祈りはどこに届くのか。
晴天の下、草原を歩く。
砂利を敷いただけで平坦とは言い難い道の両脇に広がるのは、のどかな牧草地だった。
駅を降りてすぐは店や家が立ち並ぶ商店街の様相を呈していたが、十分も歩けば草原が広がり建物はまばらになった。
街の中心から離れれば、豊かな自然と牧草地があり、田園風景が広がっている。
何年もの間、闇に支配され人々が逃げ出した土地は見る影もなく荒廃したが、戻った人々の努力によって緑は今、着実に増えていた。
作物を育て、収穫する。
生き物を育て、食物とする。
一次産業が成り立たなければ、二次以降産業は成立し得ない。
街の復興とはすなわち、人々の営みを復興することであった。
少しずつ、報われる。
直接作用していなくても、私達の努力は、報われている。
エアリスは小さめの花束を抱え、風に揺れる緑の行方を眺めていた。
牧草地をさらに十分ほどかけて抜けた先には、村があった。
街の中心地に近い場所は区で分けるが、外円部の大規模集落、特に田園地帯などを広範囲に内包する地域は村と呼んだ。
この村の人口は数百人程度だということだった。
農業と酪農を主に、教会があり信仰があった。
昼間は出払っているのか、外を歩く人は見かけない。
だが店は開いているので、買い物客はいるのだろう。
静かな道を、メモに書いた住所と地図を見ながら歩く。
葬列に参加した時訪れたのは、村の中心にある教会だった。結婚式に呼ばれた時も、訪れたのは教会だった。
友人の自宅へ行くのは実は今日が初めてなのだ。
何度か遊びに来てねと誘いは受けていたものの、都合がつかず終いで今に至る。
事前に連絡もできなかったけど、大丈夫かな。
一抹の不安を抱えはしたものの、都合が悪そうならば出直せば良い、と思っていた。
体調も思わしくないと聞いていたので、元から長居するつもりもない。
ただ、顔を見たかった。
かつて命からがら逃げ出して、トラヴァースタウンに落ち着いた時、同じ年頃の女の子は何人もいた。
潜伏生活の間にそこで新しい生活を築いて永住する子もいたし、出て行った子もいた。
やがて街に帰る日の為に、帰った時の為にとシドやレオン達と共に行動を始め、女の子同士で集まる機会は激減したがそれでもその子とは友人だった。
顔を合わせれば話をした。
いつも笑顔で、明るい子だった。
逃げ出す際に両親を亡くし、彼女は一人だったが、それでも「命があることに、感謝しなきゃ」と前向きだった。
ふとしたときに寂しげな表情をすることはあったが、彼と出会ってそれも消えたようだった。
お似合いの二人だった。
どちらも相手を思いやり、優しさに溢れていた。
二人並んで立てば、誰もがその幸せそうな様子に微笑んだ。
街に戻って結婚すると言ったとき、それは当然のこととして誰からも祝福された。
いいなぁ、羨ましいなぁと、心から思ったものだった。
早すぎる。
やっと腰を据えて、これから長い人生を、共に幸せに暮らして行くはずだったのに。
正直な所、顔を合わせてもかけるべき言葉を持たなかった。
何も言えないけれど、何も出来ないけれど、彼女に「一人じゃない」と言いたいのかもしれない。
…私が言っても、説得力ないかな。
会うのは久しぶりで、常に近くにいるわけでもない。
最近の彼女の事など何も知らないし、彼女がどれ程辛い思いをしているかも、想像でしかわからない。
会って、どうしようというのだろう。
己の行動が浅慮に過ぎるのではないかと思った。
でも、会いたかった。
昔ながらの街並みを見せる住宅街を、歩く。
道を折れ、少し進んだ先に立派な門構えが見えた。
「…あれ?すごいお屋敷が」
門を超えてもさらに道が続いており、芝生と花々と噴水の向こう側、正面には小さな美術館かと見紛うばかりの瀟洒な建物が佇んでいた。
「住所ここだよ、ね…」
入るのを躊躇する。
使用人が何人もいそうなお屋敷であった。
もう一度住所を見、間違いないことを確認してエアリスは意を決して門を開く。
「ごめんください」
玄関扉の前に立ち、ベルを鳴らす。
使用人が出てくればいいが、もしこの広いお屋敷に彼女一人だったら、と思うと心配になる。
寝込んでいて、動けない状態だったら。
しばらく待つが、中からは何の物音も気配もなく、静寂が落ちていた。
倒れていたりしないだろうか。
もしくは…留守、とか?
こんなに広いお屋敷で、一人でいることはないだろうか。
体調が悪いと言うなら、病院かもしれない。
近所の人に、彼女の行方を聞いてみてもいいものか。
さらにベルを鳴らして待ってみるが、反応はなかった。
「うーん…出直しかな…」
そっと扉を引いてみるが、鍵が掛かっていた。
中庭に回って様子を窺う、というのはやりすぎな気がして、足は動かなかった。
誰かに行方を聞いてみて、近くにいるようならば寄ってみようか。
遠方ならば仕方がない、帰ることにしよう。
踵を返し、玄関に背を向けた。
門へと歩き出そうとして、ふと足を止める。
「……?」
背後が気になった。
腰から首筋へと這い上がるぞわりとした冷たい感覚は、悪寒だった。
何故。
怖い、というより先に、戸惑いがあった。
ゆっくりと、振り返る。
同時に、扉が開いた。
「……」
花束を抱きしめるようにして立ち竦んだエアリスの前に、扉の隙間から顔を出すのは黒い服に身を包んだ女だった。
薄く色素が抜けたような長いストレートの金髪は肩に流され、瞳は薄い紺碧で、すらりとした痩身はエアリスよりは身長が高かったが高すぎると言うほどでもなく、整った容姿は美しいと評するに足りたが、表情に乏しかった。
愛くるしい笑顔も、艶やかな唇の輝きもなかったが、これは確かに。
「マ、…マリア…?」
随分イメージが違ったが、それでも受ける印象は友人のものだった。
「いいえ、違います」
だが女の口から紡がれた言葉は、硬質な否定だった。
「え…」
エアリスは戸惑う。
どちら様か、と問われ、名乗る。
しばしエアリスを無言で見つめた女は僅かに首を傾げ、小さく、良く見ればわかる程度に笑みを刷いた。
「私はマルタ。ようこそ、エアリス。マリアはあなたを歓迎するでしょう」
「……」
扉を大きく開いて「どうぞ」と招き入れた女の表情は和らいでおり、硬質な印象は変らなかったものの、冷たく人形のようなよそよそしさはもはやなかった。
礼を言って中に入り、案内に従い広く高い天井の廊下を歩く。
掃除が行き届いているようには見えなかった。
床はそれほど気にならなかったが、真昼だというのにカーテンは閉めきられたままであり、長い間開けられていないのか埃臭かった。
薄暗い廊下の壁にかけられた絵画の額縁にも埃がたまり、絵画自体にも白く薄っすらと乗っているのが見て取れた。
眉を顰める。
私、来ちゃ行けなかったんじゃないかな。
少なくとも、客を招き入れられる状況ではないように思う。
マルタと名乗った女は屋敷内のことには無頓着なのだろうか。
マリアと良く似た雰囲気を持つ女だと思ったが、どういう関係なのだろう。
扉の前で立ち止まり、女がノックをした。
「マリア、お客様よ」
中から応えがあり、扉を開けた。
「どうぞ、中へ。私はお茶の用意をしてきます」
「あ、すみません、ありがとう…」
「いいえ」
会話をしてみると、マルタという女にイヤな感じは受けなかった。
ではさっきのあれは何だったのだろうと思うのだが、答えが出る前に部屋の中に足を踏み入れ、「エアリス、来てくれたのね!」と華やいだ声をかけられ霧散した。
「マリア…」
「嬉しいわ、久しぶりね」
マリアもまた、黒のドレスを身に纏っていた。
喪中だからか、と思えば胸が痛む。
濃く明るい金髪は緩やかに波打ち、腰の辺りまで届いていた。
紫紺の瞳は深く、笑えば潤んだように煌いた。
紅い唇は艶やかで、口を開けば華やかだった。
美しく、明るく、愛くるしいマリアは最後に結婚式で会った時の輝いていた頃のままだった。
「マリア、…元気そうで、安心した」
「……ありがとう、エアリス。お花、持ってきてくれたの?」
「うん…その、この度は」
「言わないで。…でも、嬉しい。彼にも見せてあげたかった」
「……」
花を受け取り、マリアは悲しそうに微笑んだ。
窓際に置かれたソファに導かれ、座ってと促されて腰を下ろす。
だが分厚いカーテンが引かれたままだったので、庭を見る事は適わなかった。
紅茶と菓子をトレイに載せて、マルタが部屋に入ってくる。
マリアと並べば、造作はあまり似ていなかったが、雰囲気は良く似ていた。
何故だろう、同じ黒い服を着ているからだろうか。
エアリスの視線に気づいたマルタが、マリアを見下ろした。
マリアもまたマルタを見上げ、にこりと笑んだ。
「エアリス、ごめんなさい紹介が遅れたわ。こちらはマルタ。私の姉です」
「あ、お姉さん、だったの。道理で、似てる」
「似てる?本当?」
クスクスと、楽しげに笑うマリアとは対照的に、マルタは軽く首を傾げて微笑んだ。
淹れてもらった紅茶は時間を置きすぎたのか、苦味があり熱くもなかった。
文句を言う筋合いでもないので大人しく飲むが、同じく口をつけたマリアが顔を顰めてマルタを見上げた。
「マルタったら、紅茶美味しくない」
「あら、そう?」
「いいわ、あとで淹れ方教えてあげる。エアリスごめんなさい、淹れ直してくるわ」
「ううん、いいの。美味しいよ」
「…エアリス、ありがとう。今まで私がやっていたの。でも体調を崩してしまって、それで」
「もういいの?大丈夫?」
「ええ、もう大丈夫。…まだ、何かをしようという気になれなくて色々滞ってしまっているんだけど」
「……」
明るく振舞っているけれど、マリアはご主人とお子さんを亡くしているのだった。
あまり繊細な部分には触れない方がいいだろう。
エアリスは話題を変えることにした。
「突然押しかけちゃって、ごめんね。でもびっくり。こんな立派なお屋敷に住んでるんだもん」
ご主人と二人で住んでいると聞いていたから、こじんまりとした可愛らしい一軒家を想像していた。
犬や猫がいて、色とりどりの季節の花が咲き乱れる庭があって、天気のいい日にはテラスで食事。
そんな絵に描いたような新婚生活を、勝手に想像していたのだった。
「そうね、住むつもりはなかったの。彼と一緒に小さな家に住めればと思っていたんだけど、ここ…私の実家なの」
「あ…そうだったんだ」
「両親はもういないけど、家は残ってたから…彼が、思い出を大切にしようって、言ってくれて…」
しまった、話題を変えたはずだったのに、変わってなかった。
涙が零れそうな大きな紫紺の瞳を瞬かせながら、マリアは切なく微笑んだ。
「彼はもういないけれど、でも、大切なものを、ちゃんと遺してくれたから…」
「マリア…」
膝の上で組んだ彼女の両手が、震えていた。
思わず手を伸ばし、そっと重ねる。
マリアの手は、真夏だというのに冷えていた。
「マリアは、強いね。私、今日来て良かった」
「…ありがとう、エアリス…。私は、大丈夫…」
頬を伝う涙もまた、美しかった。
マリアは前を向いて生きようとしている。
何て、強い。
何て、美しい。
少し離れた場所で、マルタがそっと息を吐いた。
気づいたエアリスがマルタを見れば、気づいた女が静かに見返した。
「マルタ、さん。マリアを、よろしくお願いします」
「はい」
頷く仕草に迷いはないというのに、紺碧の瞳は揺れていた。
心配しているのだろうと、思った。
あまり長居をするつもりはなかったので早々にお暇することを告げれば、引き止められた。
「泊まって行って。…ああ、でも、客室お掃除しないといけないんだけど…」
「私が行って来るわ」
「あ、そんな、気を使わないで。マルタさんも、いいです、ご迷惑かけられないから」
「迷惑だなんて」
なおも引きとめようとするマリアの手を取り、エアリスは申し訳なさそうに微笑んだ。
「いきなり押しかけちゃったの、私だし。ごめんね、突然。でもマリア、元気そうで安心した」
「…また、来てくれる?」
「もちろん」
「じゃぁ、次来てくれる時までに、ちゃんとお掃除しておくわね」
「いいの。私は全然気にしないから、ね?無理しなくていいから」
「エアリス…」
駅まで見送ると言うマリアに遠慮し、では私が、というマルタにも大丈夫と制して、玄関まで見送ってもらって外に出る。
「気をつけて帰ってね、エアリス」
「うん、マリアも元気でね。…マルタさんも」
「ありがとうございます」
「また、絶対遊びに来てね」
「うん、絶対、また来る」
じゃぁ、と手を振り、門を抜けて角を曲がる。
ちらりと振り返ればまだ手を振っているのが見えて、歓迎してもらって良かったと安堵した。
相変わらず閑散としたままの村の中を通り、駅への道を歩く。
マリアは、一人じゃなかった。
良かった、お姉さんがいて。
「……」
足が、止まった。
「…マリアって、」
確か、兄弟姉妹はいなかったはず。
「……」
両親を亡くし、トラヴァースタウンに逃げて来た時も一人だった。
戻ってきて、彼と結婚式を挙げた時、親族は彼の両親だった。
いや、もしかしたら離れ離れになっていただけかもしれない。
偶然、再会できたのかもしれない。
もしくは、遠い親戚とか。
他人とするには、あのマルタという女はマリアに良く似ていた。
造作は違ったが、…どこかが。