呟いた。
「見ての通り、俺の住居だな」
肯定すれば、視線が逃げる。
大方レオンに気づいて後を尾けたら辿りついたものの、どう見ても住居にしか見えない建物にどうすればいいのか迷っていたというところだろう、と察し、さらに呆れた溜息をついて見せた。
「…で、何十分ここにいたんだ?ストーカーさん?」
「誰がストーカーだ!…今、帰ろうと思っていたところだ」
見ればクラウドも全身濡れており、地面は服から落ちた水滴で水溜りができていた。少なくとも数分前に来たのではないことは見て取れたが、それにしても何故ずっとこんなところで立ちっぱなしだったのか理解に苦しむ。
気づかれなければ、何時間もこうしているつもりだったのだろうか。
「そうか、まぁ帰るというなら止めないが、今ならコーヒーくらいは淹れてやれるが、どうする?」
まぁ、俺は寝るからコーヒーは飲まないが、と付け足せば、意外そうに開かれた蒼の瞳が何か言いたそうだったが、一つ頷き口に出してはこう言った。
「濃い目のブラックでよろしく」
「ストーカーのクセに注文つけるのか」
「ストーカーじゃないと言ってるだろ。新しい情報でも入ったのかと思って来たら、お前の家だったってだけだ!」
「はいはい、興味ないね。タオル貸してやるから、濡れたまま部屋に入るなよ」
「俺の真似するな」
「こら、そこで待て。ステイ!」
「今度は犬扱いかよ!」
玄関口で喚く金髪の犬を放置して、沸かしていた湯を止めタオルを取りに向かう。濡れた服のまま上がりこまれても迷惑なので仕方なく着替え用のシャツとズボンも適当に見繕う。まぁ大して体型も変わらないから着られるだろうが、果たしてここまでやってやる意味があるのかレオンにはわからなかった。
不機嫌を絵に描いたような顔で大人しく待つ男の姿はなかなか滑稽で好感は持てたが、できることならさっさと帰って欲しいと内心思っていたとしても、誰も自分の事を責められまい。
早く寝ようと思っていたのに、クラウドの存在に気づいてしまったばっかりに、要らぬ時間を取るはめになった。
気づいても放置しておけば良かったものを。
「着替えてから中に入れよ。コーヒー淹れておく」
端的に告げて一式を手渡し、キッチンへ向かうレオンの背中にクラウドは素直にありがとうと礼の言葉を投げれば、気持ち悪そうな視線を返された。何故そんな目を向けられねばならぬのか、理不尽さに眉間に皺が寄る。
「…なんだよ、その目は」
「お前でも素直に礼を言えるのか」
「じゃぁもうお前には言わない」
「じゃぁもうお前に親切にしない」
「……」
即答で切り返され、クラウドは言葉に詰まった。
今日は立場が悪い。
圧倒的に不利だった。
気づかれる前に立ち去るべきだったのだ、本当は。
研究施設で資料を漁るのに飽き、かと言って眠れる気分でもなかったので外へ出た。ホロウバスティオンへ来てから初めてみる雨はなかなかに新鮮で、漆黒に染まる人気の途絶えた雨の街は、濡れた地面に反射して光る歪んだネオンと冴えた冷気に包まれて綺麗だった。ブラリと大剣を担いで彷徨う一人の世界は孤独で、落ちる雨音に閉ざされた意識は静謐だった。
蠢く物といえば己と、己の命を狙って現れる闇のモノ達のみ。
剣戟と、跳ねる水音と、闇のモノ達が発する嘲笑にも似た呼吸音が混じりあい、降り注ぐ雨に溶けては消えた。下級の闇に生きるモノには血が通っていないのか、どれだけぶった斬っても血臭とは無縁であった。手ごたえは確かにあるのに、痕跡も残さず力尽きれば消えて行く様は現実感を欠いていた。動くたび、周囲の街の景色も揺れる。
跳ねた水にネオンが反射し、闇のモノ達が消えて行く瞬間、同じように弾けて消える。
キラキラと闇に沈む街に浮かぶ光は不安定で耐え難い違和感を呼び起こし、酔いにも似て足元の均衡を崩させる。
クラウドは一人だった。
この世界に一人きり。
閉ざされた闇の世界に、生きているのは自分だけ。
自分の中の闇を払拭する為に戦っているはずなのに、纏わりつく水と夜の闇が、まるで自分の全部を闇に染めて行くかのような錯覚を起こす。
それを自覚することは恐怖を生んだ。
闇。
自分の中に纏わりついて離れないもの。
逃れられない闇の存在と、泡沫のように現れては消えて行く儚い光。
足元から崩れ落ちて行くような現実味のない感覚がこの身を浸し、現在を認識できなくなったらその瞬間に自分は完全に闇の中へ堕ちて行く気がした。どれだけ敵を斬っても、どれだけ動いていても、自分は闇から抜け出せないのだと。
光の世界に生きたいと望んでいるのに、己は闇に染められて行くのだと。
「お前が闇を求めているのだ」というあの男の哂う声が聞こえた気がした。
四肢の感覚が消えて行く。
ああ、堕ちる。
引きずられる。
「……っ!」
意識が虚ろに支配されかけた、その時に、見知った気配を感じた。
レオン。
光の世界に生きる男。
…我に返った。
現実を掴み直した瞬間だった。
最後の一体を倒し背後を振り返った時にはすでにレオンの気配は離れ始めており、気づけば後を追っていた。
無意識の行動に理由などあるはずもなく、レオンが部屋の中に入ってから家の前で呆然と立ち竦んだ。
自分は何をしているのか。
何の為にここまで来たのか。
何度も戻ろうと踵を返しかけたが、足は動かなかった。自分の心の中の闇は未だ晴れず、燻っているのが手に取るようにわかった。今また雨の闇の中へ足を踏み出すことは恐ろしかった。
負けてしまいそうで。
レオンは自分の事情など知らない。
知って欲しいわけではなく、ただ何も知らないからこそレオンを呼び出すのは気が引けた。もう少し落ち着いたら戻ろうと思っていたら、その前にレオンに気づかれた。
…気配を消す努力はしなかった。
ただ、それだけだ。
「…部屋の中、寒くないか?レオン」
借り物の服を特に違和感もなく着ることができた事になんとなく複雑なものを感じながら、クラウドはダイニングチェアーに断りもなく腰掛けた。
レオンは咎める事もなく淹れ立てのコーヒーをクラウドの前に置いてやり、自分の為にはミルクを多めに入れたカフェオレもどきを淹れて、チェアーに座ることなくキッチンカウンターに凭れたまま口をつけた。
単に別のものを作るのが面倒だったせいだろう。
「お前の身体が冷えてるからだろう」
「…そうか」
「風呂を使ってもいいが、ベッドを貸すつもりはないからな」
「どういう意味だ?」
「泊めてやる気はないと言ってる」
「ああ、なるほどね」
時刻はかなり遅かった。レオンはすでに風呂上りで気配は寛いだものになっており、もう後は寝るだけ、といった様子が窺えた。
本気で自分の来訪は邪魔だったようだが、それでも部屋の中へ招き入れたのは一抹の情けか。
注文どおり濃く淹れられたコーヒーは冷え切った身体に苦みと熱さを齎した。液体が食道を滑り落ちて行く度、鈍く凍りついた細胞が目覚めていく。
苦みは脳を、熱さは身体を。
会話もなく流れる時間は白々しく冷めたものに感じられたが、不快ではなかった。落ち着いて初めて視線を部屋に泳がせると、簡潔かつ広い事に気がついた。
広さに対して家具類が少ないせいもあるだろう。
寝室は別にあるのか見えなかったが、あまりここにいる時間は多くないのか、生活臭は感じられなかった。
茫洋と眺めていると、横でレオンが小さく欠伸をした。
「…眠い?」
「かなり」
言外に帰れと言われている事に気づいたが、クラウドは動かなかった。
はっきり言葉に出して帰れと言われれば帰るつもりで、残りのコーヒーを飲み干す。卓上に置いた空のカップを取り上げ、レオンは何も言わずにシンクへ突っ込む。自分のカップも一緒にまとめて洗い終えて振り返り、半ば諦めた表情で鍵をクラウドに向かって放り投げた。
難なく受け止めた男が怪訝に見上げて来るのを嘆息で受け流し、浴室への扉を指し示してからレオンはそのまま寝室へと歩き出す。
「俺は寝る。帰るときは鍵をかけて出て行くように。明日…いや、もう今日か、また会った時にでも返してくれれば構わない」
「不用心だな…」
「…どういう意味で?」
「…いろんな意味で」
鍵を他人に預けていいのか、とか。
特別親しいわけでもないのに信用するのか、とか。
勝手に部屋を使われて気にしないのか、とか。
…もし帰らなかったらどうするのか、とか。
思ったものの、全てを口に出して問うのは面倒だった。が、レオンは正確に意味を把握したようで、一瞬視線を泳がせた後、真っ直ぐクラウドを見て微笑った。
そう、ただ、微笑った。
「…レ、」
「じゃぁおやすみ、クラウド」
ぽつりと一人ダイニングに残されたクラウドは、掌の中に納まった小さな銀色の鍵を見つめる。滑らかな光沢を放つそれの輪郭をゆっくりとなぞり、卓上に静かに置いた。
濡れて未だ乾ききらぬ己の髪を無造作にかきあげ、溜息をつく。
「あー…好きにしろってか」
過ぎる好意に怖くなるが、レオンにしてみればクラウドに構う時間より睡眠時間を優先しただけに過ぎないだろうことは、容易に推察できたがそれにしても。
「…まぁいいか」
カーテンの引かれた窓外の闇は、未だ深い。
物音一つない静寂の落ちた室内は、耳に痛い。人工の明かりは白々と部屋を照らし、外界との境界を明確にして安全な空間を提供していたが、動く人のいなくなった部屋には温かみの欠片もない。
一人椅子に腰掛けたままじっと天井を見上げていたクラウドは、やがて静かに立ち上がった。
冷えた身体に、この寒々しさは耐えられそうにない。
もう寝ているだろう男を気遣うわけではなかったが、この静寂を無意味に破る気にもなれず、物音は極力立てぬよう部屋を横切り、奥へと続く扉を開く。
せっかくのレオンの好意だ、素直に受け取る事にした。
ベッドとクローゼットが並ぶだけの至ってシンプルな寝室はそれほど広くはなかった。ベッドサイドのテーブルの上に雑然と置かれたアクセサリとベルトの類がカーテンの隙間から漏れるネオンの明かりを反射して、ぼんやりと浮かび上がっている。
レオン本人は、すでにシーツの中に埋まっていた。
特に起こそうという意図もなく、だがベッド脇に歩み寄り、クラウドは床に直に座り込んだ。
ベッドを背凭れ代わりに、頭を預けて瞳を閉じる。
一人残された明るいダイニングよりも、レオンがいる暗く狭いこちらの寝室の方が何故だか寒くなかった。
全く眠れる気はしなかったが、ぼんやりと過ごすには居心地のいい場所と言えた。
「……?…、何だお前…」
だが寝ている当の本人はそうでもなかったらしい。
不審の混じる声は機嫌がいいとは言いがたく、夢と現実を行き来する意識をどちらかに戻そうと葛藤する瞳はクラウドを捉えようとしているようで、うろうろと彷徨っている。
出来ることなら今すぐ眠りの世界へ戻りたいのだろうが、傍らにある存在が気になって戻れないもどかしさを感じ取ることができた。
「邪魔はしない。寝れば?」
「……」
寝れるか、と顰められた眉と睨み付ける瞳が物語っている。
視線を逸らして、再びクラウドはベッドに頭を押し付けて目を閉じる。足を伸ばせば、ちょうど足の裏がクローゼットにぶつかった。自分の足が長いというよりは、部屋が狭く、おそらくベッドが大きい。通常のシングルサイズのベッドならそれほど幅も取らないだろうが、レオンが使っているのはおそらくセミダブルだった。
寝るだけが目的の場所に、部屋の広さなど関係ないかもしれないが。
そのまま黙っているクラウドに焦れたのか、レオンは身じろいで大きな溜息をついた。
「…クラウド」
「…帰れとは言われてない」
「…ウザいな」
言い訳のように呟く金髪の後頭部を見つめつつ、レオンはそう切り捨てた。ここは戦場でもなければ他人の住居でもなく、自分の家であるため危機感はなく、意識はまだ半分眠っている。このまま意識が覚醒しきる前にもう一度ちゃんと寝たいのだが、やけに子供じみた態度を取るこの男がいる限りそれは不可能な気がした。
「帰らないならそれでもいい。ここにいたいというならいてもいいだろう。…だがせめて気配を消せ。他人に傍にいられると熟睡できない…」
「やだ」
「…おい」
やだ、って何だ。
「…ああもう、完全に目が覚めた…お前のせいだ」
「寝てていいと言ったのに、起きたのはお前の勝手だろ…」
「勝手なこと言ってるのはお前だ。何なんだ、寂しがり屋のお子様か?手を繋いでもらわないと寝れないとか言うなよ」
剣呑な眼差しでクラウドを責めながらも、レオンはシーツから出ようとはしない。肩までかぶったシーツを顔まで引き上げ、丸まって睨み付けられても何の凄みもありはしなかった。
睡眠への執着ぶりを見せ付けられ可哀想なことをしたかもしれない、と心の隅で思ったものの、もう遅い。
「お前こそ人がいると寝れない、なんて臆病な小動物並だな」
「何で俺の家で俺が人の気配を気にしなきゃならないんだ。お前が気を使えよ。俺の傍にいたいなら」
「…俺がお前の事を好き、みたいな言い方をするな」
他人がいないからいいものの、そんな意味深な言い方をされるのは心外だった。
…別にレオンの傍にいたいわけではない。
一人でいると凍えそうになるからだ。
「何だ、違ったのかストーカーさん?」
「俺はストーカーじゃない。…別にお前の事は好きじゃない」
呆れたように見つめてくるレオンの瞳が、見知らぬ他人を見るような冷めた蒼へと変わるのにそう時間はかからなかった。フン、と鼻でせせら笑い、頭までシーツを被る。クラウドの事は意識の外へ追い出すことにしたようだった。
「…お前が気配も消さずそこにいるというなら、勝手にすればいい。お前に期待した俺が馬鹿だったようだ」
向けられていたレオンの意識が途絶えた。
完全に寝ることに集中することにしたようで、クラウドは室温が一気に下がったような錯覚に陥った。
寒い。
これでは、さっき一人ダイニングに放置された時と変わらないではないか。
両膝を立てて、抱え込んだ。
自分の肩ごと抱きこむように丸まってみたが、身体の芯から凍って行くような感覚は止めようもなく、指先がかじかんで動きが鈍くなるのを他人事のように眺めながら、皺が出来るほどシャツを掴んで耐える。借り物のカッターシャツは手触りが良く滑らかで、いい品なのだろうということが窺えた。黒という色は着ればレオンに映えるだろうと思う。思えばレオンは装飾品が好きなのか、ごてごてとベルトやペンダントを身につけているのを目にするが、外見にはかなり気を使っているのかもしれなかった。
抱え込んだ膝に、額をつけて蹲る。
…気を使っているのは外見だけか?
お世辞にも愛想がいいとは言えないし、口数もそれほど多くない。おそらく一日喋るなと言われても、多少の不便は感じながらも難なく過ごせるだろう程には、無駄口とは無縁そうだった。
その点は自分も似たようなものだという自覚はある。
だが。
「……」
震え始めた己の身体を宥めながら、立ち上がった。
この寒さは耐えられない。
頭まで姿を隠して埋没しているレオンのシーツを掴み、引き剥がす。突然室内の冷えた空気に腰まで晒され、レオンは柳眉を顰めて片目を開く。
不快を露に睨み上げてくる視線を無視して、強引に口付けた。
「…っ!」
冷え切った身体にのしかかられ、レオンの身体が拒絶で跳ねる。温まりきった身体に冷水を浴びせられるに等しいそれは、生ぬるい平穏状態にあった精神を現実へと引きずり出した。
「…く、ラウド…っちょ、…やめろ、冷た…っ!」
右手で顎から首筋にかけてを押さえつけられ、左手はシャツの下から腹へ這わされ、あまりの感覚に身震いする。
冷たすぎるその手。
急速に体温を奪われ、クラウドの掌に熱が点ると同時に、自らの身体が冷えて行く。
痛みすら伴う急激な覚醒と知覚に対するレオンの反応は激烈で、引き剥がそうと掴んだクラウドの手首に容赦なく爪を立てた。シャツの上からにも関わらず突き刺さる痛みを覚え、クラウドは顔をしかめる。舌を噛み切られてはたまらないので唇を離し、レオンの感覚が落ち着くのをしばし待てば、手が離れて行かないことに諦めたのか、荒い呼吸を吐きながら力を緩め、両目を開く。
「…っおまえ、何なんだよ…」
「…気が変わった」
頬に唇を寄せれば、冷たさにレオンは首を竦ませた。
「冷えすぎにも程がある…!」
「…後で風呂に入るよ」
「…後ってなんだ…」
「セックスの後に」
耳朶に吐息混じりに囁いて、舌先でピアスを弄ぶ。息を詰めて逃げようとするレオンの顔を捉えて、もう一度キスをした。
啄ばむような触れるだけのキスは宥めるように優しかったが、レオンは懐柔されなかった。
「…俺は寝たいんだが。…そんな気分でもないし」
「…そうか…なら寝てていいよ」
「待て。お前が人形を抱く趣味があろうと勝手だが、俺を相手にするな…」
「…たぶんお前は人形ではいられないと思うけど」
笑みを含んでそう言い置いて、レオンの衣服を剥がしにかかる。寝るときはさすがにラフな服を着ている為、脱がすのに苦労はしない。
抵抗さえされなければ。
余程眠かったのか、レオンの身体はとても温かかった。髪を掴んで引き剥がそうとする動きは鈍く、首筋から鎖骨へと舌を這わせ口付けを落としていれば、やがて大人しくなった。
眠れるようなら眠ってやろうという意地にも似た感情を感じ、逆撫でしないよう緩やかな愛撫を繰り返す。わき腹を指先が掠めても、小さく呻くにとどまった。
漣の様に断続的に感覚は押し寄せるものの、眠れなくなるほど追い立てられるような強さもなく、快楽を煽るというよりはむしろマッサージに類する愛撫は、レオンの睡眠欲を程よく刺激した。ゆらゆらと波に揺られるような浮遊感は、気持ち良くもあった。
そのせいで、油断した。
「…ッ」
びく、と腰が震えた。
次いで、息が詰まった。
「な、…」
己の状況を確認しようと瞳を開ければ、クラウドの楽しげに刻まれた笑みが視界に飛び込んだ。
「…これで、お前は寝れなくなる」
無駄に整った相貌が感情を宿して笑う様は、別の状況であったなら微笑ましい物に映ったかも知れないが、レオンは瞬間逃げ出したくなる自分を自覚した。
「…お、まえ…ッ」
クラウドの指先が、臍を辿りレオン自身を根元からなぞり上げた。未だ力ないそれの根元には止められた小さなベルトがあり、愛しげにベルトを指で弾けば、レオンの太腿が引きつった。
「さて…始めようか」
テーブルの上に、無闇に小道具など置いておくからこういう目にあう。
呟いたクラウドにもはや返す言葉が見つからず、レオンはただ洩れそうになる声を噛み締めた。
クラウドは再びレオンの上に乗り上がり、キスをした。
レオンの舌を引きずり出し、深く絡める。
熱い吐息と唾液はどちらのものともつかずに交じり合い、粘ついた音を立てて部屋に落ちた。上がり始める己の体温にクラウドは安堵し、さらにレオンの体温を奪うかのように抱きしめた。
別にレオンの事は好きじゃない。
だが。
今は寒くはなかった。
シーツの上に汗が落ちる。
己の体温よりも低く冷たい指先が背骨に沿って下へと這い、その後を追う様に生温かく濡れてざらついた舌が滑って行く度、そそけ立つような感覚に襲われレオンは背を撓らせた。生まれた熱は拡散されることなく下腹部に溜まり、快感に混じって苛立ちにも似た澱が沈殿して行く感覚は、胸を掻き毟って吐き捨てたいほどにもどかしかった。
「は…ッ…」
喉まで出かかった言葉を危うく飲み込み、呼気に紛らわせて吐き出す。
四つん這いにさせられ腰だけを高く突き出した格好は、楽なようでかなり辛い。前に体重をかければシーツに押し付けた顔と両腕に負担がかかり、かといって後ろへ体重をかけようにも圧し掛かる男が邪魔だった。背や胸を撫で回す手は執拗で、同じように這い回る舌もじわじわと脳を侵して焼けそうだった。男の髪が肌を掠めるその感覚さえ、覚醒し熟れきった神経に鋭敏に響く。
「…っぅ、く…」
洩れる吐息を噛み締めながら、自重を支え続けていい加減痺れ始めた腕を己の下腹部へと伸ばす。塞き止められた感覚はもはや我慢の限界だった。イきつけずだらだらと蜜を零し続ける己を解放しようとした腕はだが、ベルトに触れることもなく半端な位置でシーツを掴む。
クラウドが奥まで突き上げたせいだった。
「ぅ、ァッ…」
「…まだダメ」
何度かぐちゅぐちゅと内部をかき回すように動かして、動きを止める。怒張しきった内部のモノも解放されたくて仕方ないだろうに、先ほどから根元まで突っ込んだままじっと動かず、レオンが耐え切れず自分でベルトを外そうと動くと、邪魔するように抜き差しを繰り返した。
その忍耐力には呆れを通り越して頭が下がる。
「クラウド…!も…ッい、加減にしろ…!」
どこまで我慢できるか他人事のように観察する余裕があれば良かったのだが、生憎今のレオンに余裕などありはしない。
乱れきった呼吸で懇願混じりに非難され、クラウドは満足気に笑ってみせた。
「もう限界?…眠気、飛んだみたいで良かったな」
実のところそれほど余裕があるわけでもなかったが、そう言って揶揄すれば屈辱だと言わんばかりの瞳に睨まれた。
「…気持ち良さそうで何より」
腰を掴んで引き寄せ、レオンの背に覆い被さり耳元で囁く。熱い背中は汗でぬめり、耳朶に歯を立てればびくびくと跳ねた。シーツに頬を押し付けて身を捩ろうとするが、密着され穿たれた状態では逃げようもない。クラウドの体重まで支えるだけの腕の力はもはや残っておらず、指先が白くなるほどシーツを握り締めて重みに耐えながらレオンは唇を噛み、己の中に納まって存在を主張するクラウドのモノを締め付けた。
「…っ」
瞬間背中で息を詰める気配がしたが、自身も辛い。締め付けた分よりリアルに雄の形を認識し、内部はじくじくと熱を生む。中を蹂躙する異物の感覚に慣れてしまえば、後に待っているのは恐ろしい程の快感だった。快楽の排泄口を塞がれたレオンに熱を逃がす術はなく、意趣返しのつもりが逆に自らを追い詰める結果になったことに歯噛みした。意志とは無関係にクラウドを誘うようにひくついて腰が揺れるたび、逃げ場のない感覚が疼いてたまらなくなった。
悦すぎて苦しい。
「…あぶね…」
思わず持っていかれそうになって、クラウドは小さく息を吐く。
腰を掴んで揺さぶられればシーツを掴んで喘ぐくせに、未だ理性が残っている事に感嘆した。だがそれもそろそろ限界らしく、レオンの腰はより強い刺激と解放を求めて揺れていた。
そりゃぁイけなければ辛かろう。
自分がやったことだったが、後悔は欠片もなかった。
それでも気持ちイイ事に、変わりはない。
根元まで埋め込んだ自身をギリギリまでゆっくりと引き抜いた。蠢く肉が未練がましく纏わりついて、ズルリと音がしそうだった。
身を起こし、上から最奥目指して一気に押し込む。
「―…ッァ、っ…!」
待ち焦がれた衝撃に、レオンは声にならぬ悲鳴を上げた。
急激に与えられる刺激に身体は過剰な反応を示し、逃げるように大きく跳ねた。背中を押さえつける事でそれを制し、悦んで食いついてくる内壁に望む質量をくれてやる。
「ぁ、ァッあ…っ、ん…ッぅ、は、あ、ぁッ…」
荒れ狂う感覚の波をもはや制御できないのか、声を抑えることもせずにレオンが啼いた。自ら腰を振ってイイ場所へと導き、ギリギリと締め付けてくる様はクラウドの脳髄を直撃する。
ありえないほど視覚にキた。
頃合いを見てレオンを塞き止めるベルトを外してやろうという配慮は一瞬で消し飛んだ。
「…っ!」
何の面白みもないほどあっさりと食われた。
締め付けられるに任せて、中に精液をぶちまける。
「…ア、…っお、まえ…ッ!」
自分だけイったクラウドを殺意すら覗かせる瞳で睨むレオンの身体を反転させ、舌を絡めて口付けた。
苦しさに涙を落としたレオンの下肢に手を伸ばし、遅まきながらベルトを外せば、クラウドの首に縋りついて全身を痙攣させる。
「…ふ、ぅっ…あ…」
一気に全ての感覚から解放され、瞬間レオンの意識が飛ぶ。
腕の力が抜けてシーツに落ちかけるのを掴んで止め、クラウドはレオンの首筋に噛み付いた。出血する程ではないが、確実に残る歯型をつけられレオンの身体が跳ねる。
「…い、った…!」
「風呂、入るから寝るな」
そのまま寝てたいなら放っておくけど?と優しさの欠片も見えない言葉を突きつけられ、落ちかけた意識を無理やり現実に繋ぎとめたレオンはクラウドの髪を力任せに引っ張った。
「イッ…!痛い!痛いレオン!」
「…お前がちゃんと連れていけ。ついでに洗え。…それくらいはやるんだろうな?当然…?」
「……」
掠れきった声に力はないが、眼光は有無を言わせぬ強制力があった。
逆らいきれず、クラウドは仕方なくレオンを抱え、浴室へ向かう。
空のバスタブにレオンを入れて座らせ、自らも向かい合うようにしゃがみこんで熱めのシャワーで洗ってやる。
噛み付いた痕が染みるのか、始終顔を顰めて不機嫌なレオンを宥めるようにキスをする。拒絶されるかと思ったそれは、激しいキスで返された。
「…またやったら、洗った意味がないだろ…」
「そしたらまた洗えばいい…どうせお前が洗うんだから」
酷い言われ様だったが、考えてみればそれはお互い様だった。
二人が向かい合うには窮屈なバスタブに、レオンの膝を抱え上げ、己のそれを割り込ませた。濡れたバスタブは半端に滑るのを、淵に手をかけ足でバランスを取る事で耐えた。
「ん…ッ」
抵抗なく飲み込まれる己とレオンの内部は熱く、すぐに馴染んで溶け合った。
どこか余裕のある表情でレオンは微笑い、「今度はちゃんとイかせろ」と命令する。
背に回された手はシャワーで温められて熱く、レオンの背に回した己の片手もまた、同じように熱かった。
同じ温度で溶け合う事は、気持ちがいい。
混じり合う存在が傍らにある事は、安らいだ。
別にレオンでなくてもいいはずで。
別にレオンの事が好きなわけじゃない。
たまたまレオンがいて。
俺が求める光の世界に生きていた。
ただ、それだけ。
「……」
この手を離すことを躊躇うなんて、あってはならない。
「…雨が止んだな」
明るくなり始めた外を見やって、疲れたようにレオンが呟いた。
結局まともに眠れたのは数時間で、名残惜しげにシーツに包まり起きるのを嫌がる様子は普段の姿からは想像もつかないが、心情は理解できたのでクラウドは無言で返す。
泊める気はないと言われたにも拘らず、しっかりベッドで共に朝まで眠ったクラウドはすでに起きて身支度を済ませ、勝手にキッチンを漁ってコーヒーを飲んでいた。
だるい身体を引きずるようにしてレオンも起き上がり、ダイニングへ向かったので先回りしてコーヒーを注いでやれば、さも当然と言わんばかりにカップを受け取り飲み始める。
「…お前は何も聞かないんだな」
呟けば、レオンは怪訝に片眉を上げ沈黙で答えたが、ややあって溜息をついた。
「…何を?」
「…色々と」
「色々ね…」
おそらくこの金髪の男は自身の事を指して言っているのだろうと推測したが、わざわざ確認してやる気はなかった。
「…聞いて欲しいことがあるなら自分から言えよ…子供じゃあるまいし」
突き放すように言ってみたものの、この男とてレオンの事など何も聞きはしないのだ。
別に知る必要もない事で。
知った所でどうなるわけでもない。
お互い様、という言葉を送ってやりたくなったが、言葉に出してはこう言った。
「…鍵はやるよ。滅多にここには帰って来ないが、使いたければ使っていい」
「え」
虚を突かれ驚いたクラウドを見てもう一つ溜息をつき、「イヤなら鍵は置いていけ」と畳み掛ければイヤとは言わず、卓上に置かれたままになっていた鍵を取り上げ、ポケットにしまいこんだ。
「俺にはお前が理解できないよ、レオン」
「俺はお前のことを理解したいとは思わないよ、クラウド」
切り返せばクラウドは不満そうな顔をした。
お互い様だ。
クラウドと自分では、生きる目的が違う。
交わる線など、所詮一瞬に過ぎない。
その一瞬に情けをかけたところで、意味などないのかもしれなかったが。
クラウドはレオンの事を好きではないといった。
同感だ。
「だが、別にお前の事は嫌いじゃないよ、クラウド」
記憶の片隅に残る存在。
それ以上の何を望む?
思い出になるだけの、存在であったとしても。
今この瞬間に、交わっているならそれで十分だとレオンは思う。
END