祈りはどこに届くのか。

  夕刻から夜にかけ、ほんの短い時間集中して降った豪雨が止んだ闇夜は分厚い雲で覆われていたが、雲の隙間からは淡い光が漏れていた。
  聴こえるものは風の音ばかりの静寂の中佇んで見上げていれば、雲が流れて千切れ、夜空には美しい満月が現れる。
  輪郭を淡くしながら光り輝くそれは冴え冴えとして、ひっそりとその存在を主張した。
  夜は静かで、人間は眠りの淵へと沈んでいる。
  夜歩きを楽しむ事ができるのは、闇を恐れる必要のない者だけであった。
  女は城の上階から外を見やり、街を見下ろし空を見上げた。
  レオンが景色を見ていた同じ場所に立つ女は、風に揺れる髪とドレスの裾に構うことなく茫洋と月に魅入る。
  この城にいると、落ち着いた。
  闇の気配が濃厚であるからかもしれない。ここには闇の者達が蠢いており、この街で最も色濃く闇を内包している場所であった。
  城に来たことはなかったが、感じる気配に導かれるまま辿りついたのがここだったのだった。
  ここならば、安心だ。
「…ニーナ、エレナ、ニコライ、ラザロ、…」
  数え切れないほどの名を呼んだ。
  足元にぽっかりと空いた黒い空間から、這い出てくるのは小さく黒いモノ達だ。
  名を呼ぶ度、数が増える。
  何十何百といそうな群れは、女の周囲で小山を作り、フロア全体に広がり始めていたが、暴れる事もなくただ静かに女の指示を待っていた。
  口を閉ざし沈黙すれば、足元の空間も萎むように円の直径を縮めていき、跡形もなく消え失せる。
  フロアの半分を埋め尽くす小さなモノ達を見渡して、女は目を伏せため息をついた。
「さぁ、お前達は自由よ」
  解放の言葉に、群れは散り散りに消えて行く。
  この広大な闇の城ならば、少しくらい生息数が増えたところで問題はないだろう。
  元気で。
  憂いを込めた眼差しに涙はなかったが、別れを惜しむように未だフロアに残るモノ達へと手を振った。
  まるで家族や友人に対するかのようなそれは、女にとっては自然な事であった。
  数日に一度程度は、この城へとやって来る。
  月に癒され、別れを悲しんだ。
  何かの機械が作動して、小さきモノ達が何体も引き裂かれた時には叫びが漏れた。
  そして今も、何かの機械が作動している。
  攻撃性を持つものではなかったが、あれは良い物ではない予感がした。
  手を伸ばし、引きちぎる。
  力を込めれば円形の機械は容易く潰れ、コードを引っ張れば音を立てて盤面から抜け落ちた。
  この城は危険なのかと疑うが、歩き回って見た所、嫌な機械が設置されているのはここだけのようだった。
  あの子達が危険な目に遭わないように、都度壊してしまえば問題ないと判断し、女は城を後にする。
  この世界は、広かった。
  女が知っているのは生まれた土地と、この城だけだった。
  足で歩けばひたすらに遠く、目的地まで辿りつくのに何日かかるのか考えるだに恐ろしい距離であり、闇の通路を通ってやっと自由に行き来が出来るのだった。
  人間の気配の途絶えた街の中に、降り立ってみる。
  生まれた土地の住宅とは趣の異なる様式で建築された街並みは、色彩が統一され異国に迷い込んだ気分になった。
  整然と敷かれた床石が美しく、教会を中心に放射状に広がる見慣れた作りではない区画割に戸惑った。
  この場所は、城を中心に広がってはいたが、放射状に道が整備されているわけではなく、どちらかと言えば升目状に区切られている印象を受ける。
  無論全てがそうではなく、入り組んだ路地や曲がりくねった道も存在はしたが、同じような建物に同じような道の作りに、己がどこに立っているのか方向感覚を欠く。
  けれども、楽しかった。
  見慣れない土地、見慣れない建物は心浮き立つものがあった。
  静まり返った深夜の街を、一人歩くのは心地良い。
  住宅地の外れまで歩いてみると、なだらかな丘があった。草木はまばらであり剥き出しの岩や砂が大半を占めているそこは、放置されているのか人の手の入っている様子は窺えない。
  ベンチもなければ物見台のような建物もなく、手摺りもなければ休憩できるような広場もなかった。
  女はそこにいる闇の存在を感じ取り、ああ、だから人間は寄り付かないのかと納得した。
  女にとって闇は敵ではなかったので、恐れる必要はなかった。構わず城からの眺めとは違う景色が見えることを期待し、丘の上を目指して歩く。
「……?」
  音が、聴こえた。
  次の瞬間、闇のモノ達の気配が、絶えた。
「……!」
  何故、と思う。
  無意識に足が止まり、先へ進む事ができなくなった。
  この先に、何かが「いる」。
  臍の上辺りから、内臓を食い破らんばかりの勢いで虫が這い上がってくるような不快感があった。
  同時に、肩甲骨から首筋にかけて総毛立つ。
  膝が小刻みに震え出し、動悸が激しく息が上がった。
  一体何が「いる」のだろう。
  一瞬で複数のモノ達を消し去るほどの、不吉な何か。
  身体は動かなかったが、視線は自由だった。
  丘の上に立つ、影が見えた。
  息を殺し、目を凝らす。
  黒い影と思えたそれは、背を向けて立つ黒衣の男のようだった。
  髪は金で短く、細身の身体に似合わぬ巨大な塊を持っていた。
  布で巻かれたそれは、武器なのか。
  女は覚束ない足取りで一歩下がった。
  じゃり、と、砂を擦り合わせる音が大きく響いて心臓が跳ねる。
  気づいた男が、こちらを向いた。
「…っ!!」
  視線を合わせる前に、回廊を開いて倒れ込むように背から闇の中へと逃げ込んだ。
  呼吸は浅く、上手く酸素を取り込む事ができなかった。
  全身に汗をかいていることを自覚したが、暑いわけではなく、むしろ寒かった。
  震える身体を抱きしめるようにして、大きく息を吸い込む。
  二度とあの場所へ行ってはいけない。
  あれは、恐ろしいモノだ。
  闇を殺す生き物だ。
  呼吸が楽になると、動悸もやがて落ち着いた。
  膝は相変わらず震えていたが、動けないほどではない。
「…帰ろう」
  あの場所へ。
  私がいるべき、安らぎの場所へ。
  生まれて初めて感じた強烈な感情を「恐怖」と呼ぶのだと、女は埋もれる知識の中から認識した。

 

 

  物音一つない闇を、男は歩く。
  街は未だ眠りの只中にあり、真夏の夜に緩やかな風は涼しく吹き抜けて行ったが、闇の侵入を拒む人々は門戸を固く閉ざしており、夜風を窓から取り入れている酔狂な家は存在しない。
  ぴったりと外界の気配を絶ち、内側に篭った人々による静寂の落ちた街は散歩するには最適であったが、跳梁跋扈するハートレスを移動するたび片付けなければならない為、よほど気分が向かない限りは長時間出歩きたいとは思わない。
  回廊を抜け、男は目的地に到着する。
  玄関の鍵は、使わない。
  緊急事態だからと自らに言い訳をし、降り立ったのは寝室の中だった。
  気配や物音に敏感なこの家の主は、ベッドの中で気持ち良さそうに熟睡中だ。
  気配を殺し、音を殺して近づいた。
  熱帯夜ではないせいか、家主はシーツを被り身体を丸めて腕の中に顔を埋めるようにして寝ていた。
  長い前髪が表情を隠していたが、規則正しい呼吸は一切乱れておらず、男の存在に気づいていないことにひっそりと満足の笑みを零す。
  これから熟睡中の家主を起こさなければならなかったが、さてどうしようとこの段になって思案した。
  普通に気づいて欲しければ、玄関から堂々と鍵を開けて入ってくれば良かったが、それはスルーした。
  ならば玄関先に立ち、きちんと歩いて寝室へと向かって来ればおそらく気配に気づいただろうが、それも今回スルーした。
  寝ているだろうことを承知で寝室に直接踏み込んだのは、急ぎの用件があった為だったが、果たしてそれだけだったのか。
  …普段は絶対にこんなことはやらない、と言い訳をする。
  回廊を使って家の中に直接出入りできるのだと気づかれてはいけない。
  気づいていたとしても、そんなことはしない、と思っていてもらわなければならなかった。
  でなければ、崩れる。
  …何が崩れるのか、と問われたところでクラウドには上手く説明しようもないのだが、何となく構築され始めている己への信頼というか、距離感というか、境界線のようなもの、としか言いようがない。それはとても繊細で柔らかく、曖昧であり、もっと近づけるような気もしたし、触れる事すらできるのではないかと錯覚しそうな程には、微妙なものだった。
  壊したいとは、思わない。
  シーツに丸まって眠る男にとって、回廊を使って己の部屋を勝手に出入りされるという事実はおそらく、許しがたい蹂躙行為と感じるであろうから。
  超えてはならない一線が存在する。
  「レオンにもらった鍵を使って許可を必要とせず部屋に入る」ことと、「回廊を使って許可を必要とせず部屋に入る」ことは同義ではない。
  部屋に入るという事実は同じでも、ここはレオンの部屋なのだ。回廊を使っていいかと問えば拒絶されることは目に見えているし、鍵を返せと言われるだろうし、二度と来るなと言われかねない。いや、確実に言われる。
  そして以後勝手に踏み込もうものならば、本気で殺されかねなかった。
  いや、易々と殺されるほど弱くはないし、いざとなれば応戦するが、それは望まない。
  面倒くさいことになることくらいは、クラウドにもわかっている。
  では何故寝室に直行したか。
  …はて、クラウドにも明確な理由は思いつかなかった。
  なんとなく、寝込みを襲ってみたかった。
  うむ、これはレオンに言ったら殴られる。
  全くクラウドに気づく事なく無防備に熟睡しているレオンを、起こしてみたい。
  起こす理由があるから、寝室に踏み込んだ。
  礼を言われこそすれ、怒られる筋合いはない話だ。
  よし、理論武装完璧。
  至近に寄り、そっと手を伸ばした。
  レオンの顔に掛かる髪をよける。
  頬に手を滑らせ、軽く撫でた。
「…レオン、起きろ」
「……?」
  ベッドサイドに跪き、肘をベッドの上に乗せて体重をかけレオンの顔を覗き込む。
  僅かにベッドが軋む音がして、レオンの瞼が震えた。
「…人間じゃない奴がいたぞ」
「……くらうど…?」
「ああ」
「…なん…」
  声に全く力がない。
  押し出すような音は掠れて、未だ夢の中を彷徨っている様子が見て取れる。
  覚束ない表情のレオンは無防備に過ぎて目の毒だった。
  なんとなく視線を逸らし、起きろと言いながら頬から頭までをゆっくりと撫でてやれば、眉を引き絞り、重い瞼を開こうと何度か瞬きをした。
「女がいる」
  簡潔に教えてやる。
  人間ではない女がいた。
  闇の回廊へと消えて行ったあの女は、初めて見る顔だった。
「どうする?」
  レオンを見下ろせば、幾分目が覚めたのかやや表情ははっきりとしていたが、呆れたような眼差しにクラウドが首を傾げる。
「ん?何だその顔」
「…お前の?」
「へ?」
  言葉の意味を捉え損ね、間抜けな声が漏れた。
「どういう…」
「…お前の女をどうするって?」
「は?」
  レオンは何を言っているのだろうか。
  眉根が寄った。
  沈黙をどう受け取ったのか、レオンは頭を撫でるクラウドの手を払いのけた。
「ティファか?…とにかくお前の女なら自分で処理しろ。厄介事を持ち込むな。…オイ、まだ三時じゃないか…何で起こしたこの馬鹿が!」
「…え、いや、そ」
「時間まで俺は寝る。くだらないことで起こしたら殺す…」
「…じゃなく…」
  クラウドの呆然とした呟きは完全に無視された。
  硬直している間に、レオンは再び夢の中へと旅立ったようだった。
  ティファか?って、何だ。
  ティファから俺は逃げてるんだぞ。何でその名前が出てくるんだ。
  …今ティファはこの街ではなく、他の世界へ探しに行っていることを知っている。
  何故知っているのか?…それは当然、捕まらない為だった。
  全く、一体何をどうしたら俺の女がどうのという話になるんだ。
  理解できなかった。
  仮に俺に女がいると仮定して、そもそも深夜にレオンを起こしてまで相談するか?
  ……。
  …いや本当に切羽詰って困った状況ならするかもしれないが、何故俺に女がいるという前提に立っているのか詳しく知りたい。
  だがレオンを起こして問う勇気は持てなかった。
  殺すと宣言したのだからコイツはやる。
  実際殺されはしないだろうが半殺しは確実だ。
  まぁこんなことで応戦するのも馬鹿らしいので、斬りかかられても逃げるけど。
  俺が親切にも、人間じゃない女がいると教えてやったというのに。
  見たのはほんの一瞬で、女が敵意を持っているかどうかまでは確認できなかったが、街の復興に尽力しているお前達の障害になったら困るだろうからと、わざわざ知らせに来てやったのに。
  …ついでに、あの女がどこへ向かったかも、教えてやってもいいと思っていたのに。
「…もう知らない。もう教えてやらないからな」
  立ち上がり、寝るのに邪魔な装飾品を外す。
  ガチャガチャと音がしたが、レオンは反応しなかった。
  レオンの身体を跨ぎ越し、隣に寝転んだ。
  余裕のあるベッドは軋んで揺れたが、固めのスプリングに衝撃は吸収されて、レオンを起こす程ではなかったようだ。
  もしくは起きていても反応しないだけかもしれなかったが、クラウドは忖度しない。
  レオンが被っているシーツを引っ張り、己の分を確保する。
  寝る。
  そのうち困った事になって、俺に頭を下げればいい。
  子供じみた拗ね方をしている自覚はあったものの、クラウドは構わず目を閉じた。


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