人生の先輩には色々学ばなければならない。
部屋に入り興味深げに周囲を見回す少年の様子は平常時と変わらないように見えた。
珍しい物など何もない必要最低限の生活用品とアクセサリ類がある位の部屋であったが、目新しいモノはないのかと視線を彷徨わせるソラは落ちつかなげだ。
夕食の用意をする前に飲み物でもとその場を離れたが、トレイに乗せた二つのカップを持ってリビングへ戻ればソラの姿は見えなくなっていた。
「…ソラ、飲み物を淹れたぞ」
子供かペットを呼ぶように声をかけ、ダイニングテーブルの上にカップを置いてやれば、気づいたソラが寝室から顔を出し、しかめっ面で戻ってくる。
「…何か気になるものでもあったか?」
「うーん」
椅子に腰掛け、両手でマグカップを持ち上げ一口啜り、ソラは何か言いたげに首を傾げる。
夕食を作らねばならない為座って寛ぐ気になれず、レオンは立ったまま柱に凭れてカップに口をつけた。
ミルクを多めに淹れたコーヒーだったが、他にも何か子供が喜ぶような種類を増やした方がいいのかと頭の片隅で思う。
ソラがいる間に飲みきれるのならパックや瓶に入っている液体状のジュースなどでもいいのかもしれなかったが、余ってしまった時に困るのでやはりここは保存が効く粉末状の方がいいのか。
エアリスが今日出していたココアとか、そういった類の物を、何か。
ソラの返事はなかなか来ない。
レオンが怪訝に首を傾げた時、顔を上げたソラと目があった。
「レオンの家にさ」
「ん?」
「エロ本とかないの?」
ぶっ、とレオンが噴出したのは本日二度目であった。
「な、…なに?」
問い返す声が動揺を如実に物語っていたが、取り繕うことすら思い至らなかったらしいレオンは愕然とソラを見下ろした。
「あ、本じゃなくてDVDとかでもいいんだけど、見てみた感じどこにもなかった。…どっか隠してる?」
「そ…ソラ…?」
「学校の友達とかこっそり持ってたりするんだ。皆持ってるっていうけど…レオンは?」
「……」
可愛らしく小首を傾げて上目遣いで見つめてくる少年は、出会って間もない頃のいたいけな印象を違えるものではないというのに、発する言葉には泣けてくるほどの成長の後が見て取れる。喜んでやるべきなのだろう。なのだろうがしかし。
レオンは言葉に詰まる。
言葉に詰まるというよりは、頭が真っ白で何も浮かんで来ないという方が正しかった。
「答えないってことは、…きっとどこかに隠してるな?ベッドの下とか、引き出しの奥とか、本棚の裏とか見てみたけどなかった。レオンってば一人暮らしなのにすごい慎重なんだな~」
「……」
そんなものはない。
十代の若かりし頃ならともかく…いや、それは置いておいても今この家にそんなものはなかった。
ご期待に添えなくて残念なのだが。
だが瞳を輝かせて楽しそうに、家探ししそうな勢いの少年に素直に言ってやるのは何故だか気が引けた。
ソラが、それを期待しているからだ。
何故?とか、何で?とか、今日ソラが現れてからずっと同じ言葉が脳裏を巡っては口元まで出かかるのだが、表に出る前に嚥下していた。
ソラが、目的があってそれらの言動をしていると思うからだ。
噴出して床に零れてしまったコーヒーを拭い、まだ半分ほど残ったカップの中身はシンクに流す。腹が減っていたはずだったが、食欲は失せていた。
無言で片付け、レオンは夕食の支度にかかる。
自分はいらなくても、ソラには食事が必要だった。
背後からレオンを呼ぶ声がするが、気づかないフリを決め込んだ。
返事がないことに不満を覚えたソラが立ち上がり、飲み終わったカップをシンクへ置きながらレオンの様子を窺った。
黙々と食事の用意をするレオンの手つきは、母親並とはいかなかったが不安を覚えるものでもなかったことに感動する。
「レオンはいい奥さんになれそうだよな」
レオンが包丁を滑らせシンクの中へ転がしたとて、一体誰が責められよう。
レオンが風呂から上がっても、ソラは部屋を漁っていた。
漁るといっても泥棒がやるような散らかし放題の無法地帯ではなく、出したものをきちんと片付けてから次へと移る行儀のいいやり方だ。
…漁り方に行儀のいいも悪いもあるか!
と、自らツッコミを入れる程度にはレオンは疲れていた。
ソラが風呂に入っている間に報告書は終わらせた。
あとはもう寝るだけだ。
時間的にはまだ寝るには早かったが、このまま横になれば即熟睡できそうな気がした。
落ち着いてゆっくり眠る為には、この少年が満足することが必須条件だ。
自然零れるため息を我慢する気もなくし、レオンはソラがごそごそやっている横のソファに腰かけた。
「…目当てのものは見つかったか?」
結局食事中に「ない」と素直に白状したものの、ソラは信用しなかった。
「絶対見つけてやるからなー!」と俄然張り切る様子に何も言う気をなくし、好きにさせているのが現状だ。
「ないよ!くそー絶対どっかにあると思ってたのになぁ…」
「…そろそろ納得しろ」
「あっ天井裏とか?」
「…ソラ…」
何故そこまで。
頭痛を感じてこめかみを抑える。
「だってさ、そういうのなかったらさ、どうやってんの?」
きた。
また何か恐ろしい爆弾が落ちてきた。
「……」
「なーレオン」
聞くな。いや聞かないで下さい。
というより言わせるな。
羞恥プレイとか、ソッチ方面ならまだ理解はできるが、相手はソラだ。
ソラなんだ。
こめかみを押さえたまま動かないレオンに焦れて、ソラが家探しをやめにじり寄る。
「レオン、カノジョいるんだっけ?」
迫るソラから逃れるようにレオンはジリジリと移動をするが、膝の上に両手を乗せられ上半身の体重をかけられ阻止された。
「…何だ突然」
嫌々問えば、ソラは真っ直ぐ見上げた瞳に真剣な色を湛えて一呼吸置いた。
「いや、カノジョとそーゆーことしてるから必要ないのかと」
ある意味健全で純情な発想だ、と、微笑ましい気分になったが笑い事ではなかった。
その質問を、ソラが、俺に、しているのだ。
意識が聞きたくないと拒絶をし、聞かなかったことにしてもう寝てしまいたいとも思うのだが、膝の上の重みはそれを許してはくれない。
反らした頬に感じる視線が熱い。
答えを、欲しているのだ。
ああ、答えたくない。
ソラとそんな話はしたくない。
ならばどんな話ならいいのかと自問すれば、それはやはりソラを子供として扱いたい己の願望の表れでしかないのだった。
自己満足と都合のいい子供像を、ソラに投影していたと自覚することは痛みを伴う。
気づきたくなかったし、自分の前ではいつまでも子供でいて欲しかった。
「レオン」
呼ぶ声は静かだ。
ソラもまた、重大な決意を持ってやって来たのだろうから。
仕方なく、レオンは口を開く。
「…特に困ったことはないからな…」
何に、とも、何が、とも言わなかったが、ソラはしばし考える素振りを見せた。
「レオンは性欲ないの?」
がくん、とソファの肘置きから肘が滑り落ち、間抜けな様を晒したレオンはだが、今度は肘置きに縋りつくように腕を乗せ盛大なため息をついて項垂れた。
「レオンー?」
「…俺も一応人間だ」
「うん」
「…相手に不自由してないという意味だ…」
「…あー」
そういうことか、と納得したソラが指を鳴らす。
「で、誰?」
お子様は容赦がなかった。
「…そこまで教える必要はない」
「あー、そっか。相手にもプライバシーってのがあるもんね」
俺にもある!
と、レオンは言いたかったが、答えてもらったことでお子様は調子付いた。
立ち上がり、レオンが組んでいた足を下ろさせ平らにしてから膝上に跨る。
両手をレオンの首に回して至近で見つめれば、明らかに不審に眉を寄せたレオンの顔が仰け反った。
「…何だ」
「この体勢はヤラシイなー」
「……」
ヤラシイと言われても、どう答えてやればいいのだろう。
嫌な汗が背中を伝い落ちる。
鼻先がつくほどに近づいて、ソラがそっと囁いた。
「レオン、俺のこと好き?」
「…おい、ソラ」
「好き?」
「……」
今日のソラは本当におかしい。
熱に浮かされたように、と評するには冷静に過ぎ、かと思えば不安そうに瞳が揺れる。
「俺はレオンのこと好きだ。…レオンは?」
困惑でため息が漏れる。至近のソラが楽しげに笑った。
「レオン!」
「…もちろん嫌いじゃないが」
「そう言うと思った!レオンは結構わかりやすい!」
「……」
眉を顰めたレオンに笑みを深くして、ソラはレオンを抱きしめる。
「嫌いじゃないって言うのは、好きってことだよな!」
それは世間一般的に違うと思う、と言いたかったが、蛇足の気がして口を閉ざす。
ソラは一体何がしたいのだろうか。
回された手を解こうと触れた瞬間、ソラが顔を上げて見つめてくるので意気を削がれる。
「…ソラ、重い」
「ごめんごめん、あ、ついでにもう一つ」
「何だ」
「レオンは男相手でも平気な人?」
「……」
無言でソラの両手を引き剥がし、跨る腿を持ち上げ身体が浮いた所を容赦なく床に投げ捨てる。
背中から落ちかけたソラは身軽に受け身を取って一回転し、床に起き上がって胡坐をかいた。
「あ…っぶね…!レオンってば!図星かっ」
「ソラ、今日はえらく不躾だな。聞くだけ聞いてお前自身はだんまりか」
「うっ」
頬杖をつきソファにふんぞり返るレオンの長い足が目の前で組まれた。高い位置から見下ろしてくる瞳に怒りはなかったが、呆れている様子はありありと見て取れた。
ここまでつまらない質問に答えたのも、相手がソラだからだ、ということをソラ自身知るべきだ。
レオンが言えばソラはうろたえた。
視線を彷徨わせ、俯き加減にぶつぶつといい訳めいたことを呟いている。
「聞こえないな。ソラの部屋にはエロ本があるんだって?」
「えっななな、ないよ!」
「いずれ機会があれば押しかけて家探ししてやりたいな」
「ななな、ないって!ないってば!」
両手を目の前で振り回す様はあるのかないのか判断がつきにくい。
実際にどうであれ、自主的にソラの家に行くことはまずないだろうと思っているのでレオンにとってはどうでも良い。
こんな話題自体が、どうでも良く興味もない。
「そういうのがないなら、どうやってんの?…だったかな」
「うぅ…」
「友達に借りてるか」
「そっ…」
心底どうでもいい話題だ。
しかしソラにとっては重要なことなのだろう、おそらくは。
追い詰めるつもりはないのだが、ソラの様子があまりにもおかしいから気になって仕方がない。
ソラは一体何を目的にここに来たのか。
色々勉強したいと言っていたが、一体何を?
瞬間嫌な予想が頭を過ぎる。
まさか?
…いや、まさか。
乾いた笑いを漏らしかけ、レオンは口元を引き締める。
これ以上の質問は藪蛇を突付きかねないので、一つ深呼吸してレオンはソファから立ち上がった。
「…さぁ、少し早いがそろそろ寝るか」
床に座り込んだままの少年の頭を見下ろしながら、少しばかり優しく声をかけてやる。
ちらりと上げた目線は何かを訴えかけていたが、汲み取ってやる気はなかった。
「ソラ、歯を磨いて、寝る用意をしなさい」
「……」
ゆらりと力なく立ち上がったソラを確認し、寝室に続くドアを開ける。
明日の予定を脳裏に呼び出し、ソラを連れて行ける場所、行けない場所には待っていてもらう間、何をしておいてもらおうか、などと考える。
ソラへの注意が逸れたのは致命的だった。
「レオン先生!俺に手ほどきしてください!」
ああ、何故背後からのタックルをかわせなかったのか。
ドアに思い切りぶつけた頭も痛かったが、ソラの口から飛び出した単語の方が痛かった。
「…そそそソラ、今何、て…」
振り向けない。
振り向いてはいけない。
ソラの目を、見てはいけない。
「レオンとなら俺…!」
「やめろ馬鹿何言ってる正気に返れ!」
力を込めて抱きついてくる腕を引き剥がそうとしても、剥がれない。
くそさすがはキーブレードに選ばれし勇者、本気で来られたら分が悪い。
「いいか、そういうのは好きな相手とするか、風俗のおねーさんにでも相手をしてもらえ」
我ながら酷いことを言ったという自覚はあった。
平時ならばこんなことは絶対口が裂けても言わないが、ソラの好きな相手はカイリという少女であることは知っている。
では俺の立ち位置は?
…考えたくもなかった。
俺は断じて風俗のおねーさんではない。
「俺レオンのこと好きだし!やっぱレオンじゃないと!」
「待て待てお前の好きは違うだろう正気に返れ!」
押し問答は続く。
一歩も引かないソラは全身の力を込めてレオンをベッドへ移動させようと押し始める。
純粋な力勝負では負けないはずだった。
負けないはずなのにレオンは押されていた。
何故だ!
ソラの方が重心が低く、かつ小さな身体であっても修羅場をいくつも潜り抜けてきた歴戦の戦士であるからだ。
じりじりとベッドが近づいてくるにつれ、いいようのない感情がレオンの中で渦巻いた。
別にいいじゃないかこれくらい、という冷めた意見がある一方で、俺のソラ像が壊されたという親心にも似た温かい部分に亀裂が入る音が聞こえる。
頼られるのは嬉しいし、必要とされることもありがたい。
可能な限りの手助けはしてやりたいし、これからもその気持ちは変わらない。ソラがこの先どれほどの困難に見舞われようとも、ずっと味方で応援してやりたいと思っている。
何があっても。
その気持ちは、危機的状況に陥っている今まさにこの時であっても微塵も揺らがない。
…だが。
思ったよりも崩された心の痛みは深刻だった。
少年が大人へと成長していく一つの過程だと思えば微笑ましいことであり、己もまた通ってきた道ではあった。
しかし相手は俺でなくてもいいだろう、というのは逃げなのだろうか?
「…ソラ、お前は、本気なのか?」
右足がベッドの淵に当たった。
引っかかったそれをソラは見逃さず、そのまま体重をかけてレオンをベッドの上に押し倒す。
途中からレオンの拒絶は弱まって、諦めた様子が見えたからこそ楽に出来た動作でもある。
ベッドの上に乗り上がり、シーツに埋もれたレオンの身体を跨いで馬乗りになる。
「先生、脱がせていい?」
「…一応聞いておくが、お前」
「あ、もちろん俺、レオンのこと風俗のおねーさんと一緒になんかしてないからな!俺レオンのこと好きだから!」
「……」
ああそう。やっぱりお前が挿れるのか。
諦めて、ため息をついた。
目を閉じればソラの顔が近づいて、両手で頬を挟み込み触れるだけのキスをした。
躊躇うようなそれに、今までの勢いはどこへ行ったのかとレオンは鼻で笑う。
ソラの後頭部へ手を回し、引き寄せ唇を開かせる。
舌を入れて蹂躙すれば、息を荒げながらも必死にレオンの舌に絡みつく。
「…ヘタクソ。練習しろ」
「う…はい先生。頑張る」
「先生」。
俺が、「先生」。
気が遠くなりそうだ。
これが夢であったら良かったのに。
ああもう、考えるのを放棄する。
もう遅い。
もう、考えない。