人生の先輩には色々学ばなければならない。

 海へと続く石畳の道を歩く。
  二人並んで歩いても多少余裕のある道幅の両脇には、萌ゆる緑が広がっていた。
  緑は濃く鮮やかで美しく、水分を含んだまま暖められた土の匂いと所々に咲く小さな花々の香りもまた、初夏の到来を予感させるに十分だった。
  ジリジリと服に熱を齎す陽光はすでに夏への準備を整えていたが、吹きぬける風は涼やかに髪や頬を撫でて行く。
  暑いのだが、心地よい。
  点々と続く家々の陰に踏み入ればそこには春がまだしがみついているかのように冷えていた。
  季節の移ろいを五感で知るとはこういうことを言うのだと、しみじみ実感しながら坂下に広がるブルーを目指す。
  耳を澄ませば潮騒の音が聞こえてくるようだった。
  地平線は遠く、空の境目は青と白とでくっきりと分かれており、視線を上へ持ち上げれば薄い蒼へとグラデーションを描いて、雲は筆で描いたように直線的に伸びていた。
  毎日歩く道を、飽きもせず眺めやる。
  平和だなぁと、噛み締める。
  隣を歩く少女を見やる。
  幸せだなぁと、ただ思う。
  風に煽られた髪を手で押さえながら、少女は今日学校であった出来事を話す。
  友達の誰が何をした、とか。
  先生がこんなことを言っていた、とか。
  抜き打ちテストがあって焦った、とか。
  頷きながら、己も返す。
  掃除当番の誰がサボって帰ろうとするのを首根っこ掴んで止めたんだ。
  休憩時間に球技で遊んでたヤツが暴投し、危うく教室の窓を割る所だったのを止めたんだ、とか。
  授業がつまんなくてうとうとしてたら頭叩かれた、とか。
  互いを見やって、笑い合う。

 幸せだなぁと、再度思う。

「リクは後で来るんだよね?ソラ」
「うん、リク今日日直だから先行っといてくれって言ってた」
「そうなんだ」
「そういやティーダがまた俺と勝負するッス!って言ってた」
「ティーダ、ソラが帰って来て嬉しいんだね。…皆、嬉しいと思うけど」
「へへ、カイリも?」
「もちろんだよ!リクもね、一緒に帰って来てくれて嬉しいね」
「うん!」
  視線を合わせて、笑う。
  自然で当然のことなのに、帰ってきたんだなぁと、最近になってようやく実感できるようになってきた。
「向こうの島で、ティーダ待ち構えてそうだな」
「ソラ達が帰ってくるまでずっと練習してたんだから!苦戦するかもだよ、ソラ」
  口元に手をやり笑いながら、油断すると負けちゃうよと忠告されるが、唇を尖らせ拗ねてみせて否定する。
「えー、負けないって絶対。俺のが強い!」
「負けず嫌い」
「とうっぜん!」
「リクとはいい勝負できそうだよね、ソラ」
「んー、あいつは強いよ。でも負けない!」
  ガッツポーズで気合を入れるが、どちらが勝っても構わないらしいカイリは笑ったままだ。
「ティーダの後は、リクと勝負だな、見てろよカイリ」
「ケガしないでね」
「おう」
  随分と熱くなった砂浜の温度を靴の上から感じながら、繋いであるボートへ向かう。
  乗り込みカイリへと差し出した手はいつものことで、当然の所作だった。
「ありがと、ソラ」
  触れたカイリの温かい手に、突然心臓が跳ねる。
  掠める髪に、落ち着かない気分になった。
 
  この気持ちが何か、知っていた。

  島でラクガキをしたあの頃から、この気持ちは変わらない。
  ずっとずっと、暖めてきた想いだった。
  カイリもそれを知っているはずで、けれど特別進展があるわけでもなかった。
  それでも幸せだと思っていたけれど。
  心のどこかで何かが叫ぶ。
 
「ソラ、どうしたの?」
  支えてくれている手がいつまでも離れていかないことに気づいたカイリが、ソラを見つめて優しく微笑む。
「えっ…あ、うん、行こっか」
「?うん」
  慌てて離した手が汗ばんでいることに、カイリは気づいただろうか。
  気づいて欲しいような、気づいて欲しくないような、どちらにも揺れる想いを持て余しながらソラは一人で途方にくれた。
  リクなら。
  あの頭が良くて俺に比べれば遥かに冷静で周囲のことも世界のことも知っている親友なら、的確なアドバイスをくれるだろうかと考える。
  そのうち相談してみようかと思うが、キラキラと光る水面を見つめるカイリの横顔が視界に入った瞬間頭を振った。

 ダメだ、リクには相談できない。
  リクとは正々堂々勝負をしたいのだ。
  互いに信頼し、背を預けられるような一生の親友でいたいのだ。

「あっティーダが待ち構えてる」
  カイリが島に向かって手を振った。
  島がどんどん大きく近くなるに従って、砂浜で跳ねる少年の姿が目に入る。
「負ける為に待ち構えるなんて、ティーダもまだまだ青いな!」
  精々強がって言えば、カイリが声を上げて笑う。
 
  今のままでも幸せなんだ。
  でも気持ちが晴れないんだ。

  この気持ちを誰かに話すとしたら、…話せる相手は限りなく少なかった。
  思いつく人物は一人だけ。
  話せばきっと解決策を提示してくれて、きっとなんとかしてくれるに違いなかった。
カイリに対する思いが何か、知っている。
  大切にしたくて、嫌われたくなくて、でももっと近くにいたかった。

 どうすれば自然に振舞える?
  どうすれば受け入れてもらえる? 
  誰かに教えて欲しかった。

「レオン先生!俺を助けてください!」

 一つずつ、踏襲する。
  レオンは俺を嫌がらない。
  それだけの長い付き合いをしてきたし、信頼も勝ち得ている自信はあった。
  女の子の気持ちはよくわからないけど、レオンの気持ちはなんとなくわかるんだ。
  カイリに相対した時に間違わないように。
  一つずつ、確認をする。
  レオンは優しくて、カッコよくて、強くて、

「レオン大好き」

 レオンがいなかったら、きっと今の俺はいない。
  しがみついて、訴える。
  レオンのことは大切で、嫌われたくなくて、ずっと大事にしたいし大事にされたい。
  これは恋じゃないのかな。
  カイリに対する気持ちとは違うのかな。
  同じような気がするけど、違うような気も、した。
 
 
 

  翌朝目が覚めた時、レオンはすでに起き出して朝食の用意をしてくれていた。
  どんな顔をして目を合わせればいいのかわからず、俯いたままキッチンへ近づけば気づいたレオンが「今起こしに行こうと思っていた」と苦笑混じりに頭を撫でる。
「お、おはよ、レオン」
「ああ、おはようソラ。先に服を…と思ったが、いいか。座れ」
「うん…」
  着ているパジャマは自宅から持って来たものだった。
  所在なげなソラとは対照的に、レオンはいつもと全く変わらない。
  大人だなぁ、と感動しつつ、パンを齧ればコーヒーカップを手にするレオンと目が合った。
  思わず赤面したソラにため息を漏らし、レオンは静かに今日一日の予定を説明する。
  頷く少年の様子に触れることはしない。
  微笑ましいことだ、と思うが、それはできることなら他人事として感じていたかったことだった。
  詮無き事ではあるけれど。
  言葉少なな少年と弾まない食事を終えて、外に出る。
  手を繋ぎたい、などと昨夜は言って来たものだったが、今日は並んで歩いてはいるものの、二人の間には二人分ほど距離がある。
  ああ全く、微笑ましいを通り越して、恥ずかしい。
  己もあんなだったのかと思い出そうとするが、全く記憶になかった。
  そわそわと心浮き立つような感情は、優しくない現実の前に吹き飛んで消えてしまったのだろう、おそらくは。
  平和で幸せだった頃は確かにあったはずなのに、とても大切な時間であったはずなのに、記憶の奥に埋もれて出てくることはなかった。
  晴れやかな空を見上げて思い直す。
  ソラは、今こそが大切な時間なのだ。
  一瞬たりとも、なくさず大事にして欲しい。
「…今日は、手を繋がなくていいのか?」
  軽く揶揄すれば、瞬間で真っ赤に染まった頬を両手で隠すように覆いながら、ソラはブンブンと勢い良く首を横に振った。
「…そうか、残念だな」
  笑って言えば窺うようなソラの視線を感じたが、振り向くことなく前を向いて歩き出す。
  少し遅れたソラは逡巡し、小走りで近づいたかと思うとほんの一瞬、手を繋いで離れていった。
「あー…は、恥ずかしいから、人がいるトコではやんない!」
  なんとも可愛らしいことを言い置いて、ソラは魔法使いの家へと先に駆けて行った。
  シドからプログラムが入ったディスクを受け取る約束になっており、それをトロンの元へ届けるのが今日最初の仕事であった。
  研究施設へ行くついでに、城と周辺のハートレス掃除をソラと共に行えば一石二鳥で釣りが来る。
  ディスクを受け取ったソラが入って行った時と同じ慌しさで出て来たが、レオンは一向に急ぐ様子も見せなかった。
「研究施設へ行くか、ソラ」
「うん。あ、おはようの挨拶、しなくていいの?」
「どうせ一度戻ってくるからな。その時でいい」
「そっか」
  道中ハートレスを倒しながら進んだ為、会話が続かないことはそれほど気にはならなかった。

 

 

「…あれ、クラウドがいる」
「…いたら悪いか」
「いや、悪くないけど」
  ドアを開けた向こうに、本を手にした黒衣の男が立っていた。
  早朝からいるのは珍しい、とレオンは思ったが、ここで夜を明かしただけかもしれなかったので、特に追求することもない。
「ソラこそ、珍しいんじゃないか」
「うん、今色々勉強中で」
「…へぇ?」
  レオンを見やれば「仕事を手伝ってもらっている」と簡潔に過ぎる返答が返ってきたが、釈然としなかった。しかし聞き返すのは億劫だった。
  途中まで読んでいた本を閉じ、ソラ達に用件を訪ねれば「トロンに用事」と奥へ進もうとするのを引きとめはしない。
  新たな本を探そうと立ち上がり、本棚の前で背表紙を物色し始める金髪に向かって、ソラがそうだと振り返る。
「クラウド、エロ本持ってる?」
「……、……何だって?」
  耳が馬鹿になったのかと、クラウドは自身の耳を引っ張った。
「クラウド、エロ本持ってる?」
  一字一句違わず、同じセリフをソラは言った。
  唖然としてレオンを見るが、レオンは疲れたようなため息を漏らし、額に手をやっていた。
「…何だって?」
  今度は、どういう意味かと聞き返す。
「えーと、…あ、やっぱいいや。ごめん変なこと聞いた」
  忘れて、と手を振る子供のセリフは忘れられるものではない。
  どういうことだと連れの大人に視線で問うが、俺に聞くなと拒否された。
  子供に続いて連れの大人までクラウドを置いて奥へ行こうとするので、クラウドは少年に聞こえるようにはっきりと言った。
「そんなもの、持ってない」
「…え、クラウドも不自由してないの?」
「……」
  「も」って言った。
  確かに言った。
  視線を飛ばせば、あからさまに逸らされた。
「必要になる前にヤりに行くから問題ないな」
「うわぁ、クラウドが大人だぁ」
「…あれは大人げない大人と言うんだ、ソラ」
「え、そうなの?」
「……失礼な」
「参考にするなよ。…トロンが待ってるぞ」
「あ、うん。じゃぁ、また後でねクラウド」
「……」
  今度こそ手を振り奥へと消えた少年を見送るが、連れの大人が大股で近づいて来たかと思うと、クラウドの足を容赦なく踏みつけた。
「…っ、おま…っ!」
「ソラに余計なことを言うなよ。アイツは今微妙な時期なんだ」
「……何だそれ…」
「察しろ」
  無理難題をふっかけられた。
  睨み上げた先、レオンの表情は冴えない。
  キーブレードの勇者が来た時はいつも機嫌が良さそうなのに、おかしなこともあるものだ。
「何かあったのか」
「…色々と」
「……」
  漏れるため息には疲れが滲んでいる。
  気になったものの、奥からレオンを呼ぶ声が聞こえてそれきり問う機会を逸してしまったのだった。

「…クラウドって、大人だったんだなぁ」
  再び感心したように呟く少年を、複雑な気持ちで見下ろすレオンだった。
「まぁ、ハタチも過ぎれば人生色々ある」
「レオンも?」
「まぁ…そうだな」
「早くハタチになりたいなぁ」
「……」
  今を大事に生きて欲しい。
  思ったけれど、口に出すことはしなかった。


END

レオン先生と俺。03

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