どこにも、行けない。

 

 トラヴァースタウンの二番街と三番街は、一番街とは違い、区画整理が行き届いた閑静な住宅街である。
 一番街は外の世界から流れ着いた者の為に解放されているが、二番街以降は元からいる住民達の為の区画と言って良かった。
 二番街、三番街は分厚い扉で仕切られており、そちらの住人が一番街へ出向いて来ることは少ない。日中はそれでも買い物客などの往来もあるが、三番街へ向かう扉は常時鍵をかけられ、出入りすることすら不可能なのだった。
 どこの誰とも知れぬ外からの移民を、一番街に受け入れてくれているだけでも感謝すべきなのかもしれなかったが、一番街の住民からすれば気分の良いものではない。
 偏見や差別と呼ぶ程強い負の感情をぶつけられることはなくとも、疎外されている事実が覆ることはない。
 一番街から二番街以降へ引越しをする者はまずいない。
 一番街から二番街以降へ出向く者すら、かつてはいなかった。
 流れ着いた当初は生活を再建させることで精一杯な者達も、やがてその事実に気づく。
 だが最近は随分と軋轢が和らいできたな、とエアリスは感じていた。
 垣根の一端を崩すことになった最たる功労者の一人は、偉大なる魔法使いマーリンであったろう。
 三番街の奥に居を構える魔法使いは、エアリス達が最初に逃げて来た時、口添えをしてくれ、住むところを提供してくれた。
 世界を飛び回っているという魔法使いはいち早く異変を察知し、流れ着いた者達の立場を理解し、住民達との交渉役を買って出てくれたのだった。
 地下洞窟を自由に使っていい、と解放もしてくれたおかげで、スコールやユフィは修行する場所に困らないし、ユフィの恰好の遊び場にもなっているようで、洞窟内の落書きを発見した時には感動すら覚えたものであった(ゲイジュツ的でしょ!と、本人はいたってご満悦である)。
 エアリスがケアルを覚えることができたのは魔法使いのおかげであったし、スコールがファイガを使えるようになったのも、魔法使いのおかげであった。
 偉大なる魔法使いにはお世話になりっぱなしであり、頭が下がる思いであった。
 住み始めた当初、住民の中には流れ者が二番街や三番街をうろつくことを嫌がる者が多かった。
 三年が経ち、そのような視線を感じることがなくなったのは、シドやスコールのおかげだということを、知っている。
 偏見を、信頼に変える努力を惜しまなかった二人を尊敬するエアリスだった。
 今二番街を歩いていても、非難の目を向けて来るものは皆無であった。
 それどころか、すれ違えば「こんにちは」と笑顔で挨拶をしてくれる。
 素晴らしい変化だった。
 路地を曲がって突き当たり、ダルメシアンの夫婦犬の為に提供されたという屋敷は、人間が住むにしても立派に過ぎる建物で、エアリスは思わず見上げて驚いた。
「わぁ、すごい」
 豪邸だった。
 行方不明になった子犬が全て戻ってくれば百一匹になるという話だが、今は夫婦二頭しかいないのだ。
 さぞや寂しかろうと、バスケットに犬用のおやつを用意して持ってきたはいいものの、さて、どうやって中に入ろうか。
 ノックをしたら、犬が出迎えてくれるだろうか。
 勝手に扉を開けるのは不躾な気がした。例え相手が犬であろうとも。
 躊躇いがちにノックをし、出てこなければ扉を開けてみようと考えていたが、杞憂に終わった。
 すぐに扉は開かれ、中からスコールが迎えてくれたのだった。
「来てたんだ、スコール」
「ああ、どうぞ」
 お邪魔します、と丁寧に言葉を添えて、中に入る。
 入ってすぐ、夫婦犬に迎えられた。子犬と離れ離れになってしまった二頭は元気がなさそうであったが、エアリスを見上げて小さく歓迎するように一声、鳴いた。
「おやつ、持って来たんだけど、こういうの、食べられるかな」
 バスケットを見せればスコールが頷いて、「用意してやろう」と皿を手に取りおやつを入れる。
 足元に置いて「どうぞ」と二頭にかける声は、ひどく優しいものだった。
 エアリスにソファを勧め、飲み物を淹れてくる、とキッチンへ向かう足取りは慣れたものだったが、おやつを食べていたはずの二頭はそろってスコールの後ろをついていった。
 特に気にした様子もなく、コーヒーを淹れて戻ってきたスコールが向かいのソファに腰かければ、二頭は再びおやつが入った皿へと戻る。
「懐かれてるね」
「不安で、寂しいんだろうな」
「…そっかぁ。そうだよね」
 スコールのことを子どもと思っているのか、飼い主と思っているのかは不明だが、二頭の信頼を得ていることはすぐにわかる。
 長居しちゃう理由、わかるなぁと、エアリスは納得するのだった。
 広くて上品な屋敷だった。
 使用人が何人いてもおかしくない程の広さがあり、調度品は洗練されていておそらく高級であろうことが窺える。隅々まで掃除が行き届いており綺麗なので、犬だけになっても管理の為の人の出入りはあるのだろうと思った。
「すごいね~。うちより立派、だね」
 茶化して言えば、スコールは全くだ、と頷く。
「屋敷まるごと彼らの為に提供してもらったんだが、彼らは一階部分で十分らしい」
「まるごと…」
「成人したらここの二階に住もうかな」
 冗談とも本気とも取れる口調で言うスコールの表情は、常と変わることはない。
 頼めば借りられるんだろうな、と想像することは難くなく、エアリスは「いいね~」と羨望の滲む己の言葉に苦笑した。
「もうすぐだよね、スコール」
「ああ…ちょっと早いが、シドに交渉してみるか」
「ここならシドさん、反対しないと思う」
「だといいけどな」
「様子、これからも見に来ていい?」
「もちろん。彼ら、エアリスのことを気に入ったようだ」
「嬉しい」
 おやつを食べ終わった二頭はスコールの足元まで歩み寄り、そこで丸くなって昼寝を始めた。
 見ているだけで時間を忘れそうになる、と、エアリスは思い、スコールも同じ思いでいるようで、見下ろす視線は穏やかだ。
「スコール、お仕事は?」
「これから三番街の紳士の所へ」
「シドさんに許可、取った?」
「言われる前に受けた依頼だから、ノーカウント」
「絶対、怒る」
「遅くならないようにする」
「それがいいね」
「あんたは?」
「…私は二番街のご婦人から、お使い頼まれてる。夕方に届けて欲しいって。だからそろそろ行かなきゃ、かな」
「そうか。じゃぁカップを片付けてくるから、先に」
「ううん、そこまで一緒に行こ?待ってる」
「わかった」
 二頭の頭を優しく撫で、スコールがカップを持ってキッチンへと消える姿を見送りながら、エアリスは二頭の傍にしゃがみ込む。
 ちらりと視線を寄越したものの、すぐに目を閉じて寝る態勢に戻る様に笑みがこぼれた。
「スコールに、愛されてるんだね~」
 動物好きだなんて、知らなかった。
 それともこの二頭が特別なのか。
 子犬と離れ離れになって「不安で、寂しいのだろう」と彼は言った。
 不安、という感情は、エアリスにも理解できる。
 寂しい、という感情も、理解できる。
 不安で寂しい、というと、ひどく切ない。
 孤独を象徴するかのようだ。
「待たせたな」
「ううん、全然」
 気づけば彼は、シドと共に仕事をするようになっていた。
 部屋に籠っていたのは、包帯とガーゼが取れるまでの数日間だけだったと記憶している。
 壊れてしまうのではと心配になるほどの状態から、彼はいかにして復活を遂げたのか。
 誰も知らない。
 「迷惑をかけて申し訳なかった」と、ある朝部屋を出て来てから、彼はいつだって冷静だった。
 彼の内心を、誰も知らない。
「あ、ちゃんとお屋敷の鍵、持ってるんだ」
 外に出て施錠するスコールの手元を見れば、鍵があった。
「犬だけ残しておくのは、不安だろう」
「うん、確かに」
「鍵を持っているのは俺だけじゃないが」
「お屋敷の持ち主さん」
「ああ」
「立派なおうちだもん、泥棒、気をつけなきゃ」
「まぁ、そうだな」
 三番街へ向かう路地の手前までの短い距離で、これといった会話はなかった。
 何か話そうと思っても、「今日の晩御飯何かな」くらいしか話題が思いつかない。
 それくらい長く共に暮らしてきたし、家族のような存在だとエアリスは思っていた。スコールもそうだと思いたかった。
「じゃぁ、気をつけて、エアリス」
「うん、スコールも」
 もし、「不安で寂しい」思いを今も一人で抱えているのだとしたら。
 悲しいな、と、エアリスは思うのだった。
 思わず振り返ってスコールを見るが、すでに角を曲がった後のようで姿は見えなかった。
 かわりにスコールの後ろを歩く男の後姿が目に入る。
 角を曲がる寸前見えた男の髪は、金髪だった。
 赤いマントを最後に残し、風に靡いて角へと消える。
「……」
 見覚えがあるような気がした。
 知っている男かもしれない、と思う。
 人違いかもしれない、とは思わなかった。
 良かった、生きてた。
 どこかに行く予定があるのだろうか。それとも、スコールに用があるのだろうか。
 追いかけたい衝動に駆られるが、踏みとどまる。
 スコールと共に歩いていた自分に気づかないはずはない、という自信があった。
 気づいているのならいずれ、向こうから顔を出す。
 急いてはいけない、そんな気がした。
 すでに誰の姿も見えなくなった路地を見やり、エアリスは一人、溜息をついた。
 
 
 
 
 
 二番街のご婦人にお届け物を渡した後、お茶に誘われしばし歓談にお付き合いした為に、エアリスが家に戻ったのは日暮れ時だった。
 ちょうど家の前でスコールと鉢合わせ、扉を開けてくれるので礼を言って中に入る。
「早かったね、スコール」
「夕食当番、俺だからな」
「あっそうだったね。今日の晩御飯何かな~」
「…期待されても困るんだが」
「期待してまっす」
 溜息をつかれ、エアリスは笑う。
 先ほど別れた時と、全く変わった様子はなかった。
 彼と会ったのかを聞いてみたい気がしたが、会っているのなら話してくれるはずである。
「…何か変わったこと、なかった?」
 迂遠な言い回しをしてみたものの、スコールは何も思い当たらないのか軽く首を傾げるに留まった。
「何か、とは?」
「ううん、何もないなら、いいんだ」
 先にシャワー浴びて来よ、と言い置いて、ダイニングを抜け自分の部屋へと向かうエアリスを引き留めることなく、スコールも一旦自室で服を着替え、夕食を作る為にダイニングへと戻る。
 ユフィがテレビの前でごろごろしているので「手伝え」と声を投げれば、あからさまに嫌そうな顔をした。
「食後にプリンを二個やろう」
「やる」
 即答の後素早くキッチンへ入ってくるユフィに苦笑を堪えて野菜を指さし、洗うように指示をする。
 低めの踏み台を用意してやれば、大人しく乗ってシンクに水を流し始めた。
 傍から見れば、仲の良い兄妹が二人並んで料理をしている図に映ることだろう。
「なんかスコール、匂いがするよ」
「…どんな?」
「嗅いだことない匂い。ソープ変えた?」
「いや、…仕事先の匂いかな」
「くさいわけじゃないからいいんだけどー。なんだろ、シャンプー?」
「やめろ嗅ぐな」
 髪に鼻を近づけてくる少女の頭を押し戻し、洗い終わった野菜をまな板に乗せて、黙々と切る。
「香水かな?」
「じゃあさっき会ってた紳士のだろう」
「またシンシと会ってたの?」
「今日は三番街」
「シンシなら許す」
「…許すって何だ。切った野菜を鍋に入れていけ」
「はーい」
「俺がいない間、修行サボらなかっただろうな?」
「サボってないよ。地下洞窟のゲイジュツ作品がちょっと増えただけ!」
「…そうか。ユフィ画伯の次回作はもうないと思え」
「えー!鬼かよ!」
「先渡しした菓子を返せ」
「もうとっくに消化しちゃったな~。早く晩御飯食べたいよ~スコール師匠~!」
「ならちゃんと手伝え」
「手伝ってるじゃん。今日野菜だけじゃないよね?」
「肉を適当に焼く」
「肉だいすき!!」
「知ってる」
「おっユフィがキッチンにいるってどういうこった。明日は吹雪かぁ?」
 家に帰ってきたシドが、賑やかなキッチンを覗いて、大仰な声を上げた。
 ユフィはしかめっ面を作り、ゆっくりと振り返る。
「プリンがアタシを待っている」
「あー…なるほどなぁ。お前頭いいなスコール」
「…どうも」
「腹減ったから早めに頼むわ」
「夕食の時間ぴったりに完成するよう調整済みだ。待ってろ」
「融通効かねぇ~!しょうがねぇ先風呂入ってくるか」
「どうぞ」
 言葉通り、時間ぴったりに全員が席につき、全員で食事を始めるのは、共に暮らし始めてから三年間、欠かしたことはなかった。
 なので食後スコールから切り出された家を出たい発言に、シドの眉間に刻まれた皺が一層深くなったとしても、誰も責められまい。
 ユフィは約束通りプリンを二個食べながら、話の成り行きを見守っている。
 エアリスはコーヒーカップを両手で包み込むように持ち、ミルク入りの中身を見つめながら、シドの発言に意識を向けた。
「…まだ誕生日来てねぇぞ」
「承知している。ダメなら誕生日後で構わない」
「なら、誕生日後にしろ」
「…了解、そうする。話はしておくが、いいか」
「好きにしろや」
「ああ」
 反対するかと思いきや、シドは反対しなかった。
 「成人するまで」が口癖だったシドは、本当に成人したら好きにしていい、ということなのだろう。
 元々、他人なのだ。
 家族ではなかった。
 本当の家族なら、引き止めるのだろうか。
 今この場に「本当の家族ならこうする」と意見できる人間は存在しなかったので、シドの立場を否定できる者はいなかった。
 あっさりと話がつき沈黙が落ちたところで、ユフィが顔を上げる。
「スコールん家、遊びに行っていいの?」
「俺より犬のところへ行ってやってくれ」
「行くけど!ついでに!」
「まぁそれはかまわない」
「なら許す!」
「…それはどうも」
「スコールいいなぁ」
「エアリスも、成人したら独立するといい」
「うーん、私は、どうかなぁ」
 スコールのように一人で暮らしたい、とはまだ思わないな、とエアリスは思う。
 逆に何故、一人で暮らしたいのだろうと、思う。
 今の生活に不自由はなかった。
 シドは口うるさくはあっても束縛や押しつけをしてくることはなかったし、主義は一貫していて不満もない。
 スコールは違うのだろうか。
 それとも、「大人」になるから独立しなければならない、と、思っているのだろうか。
 男の子だもんね、と割り切ってしまっていいものか、エアリスにはわからなかった。
「私も、遊びに行っちゃお」
「…犬のついでに、どうぞ」
「うん、そうします」
 食後の片づけを終えたスコールが外出すると言えば、黙してテレビを見ていたシドが立ち上がり、「こんな時間にか」と唸るような低音で呟いた。不機嫌極まりないその声音に、ユフィとエアリスが思わず顔を見合わせ、同時にスコールを見た。
「深夜までには戻る」
「…お前はもうガキじゃねぇから細けぇこたぁ言わねぇが。どこ行くんだ?」
「犬のところ」
「犬だぁ?」
「誰かがついててやらないと、餌を食わないらしくてな」
「なんだそりゃ…あー…犬しかいないんだっけか」
「ああ…まぁ慣れるまでの間だと思うんだが」
「…ならしょうがねぇ。遅くなんなよ」
「了解」
 拍子抜けしたように脱力するシドに対し、返事をするスコールの様子は冷静そのものだ。ユフィとエアリスは再度顔を見合わせ、安堵の溜息をついた。
 家庭内のギスギスは、見ていて楽しいものではない。
 明るく穏やかであることが、一番だった。
「なら、たまには俺様が玄関まで見送りしてやる」
「え…いや、必要ない」
 スコールが遠慮する間もなく、シドはスコールの隣に立ち、背中を押した。
「うるせぇなさっさと歩け」
「……」
 スコールを前に立たせ、後ろをシドが歩く。
 ダイニングから少し距離が出来、ユフィとエアリスの視線が途切れた所で、シドはスコールの肩を掴んで壁に背を押し付けた。スコールは驚き、硬直する。
「…何だ?シド」
「お前なんか隠してねぇか」
「なんか、とは?」
「俺が聞いてんだよ」
「…別に、何もない」
「困ってることとかは」
「…どうしたんだ?シド」
「だから、俺が聞いてんだよ」
「別にない」
「…そうかよ」
 半眼で睨んでみても、スコールの表情は変わらない。
 納得はしなかったが、これ以上引き止めても無意味であることを悟り、シドはスコールを解放する。
「まぁ、なんかあったら言えや。な?」
「…ああ」
 怪訝に眉を顰め、首を傾げる仕草は本当に何もないかのように見える。
 玄関が閉まるまで見届けてやって、シドは己の頭を掻きながら盛大な溜息をついた。
「出来の良すぎるヤツってのはホントもう厄介だなぁオイ」
 気に入らねぇ、と思うのだった。
 何でもかんでも一人で決めやがって。
 保護者を気取ってきた身としては、相談の一つもして欲しいところであった。
 この三年間で、彼から頼られたことがあっただろうか。
 思い返してみても、記憶になかった。
 独立するに際して、援助を求める気もないのだろう。
 離れて暮らすことになったとしても、縁が切れるわけではない。同じ街に暮らし、歩いて行ける距離にいるのだから、いつでも会えるし、いつでも話せる。
 いつか同じ世界に帰る、という共通の希望を持って、生きていくことにも変わりはない。
 だが、気に入らない。
 一人にしてはいけない気がした。
 …手放したくない気持ちがあることは否定しない。
 親離れしていく子を見守る気持ち、と言うにはあまりに不安だ。
 不安、と感じてしまえばそれはますます強くなる。
 おかしな話だ。
 あいつは何でも一人で決めて、一人で進んでいける男だというのに。
 いつかは当然、独立してもらわなければならない日は来る。
 だがそれは、今ではないと思うのだった。
 
 
 あいつの心に空いた穴が、塞がったとは思わない。
 
 
 だがどうやってその穴を塞いでやればいいのか、シドにはわからない。
「…ちったぁ頼ってくれりゃぁなぁ」
 心の内を見せないスコールに打つ手が見い出せないまま、今に至るのだった。
 
 
 
 
 
 陽が落ちネオンと街灯に照らされた夜の道を歩きながら、スコールは姿勢を変えることなく視線を動かし、背後を窺う。
 やはり、いる。
 ここ数日、何者かの尾行に気づいていたが、物陰に身を隠している為姿は確認できていなかった。
 敵意や害意といった負の感情を向けられているわけではないので放置しているが、監視されているような視線は不快であった。
 いや、間違いなく監視されているのだが、監視対象である自分が視線を感じている時点で尾行は失敗している、と思う。
 己の存在に気付いて下さいと言わんばかりのヘタクソさに、相手を確認してやろうという意気すら削がれ、向こうからアクションがない限りは放置する予定だった。
 一般人ではないだろう証拠に、こちらからは姿を確認することができない位置に、完璧に隠れている。
 だが、気配が隠れていなかった。
 台無しである。
 誰だ、と思うが、気にしても仕方がない。
 好きにすればいい。
 夫婦犬が暮らす屋敷へ向かうまでの間、姿を見せることなく一定の距離を保ってぴたりとついてくるその技術だけは買う。
 何が目的かは知らないが、ご苦労様、と思うのだった。
 人通りの絶えた路地を曲がると、入口の前に見知った男が一人、立っていた。
 スコールは内心舌打ちしたい気持ちを堪え、表情を変えることなく一礼すれば、気づいた男は笑顔で手を振って答えて見せた。
「こんばんは、スコールくん」
「こんばんは、どうされましたか」
「犬の食事を見守る会に、参加しようと思ってね」
「そうですか、ではお任せして俺は帰ります」
「君は冗談が上手だね」
「……」
「入ろう。犬が君を待っているよ」
 鍵を開け、スコールに入ることを促す男は初老の「紳士」であった。
 身なりは高級であり、物腰は柔らかく、笑むと皺を刻む目元は知性を感じさせて、嫌味がない。
 街の有力者の一人である男は、名士として名高かった。
「…管理は俺に任せる、というお話では?」
「いやなに、犬が君にとても懐いていると聞いてね。それに、ここは私の家だから」
「……」
「来ちゃいけなかったかな」
「いえ」
「ゆっくりしていきなさい」
「…早く帰って来いと言われているので、すぐに帰ります」
「シドさんはよく出来た人だね」
「そうですね」
「仕事を依頼するときは、自分を通せと言ってきたよ。いい保護者だ」
「そうですか」
「でもこれは仕事じゃない。…そうだろう?」
「…そうですね」
「良かった。さぁ、入って。待ちくたびれているよ」
「……」
 スコールの肩を抱いて中に入ろうとする男の仕草はさりげなく、洗練されていて違和感もないが、馴れ馴れしい。
 失敗したな、と、スコールは思う。
 自分の管理下に置けるのならば、この屋敷は住みやすいものになるだろうと思っていたが、これでは。
「私も、待ちくたびれていたよ」
 知らねぇよ、という気分だった。
 犬とゆっくり過ごせると思っていたのに、最悪だ。
「いっそ、ここに住むというのはどうだい」
「……」
 嫌だな、と、思う。
 あんたが出入りしないなら、と、言えたら良かった。
「犬も喜ぶよ」
 紳士の笑みは、とても優しい。
 善意だけではありえない、含みのあるその笑みの真意は測るまでもなく、知っていた。
「…そうですね」
 だが、どうでもいい。
 どうでもいいことだった。
 
  
 生きる為に、利用する。
 
 
 それだけの、ことだった。


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