祈りはどこに届くのか。

  黒く小さな手が床を這い、壁を這う度音がする。
  部屋の中に佇む二人以外のスペースを埋め尽くすように、闇に侵食され増殖するハートレスの多さに、部屋の明かりはついたはずなのにまた真っ暗になったと、エアリスは他人事のように思った。
  受け入れ難い事実が眼前にあり、微笑むマリアは常と全く変わりなく、なのに群がるモノは異形であり人間とは相容れない存在だった。
  襲い掛かってくることはない。とても静かで大人しいモノ達であったが、全てはマリアの胸先三寸で決まること。
  一瞬武器を構えるべきかと考えたが、躊躇した。
  マリアと敵対したくはない。
  …何故マリアが、ハートレスを従えているのか。
  マリアは、人間ではないのか。
「…もっとたくさんいるの。全て紹介してあげられたらいいんだけれど、朝までかかってしまうわ。…それでもいい?」
  ハートレスを一体抱きかかえ、マリアは優しく笑う。
「この子はペトロ。可愛いでしょう?」
「…マリア、全員に名前、つけてるの?」
「もちろん。だって私の子供だもの」
「…そう…」
「お茶のおかわり、どうかしら。エアリス、座って?」
「…ええ…、その、」
  先程まで座っていたソファの上には、ハートレスが数匹陣取っていた。
  触れたいとは思わないし、近づきたくもなかった。
  これらは、人間を襲うのだから。
「こらあなた達、エアリスが座れないでしょう?どいておあげなさい。こちらに来て、足元に座っていて」
  マリアが言えば、ハートレスは従順にその場を退いた。
  支配しているのは、マリアなのだ。
  何故、と思う。
  どうして、と問いたい。
  ソファに腰掛けたが、いつでも立ち上がれるよう浅く座る。
  淹れ直してくれた紅茶に、手をつける気にはなれなかった。
「…ありがと、マリア。…聞いていい?」
「何かしら」
「この子達、いつから…?」
「そうね、彼が亡くなってしばらくしてから、かしら」
「…そう、なの」
  マリアは思い出すように視線を天井へと向けたが、そこにもハートレスが張り付いており、胸の中に澱が溜まって行くような感覚にエアリスはそっとため息をついた。
「私は自らを罰する為に地下に篭ったの。光のあるこの地上にいるのが辛かった。彼が死んだ、あの場所を見るのが耐えらなかったの。ようやく死ねると思った時に、この子が…」
  手の中の「ペトロ」を見やる。その目は慈愛に満ちていた。
「この子が来てくれたの。赤ちゃんが、私を迎えに来てくれたのだと思ったわ。次に目が覚めたとき、私は自分の部屋にいた。…この子達も大勢いた。皆私を気にかけてくれて、心配してくれていたの。生きなければと思ったわ。私は、神に許されて生き長らえたのだから」
「……」
  ではその時に、マリアはハートレスになったのか。
  闇の生き物が「救う」ことなどありはしない。
  マリアを見つけ、襲い、そしてマリアは消えることなく残ったのだった。
  ああ、と、エアリスは顔を伏せる。
  私、馬鹿だった。
  マリアは前向きで、強く生きているのだと、思ってしまった。
  どうしてもっと早く、駆けつけてやれなかったのだろう。
  どうしてもっと早く、家に遊びに来なかったのだろう。
  少しでもマリアの異変に気づく事ができていたら。
  彼との関係に悩んでいることに、気づく事ができていたら。
  何か、変わっただろうか。
  マリアは、苦しまなくて済んだだろうか。
  喉元にせり上がってくる苦い感情は、後悔だった。
  揺り椅子に腰掛け、ハートレスに囲まれたマリアは本当に美しく、幸せそうだ。
「マリア…あなたは、幸せ、なんだね」
「ええ、とても」
「何かをしたいとか、そういうのは、ない…?」
「ないわ。この子達がいて、マルタがいてくれたらいいの。あ、もちろん、エアリスにも遊びに来てもらいたいわ」
「うん…。そっか…」
  マルタは…ノーバディなのだろうか。それとも、何か別の存在なのだろうか。
  良く似た二人だと思っていた。
  意志を持ったハートレスとノーバディが同時に存在できるなんて、聞いたことがなかった。…いや、かのゼアノートは、意志を持つハートレスだという話だが、それは「特別」なことなのだと思っていた。
  こんなことが。
  本当に?
  けれど今、エアリスの目の前にいるのは紛れもなく「闇の存在」なのだった。
  何も望まないと言う。
  ハートレス達も大人しく、エアリスに興味は向けているけれども、襲い掛かってくるわけでもない。
  本当に?
  …もし、本当にマリアが何も望まず、ハートレスも大人しくしていてくれるのなら。
  過去も現在も人々はハートレスに苦しめられ、虐げられ、怯えて暮らしているのだとしても。
  …このまま。
  いられるなら。
  共存することは、可能なのではないか。
  だがエアリスの希望は打ち砕かれる。
「…マリ、ア…!」
  痛みに耐えるような、悲痛な叫びが空間のどこかから漏れた。
  マリアとエアリスは同時に顔を上げ、声が聞こえた方角を見る。
  何もない空間にじわりと闇が広がって、拡大したと思った場所から薄い金髪が現れた。
「…ま、マルタ…!?」
  動揺し、マリアは立ち上がる。駆け寄ったその場に、回廊から抜け出したマルタはくずおれた。
  抱きしめ、マリアは震え出す。
  マルタの身体は、崩れかけていた。
「マルタ、マルタ…!!どうして、こんな。何が?何があったの、どうしたの!マルタ!!」
  ソファから立ち上がり、呆然と立ち竦むエアリスへと霞む視線を向け、マルタは痙攣する指先を持ち上げた。
「…敵、…恐ろしい生き物が、殺しに来る…!あれも、敵の、…!」
  指差され、エアリスは目を見開いた。
  敵。
  …では、レオンが。
「マルタ、ああ、しっかりして頂戴、マルタ!!どうしてエアリスが敵なの?ああ、いえ、そんなことより、どうすればいいの、どうしたらいいの!?マルタ、マルタ!!」
「…殺して。マリア。あれを、殺して。…そして、にげ、て…。この子、たち、と、と…く…へ」
「なに?何言ってるのマルタ…!ねぇ、いやよ、しっかりして…!」
「ころして…エアリスの…が、く…」
  抱え上げていたマルタの下半身が消え、上半身が消えた。
  空気に溶けるように、儚く。
  残った顔は、エアリスを見ていた。
  視線が外せなくなり、エアリスは頬を伝う涙を拭うことが出来なかった。
  …ああ、マルタは。
  敵対してしまったの。
  レオンが非情な人間でないことは良く知っている。
  マルタも、優しい人であることは短い付き合いだったけれども、知っている。
  彼がおそらく諭し、説明し、理解を求めても相容れなかったのだ。
  わかっている。
  彼もまた、優しい人なのだから。
  …ああ、本当に。
  どうして、わかりあえなかったの。
  マルタの顔が、崩れた。
  砂が風に流されるように、少しずつ、消えて行く。
「マルタ、いやよやめて、私を置いて行くの?一人にするの?ダメよマルタ!!いや…っ!!」
  逃がさないようにマリアが手を伸ばすが、それはするりと指先から滑り、空気に溶けて消えて行く。
  マルタが流した最期の涙が、マリアの頬に当たって跳ねた。
  何も残らなかった。
  欠片すらも、何も。
  空に手を差し出したまま、マリアは呆然と見上げていた。
  座り込み、動かない。
  声をかけられず、エアリスは固唾を呑んで後姿を見守るしかなかった。
  …マリア、やめて。
  心中に呟く。
  戦わせないで。
  静かに、暮らして。
  お願い。
  ぞく、と背筋に走る悪寒に身震いをした。
「…っ!」
  周囲のハートレス達の真紅の瞳が、エアリスを射抜く。
  殺意だった。
  やめて、マリア。
  戦いたくないよ。
「…ねぇ、エアリス」
  床に座り込んだマリアは、蹲るように己の両手で身体を抱きしめ、細い身体は震えていた。
「どうしてあなたが敵なのかしら。わからないわ…。でもね?マルタは私に嘘をつかないの…」
「…マリア、ねぇ」
「マルタは誰に殺されたの…?エアリス、知ってるのよね…?」
「…それは」
「私は彼を失い、赤ちゃんを失い、マルタを失ったわ。あなたは?エアリス。…あなたには、彼がいるのかしら」
「な…なんの、話?」
「彼が来るって言ったの。男が来るって。…あなたには、いるのね。私がなくしたものを、持っているのね」
「…ち、ちがうよ、マリア。彼は私の、」
  仲間だと、言う暇は与えられなかった。
  周辺にいたハートレスが、襲い掛かってくる。
  身を捩り、攻撃をかわすが、敵の数が多すぎて逃げ切れない。
  攻撃はしたくない。
  マリアの子供だというこれらを、傷つけたくはなかった。
  けれど、このままでは。
  マリアがゆらりと立ち上がった。
  彼女自身は戦うことをしないらしく、少し離れて揺り椅子へと戻る。
  空いたスペースに走り込み、部屋を出ようと扉を引くが、開かなかった。
「あなたの彼を、目の前で引き裂く方がいいのかしら。…野蛮だわ。でもそうしないと、私もマルタも気が済まないわ。…この子達も、怒ってる」
「……!」
「どこにいるのかしら。…マルタは、どこに行っていたの…?」
  ざわざわと、闇がエアリスに迫る。
  扉を諦め、壁に背をつけ武器を取り出した。
  ダメ、もう、これ以上は。
  倒さなければ。…マリアも。
  マリアも!
  もう、エアリスの話を聞いてくれそうにはなかった。
  後悔ばかりが先に立つ。
  もっと、私が。
  ちゃんとしていれば。
「ねぇエアリス。マルタは、どこに行っていたのかしら?」
「……」
  おそらくそれは。
  監視カメラの影を思い出す。
  レオンが、直接対決すると言っていた事を思い出す。
  ならば、その場所は。
「マルタを殺した男は、どこにいるの」
  エアリスの腕に絡み付こうとするハートレスを振り払う。
  正面から飛び込んでくるハートレスを武器で打つ。
  レオンは、おそらく。

「ここだ」

  扉が外から蹴り開けられた。
  蝶番が壊れて飛んだ。
  横に開くはずの扉を蹴り壊し、倒れた扉を踏みつけ駆け込んで来た影がハートレスを薙ぎ倒す。
  風のようだとエアリスは思ったが、気づいた時には部屋に蠢く半分程の敵が消滅している。
「…レオン?」
「無事か、エアリス」
「…うん、平気」
「そうか」
  腰を浮かせたマリアは、愕然と男を見やった。
  一瞬で子供達を消し飛ばす様に、怒りで我を忘れた。
「お前か。…お前が…っ!!」
「そうだ。俺があの女を殺した」
  平然と言ってのける男がこの上なく憎かった。
  歯軋りなど、生まれてから一度もしたことがなかったのに。
  憎い。
  恨めしい。
  おぞましい。
  人間め!
「…マリア、やめよう?マリア、落ちついて、話を聞いて」
「酷いわエアリス。あなた、私を殺すために来たのね」
「違う!違うよ!!」
「信じてたのに。…友達だと思ってたのに」
「マリア!!」
  エアリスを制し、男が一歩前へ出た。
  見据える蒼の瞳は、恐ろしく静かだった。
「質問は二つ。…一つ、ハートレスをこれ以上増やさず、静かに、人間と敵対せずに暮らす事ができるか。二つ、あんたは俺を憎んでいいが、忘れろ。…できるか?」 
  エアリスは絶望的な思いでレオンを見る。
  それは、最後通牒にしか、聞こえない。
「…ふ…っふふ、うふふ、ふふっ…はは、ははははは…!笑止!!…こんな、下品な言葉を使う日が来るなんて屈辱だわ…!酷いわ、エアリス。何て酷い男を連れて来るの」
「…マリア…!」
「答えはノーだわ。何一つ、お前の言うことなど聞く気はない!!」
「そうか、残念だ」
  本当に、残念だ。
  男の表情は変わらなかったが、憐れみの色に染まっていた。
  屈辱だわと、マリアは思う。
  おぞましい生き物のくせに、何故私を憐れむの。
  子供達を、けしかける。
  さぁ、殺しなさい。
  引き裂いて!!
 
「ソラ!!」

  それは何の単語だと、マリアは思った。
  マリア目掛けて過たず突進してきたそれが、何かを突き出した。
  胸を貫かれ、激痛に喘ぐ。
  痛い、苦しい、悲しい、虚しい、憎い、恨めしい、…辛い。
  駆け抜ける激情が過ぎた後には、何も残らなかった。
  天井に向けて伸ばした手は、どこに触れることもなく空に解けて消えて行く。
  ああ。
  死が。
  …神が許したもうた私に、死が。
 
  主よ、憐れみたまえ。
  主よ、憐れみたまえ。
  主よ、憐れみたまえ。

  私は、……。

  静寂の落ちた視界の中で、男と女と少年が、私の子達を殺している。
  …ころしている。
  …ああ、死が。

  うしないなくした、かれと子が。

  ……。

  目を閉じる。
  もう、何も、わからなかった。

「…マリア…!!」
  駆けつけ手を伸ばしたが、何をも掴めず空を切る。
  闇の消えた部屋の中で、エアリスは膝をついて蹲る。
  何も、できなかった。
  私、マリアの何を見ていたの。
「…レオン、エアリス大丈夫か…?」
「ああ、大丈夫」
「…うん…」
  少年の気遣わしげな視線を感じた。
  レオンのそれは、温かかった。
  視線を上げ、二人の向こう、廊下に立つのはクラウドだった。
  …クラウドも、来てたの。
  どうして、とは問わない。
  ゆっくりと立ち上がる。
  深呼吸をした。
「…ごめん。大丈夫。…もう、帰る?」
  レオンに向き直れば、まだだと言って首を振った。
「扉があるはずだ。…おそらく、地下に」
「…そう」
  ソラのキーブレードで、塞がなければならなかった。
  地下への入り口は、「彼」が死んだ階段横から通じていた。
  地下へと続く扉を開けると、ハートレスが密集していた。
  ソラが率先して先へと進み、駆逐する。
  マルタが階段先に立っていたことを思い出す。
  彼女は、屋敷に収まりきらなくなったハートレスを城に持ち込んでいたのだった。
  最奥の正方形の狭い部屋に、それはあった。
  キーブレードで、鍵穴を閉ざす。
  造作もないこの作業が、キーブレードでなければ適わないのだ。
  闇が消え、薄暗い石造りの部屋は埃臭く、黴臭い。
  床に横たわる、女の死体が現れた。
「…マリア…?」
  エアリスは屈みこみ、そっと触れた。
  冷たくやせ細った身体はもはや動くことはない。
  ノーバディを解放し、ハートレスを解放した。
  人間として蘇った彼女はだが、もうすでに、死んでいた。
  視界が滲む。
  助けてあげられなかった。
「…ごめんね、マリア…!!」
  後悔の涙は、愚かだった。
  泣く資格など、自分にありはしないのだ。
  レオンとソラは、何も言わない。
  少し離れた場所に立つクラウドは、視線を逸らしてどこかを見ていた。
 
  ごめんなさい、私は何もできなかった。

  レオンにも迷惑をかけて申し訳ないと謝るが、彼はただ静かに、首を振った。


最終話へ

Kyrie eleison-12-

投稿ナビゲーション


Scroll Up