雨に、撃たれる。

 まず思ったことは、「ありえない」だった。
「…っつ…」
 一寸先も見えないとはよく言ったもので、闇ではないが今眼前に広がり視界を遮る瓦礫の山と砂埃は、周囲の状況把握を困難にし、クラウドの身動きを封じていた。
 どこまで落ちていくのやら、城の天井から床までの距離は長く、たった1階下に落ちるその時間のなんと緩やかに感じられることか。
 冷や汗をかいたのは一体どれくらいぶりだろう。
 大理石で出来た床だったモノの下敷きになればひとたまりもなく即死できることは確実だったが、大人しく死ぬのはごめんだった。同じ速度で落ちて行く瓦礫に剣を突き刺し、反動で飛び上がる。視線より高い位置にある瓦礫を踏み台にして、さらに上へ。元いた階へ戻るにはすでに落ちすぎていた為、もはや瓦礫と共に下層へ落ちるしかなかったが、せめて己の身が落ちるのを最後にして、下敷きになるのだけは避けた。
 避けたが、無傷というわけにはいかなかった。
 床に激突し砕け散る大理石群に巻き込まれないよう寸前で離れたが、落ちた場所は狭い部屋だったらしく、床に着地する前に飛散した大理石は砂煙と共に部屋中に充満し、部屋の広さを計算しきれなかったクラウドは壁に背中を強打した。
 さらにあちこちに散った鋭利な破片に足を取られ、バランスを崩す。
 ふんだりけったりとはこのことだった。
 背中が痛い上、砂埃を存分に吸い込んでしまい咳も止まらなくなる。
「…ッ!ぐ、ぅっ」
 背を強打したせいか、声も出ない。
 呻いた声は掠れてまるで別人のようだった。
 サイアク、最悪だ。
 床に手をつき、適当に破片を払って寝転んだ。というより、倒れこんだ。
 もうもうと立ち込める砂埃は出口を求めて空気の流れに従い上へと登る。ならば床に這い蹲ってやり過ごすのが得策だ。
 轟音を間近に聴いていたせいでワーンワーンと耳の中は反響して煩く、まともな音を捉えることは困難だったが、薄目を開ければ日の光がキラキラと埃を反射して煌いているのが皮肉にも美しかった。
 しばし時が経つのも忘れて見つめていれば、やがて睡魔が襲ってくる。
 今ここで寝たら死ぬだろうか。
 …否、おそらく死にはしないだろう。そんなにヤワな身体はしていなかった。
 ならば少し眠ろうか。
 目が覚めたら多分、背中の痛みも足の痛みも、喉の痛みも今よりはマシになっているはずだった。
 目が覚めたら起き上がって、足の状態を確かめて、歩いて、帰ろう。
 とにかく今は、眠い。
 「迷子になったら自力で帰れ」と言われたことだし。
 眉を顰めて、呆れたように溜息を零すあの男の顔が脳裏をよぎる。整った怜悧な表情が笑えば、意外に人間らしい温かみが垣間見れるあの男。
 言われなくとも、子供じゃないから、ちゃんと帰れる。
「ぁー…」
 ちょっとだけ、寝る。
 そうだな、ほんの少しだけ。
 このだだっ広い城を普通に歩けば、一階下に辿りつくくらいは造作もない程度の時間。
 それくらいなら寝ても平気だろう。
 …目が覚めて何も状況が変わってなかったら、ちゃんと一人で帰るから。
 一人だったら、起き上がって帰るから。
 そしてセフィロスを見つけて倒すのだ。
 こんな所にいつまでも留まっていてはいけないのだから。
 だから。
 今は。
「さっさと来い…レオン」
 呟いた声が未練がましく響いたのは、きっと…気のせい。

 

 これは夢だ、とわかりきった夢であっても、思い通りにならぬことはある。
 雷鳴轟く暗雲の下、セフィロスの身体を貫く己の剣は真紅に染まり、男の広げた片翼は無残に引きちぎられ地面に転がっていた。
 波打つ銀の髪は乱れ、男の物言わぬ唇からは血が滴り、開かれた瞳には輝きがない。
 荒れ狂う心音と忙しない呼吸を繰り返す己は、歯の根が合わぬほど震えており、剣を握る手に力は残っていなかった。
 終わった、と思った。
 これで解放されるのだ、と。
 これで自分は自由で、光の世界を堂々と歩いて生きて行くことができるのだと。
 だが震えは止まらない。
 地面に転がるかつて英雄と呼ばれた輝かしき男の屍は、もはや何も語らない。
 このまま消滅して行くのみだ。
 己の闇が、消滅するのだ。
 キレイに。
 跡形もなく。
 その瞬間を見届けることこそが己の義務であり責務であった。
 己が己として生きていく限り。
 光の世界で生きて行く限り。
 この男の存在はあってはならないものだった。
「終わったんだね、クラウド」
「おめでとう、クラウド」 
「やったじゃん、クラウド!」
「これでおめぇは自由になったんだな、クラウド」
「よくわかんないけど、決着ついたんだな、おめでとークラウド!」
 エアリスが笑う。
 ティファが笑う。
 ユフィが笑う。
 シドが笑う。
 ソラが、笑う。
 
 皆が、笑う。

 気持ち悪かった。
 震えはますます酷くなる。
 喜ばしいことのはずだった。
 皆が祝福してくれるように。
 自分の存在が確立された瞬間だった。
 何よりも己が喜ばしいはずなのに。
 「ありがとう」と、言えない自分がいた。

 何故?

「わからない…」
 セフィロスを倒すために生きてきたのに、倒すことができたのに、何故喜べないの。
「何が?」
 クラウドに問う冷静な声は足元から。
 物言わぬ屍と化したセフィロスの傍らに膝をつき、その乱れた銀髪を直してやりながら男は再度問う。
「何がわからないんだ?クラウド」
 ぶつかる瞳は蒼く、静けさに満ちたそれは震える己を圧して息が止まる。
 立ち上がった男は褐色の髪をかきあげ、至近に寄ってクラウドの頬に手を伸ばす。
「クラウド」
「…わからない…」
 頬に触れた指先は、額へ。
 わからない、を繰り返すクラウドに男は小さく苦笑を漏らし、手の平で瞳を覆い隠して囁いた。

「何も考えなくていい。だから、泣くな」

 脳に染み渡るその声は静かで優しさに溢れていた。
 労わりと気遣いにクラウドは慰められ、安心する。
 施設で寝ていた時に額に触れた、レオンの手は優しかった。
 あの時のようだと思ったが、同時に違和感を覚える。 
「…レオン…?」
 名を呼べば、応えが返る。
 手を伸ばせば、己の目を覆う男の手首に触れた。
 あまりに現実的すぎるこの感覚。
「…え?」
「え?って、何だ?」
 覆われていた瞳が解放され、開けば視界が不自然に歪んで液体が頬を滑り落ちた。
「…何だコレ」
「クラウド?」
 目を擦り、濡れた指先に愕然とする。
「何だコレ」
「…俺に聞いてるのか?それとも自問か?」
 レオンを見る。
 薄気味悪いものを見るような微妙な表情はあまり見慣れないものだったが、優しさに満ち満ちたレオンに比べれば遥かに馴染みのあるものだった。
「…気持ち悪いレオンの夢が」
「お前死ねば良かったな」
 容赦なく、殴られた。
 どこまでが夢で、どこからが現実なのか。
 あまりに恥ずかしくて、聞きたいとは思えなかった。
「…ここどこ」
 誤魔化すように周囲を見回して問うが、城内であることは明らかだった。
「お前が倒れてた部屋の隣だ。ここは客室が並んでる。お前を抱えて外に出るのは無理だった。お前と剣、重すぎだ」
「…嘘つけ」
「助けてやった俺に向かって嘘つき呼ばわりとはいい度胸だ。…ここまで回り込んでくるのに時間がかかったんだよ。今何時だと思う」
 盛大な溜息をついてみせる男は、よく見ればあちこちに怪我をしていた。
 レオンが?
 怪我?
「何でお前まで怪我してるんだ?」
「…人の話聞けよ…」
 脱力しきった様子で傍らの椅子に座り込み、それきり口を噤む。
 ベッドに寝かされている為外の様子はわからなかったが、部屋の中には明かりが灯されており、扉はしっかりと閉められていた。
 もう夜か。
 レオンの怪我は、ハートレス共を無理矢理蹴散らした時に出来たものなのだろうか。
「先に帰れば良かったのに」
 嘘。
 だが、随分と迷惑をかけただろうことは手に取るようにわかる。
「…そうすれば良かったな」
 不機嫌極まりない声で呟かれて、さすがに後悔する。
「…あー」
「…何だ」
「…アリガトウゴザイマス…」
「わかればいい」
「…で、帰らないのか?」
「帰りたいなら帰ってもいいが」
 疲れたように腰掛けたままのレオンを見やり、起き上がろうと身を起こすが、右足首に激痛が走り思わずベッドに逆戻りした。
「…ってぇ…ッ!」
「捻挫してるんだから無理だろうな。…ああ、テーピングできるようなものが無いかと探したらあったから、しておくか。…腫れてるから痛いだろうが」
「…ブーツ履けないくらい腫れてるし!痛すぎだ!」
「自業自得だろ。今ここでテーピングするか、放置して悪化させるか、選べ」
 立ち上がってにじり寄るレオンは復讐の機会を得たとばかりに楽しそうだった。
「……」
「ついでに言っておくが、俺は回復魔法は持ってない。痛いのは俺じゃなくてお前。…どうする?」
「…自分でやる」
「無理だろ」
「……」
 にこやかにも見える笑みを刷くレオンが怖い。
 礼は言ったはずだが、まだ足りないくらいに怒っていたりするのだろうか。
 クラウドの顔色を見て取って、レオンはさらに微笑んだ。
「…今日の仕事はワンフロア分の調査だった」
「……」
「半分しかできてないな」
「……」
「ここの階は調査済みだった」
「……」
「瓦礫の山、誰が片付けるんだろうな」
「……」
「穴開いたせいで、上から落ちてくるハートレスが増えたな」
「……」
「誰が倒すんだろうな」
「…えーと…」
「改築作業の打ち合わせが、できなかったな」
「……」
「また俺の睡眠時間減るんだろうな」

「ごめんなさい、よろしくお願いします…」

「わかればいい」
 こんな恐ろしい笑顔を向けられて、何故ソラは嬉しそうにしていられるのか理解に苦しむ。
 と、クラウドは思ったが口には出さなかった。
 まさか本当に助けに来てくれるとは思わなかった。
 …いや、レオンなら来るだろうという思いはあったが、本当に助けてもらうと何とも言えず複雑な感情があった。
 ありがたいのだが。


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