帰りたい、あの場所へ。
振り返ることもなく一定の速度で歩き続ける長い脚の後ろをついて歩く。
城壁広場を通って城の通用口へと向かえば、お約束のハートレスとノーバディが襲い掛かってくるのを鮮やかになぎ倒す様子を少し離れた位置から見学し、自分にも向かってくる敵の群れをキーブレードで倒した後にはすでにかなりの距離を開けられていることに気づいて小走りで距離を詰める。
先を歩く男は背後を気にすることもなく、悠然と目的地へと向かっていた。
どう考えても背後から尾行する存在に気づいていないはずはなく、それでも知らぬフリを決め込まれてソラは声をかけるタイミングを逸し続けていた。
レオンがどこへ向かっているのかは知っている。
見失わない距離を保たなくとも、目的地へ行けば会えることも知っていた。知っていたが、レオンの姿を視界から消してしまう気になれず、着かず離れずを保って後ろを歩く。
マーリンの家に行った時にはすでにレオンは出掛けた後で、急いで追えばすぐにその後姿を見つけることはできたのだが、声をかける事を躊躇った。
他者を拒む冷たい空気を感じたからだった。
おそらく声をかければ振り返り、いつものように「ソラ、来たのか」と小さな微笑を持って迎えてくれるだろうことは想像できたものの、なんとなくレオンの空気を壊すことに気が引けた。
ソラが知らない、レオンの一部を垣間見ることができて嬉しかったせいもあるかもしれない。
ソラがいない時に、レオンがどういう風に過ごしているのかソラは知らない。
誰をも寄せ付けない気配は単に機嫌が悪いだけかもしれなかったが、ソラがいる前では絶対に見せる事のない一面であることは確かだった。
城の中へ入り、迷路のような通路を通って研究施設へと歩みを止めることなく進むレオンの背中をぼんやりと見守った。レオンがハートレス達を片付けてくれるおかげで、ソラは戦闘をしなくて済んだ。曲がり角から顔を半分覗かせてレオンの戦闘や行動を見守る様は、どう見ても不審者じゃないかと自らにツッコミを入れる程に怪しかったが、レオンの強さを改めて認識し、どこか誇らしい気持ちになったことも事実であった。
アンセムの部屋の扉向こうへと消えたレオンに続いて扉を開けようと手を伸ばした所で、先に扉が開かれソラは焦って一歩下がる。
「…ソラ?」
「あ、クラウド?」
全身黒で統一した金髪の男を見上げれば、怪訝な表情で見下ろされていた。
「…何?」
「いや、今レオンが来たぞ」
「うん、知ってる」
「一緒に来たんじゃないのか」
「後をつけてきた」
「…ス」
「あ、ストーカーとかじゃないから!先言っとくけど!」
「…へぇ」
機先を制すればクラウドは僅かに鼻白んだ。
「レオンの後姿が見たかっただけ!」
「…それは、ス」
「だからチガーウ!」
「じゃぁ視姦目的か」
「…えーと…俺の事なんだと思ってるの?」
引きつった頬を戻す努力も放棄して問えば、小首を傾げて数秒考え込む20歳をとうに過ぎた大人は、大人なのに大人気ないとソラは思った。
せっかくカッコイイのに、なんでそんな台詞がさらっと出てくるのだろうか。
「思春期真っ盛りのキーブレードに選ばれし子供?」
「し…、って」
容赦ない言い方は、子供心に刺さる物があった。
棘を感じるのは気のせいだろうか。
「…クラウド、俺の事嫌いなの?」
「別に?」
「じゃぁレオンの事好きなの?」
「興味ないね」
「ホントに~?」
窺うように覗き込めば、クラウドは溜息をついた。
「…何故そこでレオンが出てくるのか理解できないな」
「レオンとケンカでもしたのかと思って。クラウドも機嫌悪そうだし。レオンもなんか機嫌悪そうだったし」
「別に…」
「俺がなんだって?」
「あ、レオン!」
呆れたような溜息と共にコンピュータルームへと続く通路に立ったレオンを見やり、ソラは笑顔で走り寄った。
「クラウドが俺の事苛めるんだよ!」
「苛めてない」
間髪入れず当の本人にツッこまれ、ソラは逃げるようにレオンの背後に回りこむ。
「…ソラに八つ当たりはやめておけ、大人気ない」
「お前が言うな」
頭上で交わされる意味不明な言葉の羅列に、説明を求めるようにレオンの腰を引っ張れば、見下ろされて頭を撫でられた。
「…レオン?」
「気にするな、ソラ。クラウドはちょっと気が立っているだけだから」
「ケンカでもしたの?」
「…そういうわけじゃないが…」
「ケンカよりタチが悪い…」
「え?」
腕を組んで大仰に嘆息する男を放置するように踵を返したレオンの後について歩きながらも、二人へ視線を彷徨わせれば、やがてレオンが諦めたように歩を止め僅かに振り返った。
「…煽ったのは悪かった。が、今はパスだ」
「悪趣味に過ぎる」
「…埋め合わせはするさ」
「当然だね」
それ以上の会話を打ち切るように片手を上げて一振りし、クラウドは「ごゆっくり」と言い置いて部屋を出て行った。
引き止めるわけでもなくアンセム博士の残したコンピュータからデータを引き出す作業を始めたレオンから少し離れて、ソラは両肘をコンピュータの上に乗せて体重を預けた。
キーボードの上でなければ、多少の重みが加わっても問題はないらしい。
モニタに映し出される小さな文字の一群を覗き見て拒絶反応を示した脳は、眼下に広がるハートレス製造工場へと視線を切り替えた。
MCPが暴走した時、稼動してしまったと聞いたが、今は静かだった。トロンがシステムを把握している限り二度とここでハートレスが作られることはないだろうが、定期的に確認する作業は必要なのだとレオンは言う。
ホロウバスティオンは、アンセム博士やマレフィセントが活動の拠点とする程大きく、発展した街であった。これらのシステムを維持するのは大変だろうとソラは思う。維持し、再建し、今以上に発展させていかねばならないのだから。
通りすがりに過ぎない自分に、出来ることといったら敵を倒すことしかない。
そう、キーブレードを使って敵を倒すことしかできないのだ。
レオンを見上げる。
長い前髪に隠された横顔は、ソラが憧れてやまないものだ。
強く、カッコよく、大人で、優しい。
右も左もわからないままディスティニーアイランドから飛ばされた先で、レオンに会えて良かった。
レオンに、認めてもらえて良かった。
キーブレードの持ち主に、なれて良かった。
「さっきのクラウドの…何の話?」
内心気になって仕方ない事を、さりげない様子で問うた。
「あれか…クラウドをからかったら本気になった、だけ」
視線をモニタに向けたまま吐息混じりに呟く様は常と変わりないもので、だからこそその内容に違和感を覚える。
「レオンがクラウドをからかうの?…なんかイメージ違うな」
「…そうか?…ああ、そうだな。ちょっとイライラしてたからだな」
「けどあのクラウドが怒るって、何したの?」
「……」
ピー、とエラー音が出た。
珍しい音にソラは驚き、キーボードからレオンへと視線を上げれば、レオンは表情の見えない横顔を固定したまま、何もなかったように作業を続ける。
「レオン?」
「ああ、問題ない」
「…そうじゃなくて…」
ソラはレオンをしばし見上げていたが、やがて気づかれないよう顔を伏せた。
気づきたくないことに、気づいてしまったからだった。
レオンもクラウドもソラの事を子供扱いするが、ソラだって男で、キーブレードに選ばれて、世界を回ってたくさんの人に会って、たくさんの敵と戦ってきたのだ。
たくさんの悲しみを目にしたし、たくさんの愛情のあり方をも見届けてきた。
レオンとクラウドの間にあるものが愛情かどうかなど知りようもないが、だが二人の間に何かしらの繋がりがあることは確かで、それはソラにはまだ見えないものだった。
悔しい。
自分とレオンの間になくて、クラウドとレオンの間にはあるものが。
レオンと共有できるモノを持っているクラウドが羨ましかった。
今の自分が持たないものを、二人が持っている事がとても悔しい。
どんな子供だって、いつかは成長して大人になる。
昨日までは気づかなかった小さな事に、今日気づける事は成長の証かもしれなかったが、大人になって気づきたくないことに気づいてしまうのは、辛いことだった。
気づかずにいられれば、自分は変わらずにいられたのに。
「…ソラ、体調でも悪いのか?」
頭上から落ちる静かな声はよく通り、ソラの耳に浸透する。聞き慣れたその口調、音は心地よく、ソラはゆっくりと顔を上げた。思ったより至近にレオンの顔があり、思わず身を反らせて距離を取る。
不審に眉を寄せるその端正な顔立ちを何故か直視できず、ソラは視線を逸らしてレオンの肩のあたりを見つめてなんでもないと首を振った。
頬が熱くなるのを自覚する。
…悔しい。
自分だけこんな風になるなんて。
顔を見られないよう、うろうろとコンピュータルーム内を歩き回った。
「ちっちゃい頃にさー、カイリが島にやって来て、俺とリクとカイリと、ずっと仲良く暮らして来たんだ」
「?…ああ」
「カイリはここの街で暮らしてたんだって。もしかしたら、レオンと知り合いだったかもしれないね」
「…かもしれないな」
突然脈絡もない話をされ、レオンは戸惑った様子だったが咎めるでもなく、静かにソラの話に相槌を打つ。
レオンはいつもそうだった。
ソラの話を聞いてくれる。
ソラを、尊重してくれる。
「パオプの実って知ってる?」
「いや」
「それさ、好きな相手と互いに食べさせあったら結ばれるんだって。そんな言い伝えがあるんだ」
「へぇ…」
「幸せになれるってことだよね」
「…そうだな」
「俺、秘密の洞窟に絵を描いたんだ」
カイリに食べさせる、自分の絵。
ソラは足を止め、困惑しきった顔でレオンを見上げた。
「俺、カイリが好きなんだ」
「…そうか」
告白話にしてはソラに甘さの欠片もなく、むしろ縋るような視線を向けられ、レオンはどう答えるべきか逡巡する。
「カイリが好きなんだ。…好きなのに」
でも。
項垂れ床に視線を落とし、ソラはレオンに近づいた。じっと立ってソラを見つめる大人の男の腰元へ両手を伸ばす。胸元にごつごつとしたベルトが当たって圧迫感があったが、ソラは気にせず力を込めて抱きしめた。
「…ソラ?」
拒絶されない今の立場は、心地良かった。
子供だから?
キーブレードに選ばれたから?
脳裏を掠めるその思考は、だがソラの心に不愉快な靄となって留まった。
「俺が大人だったら。俺がキーブレードに選ばれてなかったら。…レオン、俺に優しくしてくれてた?」
「…何だ、突然?」
「ドナルドやグーフィーですら、キーブレードの本当の所有者がリクだったってわかったときには離れていった」
「……」
「やっぱりレオンも、そうなのか?キーブレードを持っているから優しくしてくれたの?」
答えを聞きたくはなかったが、言わずにはいられなかった。
もし肯定されたら。
もし、レオンが自分を突き放す瞬間があったのだとしたら。
自分は。
ややあって、くしゃりと軽く頭を撫でられた。
茶色の癖毛は、たやすく乱れてレオンの指に絡まる。それを優しく梳きながら、レオンは小さく笑った。
「…何で笑うの」
「…キーブレードに選ばれた子供が、ソラだったから」
俺は俺の出来る手伝いをしようと思っただけだ、と呟く。
「答えになってないよ…?」
「仮定の話はしても意味がない。現にお前はキーブレードを所有する子供で、それ以外のソラを俺は知らない。…そうだな」
もし、世界が平和になってキーブレードが不要になったら、その時は。
「何の肩書きもないただのソラで、もう一度会いに来てくれ。そうすれば、俺もお前に何か対応してやれるかもしれない」
あやすように頭を撫でられ、ソラは危うく泣きそうになった。レオンの腰に顔を押し付け、力の限り抱きしめる。さすがに苦しいのか、レオンが身じろいだがソラは頓着しなかった。
「レオンは、優しいんだか優しくないんだかわかんないよ!」
「優しくはないと思うが」
「じゃぁ意地悪だ!」
「…何で?」
「俺を泣かすから!」
「…何で泣くんだ…」
「ぅー…っ」
気づきたくなかった。
気づきたくなんか、なかったんだ。
悔しい。
悔しくて、泣けてきた。一度涙が零れたら、止まらなくなってしまった。
俺はまだ、こんなにレオンから遠い。
俺はカイリが好きなのに、レオンに好きになってもらいたくて仕方がない。
子供でもなく、キーブレードの所有者でもなく、ただのソラとして認めてもらいたい。
自分が想ってるのと同じくらい、レオンに想ってもらいたい。
嫌われたくない。
「レオンが俺の事、子供扱いするから…!」
ただの好きと、恋の違いくらい知っている。
悔しい。
気づかずにいられれば、変わらずにいられたのに。
強くてカッコイイレオンに、憧れるだけの子供でいられたのに。
リクとカイリと三人で、海辺を駆けずり回って遊んでいたあの頃に帰れるのなら。
…初めてカイリが島にやってきた、空を覆い尽くすほどの美しい流星雨の夜に戻れるのなら。
どれだけ幸せだっただろうか。
「悔しい、辛いよレオン。俺、どんだけ頑張ったらいいの。俺、どんだけ強くなればいいの。どんだけ時間が経てばいいの。教えてよレオン!」
答えなど期待していなかった。
筋の通った要求をしているわけでもなければ、これは要求ですらないソラの心の吐露に過ぎず、意味すらおそらくレオンには通じていないだろう事くらいは、ソラも承知していた。
「…お前は十分頑張っているし、強い。若いということは、無限の可能性があるということだ。…焦らなくていい。お前にとって時間は無限に等しいんだから」
己の10代の頃を振り返る。
今の己を顧みる。
時間の流れは確かに同じであったはずなのに、あの頃のなんと輝いて緩やかであったことか。
レオンとて安穏とした人生を歩んできたわけではないが、それでも子供には、道は無限に開けているものだった。
余程特殊な生き方をしようと望まない限りは。
だが、その言葉はソラにとっては現実を突きつける刃にしかならないことに、レオンは気づかない。
「…ソラ?」
顔も上げず、静かに泣き続ける子供にかける言葉はもはやなく、両手でそっと抱きしめてやる。温かい子供の身体は健やかなのに、心が傷ついているのが痛々しかった。
何故ソラが泣くのかレオンは知らない。
何故早く大きくなりたいと望むのかも、レオンは知らない。
悔しい、とソラが泣く。
帰れないことなど承知の上で、それでも何も知らずにいられたあの場所に帰りたいと願う。
大人になり始めた少年は、声もなく涙を流す。
ただ、静かに。