周囲で誰ともつかぬ声が、幾人も同時に話しかけてくる。
男女の入り混じる高低音は重なり合い、互いに譲ることを知らぬかのように我先にと語りかけてくるので内容は理解できない。
ただ何かをしよう、何かをしてくれという語感だけは同じだった。
暗闇の中膝を抱えて座り込んだクラウドは、うるさいと叱りつけたが声が途切れることはない。
雑踏のように遠くで聞こえるものならば無視を決め込むこともできるのに、間近に立ち、周囲を囲まれ見下ろされながら何かをしきりに話しかけられ気が滅入る。
「…順番に喋ってくれ。何を言ってるのかわからない」
冷静に言ってみるが、相手は聞く気がないのか同時に話しかけては同時に口を閉ざす、の繰り返しで埒が明かなかった。
「何をしろって?」
問いかければ、同時に答えが降って来る。駄目だこりゃ。把握できない。
姿は闇に紛れて見えなかったが、声の質から判断するに、男が二人、女が一人だ。
女の声が落ちてくる方向へと身体を向けて、「もう一回頼む」と言えば三人同時に言葉が落ちる。
「もう一回」
同時に話し、同時に終わる。
「…もう一回」
繰り返し、女の声だけに集中する。
飽きることなく同じ内容を繰り返す三人はロボットのようだと思ったが、ほんの少し、聞き分けられるようになってきた。
「もう一回」
「…ろ……なの。ク…も…よね?」
「もう一回」
「お…そろ……んなの。クラウド…うも…るよね?」
「もう一回」
「お店そろそろ…時間なの。クラウド今日も…れるよね?」
「…ああ、今日も行くつもりだティファ」
「そう」
女が黙った。
残った男二人のうち、一人に向き直る。
「もう一回」
「…や……な?…に……ぜ」
「もう一回」
二人の同時喋り位ならば聞き取るのは容易だった。
「そういやお前と飲みに行っ…たよな?そ…一緒に…うぜ」
「ああ、行きたいなザックス」
「約束な」
男が黙った。
残り一人に向き直る。知らない男の声だった。
「もう一回」
「お前はお前の道を歩くといい。ちゃんと全て忘れたか?」
「……」
意味がわからなかった。
どういう意味だと尋ねても、返ってくるのは同じ言葉。
「あんた誰」
「お前はお前の道を歩くといい。ちゃんと全て忘れたか?」
「…何を忘れたって?」
「お前はお前の道を歩くといい。ちゃんと全て忘れたか?」
「…俺は何も忘れてない」
「お前はお前の道を歩くといい。ちゃんと全て忘れたか?」
「…だからあんた誰だよ」
「お前はお前の道を歩くといい。ちゃんと全て忘れたか?」
「うるさい。しつこい」
「お前はお前の道を歩くといい。ちゃんと全て忘れたか?」
「…お前にお前呼ばわりされる筋合いはない」
「お前はお前の道を歩くといい。ちゃんと全て忘れたか?」
「……」
何なんだ。
こいつは俺を知っているのか。
姿は見えない。己の周囲は真っ暗闇だ。
おそらく答えを返さなければ男は同じ言葉を繰り返すのだろう。
男が望んでいるだろう言葉は、「全て忘れた」という肯定だ。
何を忘れたというのだろう。何故忘れたことを認めなければならないのだろう。
この男が誰か知りたかった。
立ち上がり、暗闇に向かって手を伸ばす。語りかけてくる声の位置から判断し、この辺りだろうと見当をつけたが正解だった。
闇の中から掴んだ腕が現れた。
引っ張って、靄のような闇の中から出てきた男の顔を見た瞬間、頭のどこかで薄氷が割れるような音がした。
「…お前の顔知ってる」
「…お前はお前の道を歩くといい。ちゃんと全て忘れたか?」
「何で忘れなきゃならないんだよ」
「お前はお前の道を歩くといい。ちゃんと全て忘れたか?」
「俺を置いて行くのか」
「お前はお前の道を歩くといい。ちゃんと全て忘れたか?」
「…なかったことにするのか」
「お前はお前の道を歩くといい。ちゃんと全て忘れたか?」
「いやだ」
「お前はお前の道を歩くといい。ちゃんと全て忘れたか?」
パラパラと、頭のどこかにこびりついて離れなかった膜のようなものがひび割れ剥離していく音がした。霧がかかったようになっていた記憶が晴れた先には、紅い瞳をしたレオンがいて、微笑っていた。
「…レオン」
「お前はお前の道を歩くといい。ちゃんと全て忘れたか?」
犯人の行方を知りたいと言った。
データが欲しいと言った。
事情を知る人物に近づき、情報を得ろと言った。
全てその通りに従ってきた。
レオンの望みを叶える度に、微笑み褒めてくれたのだった。
「…お前俺を捨てるのか。忘れろっていうのか」
「お前はお前の道を歩くといい。ちゃんと全て忘れたか?」
無表情で繰り返す、ロボットのようなレオンの瞳も紅かった。
「さよなら」と言ったのだ。
レオンに関係すること全て忘れて、なかったことにしろと言ったのだ。
俺に。
よくも俺にそんなことが言えたなレオン。
「利用するだけ利用してさよならとか、最低だなお前」
「お前はお前の道を歩くといい。ちゃんと全て忘れたか?」
「ふざけるな!」
「お前はお前の道を歩くといい。ちゃんと全て忘れたか?」
ロボットのようなレオンの真紅の瞳に力はなかったが、変わらず美しかった。
真っ直ぐ視線を合わせて、クラウドは深呼吸をした。
「俺は俺の道を歩く。俺は拒否する。絶対に忘れない!」
空間が割れる音がした。
地響きにも似た低く唸るような音は恐怖を呼ぶ。
「…何だ!?」
暗闇の中、掴んだレオンの腕に力を込めて見つめれば、無表情で凝り固まっていた男が小さく微笑んだ。
「…そうか、じゃあ仕方がない」
「レオン?」
「全部、壊れた。落ちる」
「え…っ!」
地面が消えた。
掴んでいたはずのレオンの腕も消え、一人闇の中に放り出された。
瓦礫の山が崩れ行くような音がしたが、形は見えない。
一面の闇であるのに、落ちて行く。
「…ッ!!」
夢だろ?
これ、夢だよな!?
肝が冷える。冷や汗が流れた。
覚めろ覚めろ!夢なら覚めろ早く!!
風圧で息ができず、心臓が嫌になるほど跳ねていた。
どこまで落ちるのか、果てが見えずに目を閉じた。
死ぬ、ホントに死ぬ。
覚悟などしたくはなかったが死ぬかもしれないと思った矢先、落下が緩やかになり、やがて止まって地面に着地し目が覚めた。
「……」
ベッドの上で汗を流し、心臓を押さえてクラウドは喘ぐ。
「…り、リアルな夢だった…」
冗談ではない。
夢で臨死体験などしたくはなかった。
身体中が強張っていたが、ベッドの上で仰向けになりため息をついた。
「…寝てる場合じゃなかった…」
身体を起こし、時刻を確認する。十七時。外は夕暮れ時だった。橙に染まる空を尻目に、クラウドは携帯を掴んでレオンへメールを送ろうとしたが、アドレス帳に登録がなかった。
「あれ?」
メールのやり取りは何度もしていたし、携帯番号も知っていた。
送受信の履歴は全て削除していたので存在しないのは当然だったが、登録自体もない。
レオンが消して行ったのだろうか?いや、それならクラウド自身にやらせるだろう。
遡って思い出してみるが、登録した記憶がなければ消した記憶もなかった。
「マジかよ」
もしや無意識にアドレスや番号を手打ちしていた?
携帯画面を睨みつけ、思い出そうとするが思い出せなかった。登録したと思い込んでいて、いつだってアドレス張からメールや電話をかけていたつもりだったのだ。
それでも何度も送ったアドレスや番号ならば覚えていても良さそうなのに、どうしても思い出せなかった。
くそ、俺役に立たない!
「あ、そうだ、ティファの店」
クローゼットの中からスーツの上着を引っ張り出し、テーブルの上に放置していた財布を掴んだ。
必要最低限のものを引っつかみ、ティファの店へと急ぐ。
十八時開店だから、おそらくもうティファは出勤しているはずだった。レオンもいればそれで良し、他人のフリをされてもクラウドは覚えているのだから問題ない。
店の正面の硝子扉は開いていた。
細い通路を抜け、角を曲がればカウンター内に照明をつけたティファが、本日の仕込をしていた。
「ティファ」
声をかければティファは驚き、時刻を確認する。
「クラウド?え、どうしたの?まだ十七時過ぎだよ」
「レオンは?」
「え?」
「レオンは?」
「何?どうしたの?」
「まだ来てない?」
「クラウド、ちょっと落ち着いて」
走り出しそうな勢いでカウンターへと向かってくるクラウドに、ティファは戸惑った。
大鍋をかき回していた手を止めて、火も止めた。
カウンターに乗り出すようにして「レオンは」と尋ねられても、ティファには答えようがない。
「何?待ち合わせ?」
「いや、してない。まだ来てない?」
「やだクラウドったら!まだ開店前よ?お客様は来てないわよ」
「…え?何言ってるんだ?」
「え?って、何言ってるんだはこっちのセリフ!誰に会いに来たって?」
「だから、レオン。もう出勤して来るんじゃないのか」
「…えっと、クラウド、どうしたの?熱でもあるの?ちょっと座って」
ミネラルウォーターをグラスに注ぎ、クラウドへと渡してやる。
一気に飲み干したクラウドだったが席に座ることはせず、店内を見渡し厨房の奥を見る。影が動いて、何か作業をしているのが目に入り、指を指す。
「…人がいる」
「え?そりゃいるわよ。もうすぐお店開けるしね。クラウドも毎日会ってるでしょ?」
「出してくれ。会いたい」
「…いいけど…?」
厨房に向かってティファが呼んだ名前は、レオンではなかった。
「はい」と返事をして中から出てきた男は当然、レオンではなかった。
「…オーナー、何か?」
「うん、クラウドが用があるって」
「いらっしゃいませ。まもなく開店ですので、ごゆっくりなさって下さい」
「…やられた…」
「え?」
「はい?」
ティファと男が同時に首を傾げたが、構っていられなかった。
踵を返し、店を出る。
何だこれ。
こんなの許されると思ってるのか。
他人事なら大変だねで済む。が、これは駄目だ、許せない。
自分がやられて、途方に暮れる。
レオンとソラが住んでいる家…知らない。行った事ないし住所も知らない。
ソラの学校…レオンがこの状態なのに、ソラが学校に残っているとも思えなかった。
ティファの記憶が消されているならもう駄目だ、打つ手がない。
「…ああくそ!」
思い出せ。思い出せ。ちゃんと脳みそ搾り出せ!
記憶を浚う。
…そうだザックス。ザックスが田舎の屋敷に向かった。
それを報告したらレオンが来た。
あの時レオンはなんと言った?
「逃げられずに済みそうだ」と言ったのだ!
住所…住所、住所は!
確かに見た。ザックスのメールを見た。レオンにも報告をした。
記録はしてない。記憶した。
どこだよ。あれはどこだよ。
ザックスが電車の時間を気にしていた。平日昼間でも数分に一回は電車が来るようなこの大都市で、時間を気にするような電車と言ったら限られる。
携帯で検索をする。
あの時間、乗らなければならない電車と言えば。
「…あっ思い出した!」
駅名を見て思い出す。
時刻を確認する。まだ電車はある。今なら乗れる。駅に着いたらタクシーに乗ればいい。金はかかるかもしれないが困るほどじゃないだろう。
ここがその電車の途中停車駅で良かった。大都市万歳!
改札へと走る。
レオンを一発殴らないと、気が済まなかった。