手渡された数枚の書類と小さな電子記憶媒体を落とさないように受け取って、男はデスクの前に無造作に置かれた椅子に腰掛けた。
  端から見れば尋問にしか見えない扱いを受けながらも、呼び出された男は顔色一つ変えることなく静かに書類へと目を落とす。
  呼び出した依頼主はデスクの向こうで腕を組み、気にすることなく踏ん反り返りながら、文字を追っているだろう俯いた頭頂部へ向かって口を開いた。
「…それが現状わかっていることの全てだ」
「なるほど、わかりました」
「引き受けて頂けますかな」
「…拒否する権利はあるのでしょうか?」
「ない。…業務上、確認しただけだ」
「ええ、承知しております。お引き受け致します」
「他言は無用だ。死ぬことになる」
「…数々の前任者のように、ですか」
「口を慎め。我らとて不本意なのだ」
「…わかっております、博士」
  口角を引き上げ笑みを形作る男は若く、二十代半ばの容貌は繊細で、整っていた。ともすれば頼りなげにも見える伏目がちの蒼い瞳は、だがひとたび相手を真っ直ぐ見据えれば驚くほどに存在感を増し、引き込まれるような強さがあった。
「やり方は任せて頂けるんでしょうか?」
「君が見事依頼を果たすか、死ぬまでは任せる」
「ありがとうございます。微力を尽くします」
  渡された資料を抱え、フラッシュメモリをスーツのポケットに入れながら立ち上がり、男は丁寧な一礼を施し踵を返す。
  ダークグレーのスーツにライトグレーのシャツ、光沢のある黒のネクタイという出立ちは、白い壁で囲まれた研究室にあっては地味に映るが、男の蒼い瞳と褐色の髪がその印象を覆す。
  自信に満ちたというほど不遜ではなかったが、年齢不相応に落ち着き払った態度に不安は見えない。
  多くの前任者達の末路を知ってなお、男の様子は部屋に入って来てから全く変わることはなかった。
  デスクの上に両肘をつき、手を組めば骨ばった己の指先が視界に入る。
  男のそれは、長く細く美しかった。
「スコール・レオンハート先生」
  呼び止めれば、男は音もなく振り返り、穏やかな微笑を向けた。
「…レオンと、お呼び下さい。それで通っておりますので。エヴェン博士」
  柔らかな表情は敵を作らぬ為であり、静かな物腰は警戒を抱かせぬ為の作り物であることを、エヴェンは見抜いた。
  愛称、というよりは通称での呼び方を提案してみせた男の親しみやすげにも見える顔に、これと言った感情はなかった。
  好意もなければ、悪意もない。
  己が口元に浮かぶ笑みは自然と歪んだ。
  食えない男だ。
  こいつは、狸だ。
  甘く見てはいけない人種だった。
「レオンハート先生、君の経歴は素晴らしい。成功した暁には、我が研究機関に席を用意しよう」
  今まで成功した者はいない。レオンは平然と笑って見せた。
「どんな輝かしい過去であれ、死ねば無意味です、博士。…お声がけ頂き感謝します」
「…フン。精々殺されぬよう頑張る事だ」 
「お気遣い痛み入ります」
「行って良い」
「失礼します」
  再度丁寧に一礼し、出て行く後姿に隙はなかった。
  静寂の落ちた真白い空間は、エヴェンの研究室だった。
  デスクの上に広げた書類の中から一枚を手に取り、目線の高さに掲げてみせる。
  今しがた出て行った「先生」の経歴が記載されたそれは、世界に名だたる学校名と研究機関と企業の名前で埋められていた。
「これだけの経歴の持ち主が、今まで表に出て来ていないのはおかしい。…世に変わり者は捨てる程いるが、アレは世捨て人の類ではない…。だが偽りはなかった」
  国家機密に該当する依頼を行うに当たり、請負人については徹底的に調査した。
  傷一つなく燦然と輝く経歴をぶら下げた「スコール・レオンハート」なる男に不審な点は見つからなかった。
  俗に言う「天才」と呼ばれる部類の人間だったが、エヴェンは気に入らなかった。
「完璧な人間など存在せん。…が、まぁいい。どうせ殺されて終わるだろう」
  今まで送り込んだ請負人は全て死んだ。
  それこそ世界的に有名な博士から地方で有名な「先生」まで、全て死んだ。
  あらかた依頼しつくしもう頼める人材がいないという段階になって浮かび上がった今回の男は、最後に行き着くにしては立派過ぎる経歴を持っていた。
  もっと前段階で、それこそ世界規模で高名な博士と同列に語られてもおかしくないレベルなのだ。
  …今、その輝かしい男がどこで働いているかと言えば、他国の田舎町の小さな無名のクリニックなのだった。
  気づかなくて当然だ。
  埋もれすぎにも程があった。
  この男で不可能ならば、もう諦めるしかないだろう。
  ああせっかくの研究対象が、とエヴェンは頭を抱えたが、己の権限を行使するにも限界があるのだった。

 

 

  人間が横列で数十人並んで歩いてもまだ余裕のある廊下には、支柱毎に兵士が一人配置され、歩く人間を監視していた。
  監視カメラはどこにあるかわからないよう設置されており、兵士の視線と合わせれば死角はないと言っていい。
  兵士以外の人間に出会うことなく研究所を出たレオンは、白壁地獄から解放されてため息をついた。
  この研究所の長の趣味なのか、どこもかしこも白であり、塵一つなく清められた所内は快適と言うよりは窮屈で息が詰まった。
  依頼を完遂した後で、こんな所で働けと言われてもご免被ると思いながら家路へと急ぐ。
  引越の準備と、下調べと、資料の読み込みをしながら対策を練らなければならなかった。
「生か死か。わかりやすい二者択一だな」
  最大にして最後のチャンスであると言っていい。
  死んでしまえば後のことなどどうでも良いが、生き残れば未来が開け、希望が生まれる。
  長い坂道をダラダラと下るが、まだ出口は見えなかった。
  巨大な山を切り開いて建築された白亜の城を中心として、この街は成り立っている。
  重要施設は城の周囲に存在し、許可なく立ち入る事は許されない。
  壮麗な城は陽光を受けて白く煌き、輝ける庭と呼ばれた国は今、世界で最も富んでいた。
  城門を一歩外に出れば、広がっているのは煌びやかで明るい未来を約束されたかのような繁栄だ。
  中心部は官僚や軍上層部の居住区があるため整理され、石畳の床と様式の揃った建物群は美しく、食べ物が溢れ高級な衣服に身を包んだ人々の笑顔で賑わっている。中心を離れた国境付近であっても、飢えて死ぬ割合は他国に比すれば驚異的な程に低い。世界中から物と人が集中し、こぞって富を競い合う。
  広場という広場にやって来る大道芸人の周囲には人だかりができて盛り上がり、客を当て込んでずらりと並ぶ露店に群がり買い物を楽しむ人々もまた多い。
  ここだけは、平和で享楽的であった。

  世界の均衡は、この国が仕掛けた「一日戦争」と呼ばれる一方的な破壊によって崩壊した。

  あらゆる国の首都は壊滅状態となり、無傷なのはこの国だけだった。
  唯一の戦勝国。
  唯一の占領国。
  どの国家も、この国に打撃を与える事は出来なかった。

  十年前まで「レイディアントガーデン」と呼ばれた輝かしきこの国の、現在の名は「ホロウバスティオン」と言った。

 
  灰色にくすみ、所々赤茶けて錆びた金属の混じる建物が密集する狭い路地を、男は小包を抱えて走っていた。
  通り過ぎる瞬間吹き付けられるアパートの調理の臭いは油のもので、思わず眉を顰めて息を止める。
  ちょうど昼食時であり、狭い安アパートに在宅している人々は一斉に調理を開始したようで、あちらこちらの換気扇から白い煙と臭いが漏れ出し始めていた。
  人一人がようやく通れる路地に逃げ場はなく、一気に駆け抜け錆付いて今にも壊れそうな階段を駆け上がる。
  四階に到着し、ようやく息を吐き出し深呼吸をした。
  どこからともなくニンニクを焼いたような香ばしい臭いが漂って来て己が空腹を自覚したが、腹を一つ撫で頭を振った。
  玄関扉に貼り付けられた部屋番号を確認して歩き、目的地に到着してドアを叩く。
  インターホンなどという上等なものは、ここにはついていなかった。
  中から面倒くさそうな男の声で誰何され、「お荷物をお届けに上がりました」と名乗る。
  ややあって鍵を開ける音がして、覗いた顔は中年を過ぎ、頭の禿げ上がった小柄な男だった。
「あーやっと来たか」
「こちら、お届け物になります。お名前間違いないでしょうか」
「ああ、ねぇよ」
「ではこちらに領収印を…サインで結構です」
  ペンを差し出せば、爪が黒く汚れた指で受け取りながら、男は扉を大きく開く。よれよれになって薄汚れた白いシャツの下にはぽっこりと出た肥満気味の腹があり、下着に素足の男は左足で右膝裏を掻いていた。
  典型的なダメなおっさんのイメージそのままの男は欠伸をしながら汚い字でサインをし、小包を受け取りペンを持ったまま扉を閉めようとするので笑顔で指差し取り返す。
「ありがとうございました」
「…へっ」
  口をへの字に曲げ不貞腐れたような一瞥を投げて、男は乱暴に扉を閉めた。
  ペンの一本くらいでケチケチしやがって、と言いたげな表情だったが、くれてやる義理はない。
  盗人猛々しいとはこのことだったが、こういう輩は数多く存在した。
  特にこういうスラム街では日常茶飯事と言って良く、他人の荷物であっても「自分がそうだ」と偽って持って行こうとするなど、モラルの低さは嘆かわしい限りであった。
  それもこれも貧しく、満足な教育が受けられない事が原因だった。
  戦争前からスラム街は存在したが、戦後貧しい地域は爆発的に拡大した。
  三年前、たった一つの国に世界は侵略され統一された。
  厳密に言えば破壊されただけで統一などされてはいなかったが、どの国も反撃できなかった為事実としては敗戦扱いになっており、三年経った現在も、表立った武力衝突は起こっていない。
  どの国も首都が機能していない為、起こしようがないというのが実情だった。
  中央政府の統治機能を失った国家の脆さが露呈し、被害が及んでいないにも関わらず他都市は大混乱をきたした。立法、行政、司法が停止すると、地方都市のキャパシティを超えた裁量権に頭を抱えることになった。法治国家においては、法がなければ動けない。法を整備できず、円滑に国家を運営する為の機関が存在せず、法を遵守させるべき砦がない。一年経って新たなる首都選定に入り、二年経って決定し、三年経ってようやく首都が決定した。
  早い国は一年と経たず新首都を決定し、政府機能を復活させるべく動き始めたものの、三年経ってもまだ以前の落ち着きを取り戻すには程遠かった。
  その間進駐軍は支配する気があるのかないのか、崩壊した首都跡に駐留したものの、地方都市には無干渉だった。国家の解体作業もなく、戦犯を仕立て上げるわけでもなく、言論統制もなければ非軍事化を行うでもなく、半年と経たずに自国へと撤収した。
  いたずらに他国の首都を破壊し、中央政府と重要施設を灰燼と化さしめただけに見える。
  統制を欠いた各都市のトップ達は表立って敵対する態度は見せず、飛び火を恐れ大人しく己が支配領域を守ることに集中していた。
  首都のみを破壊せしめる圧倒的で正確に過ぎる技術が何であるかを、どの国も把握できていなかったせいもある。
  一夜にして滅んだ首都は見る影もなく廃墟と化し、その場にいた全ての人間が殺された。
  運良く逃げ延びることが出来た人々も、何が起こったのか理解していなかった。
  そこで何が起きたのか、説明できる者は存在しない。
  調査しようにも進駐軍が陣取っていて近づけず、撤収した後にはただ、無人の街があるばかりだった。
  かつて国で一番栄えた首都は死の街となり、捨てられた。
  そこへホームレスが集まって、スラム街が構築されるのは自然の成り行きともいえた。
  混乱期だからこそ、国家間を自由に行き来し好きなように生きることも出来るのだった。
  交通、流通はようやく再構成され流れ始めた。
  配達を終えた男は自宅アパートの前でバイクを降り、ガレージへと格納する。
  男が住居兼事務所を構える周辺は危険区域ではなかったが、治安がいいと言えるほど高級住宅街でもなく、ごく一般的な中流家庭が集まる集合住宅の一角にあった。
  貧しくもなく、豊かでもない。
  国民の半分以上を占める中間層をターゲットとした宅配業は、それなりに繁盛していた。
  道が寸断され、車が通れないような場所もバイクなら走る事ができるので、バイク便は重宝されるのだった。
  事務所に入り、留守電に入っているメッセージを再生する。
  一人でやっている為、客からの依頼は主に電話で受けていた。
  集荷の依頼を聞いて向かい、発払いで受け取り荷物を届けるのである。
  午後は集荷時間指定が三件入っている事を確認し、メモに残す。
  昼飯を食う時間はありそうだと思いながら、ガレージ併設の事務所から奥の居住部屋へと向かった。
「うーん昼飯何すっか。まだ食材あったっけ?買い物行かないとダメかな」
  呟きながらキッチンへと向かい、冷蔵庫を開ける。
「あ、そっか。冷蔵庫見りゃいいんだよな。んー…飯何するか…あーやっぱ買い物必要か。メモする、メモ」
  乱雑に積み上げられたチラシを一枚引っ張り、裏返す。
  ペンを取り出し、必要なものを記入した。
「これでいいか?…これで何日か買い物行かなくて済むか。めんどくさいからなぁ買い物…」
  他にも日用品を確認し、足りないものを書き込んだ。
  目にかかる前髪が邪魔で指先で払うが、逆立てた金髪に細かな砂が絡みついていてざらついた。
  眉を顰め、頭を振って砂を払う。
  パラパラと音を立てて床に落ちる砂の行方を目で追えば、己が黒衣にも砂埃がついていることに気がつき、軽く払う。
「黒は目立つよな。先に風呂入って着替えるべき?…けどまだ仕事あるしどうせ汚れるか。あ、床掃除もしないとならなくなったのか…」
  とりあえず飯、を食う為に買い物、と呟いて、入ってきた事務所とは別の、居住部屋の玄関扉から外に出た。
  表から入ると普通のアパートだが、裏手に回ればガレージと事務所なのだった。
  いい物件を見つけたなぁと満足している。
  外に出れば、隣室で人の声がした。
  しばらく空室だったのだが、やっと入居者が決まったらしい。
  鍵をかけながらなんとなく隣を見やれば、ドアが開いて住人らしき男が出てきた。
  男は引越業者に「ご苦労様」と労いの言葉をかけ、作業着を着た数人の業者を送り出しているところだった。
  この国では、引越挨拶などというものは存在しない。
  引っ越してきたからと言って、わざわざ上下左右の住人に物を持って挨拶回りなどする慣習はなく、いつのまにか隣室に引っ越してきて、いつのまにかいなくなっていた、ということはよくあった。
  顔を合わせれば挨拶はする。その程度の付き合いが普通だった。
  だが引越の瞬間に立ち会ってしまっては無視するわけにもいくまい。
  しばし待てば、男が気づいて振り向いた。
  随分と高そうな服に身を包んだ若い男だった。
  仕立てと布の違いは一目でわかる。
  スーツのようなジャケットとパンツだったが、素材が違うので一揃えではなくそれぞれが独立したものだった。
  着崩しボタンをいくつか外したシャツから覗く首元にはシルバーのアクセサリーがあり、それもまた高そうだった。
  肩下までの長めの褐色の髪に蒼い瞳の男は、随分と造作の整った小奇麗な顔をしていた。
  だが女性的に見えないのは、体格が見かけによらずしっかりしているからだろう。
  細身ではあるが華奢ではない。ちゃんと鍛えられている身体だった。
  一見した所学生には見えず、職業は不詳だ。
  普通のサラリーマンと言われればそうかと思うし、夜の仕事をしていると言われればそうかと思う。
  どこかの先生と言われればそうかと思うし、肉体労働系と言われれば…違和感は伴うが「へぇ」と納得するだろう。
  何にでも適応できそうな、と言えば聞こえはいいが、とにかく不詳だった。
  目が合うと、男は軽く瞳を細めて微笑んだ。
  穏やかで親しみの持てる、好意的な表情だった。
「こんにちは。隣に引っ越して来ました、レオンハートと言います。しばらく片付けでうるさいかもしれません。申し訳ないです」
「あ、いやご丁寧にどうも。俺はフェア。…ザックス・フェアです。よろしく」
  フルネームで名乗り、右手を差し出せばレオンハートと名乗った男はにこりと笑んで、躊躇うことなく手を伸ばして握手を交わした。
「スコール・レオンハートです。…普段レオンと呼ばれているので、俺の事はレオンと呼んで下さい」
「では俺の事は名前で呼んで下さい、レオン」
「これからどうぞよろしく、ザックス」
「こちらこそ」
  落ち着いた雰囲気から察するに、少し年上かもしれないと思った。
  仲良くなれるかなぁ。なれたらいいなぁと思ったものの、初対面で馴れ馴れしく話をするのも憚られ、挨拶を終えれば互いに「では」と会釈を残してその場を別れた。
  レオンは部屋の中へと消えていき、ザックスは買い物に行く目的を思い出す。
  バイクを使うまでもない距離を、明るい日差しの中行き交う他人にぶつからないよう避けて歩く。
  親しい友人はいなかった。
  家族もおらず、ザックスは一人だった。
  ただ毎日を生きているだけの日々は、孤独であり寂しかった。
  各地を転々と放浪する生き方は嫌いではなかったが、土地を追われるように去らねばならないことが苦痛だった。
  これも戦後の影響かと思えば仕方のないことではあるが、どこかにゆっくり腰を落ち着けて、友人を作り、恋人を作り、家庭を持つことに憧れていた。
「レオンと友達になれるかな。…なっていいかな。いい奴そうだよな」
  露店に並ぶ鮮やかな果物に目移りしながら、ザックスは一人呟くのだった。


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