明かりが漏れ入ることのない暗闇は狭くて不快であった。
酷い貧血状態から解放される為の手段として教えられた行為は不快であった。
血と細胞の変化を目に見えて自覚したのは己の瞳の色が血の色をしていた時だ。
日を追うごとに鏡に映る己の姿は朧げになり、数日もすれば完全に映らなくなったのでその後の変化は知りようもない。
栄華を極めた世界の頂点に君臨する企業のトップの、肥え太った自尊心と身に余る野心を、効果的に捻り潰す為に暗示をかける。
自ら五体を飛び散らせ、千切れ飛んだ男の有様は疑念の余地なく事故として片付けられた。
ただ一言命じるだけで死んで行く。つまらぬ能力を持ってしまったと思ったのだった。
化け物には化け物なりの擬態の仕方があり、生きる為の手段があり、生き残る為の知恵がある。
少しずつ身体を侵食し化け物へと変容していく速度は緩やかであり、十分すぎるほどの睡眠と変化の為に必要なエネルギー摂取を強要された。
細胞呼吸に必要なものは酸素と養分であり、養分とはすなわち人間の生き血であった。
己の能力を安定させる為、故郷の土も必要だった。どういう仕組みでそんなものが必要であるのか不明であり何故と問うたが、己を化け物へと変えた男は詳細を語らず「そのようにできている」と述べるに留まった。
不愉快だった。
己の故郷など知る由もなく、物心ついた時から神羅の中で育った己に対し、男が親切面して語った内容は聞くに堪えない世迷言だと思っていたのに調べ出てきた結果に、今まで築いてきた世界が目の前で崩れ去る音を聞いた。
軽蔑し唾棄すべき男として認識していた男が遺伝上の「親」であったときのあの感情。
研究対象として遺伝子操作と何かもわからぬ体細胞とを融合させて創り上げられた化け物の存在を知った時のあの絶望。
それを許可した男と実行した男への感情。
不愉快だった。
己のおめでたい思考と歩んできた道を嫌悪し、神羅を嫌悪し、謀って来た者達を憎悪した。
おぞましい。
己の存在自体が、疎ましい。
誰からもすべからく人間の世界から外れた存在となった今、初めて己は己として生きることを許されたがそれでも己は己の存在を嫌悪する。
不愉快だった。
日中は眠らなければ、安定しない細胞が陽光に晒され焼け爛れ、思考の大半を占める飢餓感と貧血の為に満足に身動きすらままならぬ。
長すぎる眠りを強いられ見る夢はどれも悪夢であり、己の不安定を自覚した。
夜になれば起き出して、「食事」をしなければならなかった。
遠方であろうとも移動に不自由はない。驚異的な脚力と筋力で走れば速かったし、変化が安定してくれば蝙蝠に姿を変えて飛行すらも可能であった。
暗示をかければ己の姿を知られることなく、記憶されることなく済むというのは便利であったが、同時に酷く卑屈な気分にもなる。
田舎の廃館で一人棺に納まり化け物として完成される日を待つ様は惨め以外の何者でもない。
屈辱的であり、不快であり、何よりも嫌悪感が先に立つ。
では何故化け物になったのかといえば、己自身がすでに化け物だったからだった。
それだけだ。己の在り方にふさわしい生き方を取ったのだ。
夜が近づく気配がする。
化け物として完成されつつある現在、夜になれば細胞が活性化し活動的になることを知った。
毎日強いられてきた制限だらけの待機期間はそろそろ終了だ。
自由になったこの先、己がどうすればいいのか、どうすべきなのかは空白だ。
世界中を飛び回ってきた「英雄」が、「ちっぽけな一匹の化け物として」歩き回ってみるのも悪くはない。
ゼアノートと名乗った男は、己に対して何の制約も設けなかった。「好きにするがいい」、これのみであり、情報を提供してやればあっさりと姿を消した。
目的を持って生きるということがどういうことなのか己は知らなかった。
化け物として、化け物らしく思うがままに生きてみるのも悪くない。
…ああ、腹が減った。
餌が、近くに来ている。
高層ビル群と一般住宅の塊の間を縫うように通り、まばらになった住宅を見下ろし、山を切り開いたのどかな田園風景がどこまでも広がる風景の変化と、これから行くであろう旅先への期待を膨らませ楽しむ精神を今のソラは持ち合わせていなかったので、じっと列車に座り続けていることは苦痛だった。
離れた席に座る男をひたすら尾行しなければならないことだけは探偵になったような気分でわくわくしたけれども、基本的には暇を持て余していた。
学校で最後の「記憶処理」をしていた所にレオンから連絡を受け、急いで列車に乗り込んだものの、一体何時間揺られ続けるつもりなのか、黒髪を逆立てた男は席に着いたきり動こうとしない。気配を殺して近づいて、そっと後ろから覗いてみた限りでは携帯を弄ったりタブレット端末を開いて何かの作業をしているようだった。
指定席券を購入しなければならないこの特急列車は、平日昼間ということもあってかガラガラで、男とソラ以外の座席は空いていた。
実際の所、男やソラが座っている座席は乗客一人当たりの占有面積が広く、こまめに車内販売がやって来て、小奇麗なお姉さんが雑誌を持ってきてくれたりする特別車両だったのだが、ソラは全く気にしていなかった。別途追加料金がかかる車両を利用する人間はそれほど多くなかったというだけで、一般車両には満席とは程遠いものの乗客はいるのだった。
定期的に人が来ては通り過ぎて行くので動き回る気になれず、ソラも携帯を取り出して大人しくゲームを起動し遊んでいたが、すぐに飽きた。
男がどこの駅で降りるのかも聞かされていない為、転寝をすることもできない。見逃してしまっては元も子もなかった。
レオンと一緒に行くはずだった場所なので、全てレオンに任せっきりで場所の把握もしていない。
窓の外を見ても山の間をひたすら走っているだけであり、変化に乏しい風景に欠伸が漏れる。
イヤホンをして音楽も聴いてみるが、頭には残らなかった。
一人で移動していると、レオンと出会う前のことを思い出す。
幼い子供を亡くし、夫を病気で亡くした中年のおばさんの「身寄りを亡くした親戚の子」として潜り込んだ時には、それはそれは大切にされた。
おばさんの仕事が休みになる度、列車に乗って小旅行をした。
あれこれと世話を焼き、学校にも行かせてくれ、本当の子供のように接してくれたのだった。
決して裕福ではなかったが、「一人じゃ金の使い道もないし趣味もなくてね」と言い、心底大事にしてもらえた時には殺された両親を思い出したものだった。
色々と都合の悪いことには暗示をかけて目を瞑ってもらったが、あのおばさんと出かけた列車旅行は新鮮だった。
退屈な風景も我慢できたし、着いた先で見たことのない景色を見る事ができたのはいい思い出だ。
ほんのひとときを共に過ごし、普通の子供が成長するだろう時期を隠しきれなくなった時には別れだったが辛かった。
今はレオンがいる。一人じゃない。
この列車の風景も、レオンと一緒に見るものならば退屈せずに済んだだろうか。
これから先いくらでも共に見る事ができ、共に歩んでいくのだから、一人だった頃の感傷もまた、いい思い出なのだった。
終着駅の一つ手前のアナウンスがあり、男が立ち上がる。
気づかれないよう身を潜め、男の視界から姿を隠すようにして列車を下り、改札を出た。
男は小さな駅のロータリーを歩き、バス停へと向かっている。
「…え、バス?マジで…」
バスは狭く、嫌が応にも視界に入る。どうしようと思うが他に選択の余地はない。
昼間は空を飛んで移動することはできないのだ。ついていかねばならないなら、乗らねばならない。
駅に到着したことをレオンに報告しながらも、男の背から目は離さない。
バス停で時刻表を確認し、男が驚いたように目を瞠り、次いで眉を顰めてため息をついた。何かと思い時刻表を見やれば一時間に一本しか記載がない。
あの男の出身地は知らないが、交通機関に何不自由のない大都市で生活していればあまりの本数の少なさに驚くのも無理はないと思うが、男が小さく呟いたのは「俺の故郷と変わんねぇ田舎っぷり」という言葉であり、なるほどとソラは納得した。
離れていても文字は読めるし言葉も聞こえる。
尾行としては完璧だったが、近づかないわけにはいかなかった。
タクシーでバスを追跡なんてしたら目立つよなぁ…。
諦めて男の隣に立ち、わざとらしく時刻表を見上げるフリをした。
明らかに学生と思しき少年に視線をやって、男が目を細めた。優しい表情で見下ろされ、怪訝に見返せば気さくに声をかけてくる。
「君、この辺の子?」
「いえ、これからおばあちゃんの家に行くんです」
「へぇ、そうなんだ?結構遠いの?」
「んーそうですね、山の中に囲まれてます」
随分馴れ馴れしい奴だったが、人の良さが前面に出ている為嫌ではなかった。
親しげで優しげに話しかけてくる馴れ馴れしい大人は、誘拐目的や犯罪目的が多かったが、この男はそうではない。
「俺ここ初めてなんだけどさ、俺の田舎思い出してちょっと懐かしくなるんだよなー」
「そうなんですか」
「一時間に一本なんて、今住んでるとこじゃ考えらんねー」
「都会に住んでるんですね。でもしょっちゅうバスは遅れますよね」
「あーそうそう、そうなんだよな。結局渋滞するからさ、時刻通りにバス来ねーの。あれ改善して欲しいよな」
この調子で目的地まで行くのかな…。
嫌じゃないけど記憶に残りたくないんだけどな。
結局逃げられず、やって来たバスに並んで座り、目的地まで話しながら向かうことになるのだった。
三十分ほど田舎道を走り山間部を走り、途中のバス停で共に降り、そこで別れたフリをした。
演技するって難しい。
こちらの事情は話したくなさそうに装って、「僕あんまり身体強くなくて…」と言葉を濁せば男は勝手に都合よく解釈をしてくれ、ソラの身の上についてそれ以上聞かれることはなかったのは幸いだった。
ザックスと名乗った男は気さくでよく喋る。
クラウドの先輩だということだったが、クラウドはあまり積極的に話すタイプではないので実に対照的だった。
どちらかと言えばソラ自身はザックス側に属するので、気兼ねなく喋れるものなら喋りたくてたまらなかったが、我慢した。
別れた後、ザックスは少し山の中へと踏み入って、舗装されていない道路に止められていた黒塗りの車へと向かう。
窓から顔を出したのは黒いスーツの女だった。
後部座席へと座り込み、何かを話しながら車は発進してさらに山の中へと消えて行く。
誰の目も憚ることなくいられるならば、問題ない。
ソラは走って車を追った。夕暮れ時で、本来の力が戻りつつあって良かったと思う。
廃村の中の廃館ということだったが、確かにここは不便だった。
廃村になった事情は知らないが、交通の便が悪く商品の行き来が活発だったとも思えない。自給自足で生活していたのだとしても、都市に憧れる若者が村を出て行ってしまえばあとは想像通りの展開だろう。
細い砂利道の上、車体を揺らしながら走る車に悪路の程が知れた。
山の中腹を切り開いて作られた村は小さかったが、奥に建てられた廃館だけはやけに大きく目を引いた。
村の入り口で車を停めて、男女三人が館に向かって歩き出す。
日が落ちて来ていた。
ソラは眉を顰めて男女を見守る。
「…殺されなきゃいいけどな」
レオン早く来ないかな。
館の外で待機し、セフィロスという男が逃げ出さないよう見張りながら、レオンの到着を待つ。
男女は懐中電灯をつけ、館の明かりをつけながら中へと入って行った。
夜は吸血鬼の領分だ。
人間が適うはずがないのだ。
吸血鬼化され、日数的にはそろそろセフィロスは完全化するはずだった。
吸血鬼化されてすぐは耐え難い程に腹が減る、らしい。
レオンから聞いた話なので確かだろう。ソラは生まれたときから吸血鬼だったので、レオンの体験談は貴重だった。
目の前に人間の男女三人がいたら、血を吸うのは確定だ。
吸血鬼は人を殺す生き物ではないが、あのセフィロスという男は果たしてどうだろう。
神羅のデータは削除されていて何もなかったが、すでに出回って一般人が手にしている雑誌や新聞の類までは手が及びようもない。
見た限り、「神羅の英雄」の「英雄」たる所以は、人を殺した多さにあった。
人は人を殺す事ができるのだ。
ゼアノートと同じ。
同じ種族を、殺す事ができるのだ。
人の性質は吸血鬼になっても変わらない。人を殺せるセフィロスは、あの三人を殺すだろうか。
可哀想だとは思うが、逃げられるリスクを犯してまで三人を助けようとは思わない。
助ける理由もないし、そもそもソラは戦闘に特化しているわけではなかったから、同じモノになったセフィロスが対等な条件で本気で殺しに来た時、ソラ自身が対抗できる自信もない。
真面目に戦闘訓練やっとけば良かったなー。
今更言っても後の祭りであった。
一時間、待ったが男女は出てこなかった。
三時間経ったが、男女は出てこなかった。
セフィロスはとうに起き出している時間だった。
「あー、やられちゃったかな」
一人でセフィロスと接触することは望ましくない。様子は気になったが、待つ。
無人の村には静寂が落ち、風が木々を揺らし秋の虫が鳴く以外に音はない。
館には三人がつけたと思しき明かりがついたままであり、窓からぼんやりと漏れる光は温かさを感じさせるというのに、中で起こっているだろう出来事を想像すると寒かった。
家族が殺された時の情景が脳裏を過ぎ去り、頭を振った。
中からセフィロスが出てくる様子はない。
移動するなら夜でないと能力が制限される為、どこかへ逃げる算段をしているならば夜の間に行動に移すだろうと予想していた。
まだ夜は長い。
レオンさえ間に合えばいいやという気持ちで気長に待つしかなかったが、村の入り口で車が停まる音が聞こえた。
無音の村にエンジン音は良く響く。
人間くさい手段でレオンが来たのかと思ったが、気配が違った。
館に向かって走って行く影を木の枝の上から見下ろして、目を瞬く。
「…あれってクラウド…?」
何でこんな所にいるんだ?
いやそもそも。
「…記憶消すって言ってなかったっけ…」
ここにいるということは、記憶を消していないということだ。
「ええ?なんでー?」
急いでレオンに電話をかけたが、繋がらない。田舎の山奥だからというわけではなく、電話に出れない状況にあるということだ。
メールに切り替え、クラウドがここに来ていることを知らせる。
すぐに折り返しが来て、開口一番どういうことかと尋ねたが、レオンもまた戸惑っているようだった。
「暗示はかけたんだよな?」
「間違いない。確実にかけた。…だがあいつにかけた暗示が壊れた経緯もある。もしかしたらまた…?」
「ええ?そんなの聞いたことないよ!けどレオンが嘘つくわけないし…あいつどうする?放っておく?」
見ている間に、クラウドは館の扉を開いて中へ入ろうとしている。
「俺が人間じゃないことを知られている。他で喋られる前になんとかしないと」
「なんとかって言ってもなぁ…。とりあえずあいつ、放っておいてもセフィロスの餌食になりそうだけど。満腹だったら殺されずに済むかも?いや逆に殺されるかも?んーよくわかんないな」
「もうすぐ着く。ソラ、頼む」
「レオンに頼まれちゃった!…まぁあれか、クラウドがベラベラ俺らのこと喋って警戒されちゃ元も子もないもんな…」
扉が閉まり、クラウドの姿は館の中へと飲み込まれた。
「…そういうことだ。セフィロスは武器を持っている。気をつけろ」
「長い刀だろ。まぁ頑張る。早く来てくれよレオン」
「ああ、急ぐ」
通話を終えて、ため息をつく。
頑張るけど、自信ないぞ。
高い木の上から飛び降りて、ソラもまた館へと向かって走るのだった。
館の中は廃墟だった。
かつては美しい装飾を施されていたのだろう床は埃にまみれて白くなり、壁紙は剥げ柱も傷んで崩れているものも多数あった。
絵画も埃と蜘蛛の巣に占拠されて見る影もなく、シャンデリアは落ち窓ガラスは割れていた。
朽ちかけた木製の家具はぼろぼろで、金属製のインテリアは錆びて緑や赤へと変色している。
壁際の柱に点々と設置された燭台は誰かが火を入れたのだろう、これのおかげで夜だというのに館の中はほの明るく照らされていた。
ザックスとタークスがすでに来ているはずなので、彼らが火をつけたのだろうと思いながら、クラウドは床に残された埃の上についた足跡を辿って歩く。
レオンは来ているのだろうか。
セフィロスはここにいるのか。
こつこつと足音が響く静かな館内は広く、歴史を感じさせるものだった。
明かりの届かない場所は漆黒の闇であり、足を踏み入れる勇気はない。
順路のようにつけられた明かりと足跡を見逃さないようにするのが精一杯で、ゆっくり周囲を見回している余裕はなかった。
一人っきりで夜の廃墟で肝試し。そんな気分だ。
驚かすお化け役の人間がいないだけまだマシだったが、楽しい場所ではない。勢いでここまで来てしまったものの、レオンを見つけて殴り飛ばした後にはさっさと連れて帰りたい所だ。
あとはできればザックス達と合流し、一緒に戻れれば言うことはない。
村の入り口まで、「ここはヤバイよお客さん」と嫌がるタクシー運転手を無理矢理説得して連れて来てもらったはいいものの、待っていてくれという頼みには「勘弁してくれ」とすげない返事で断られ帰られてしまった為、足がない。
一台の黒塗りの車が停まっていることは確認したので、あれはザックス達のものだろう。正直当てにしていた。
左右に分かれた通路では、両方行き来した跡があり、迷う。足跡を注意深く観察し、往復している足跡のない方を選んで進む。
「…これ、ヤバくないか」
今更ながら、気がついた。
ザックスが出かけて行ったのは昼だ。
何時間も前にここに到着しているはずで、セフィロスがいなかったのならとうに帰っているだろうし、会って話がついたのならばそれもまたとうに帰っていてもおかしくない。
屋敷中を調べて回っているのかと思ったが、足跡の残る部屋を見ても調査をしているという感じではなく、立ち止まってすぐに引き返しているのでその線は考えにくい。
足跡は一番奥の部屋へと消えていた。
背筋を這う寒気のような震えが先程から止まらなくなっていた。
嫌な予感がする。
だがここまで来て引き返すことはできない。
部屋に入り、足跡を見る。
明かりが届かず暗いだけかと思った奥は、地下室らしき場所への階段があった。
「…うわー…いかにもすぎる…」
下から吹き上げてくる風は冷たく湿っており、黴臭かった。
途中で買った懐中電灯を手に、螺旋階段を下りる。
足跡はここで途絶えていた。ということは、下へと行ったのだ。
「ザックス勇気あるな…」
自分は一体何なのかと思うが、この先にザックスがいて、レオンもここへ来るかすでに来ているかしているだろうからこそ出来る行動だった。
一人だったら絶対に降りないし、そもそもここへは来ない。
古びた階段を下りきった先は、地面だった。
じゃり、と靴裏で砂を踏み、首を傾げる。
洞窟のようだと思ったが、ここにも燭台があり火が灯されていた。
ザックス達はここにいるのだろう。少し安堵し、先へと進む。
突き当たりに意外なほど近代化した電動の扉があり、驚く。まるで博士の研究室といった風情だったが、何故このような場所に隠すようにして存在するのか疑問だった。
開くのかと手を触れれば、電気が通っているのか扉は横へとスライドし、開く。
中には照明があり、暗闇に慣れ始めていた目には痛いほどに眩しかった。
一面の書棚と、高い天井。薬品のような臭いがしたが強くはなく、年代が経っているのか全体的に退廃的な雰囲気が漂っている。
呆然としながら中へと足を踏み入れて、何か柔らかい物に躓き姿勢を崩してよろめいた。
「…なん、だ…」
クラウドは絶句した。
人ほどの大きさの物が、真紅の水溜りに浸かっていた。
「……」
物ではない、人だった。
男の黒いスーツが真紅の液体を吸い込んで、濡れている。
少し奥へと進んだ所に、同じような黒いスーツに身を包んだ女が倒れていたが、こちらに目立った外傷はないようだった。
足が震えたが、思考は停止していた。
引き攣る肺を宥めながら酸素を取り込み、深呼吸をする。
男の方は息絶えているようだったが、女も死んでいるのか。
男の身体と血溜りを踏まないよう回り込み女へと近づくが、触れようと屈み込めば、視界の端に革靴の裏が見えて顔を向ける。見たことのあるスーツを目の当たりにしてクラウドが駆け寄った。
「っお、い!ザックス!…ザックス!?」
ぐったりと伸びきった四肢に力はなく、意識を失ったザックスは日頃の血色の良さもどこへやら、土気色とも言える顔色は別人のようだった。
怪我はなさそうだったが、動かない。
揺さぶってみても、声をかけてみても駄目だった。
「しっかりしろよザックス!」
「…今日は客人の多い日だ」
「……、……っ」
喉が引き攣った。
いつの間にか背後に立たれ落とされる声は極寒の冷たさだった。
後ろを振り返る事ができない。
震え出す手に力が入らなくなり、抱き起こしたザックスを床へと横たえるだけで力尽きそうだ。
深呼吸しようにも、酸素を取り込めずに浅い呼吸を繰り返す。
この声は、映像で聴いたことがある。
知っている。
時間が止まったような感覚であるのに、心臓は早鐘を打つように跳ねていて、知らず汗が頬を伝った。
意を決してゆっくりと、振り返る。
鼻先に突きつけられた長い刀は、セフィロスが愛用している武器だった。
「…お前も、死にに来たのか」
静かな問いかけに答えることができず、クラウドはただ長身の男を見上げる。
引き攣った表情を見て取って、紅い瞳の男は長い銀髪を揺らして口元に笑みを刷いた。
「そこの男を追ってきたのか。…残念だが、その男は時間を置かずして死ぬだろう」
「……な…」
「人間の血液量は体重の約八パーセント。三分の一を失うと生命の危機だ」
「……」
「…化け物一つ、完成するにも面倒なことだ。大量の血液を必要とする」
初耳だった。
セフィロスは、吸血鬼になったのだ。
レオンと同じモノなのだろうか。
…レオンも、人を殺す程の血液を必要とするのか。
床に転がる三人を見やる。
ここに来て、漸く己の生命の危険を感じた。
これは、殺されるんじゃないのか。
あの黒スーツの男のように。
見上げる瞳に恐怖が混じったことに気づいた男が、目を細めた。
「さて、今私は血を必要としていない。気分もいい。お前は死を望んでいない。敵意もないようだ…が、このまま見逃すことはできない」
「…っ!」
男の目が煌いた。
抗い難い力に、身動きが取れなくなった。
何かを命令するつもりだ。レオンのように。
抵抗は意味を成さない。嫌がれば嫌がる程、拘束力は強くなる。
歯を食いしばったクラウドに笑みを落とし、男は一つ頷いた。
「忘れるがいい。私と会ったこと、ここであったこと、まっすぐ家に帰って全て忘れ、日常へ帰れ」
容赦なく人を殺す事ができるくせに、随分甘いことを言う。
そしてレオンと同じことを言うのだ。
どいつもこいつも忘れろと。
「…ザックス達を連れて帰りたい」
「…何?」
命令されても、身の内に変化はなかった。
今すぐ帰りたい気分なのは元からで、忘れられるものなら忘れたいが、クラウドにはやらねばならないことがある。
ザックス達を連れ帰り、レオンを一発ぶっ飛ばす。
「……」
無言で見下ろしてくる男の視線が突き刺さるようなものに変化した。
何故だ。
何故この男は暗示がかからない。
「誰にも言わない。あんたの邪魔をする気もない。…ザックス達も連れて帰っていいだろうか」
「……」
いいわけがない。
今虫の息であろうとも、積極的に助けてやる意志はないのだ。
暗示が効かない金髪の頼りなさげなこの男は、何なのだ。特異体質だとでもいうのだろうか?
ならば、仕方がない。
刀を構える。
「…え…!?」
「事情が変わったようだ。生かして帰すことはできない」
神羅の新社長となった男は賢明な人間だった。
この場に社員の死体が転がっているのを発見すれば、二度と追おうとはするまい。
現に「セフィロス」は神羅からなかったものにされようとしているのだから、姿を消せば再度敵対でもしない限り関わり合いになることもないだろう。
その為には、情報を持つ人間は邪魔だった。
「な、え、ちょっ…!」
男の気配は余りに静かで、殺気のようなものは感じない。
見下ろす視線は冷静であり、だが刀だけが照明を受けて冷徹に煌いている。
この美丈夫は、敵なしの「英雄」なのだ。
勝てるはずもなければ、逃げられるわけもない。
「…!!」
息を呑んだ。
死ぬなら一瞬がいい。
いや死にたくなどないけれども、他に手立てがないのならせめてあっさり死にたかった。目を閉じることが出来ればよかったのだが、恐怖でそれは適わない。
動かないクラウドに向かって、セフィロスが刀を振り下ろそうと力を込めた。
「そーはさせるかっつーの!」
部屋に飛び込んできた影のようなものが、すごい勢いでセフィロスへと向かって飛んできた。
「…!」
咄嗟にかわし、本棚に叩きつけられクラウドの足元に落ちたそれは、スニーカーだった。
「……え」
何だこれ。
唖然と見下ろし、呆然と飛んできた入り口へと視線を向けた。
「…ソ、ラ?」
見知った姿がここにあることが信じられずに、クラウドは目を擦って現実かどうか確かめた。
何故少年がこんな所に…ああいや、レオンが来るというなら、少年がいても不思議ではないのか。
ということは、レオンもここにいるということになる。
「…子供がこんな場所に何用だ」
構えを解くことなく、セフィロスが少年へと視線のみを流して問いかけるが、少年は聞いていないようだった。
「あーつーかさー、殺してもらった方が後腐れなくて良かったんじゃないの!助けちゃったけど!」
頭をかいてため息をつかれ、クラウドとセフィロスが沈黙した。
「……」
酷い言われようにクラウドは言葉が出ない。
「ちょっとごめんよー」と言いながら軽く一跳びでクラウドの脇に降り立って、スニーカーを履き直す。
人間の動きではなかった。
「…ソラ」
「クラウドさー、何で暗示効かないの?おかしくない?」
「…そう言われても」
「途中までちゃんとかかってたんだろ。レオンが手加減しちゃったのかと思ったけどこのセフィロスの暗示だってかかってなかった」
「……」
首を傾げるが、暗示をかけられていたこと自体、今初めて知ったのだった。
いや、強制力が働いていることはなんとなく認識はしていたものの、言葉で言われて自覚した。
「というわけで、クラウドの処理はこっちでやらないとならないんで、放っておいてくれないかなーセフィロスさん」
英雄セフィロスに向かってぞんざいな口を利く少年をすごいと思いながら、眉を顰めてソラを凝視していたセフィロスを見れば笑っていた。
「なるほど、同類か」
「同類っていうか、俺は人殺しなんかしないし!一緒にして欲しくないね」
「ほう…」
「聞きたいことがあって来ただけだからさ、邪魔する気ないんだよな」
「聞きたいこと?」
「ゼアノートどこ行った?」
「知らんな」
「とぼけてるの?それともホントに知らないの?」
「さぁ…」
男が刀を一閃した。
周囲の本棚が横に真っ二つに斬り開かれ、地響きと埃を舞い上げながら床へと落ちた。
激しく咳込むクラウドを尻目に、ソラは険しい表情で白く埋め尽くされた室内を睨みつける。
正面に飛んできた刃先を身体を横にずらして回避して、蹴りを入れたがリーチの差で届かなかった。
「いきなり何だよ!」
怒鳴る少年に、どこからともなく笑みを含んだ冷たい声が響く。
「化け物の身体能力の限界を、教えてくれないか」
「はぁ!?」
「同類を切り刻んだことはない。楽しみだ」
「…うっわ悪趣味!チョー悪趣味!」
「なんとでも」
閉ざされた視界の端から、煌く白刃が迫る。
ターゲットを少年に移したセフィロスは、確かめているようだった。
かわし続け、たまに反撃をするがセフィロスには当たらない。
クラウドはただ座って見学するしかないほどに、人間からはかけ離れた戦闘だった。
少しずつ、音と気配が遠ざかっている気がして目を凝らせば、ソラは地下から外へと出ようとしているようで階段へと走っていた。
ザックスと女を見やり、背負ってあの階段を上がって地上に出るまでに俺の体力は保つのだろうかと不安になったが、せっかくソラがセフィロスを連れて離れてくれたのだ、やらねばならなかった。
「…ザックス、助けるからな。死ぬなよ、頑張れ」
立ち上がり、まずはザックスを背負って外を目指す。