雨に、撃たれる。

 静かだった。
 互いに口を噤めば広がるのは無音の空間で、闇に溶け込んだ者達の気配は室内には届かず、知覚範囲にある動く者といえば二人を置いて他にない。
 ベッドサイドに置かれたランプはほの暗く、室内全体を照らすには弱かったが、煌々と白々しい明かりで全体を照らされるよりは落ち着いた。
「…イッ、痛い!お前、わざと痛くしてるだろッ!」
「うるさいな。普通にやってる。…この程度の怪我いくらでもしたことあるだろうに、情けないなお前」
 騒ぎすぎて、一瞬で静寂など吹き飛んでしまったが。
「…っ、絶対!わざとだね」
「そんなに痛くして欲しいのか?マゾだな…付き合いきれない」
「誰がマゾだ…!」
「ちょっとは我慢しろよ。騒いで許されるのはお子様だけだ。甘えるな」
「甘えてない!」
「そうか。じゃぁ黙ってろ」
 反論の余地もなく綺麗に口を封じられ、クラウドは不満ながらも口を閉ざす。
 迷惑そうに顔を顰めながらもベッドに腰掛け、クラウドの足を手当てするレオンの様子は手馴れており、その迅速かつ正確な手つきは身体を起こしたクラウドからもよく見える。
 痛みばかりで他の感覚などありはしないが、不必要に足首を動かさないよう注意を払っている様子は窺えた。
 余程嫌いな相手でもない限り、怪我人に負担をかけるような手当てをするはずなどないことは承知していたし、自分も当然そうする。
 嫌いな相手ならそもそも親切に手当てなどしないだろうが。
 それでも痛いものは痛いのだ。
 誰がマゾだ。誰がお子様だ。
 …誰が、甘えるか。 
「…何だ、やればできるんじゃないか」
 子供をあやすような口調で褒められても、嬉しくはない。
「…エアリスとユフィはもう帰ったのか?」
 怪我のことを考えていても痛いだけなので、話題を変えることにする。
「城内にいたなら、あの音に気づかないはずはないだろうな…。打ち合わせもサボったし、明日の朝にでも様子を見に来るかもしれないが」
「お前が死んでるかもって?」
「…お前自分の立場わかってないな…」
「イタイイタイイタイタイ!…お前はサドかッ!」
 無表情に足首を捻るとは、どういう了見だ!
「俺は至ってノーマルだ。…で、エアリスとユフィは城に来てたのか」
 SもMもイケるということだなと理解することにして、クラウドはじくじくと痛む足首から視線を逸らす。
「お前が置きっぱなしにしていた本を二人が戻しに来ていた…のを、手伝わされた」
「ああ、あれか…助かるな。お前が迷子になったのは、そのせいか」
「…迷子を強調するな。お前やっぱりサドだろ」
「…終わったぞ。俺がサドなら」
 レオンはポイ、とクラウドの足首をベッドの上に放り投げた。
 完全に力を抜いてレオンに足を任せていたクラウドは、無造作に落とされた衝撃と痛みで息が止まる。
「ぃ…ッ!…っ!!」
「こんなもんじゃ済まないだろ。馬鹿なこと言ってないでさっさと寝ろ、マゾな怪我人め」
「痛くて悦べないんじゃ、マゾとは言わない!」
「じゃぁお前を痛ぶって悦べない俺はサドじゃないな。おやすみクラウド」
「痛くて寝れるかー!」
「ああもううるさい…」
 レオンは両耳を手で覆って聞こえないポーズを決めこんだ。子供じみたその仕草に瞬間怒りを忘れるが、剥き出しの腕に走る出来てそう時間の経っていない傷跡を見つけ、クラウドは眉を顰める。
 爪に引っかかれたような、数本の線は紅くかさぶたになっていた。
 よく見れば鎖骨付近にも一つ。
 右手の内側に一つ。
 ジャケットやシャツも所々解れていた。
 深い傷ではなさそうだったが、それが出来るに至った原因を思い出し、小さく息を吐く。
「…それ、風呂入ったら沁みそう」
 指差せば、気づいたレオンが傷跡を見て考えるような素振りを見せた。
「…エアリスに治してもらえばすぐ消えるが、手を煩わせる程のもんじゃないな」
「そうか…エアリスは回復魔法が使えるんだったな」
 この捻挫も自然に治るのを待っていれば1週間以上はかかりそうだが、魔法で治してもらえばすぐ動けるようになりそうだった。
「明日にでも治してもらえばいい。その捻挫」
「ああ…そういえばその顔の傷は、治さないのか」
「…余計なお世話だ」
 ずっと気になっていた。
 レオンの額に走る傷跡。
 魔法やアイテムが普及している現在、殆どの外傷は跡を残すことなく綺麗に治る。自然治癒に任せればその限りではないが、消そうと思えば消せるはずで、見る限りレオンにその意志はなさそうだった。
 顔に傷のある人間など取り立てて珍しいわけではないが、望んで残そうとする理由など知りえようはずもなく、その傷跡に何らかの価値を見出しているのかもしれないが、クラウドにはわからなかった。
 無言で問うクラウドの視線に居心地の悪さを感じたのか、レオンは溜息をついて視線を逸らす。
「…これはこのままでいいんだ」
「そうか」
 理由を話す気はない、と態度で見て取り、クラウドも追求はしない。
 誰しも語りたくない過去はあり、忘れたくても忘れてはならない過去がある。
「…まぁ、生きる理由なんて人それぞれだよな」
 枕に背を預けて凭れ、大きく息を吐いたクラウドを怪訝に見てレオンは首を傾げた。
「生きる理由なんて共通してるだろ?」
「え?」
「幸せになる為に生きてるんじゃないのか」
「……」
「もしくは自己満足のために生きている」
 きょとんと目を見開いた金髪の間抜け面を見やり、レオンは少し訂正する。
「…少なくとも俺は、俺のために生きている」
 今は。
 そう付け加えて、硬直したように動かないクラウドの隣に寝転んだ。
 長らく使われていないベッドは埃くさかったが、上質のスプリングとシーツの感触は心地良い。
 額の傷を残すのも、街の復興も、全て自分の為だった。
 迷うことなどもはや、ない。
 人には誰しも過去があり、幸も不幸も生きてきたその人にしかわからない。
 自分の人生が幸せであったかと言われれば全面的に否定はしないが肯定もできず、今幸せかと問われれば否と答える。
 全ては、過ぎ去ってからでないとわからない。
 過去の己は残骸に埋もれ、現在の己は残骸の上に立つ残像の如く儚いもので、実体を得て動き出すには残骸を組み立て直す所から始めねばならず、一年前にキーブレードの勇者によってホロウバスティオンが解放されてから、漸く残骸に埋もれた己の屍を救い出すことができたところだった。
 まだ実体を得る為の活動は始まったばかりで、今ここにいる己は揺ら揺らと彷徨う亡霊のように力なく半端な存在でしかない。
 アンセムによって解放された闇がマレフィセントによって膨大な力として利用され街を壊されてから、自分もまた壊れた。街を守れず、成す術もなく逃げるしかなかったあの時に、自分は一度死んだのだ。
 レオンと名を変え生きたとて、何も出来なかった己の無力さから解放されるはずもなく、額の傷を消したところで、己の弱さを消すことにはならないのだ。トラヴァースタウンで長き年月を情報収集と心身の鍛錬に費やしてなおその思いはますます強くなる一方だった。
 一年前に世界の鍵となる剣を携え訪れた少年に出会わなければ、己は実体のない残像のまま一生を終えていたかもしれず、過去の残骸に埋もれて嘆くだけの愚かな人間に成り下がっていたかもしれない。
 故郷に戻り、己の成すべきことが出来たことがこれほど嬉しいと思ったことはない。
 ホロウバスティオンを復興することは、己の過去の残骸を拾い集めて再構築して行く作業と同じだった。気が遠くなるほど迂遠に思えるその作業も、少しずつ目に見えて成果が現れてくると幸せだと感じることができた。
 少しずつ、生き返る。
 街も、自分も。
 スコール・レオンハートという名の瓦礫が、一人の人間になる日が、いつか来る。
 街が完全にかつての姿を取り戻すその日は自分の至福の日であり、実体を得て再び動き出す始まりの日ともなるはずだった。 
 成すべきことがあるのは、幸せなことだとレオンは思う。
 どれほど無意味に思える理由であろうとも。
 どれほど情けない意地であろうとも。
 燻ったまま朽ちて行くことに比べれば、それは価値あることだと思うのだ。
「…お前がどんな理由で生きているのか知らないし興味も無いが」
 レオンは真っ直ぐ己と似た色をした瞳を見る。
 動揺を隠せず揺れる蒼は、まるで過去の己を見ているように頼りない。
 クラウドの心の迷いは、見えていた。

「『わからない』、じゃ、前へ進めないぞ」

 己の闇を払拭する為に生きているクラウドが。
 「セフィロス」を倒した後にどうするのか、なんて。
 それで本当に解決になるのか、なんて。
 興味もないが。
「…やっぱり夢じゃなかったのか…」
 赤面して絶句するクラウドを見ていると、イライラすることがあった。
 かつてトラヴァースタウンで手段も見出せず、燻っていたあの頃の自分を思い出す。
 やりたいことは決まっていて。
 やらねばならないこともわかっていて。
 でも、先に進めない。
 全て終わったその後に、何が待っているのか不安になる。
 自分に何が残るのか、不安になる。
 ホロウバスティオンをかつてのレイディアントガーデンとして生き返らせたその後に、自分がどうなるのかなんてわからない。
 街の復興に己の全てを捧げ、全てが終わった後に何が残るのかなんて知らない。
 生きる目的を失うことは恐怖だ。
 それでも。
 
 クラウドの首筋に手を伸ばして引き寄せた。
「…別にお前がどう生きようと勝手だけどな」
 教えてやる気もないけどな。
 触れるだけのキスをして、レオンは身体を起こし、触れた首筋に力を込める。
「…っ」 
「迷う暇も無いくらい、追い詰められてみればいい」

 囁きは何故か、優しく響いた。


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